彼方の声   作:伊藤 薫

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 成瀬川は速水に同行して、永嶋良信と吉崎理沙の立ち回り先の手がかりを得ようと、永嶋の母親をよく知ると思われる戸部正悟の自宅がある王子に向かった。

 公用車の運転席に成瀬川が座ったが、ハンドルは握っていない。現在では自動運転が当たり前だった。助手席の速水は黙ったまま、手元の携帯端末を操作している。

 沈黙が成瀬川を落ち着かない気分にさせた。何か話しかけねばと思うが、言葉が浮かばない。共通の話題がない人間と同じ空間で時間を共有することほど、居心地の悪いものは無い。今では同じ事件の捜査に当たっているが、それでも成瀬川は会話の糸口を見つけることが出来なかった。刑事といえど、片や潜在犯なのだ。

 速水が突然、口を開いた。

「お前のことがよく分からない」

 成瀬川は苦笑した。

「そう言われましても」

「玉川署地域課時代に、誘拐犯を2人殺してる。正当防衛ということだが」

 成瀬川は言葉をさえぎるように言った。

「記録を見たのでしたら、その一部には誤りがあります。私は恐怖に駆られてベレッタの弾倉を撃ち尽くし、8発の弾丸を彼らに命中させています。ですが、任務遂行上のやむを得ない行為だったことに変わりありません」

「お前はどうして色相が濁らなかった?」

「・・・」

「すぐに忘れることが出来たのか?昔のシャンソンであったな。『水に流して』ってな」

「エディト・ピアフですか」

 速水は何故か笑った。

「教養は十分ってことか」

 もちろん成瀬川は、簡単に水に流すことなど出来なかった。

 撃たなければ、あの庭に自分の死体が転がっていただろうと今でも思える。敵と至近距離で遭遇して太腿を狙って撃つことなど不可能だった。敵の力を殺ぐためには大きな的を撃つのがベストの選択だ。その流れの帰結として、2人組の誘拐犯への発砲があった。装填八発の弾倉を撃ち尽くしたことが、後に問題にはなる。それも自分が懐いた恐怖感を考えれば当然すぎる反応だ。過剰防衛かどうかの論点とは無関係である。殺される恐怖と殺す恐怖。いずれにも耐えること。犯罪の最前線に投入される下級警官の日常とはそういうものだ。成瀬川はくり返しそう考えることで、崩壊しかねない自己を辛うじて保った。

 発砲事件から3か月後に初めて受けた《サイコ=パス》の検診ではどういうわけか、計測値は全て正常値だったが、それでも自律神経が狂い出した。不眠、発汗、胃潰瘍、集中力の欠如。成瀬川は厚生省から派遣されたカウンセラーの精神治療を受けた。

「お前は警視庁で採用された最後の警察官だったな」速水は言った。

「ええ」

「それで何かと便宜を受けたんじゃないのか」

 速水の口調はどこか意地が悪い感じがした。たしかに警視庁は無試験で成瀬川を巡査部長に昇格させた。夢にまで見た刑事講習の推薦枠も与えてくれた。今でも成瀬川はカウンセラーの定期検診を受けているが、その費用は全て官費から出されている。

「だからと言って、警視庁が自分の《サイコ=パス》の数値を変えようがありません」

「お前は本当に、白崎麻美が男2人に誘拐されたと思ってるのか?」

 白崎麻美とは3年前、成瀬川が尾山台の廃屋から救出した少女の名前だった。

「被害を受けた本人がそのように証言しています」

「白崎麻美の両親は2人とも挫折した音楽家志望者だった。1人娘を音楽家にするべく、2歳からピアノの英才教育を受けさせてる。ケータイも持たせず、学校の友達とろくに遊ばせてもらえず、レッスン漬けの鬱屈した毎日。あの娘が心奥のどこかで一線を超えてやると考えてたとしてもおかしくはない。自分から男たちに連いて行った可能性は大いにあると思わないか」

「自分の知ったことじゃない」成瀬川は思わず呟いていた。

 速水がニヤッと口角を緩めた。

「本音が出たな」

 成瀬川が速水を睨むと、公用車が戸部の自宅の前に停まっていた。2人は車から降りる。成瀬川は速水がすぐにインターホンを押すのかと思ったが、速水は戸部の自宅の周りを歩き出した。

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