彼方の声   作:伊藤 薫

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 月はない。都市部の灯りが暗雲に鈍く反射し、色彩が淡く遷移するのが見える。

 永嶋と理沙は放棄されて久しい足立区の廃棄区画に潜んでいた。無秩序に積み重ねたような集合住宅棟は多くが耐震強度不足であり、管理する者もいない。そうした建物に大陸から流れて来た難民や国内の犯罪者などが住み着いているが、建物は雨曝しにされたまま、ゆっくりと時間をかけて朽ち果てていく。

 永嶋と理沙がいるのは、腐った水の臭いが充満する簡易ホテルの一室だった。永嶋は狭いベッドに身体を投げ出し、天井の染みを見つめていた。永嶋が呟いた。

「一緒にならないか?」

 理沙はどこを見ているのか分からない眼差しを向けた。

「殺したいの?」

 永嶋は顔面から血の気が引いていくのが、自分でも意識できた。動悸が早くなり、拳で理沙の頬を殴りつけていた。理沙の小さな顔はグニャリと横に曲がり、そのまま眼の前から消えた。自分が世界と切り離され、空っぽになった心を黒々とした闇で覆い尽くされる。過去の過ちを忘れて、自分が誰であるかも忘れてしまう。少年院の教官からは「お前の反社会的な性格は一生、治らないだろう」と言われたことがある。四十を過ぎた今でも、少年院にいた頃と何も変わっていない。

 一瞬の狂気が過ぎた後、永嶋は訊いた。

「お前、何で黙って殴られるんだ?」

「しょうがないじゃん」

「お前の親父とオカンはどこに住んでるのか知ってる?」

「知らない」

「ホントに知らないのか?」

 理沙はコクリと頷いた。

「捜さないのか?」

 理沙は怪訝な眼で永嶋の顔を見た。捜してどうなるのかと言いたげだ。親に捨てられた時から、理沙の中で保護者としての親はいなくなったのだろう。永嶋は自分たちが似た者同士だなと漠然と考えた。永嶋も少年院に出入りを繰り返している内に、唯一の肉親である母親との縁は切れていた。

 13年前の年の瀬に出所した後、永嶋は母親が住んでいる大宮の見沼を訪ねた。母親は永嶋の顔を見るなり「アンタとは親子の縁を切った」と言い捨てた。永嶋が一晩でいいから泊めてくれと言ったが、母親は眼の前でドアを閉めた。鍵をかける音が身に沁みた。諦めきれず、1週間後に訪ねた。母親は引っ越していた。

 刑務所の作業で得たわずかばかりの金はすぐに底を尽き、働き口を見つけなければならなくなった。少年院で旋盤の技術を習得していたので、大田の町工場が採用してくれた。昨年の9月末に、その町工場が不景気で倒産したのと同じ頃、大宮にある老人ホームにいた母親が死亡し、わずかな貯金があると保護司からの報せを受けた。

 施設で行われる葬儀に出向き、そこで母親に妹がいたことを初めて知った。母親が老人ホームに入居する際、身元引受人となっていた戸部という男から聞いたのだ。戸部は母親の介護を担当していたという。

 永嶋は藁にもすがる思いで、蔵前にある叔母の家を訪ねた。叔母はすでに死んでいたが、その夫の村田誠吉は生きており、孫の理沙と2人で暮らしていた。

 正月気分の抜けきらない頃に、ハローワークに出向いた。

 どこか一つか二つ勤められる仕事場があるかと思っていたが、45歳の男に与えられたのはビル清掃の仕事しかなかった。それでもいいと紹介状を頼み、蔵前にある清掃人材派遣会社に面接に行った。

「ウチは大企業にも人を送り込んでる。信用が一番なんだよ。君みたいに、数値が悪い人はちょっとねえ」

 社長は永嶋の履歴書には見向きもせず、どこからか入手した永嶋の《サイコ=パス》の診断書を手元に持って言った。

 永嶋は丁寧に頭を下げると、履歴書を返してもらい、古いビルの一室を後にした。

 しかし、いったん湧き起こった怒りを永嶋は抑えることが出来なかった。気が付けば、村田を殴って鑿を手にして社長室に引き返していた。その後の3か月は路上で寝泊まりし、金に困ると理沙をつけ回してむしり取った。昼間、村田が酔っ払って寝ているすきに鍵を盗んで家に入った。冷蔵庫の物を食って飢えをしのぎ、村田に見つかれば蹴飛ばした。

 村田は何回か警察に走り込んだようだが、酔っ払いの戯言と思われ、相手にされていないようだ。しかし、長年の勘でそろそろ潮時かなと日増しに感じるようになっていた。

 独りで高飛びするはずだった。どうしても理沙を連れて行きたくなった。




次回から新章になります。
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