土曜日深夜。
「うぅっ……」
俺は月~土曜日まで朝八時始業~夜九時終業(残業込み)という地獄のような勤務を終え、今まさに家へと帰ろうとしているサラリーマンだ。
繁忙期の中の繁忙期とはいえ、6日×勤務13時間(残業込み)は酷いというものではなかった。一日24時間の半分以上の13時間を仕事に奪われ残り11時間。睡眠に8時間を費やし残り3時間。その3時間は仕事場への移動時間、弁当などを買うため店に行く時間、ご飯、風呂、トイレなどに使われた。ゲームなど娯楽に費やす時間などなかった。
「だ、だめだぁ……」
一瞬、目の前の景色がグニャリと歪む。まぶたは半目どころか糸目になるほど重い。ふとトイレに行った時、手洗い場にある鏡に映る自分の目が真っ赤に充血していたのを思い出す。
「身体が、痛い……重い…………」
月~土曜日まで朝八時始業~夜九時終業(残業込み)という地獄のような激務は俺の身体を確実に蝕んでいた。
頭は脳に鉄球が入っているのではないかと思うほど重く、それを支える首はミシミシという錆びた鉄柱が辛うじて建造物を支えている感じだ。
肩は吐き気を伴うほど凝り固まり、腰は痛くてピンッと背筋を伸ばせない。
指、手、腕、太もも、ふくらはぎ、尻はもはや痛いと思うまでにだるい。
家に帰ったら休める。明日は完全に休みの日曜日だ。
そう考えても気力が取り戻せないほど俺の身体は疲れ切っていた。
(あとどれくらい……いつ家に帰れるんだ……?)
一歩前に踏み出すだけで痛みも伴う疲労感。そんなボロボロの身体では歩むスピードも遅い。
そんな絶望を抱き、もうここで寝てしまおうかと諦めかけた時だった。ふと俺の目にある看板が目に留まった。
「『24時間営業温泉・
俺は温泉に興味のない。普段の俺ならいつものようにスルーする。そのいつもならスルーする店に俺は入って行った。
入る俺に入ろうか入るまいかなどの思考は全くなかった。
後になって思えばそれはまるで暗闇を仄かに照らす街灯に集まる蛾のように理性が入る隙は僅かもない、本能に似たものだった。
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店に入った俺は従業員の指示に従い券売機で入浴券を買ったあと、温泉に向かった。(ちなみにシャンプーやタオルなどは店が貸し出してくれた)。
更衣所に入り渡された鍵をキーホルダーに書かれた番号の所に差し込み、脱いだ服と鞄を放り込む。
「ん?」
ふと俺は他のロッカーを見る。先ほど閉めた俺のロッカーの鍵穴とは違い、他のロッカーの鍵穴は別の方向を向いていた。
使われていないロッカーから客が俺しかいないということを悟った俺は完全室内の浴場に入る。
最初に目に飛び込んだのは下からボコボコと泡が噴き出ている風呂。
「確か……ジャグジーとか言ったか?何か大金持ちの家を紹介する番組でたびたび見たことがあるぞ……」
今すぐにでも入りたかったがまず身体を洗うことが優先と思った俺は大衆浴場ではお馴染みのシャワーと風呂場用の椅子がたくさん並ぶ場所で髪と身体を洗う。
汗と垢を落とし、少しだけ気力が戻った俺は先ほどのジャグジーに身体を沈める。
「あぁっ……」
思わず俺は声を漏らしてしまった。ボコボコと下から浮き上がる泡がふくらはぎに当たった瞬間、疲れた箇所を指圧されたような感覚を覚えたからだ。
(この泡を腰や腕に当てたら気持ちいいのでは?)
俺はさらに身体を泡に当たるように沈みこませる。
「…………!」
俺の予想は的中した。ボコボコと浮き上がる大きな気泡と共に痛みにも似ただるさが浮き上がってくるかのようだった。
時間にして数分、もしくは何十分だったか。“もっとこの泡に身を委ねたい”と思いつつも他の風呂も体験したくなった俺は、名残惜しさを感じつつもジャクジーから出る。
次に目に入ったのは浴場には絶対ある、潜水は難しいが平泳ぎはできそうな広く浅い風呂。やや熱いかなと思う風呂に、俺は身体を沈みこませる。
「おぉっ……」
またしても俺は声を漏らしてしまった。やや熱いお湯が皮膚を通し、滞っていた血流を一気に解放させる。勢いよく流れだした血液は脳内に新鮮な酸素を届けていき、つい先ほどまで考えることも出来なかった脳は次第にクリアになっていく。
血管という血管がほどよく広がり頭がすっきりとした俺は、ここに来て今は言っている風呂の隣に別の風呂があることに気づいた。
それが何なのか調べるため看板を見るとそこには『水風呂』という文字が。
恐る恐る俺は水風呂に人差し指を入れる。
(何だ?この冷たさは!?)
お湯で充分温まった身体には、まるで氷が張っているのではないかと錯覚しそうな冷たさだった。
「だれがこんな風呂に入るんだよ!」
ジャグジーと風呂に入った俺の幸福感が台無しだ!
そう思った俺だったがふとあることを思い出す。
(そういえばメジャーやプロ野球選手は熱いお湯と冷たい水、交互に入って疲労を取り除くって本とかで見たことがあるなぁ……)
身体が資本であり武器であるプロ野球選手がやっていることを体験したくなった俺は勇気を出して両足を入れて、固まった。
「冷たい冷たい冷たい!」
あまりの冷たさに一気に肩まで浸かろうとした身体はビダッ!と止まってしまう。だがすぐになぜプロ野球選手たちがせっかく温まった身体を冷たい水風呂に浸かるのか理解できた。
(身体が……引き締まっていく…………)
温かなお湯で広げられた血管は、冷たい水に触れることで一気に収縮。それにより血流は水が出てくるところを指で押さえられたホースのように一気に加速する。
「……よし!」
覚悟を決めて肩まで浸かる。
「うっ!!」
皮膚を刺すような冷たさにブルッと身体を震わせてしまったが、同時に体内の血が高速で循環していく感覚を覚えた。
あまりの冷たさに数十秒で出てしまったが全身という全身にくまなく血液が行きわたったおかげか、不思議と不快感はなかった。
最後に俺はサウナに入る。扉を開けた瞬間からムアッと熱気が肌に当たる。
漫画とかでよく見かける腰を掛けると所に数十秒。水分を多量に含んだ熱気に全身に汗が噴き出る。そして異常な喉の渇きも。
水が欲しい!
出ようと思った矢先、あることに気づく。座っていた箇所がほどよい熱を持っていたのだ。
ジャグジー同様、全身に当たるよう寝っ転がってみた。
「あああぁぁぁっ…………」
またしても俺は声を出してしまった。熱い蒸気で熱せられた箇所に身体を当てると疲労と言う名のバターが溶けだしていくようだった。
喉の渇きよりも疲労が溶け出すような感覚に負け、俺は数分熱せられた部分に身体を預けた。
その後ジャグジー、風呂、水風呂、サウナに気の向くままに入った。
それらを楽しむこと一時間。さすがに溜まりに溜まった疲れを取り除くことは出来なかったが、それでも頭はすっきりとし、岩盤のように硬かった首や肩の凝りは取れ、腰の痛みは緩和され、痛みにも似た腕や足・尻などのだるさは少ししか感じられない程度になっていた。
疲労と言う名の鎧の大部分を捨て去った俺の帰る足が速くなったのは言うまでもない。
後日。
「いやぁ、今日は暑い。なんて暑さなんだ」
暦の上では夏は終わり秋になったというのに、太陽の光は俺と隣で汗をぬぐいながら愚痴をいう上司をこれでもかと照らしていた。
「だったら課長。これから風呂にいきませんか?」
「は、君。何を言っているんだね!?まだ就業時間だよ!?これから取引先と会わないといけないのに!?」
驚きを露わにする上司に、俺は続ける。
「だからですよ、課長。こんな汗だくで疲れ切った顔で先方に会うより風呂で汗と垢を落としてリフレッシュしてから会った方が感じがいいですって」
「……う~ん」
上司は腕組みをして考える。そして
「そうだね。不謹慎なような気がしなくもないが君の言う事も一理ある。よし、行くとしよう!」
俺と上司は都合よく近くを通りかかったタクシーに乗り込む。
「お客さん。どちらまで?」
「えっとね……ソープランド!」
「はい、かしこまりました!」
「…………ッ!!??」
上司の言葉に、俺は数秒フリーズする。
「ちがああああああううううううぅぅぅぅぅぅっっっっっっ!!!!」
絶叫する俺の言葉も空しく、タクシーは歓楽街へと移動していった。