彼方の声   作:伊藤 薫

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 翌朝、成瀬川は刑事部屋に独り、自分のデスクについていた。橋爪は息子を歯医者に連れて行くと言って、午前中は休みを取っていた。

 成瀬川は自席のPCである音声データを再生し、イヤホンで聞いている。

《何かありましたか?》

《いいえ》

《どうもこうもあるか!あの男がワシを蹴り倒したんだ》

 村田が怒鳴り声を上げている。とすると、少し前の男の声が永嶋良信か。

《本当ですか?》

《たしかに、蹴りました。朝っぱらから酒を飲んで、家族に暴力を振るうからです》

《暴力?》

《さっき、駅前の前田外科に彼女を連れて行ったばっかりです。向こうの医者に聴けば分かります》

《嘘じゃ!お前がリサを殴ったんだろうが》

《あなたは?》

《永嶋良信。大田区西糀谷×‐×‐×。リサの連れ合いです。まだ入籍はしてませんが》

《お勤め先は?》

《塚本興業株式会社です》

《コイツは2、3日前に突然やって来て、住みついたんだ》

《おっちゃん、何でそんなことを言うんです?孫のリサと甥のお前が一緒になってくれたら、こんな嬉しいことは無いって言うから、俺は蒲田のアパートを引き払ってこの家にわざわざ引っ越ししてきたんじゃないか。式こそ挙げてないですが、俺はおっちゃんとリサを養うつもりでいます。それを朝から晩まで酒ばっかり飲んで、リサに当たり散らすから止めたんです》

《甥御さんなんですか》

《ええ、調べてみて下さい。俺のお袋と、死んだおばちゃんが姉妹でした》

《そうでしたか。いや、近所からも村田さんへの苦情はたびたびありまして―》

《何だと!どこのどいつがワシの悪口を言ってるんじゃ》

《一応、事情は分かりました。とにかく、家族同士であっても暴力は控えて下さい》

《おい、コラ。待て!それでも警察か!税金ドロボー》

 成瀬川は署内の相談窓口で日誌をめくり、定年間近の係員が村田宅を訪れた日付を確認した。今から2か月前の2月8日。係員と一緒に対応に出た警らドローンから収録されていた音声データを取り出した。

 自席のPCで厚生省公安局と警視庁のデータベースにアクセスし、村田誠吉の孫娘を連れ出したという永嶋良信の名前を入力する。ディスプレイに表示されたデータは、全てがシビュラシステム導入前の古い記録ばかりだった。

 永嶋は10歳の頃から窃盗や傷害事件を起こし、その都度補導されて少年院に送致されている。中学校の卒業証書も職業訓練も少年院で受けている。成人後も、女性への暴行で三度逮捕されている。13年前に32歳で出所した後は、大田区の塚本興業という小さな町工場に就職したらしく、警察のお世話になっていない。ただ、更生したとは村田の証言からも考えにくい。

 成瀬川は永嶋良信の犯罪照会に眼を通し、社長殺しの犯人は永嶋ではないかと考えを巡らせてみた。村田の家から出る時に持ち出したとされる靴と鑿。鑿なら日本刀のように長い刃先の物も存在する。永嶋は自分の住所を大田区の糀谷だと答えたが、2か月前までは三筋の村田の家に転がり込んでいた。殺害現場のビルから村田の家は1キロも離れていない。

 過去の犯罪履歴だけで、犯人だと決めつけるのは早計に思えた。成瀬川はそんな自分を恥じてみる。履歴を見た限りでは、永嶋は暴力事件を起こしても殺人は犯していない。

 村田誠吉とリサについても調べた。リサは村田誠吉の娘である佐奈恵が嫁いだ吉崎剛の子どもであることが確認できた。本名は吉崎理沙。両親の離婚後も戸籍上は父方の苗字のままだ。理沙の両親の現住所はたどれなかった。理沙を村田夫妻に預けた後、どこかへ姿をくらませたらしい。

 問題が大なりなのは村田も同じだった。本人がヤクザ者だと言っていた通り、過去は隅田会系吉富組の構成員だった。村田も傷害などで刑務所に出たり入ったりを繰り返している。10年前に傷害罪で府中刑務所に収容されていたのが最後だった。孫娘がいなくなった原因が村田の暴力だった可能性はある。村田も疑わしい。

 一端の刑事らしいマネは止めよう。そんなことを思いながらも成瀬川は脳裏に昨夜、村田が口にしていた言葉を思い出した。

「三が日の次の週だったかな、永嶋のガキ、上野のハローワークに行きよった」


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