未だに見えぬ朝を乞う 作:明科
また多くの独自解釈を含みます。
八月二十日。
普通の学校ならば夏休みの真っ最中らしいが、この学校にそんなものはない。
穏やかな学園生活の裏で、百夜教との戦争は緩やかに激しく進んでいる。
戦争の最前線に指示を飛ばす暮人の駒として日々忙しく働いている未明だったが、今日は久し振りに登校していた。
別段変わった所のない、クーラーがキンキンに効いた教室では、さわさわとグレンのことが噂されている。
当然だ、あの一瀬の人間が暮人の部下になったのだから。
「グレン。」
後ろでぼおっとしているに違いないグレンに対する悪戯心が、ふと未明の心中で首をもたげた。
「······。」
無視である。
深夜のことも無視していたし、柊様への演技はもうやめたらしい。
「グレン。」
深夜様だけでなく未明様まで無視するなんて!と憤慨する十条の娘の高い声をBGMに、机に半分突っ伏しているグレンの頭の隣に自分の頭を横たえる。
「今何を考えてるの?」
「···昔のことを。」
「昔?グレンの背がこのくらーい小さかった頃?」
緩慢に腕を動かし、机の高さ程度の所で手を止めて、小さなグレンの背を示す。
まあここまで小さかったかどうかは分からないのだが。
「五百年前の馬鹿な話だ。」
「ああ、あれかぁ。」
五百年前と言われて、未明はピンとくる。
一瀬が柊と袂を分かち、帝ノ月という別の宗派を作った時のこと。
当時の詳しい状況等の情報は柊によって消されている為、グレンもあまり多くは知らない筈なのだが理由は皆知っている。
なんということはない、ただの悲しい恋物語だ。
かつて一瀬の長女として生まれた美しい少女を巡って、柊の長男と次男が争ったお話。
結局は次男が少女の恋心を勝ち取ったのだが、それを許さない長男は少女を無理矢理犯し孕ませ、更に次男を去勢してしまったのだ。
そして長男は、次男と少女と少女に宿った自分の子供を、家から放逐したという。
その次男達が作ったのが帝ノ月なのだが、その跡を継ぐのは長男に犯された時に少女が孕んだ子供しかいない。
去勢された次男の子供ができることは無いのだから、最早長男の子供しかいない。
長男に───柊に逆らった愚かな人間を馬鹿にし、嘲笑い、辱め、生き恥をさらし、その為だけに柊家に見逃されたのが一瀬───帝ノ月なのだ。
「なぁに、自分と重ねてるの?」
「違う。」
「あらそう?男女が逆だけどあながち外れてはないんじゃない?
柊の2人の兄弟が、一瀬の長子を取り合って争うの。
真昼と私が、グレンを取り合って争うの。」
今更グレンのことで真昼と争う気は更々無いのだが。
というよりはじめから無いのだが。
だって未明は、グレンも真昼も、どちらも大好きなのだから。
目の前に見えるのはつんつん跳ねるグレンの癖毛。
ほんのあと数センチ。
手を伸ばせばその柔らかい黒髪に触れることが出来る。
あともう少し顔を動かせば、キスでも出来そうな数センチ。
その数センチが遠い。
その数センチが厚い。
こうしてクラスメイトとして傍にいるのに、昔よりも離れてしまったような錯覚を覚える。
いや錯覚ではなく、事実なのだが。
今や未明は、何も知らない無垢な少女ではない。
混じりっけのない純粋な人間でもない。
鬼にもなりきれず、真昼の絶対的な仲間にもなりきれず、フワフワと雲の様に漂うだけのよく分からない何か。
それが今の未明だ。
「ねえグレン。」
「なんだ。」
「なんでもない。」
何かを言う気は無かった。
喧騒の中とはいえ、誰が聞いているか分からないこの教室で不用意なことは言えやしない。
最近暮人からの拘束がきつい。
どうやら真昼のやらかしたことがどんどん明らかになっているらしく、それに比例して未明への監視の目も強まっている。
妹のシノアからも自由は奪われているようで、2人揃って真昼のことで拷問を受けるのも時間の問題だろう。
未明にもシノアにも、真昼からの連絡は無い。
シノアはともかく、せめて自分には指示の1つくらいして欲しいものだと思う未明だったが、愚痴を言っても詮無いことだ。
「ねえグレン。」
「なんだ。」
さっきと同じような素っ気ない返事に、自然と苦笑が顔に浮かぶ。
上を見れば白い天井。
横を見れば仏頂面のグレン。その反対側には青い空。
これが私の青春だ。
「嘘つきだね、貴方は。」
嘘つきな、青春だ。
「······。」
「貴方だけじゃない。皆、嘘つき。」
グレンは答えない。
彼が今何を画策しているかなんて知らない。
どうせろくなことをしていないのだろうが、彼のその道が真昼に繋がっていると未明は信じている。
自分の身がどうなろうとも、世界がどうなろうとも、真昼とグレンが幸せになれる未来があると信じている。
今や信じるしかない。
それしかない。
未明にはそれしかない。
2人の幸せな未来が、未明にとっての夢であり希望であり、願いなのだから。
「ああ、呼び出しだ。」
制服のスカートの右ポケットが鈍いバイブレーションのせいで震える。
「グレン、またね。」
椅子からするりと立ち上がり、震える携帯をそのままにグレンの後ろに回ってから出口を目指す。
「暮人兄さん?」
「うん。」
途中で深夜に問われたのに小さく頷いて、未明はクーラーの効きが悪い廊下へと足を踏み出していく。
モワッと暑苦しい熱気を全身に感じながら、引き戸を後ろ手で閉める。
その瞬間戸にもたれかかってずるりと崩れ落ちそうになる体を理性で支え、揺れる視界の中で無理矢理足を動かす。
「疲れたなぁ。」
『この鎖、取ってくれれば僕が助けてあげるけど。』
「余計なお世話。」
小さな呟きを目敏く拾った鬼宿が未明の隙に付け入ろうとするが、いつもの通り無視するのだった。
───────
「で、暮人兄さん、一体何の用ですか?」
暮人に呼び出された拷問室は血の匂いが漂っていた。
狭い部屋の中央に置かれた椅子には見慣れた顔。
可愛い可愛い妹のシノアである。
爪を剥がされた様にも殴られた様にも見えるが、恐らくそれはメイクだろう。
嗅覚の鋭い未明は、部屋に充満する血臭がシノアのものではないと分かった時点で、拷問されたシノアの姿を見た未明の反応を見ようとの暮人の画策に感づいていた。
「つまらないなお前は。」
壁にもたれかかって、ほんの少しだけ眉間に皺を寄せている暮人。
「つまらない妹でごめんなさい。
シノア、元気?」
ぴちゃりと血溜まりを踏み越えて、シノアの前で腰を屈めて彼女と目を合わせる。
「元気ですよ、未明姉さん。」
「なら良かった。」
そんな風にキャッキャと笑い合う姉妹を見下ろす暮人が淡々と口を開く。
「裏切り者は真昼だな。」
「今更?前から分かってたことでしょう?
だから私を泳がせていた癖に。真昼と接触する可能性のある私を。」
「お前だけじゃない、シノアもだ。」
「それで?何か分かりましたか?」
「何も。お前に言えるようなことは何も。」
軽い音をたてて、暮人の腰に下がっていた刀が抜かれる。
そしてその切っ先は未明の首元にピタリと当てられる。
「あは。」
しかし未明は動じない。
変わらぬ笑みを浮かべるだけだ。
「真昼に伝えろ。柊は敵じゃないとな。」
「無理ですよ。真昼はもう止まらない。誰にも止められない。」
「ならお前も裏切り者だ。真昼の仲間だ。」
「きゃー理不尽。そう思わない、シノア?」
鋭い切っ先を気にせずに首を動かして、シノアの方に向き直る。
チリリと首元が痛むが、薄皮が切れた程度だ。
未明は何も気にしない。
「ええー、ここで私に振りますか未明姉さん。」
「だって私達運命共同体じゃない。」
「どちらかと言えば、未明姉さんの運命共同体は真昼姉様でしょう。」
「前から気になってたけど、真昼は姉様呼びで私は姉さん呼びなのなんで?」
「未明姉さんは軽いじゃないですか。」
「やだ、妹に軽く見られてたなんて。
おねーちゃんショックで心臓止まりそう。」
和気あいあいと微妙に噛み合っていない様な会話をする姉妹。
「未明、お前が真昼を止められないならシノアを殺そう。」
刀の切っ先が未明からシノアに移る。
勿論シノアも表情を変えない。
「無駄ですよ?そんなことしても真昼は止まらない。
暮人兄さんだって分かってるでしょう。」
「そうか。なら大切なものを奪おう。
シノアはまだ8歳だ。恋も知らない少女だ。」
暮人の意図していることは分かる。
だが未明は表情を変えない。
「8歳は確かに少し早いかもしれません。
でも私が真昼と間違われて攫われて、処女を散らされたのは11?12歳ぐらいでした。
暮人兄さんが私を回収しに来たでしょう。」
「そうだったな。」
「だから別に、ねぇ。
というか暮人兄さん、シノアの貞操をどうこう出来る人間なんて、ここには暮人兄さんしか······まさか暮人兄さんが···?」
シノアを庇う様にして未明が前に出る。
ピッと彼女の白い頬に鋭い赤い線がはしる。
「こういうのをロリコンって言うんですか、未明姉さん。」
自分の置かれた状況をしっかり理解しているのだが、まるで何も分かっていないかの様にキョトンと可愛らしく首を傾げながら、シノアは暮人を見上げている。
「違うわ、ぺドフィリアよ。」
「ふーむ、シノアちゃん絶体絶命貞操の危機。
初めてが近親相姦というのは中々に衝撃的です。」
「そんなものよ。」
「そんなものですか。」
「うん。」
「柊の次期当主候補がロリコンで、その対象に妹を選ぶとは世も末ですね。」
「とっくのとうに世界なんて終わってる様なものよ。」
事実今年のクリスマスには世界が滅びるのだし。
「話にならんな。」
刀を鞘に収めて、つまらなそうに未明を見下ろす暮人。
「する気がないからですよ。」
「グレンを使うか。」
「良いんじゃないですか。グレンの言葉なら真昼も小指くらい止めてくれるかもしれません。
完全に止まることはないでしょうけど。」
もう遅いのだ。
真昼はもう止まらない。
他に道は無かった。
自分達が柊家に利用される前に、シノアが実験体になる前に、何としてでも鬼の制御方法と鬼呪装備を完成させなければいけなかったのだ。
その為に真昼はその身を犠牲にし、鬼に喰われてしまった。
「あのバケモノの制御はやはり難しいか。」
「真昼がバケモノなら私もバケモノ。
なら、そんな私を御している暮人兄さんが真昼も押さえ込めば良いでしょう。」
「お前は真昼の様なバケモノにはなれない。」
「どうして?」
「お前は、あまりに人間らしいからだ。
人間以上に人間らしい人間。
人間が得た理性という技能を、誰よりも人間らしく使いこなしている。」
「···褒めてるんですか?」
「さあな。」
ふいっと未明から視線を外し、暮人は拷問室の外へ出て行く。
シノアの拘束を解いてからそれに続こうとした未明だが、どこからともなく出てきた暮人の部下らしき人間にその手を掴まれる。
「あら?」
どうして自分が拘束されなければならないのか、そう不思議に思って首を傾げれば、はめ殺しの拷問室のドアの向こうで暮人が冷淡な眼差しでこちらを見ている。
「さっき言っただろう、グレンを使うと。」
「それと私の拘束に何の関係が?」
「シノアだけでは心もとないだろう?
グレンの為の餌は多い方が良い。」
暮人はそれだけ残して、暗い地下通路の奥に姿を消す。
暫くの間はカツンカツンという足音が聞こえていたのだが、それも徐々に小さくなり最後には何も聞こえなくなる。
暮人の冗談では無さそうだ、と諦めた未明は暮人の部下にされるがままになる。
壁から鎖で吊るされた2つの手錠に両手を差し入れ、パチンと金具を止められ。
足は拘束されないらしいが、両手をバンザイにした状態で拘束されては何も出来ない。
ついでとばかりに首に何らかの薬剤を打たれたせいか、体から軽く力が抜けていくのも相まって今の未明は抵抗する術を奪われた。
「めでたく未明姉さんも拷問室の住人の仲間入りですね。」
暮人の部下も姿を消し、薄暗い拷問室には未明とシノアだけになる。
椅子に拘束されたままのシノアはあはは、と乾いた笑いを上げていた。
「1日くらいで勘弁して欲しいわね。」
「どうなん···でし···よう······」
突然シノアの声が遠くに聞こえ出す。
口の動きを見るに、彼女はちゃんと話しているのだと分かる。
だが未明の耳は正しい音をはっきりと拾えなくなった。
仕方なくシノアの唇を見て言葉を汲み取ろうとするが、何故かゆらりゆらりと視界が揺れ始める。
ぐらりときてすぐに、シノアの口どころか全身の姿も朧げになる。
折角の姉妹水入らずなのだから、くだらないお喋りぐらいしようと思っていたというのに。
「······。」
「みめ···い···ね···えさん······?」
駄目だ。
シノアの声がどんどん遠くなっていく。
キョトンと首を傾げてこちらを見てくるシノアに対し、何でも良いから返そうと必死に唇を動かしても声帯が震えない。
急速に体から力が抜けていっている。
閉店のシャッターが閉められたかの様に暗くなる思考の中で、どうにか弾き出した答えは、拘束されてすぐ首に打たれた薬剤のせいだということのみ。
あの時は少し力が抜けるくらいだったが、徐々に効いたのか何なのかは知らないが、現に未明はしっかりと封じ込まれた。
耐性がない薬だったのか、運が無いな、そんな恨み言未満を最後に未明の意識は奈落の底に落ちた。
────────
未明は目を開けた。
どこかでポコリと、泡が水面で弾けた音がした。
真っ白い世界。
黒一つない世界。
その中心にはいつもの様に鬼がいた。
ゴスロリ服を身にまとった、とても美しい少女の姿。
真っ白の肌。
赤の瞳。
金の髪。
いくら幼児は性別の境界が希薄とはいえ、これで本当は少年だというのは詐欺でしかない。
『やあ。』
全身を鎖に絡め取られ、地面に這いつくばっていながらも、悪戯に笑う鬼宿。
それを暫く見下ろしていれば、ふと気付く。
コポリコポリと、水がどこかからか漏れだしているような音がする。
何だろうか、そう不思議に思って改めて周りを見渡してみても変わりはない。
何の変哲もない、いつもの白い世界だ。
「ねえタマ。」
『なに、未明?』
「貴方、また何かした?」
足元に転がる鬼宿の傍にしゃがんで、絹糸の様なその金髪に指を通す。
『僕は何もしてないよ。
悪いのは僕じゃない。』
「···じゃあ何なの、この違和感は。」
ほらまただ。
コポリコポリ。
何かが溢れだす音。
『よく見てみなよ、自分をね。』
「私···?」
鬼宿に示されて、未明は自分の体を見やる。
パッと見た所何も変わりはない。
怪訝な顔を鬼宿に向ければ、首をフリフリ呆れ顔を浮かべる。
『馬鹿だなぁ未明は。よーく見てみなよ。
ちゃんと見ようと思って見てみなよ。』
再び自分の体を観察する。
爪先、膝、太腿、腹、胸、腕、掌。
自分の視界に収まる所は全て確認した。
だが分からない。
何も見えない。
どういうことだと、ついつい冷たい視線を鬼宿に突き刺してしまう。
『ああもう、ここにまで薬が効いてくるなんて話は聞いてないよ。
よし分かった。
未明、もう少し屈んで。』
珍しく鬼宿が未明に直接的に命令をしている。
普段ならば遠回しに誘ったり、操ろうとしたりするばかりだというのに。
これは何かあるのだろうとの勘が働き、未明は大人しく鬼宿の前に小さくうずくまる。
するとすぐに、鬼宿は未明の目の前の空を掴む様な動きをする。
そこには何も無いというのに。
『ほらこれだよ、これ。』
しかし鬼宿がぐいぐいと、その何かを掴んだかの様に見える掌を軽く動かせば、未明の首もその動きに合わせて揺れる。
鬼宿は何かを持っている。
未明と繋がった何かを持っている。
そう何か、紐の様な·······!
途端視界が開けた。
いや別段この白い世界が変わった訳ではない。
見え方が変わった訳ではない。
だがパアッと何かモヤの様なものが晴れていく感覚だ。
そしてその新たな視界の中で、すぐに目に飛び込んできたのは紐······ではなくチューブ。
実験でお馴染みのチューブ。
薬や点滴、そのような類のものを体に直接注入する為のあれだ。
それから鬼宿が手を離したとしても、今の未明にはちゃんと全て見える。
鬼宿が引っ掴んでいた首に繋がるものだけでなく、両腕、両脚に深々と突き刺さる針とくっついたチューブ達を見失うことはない。
コポリ。
未明の腕から何かが湧き上がり、泡となってチューブの細い管の中を通って消えていく。
未明に突き刺さっているのと反対側のチューブの端は、この世界に融けて合体するようになっている為、その泡がどこにいくのかは分からない。
「これは?」
腕のそれを軽く摘んで、ゴム特有の弾力性を確かめながら未明は鬼宿に問いかけた。
『取られてるんだよ。
鬼呪の研究を進める為の材料として、僕らの体が使われてるんだ。』
事も無げに返すが、少しばかり憂鬱そうにそう鬼宿はこぼした。
「私達の体が?」
『柊家は鬼呪装備を完成させると決めたらしいんだ。
だから未明、最高の
真昼の様に鬼に喰われることもなく、鎖で鬼を押さえつけて制御下においている君にね。』
「柊家が、どうして?」
鬼呪のことは柊家にバレていない筈だった。
真昼と未明が百夜教を利用して密かに進めていた研究の筈だった。
それなのに何故。
『どこかから漏れたんでしょ。』
眉間に皺を寄せて思案する未明に対し、事も無げに言い放つ鬼宿。
「どこかってそんなの···」
『まあ真昼だろうね。
百夜教がわざわざ
ありえないだろ?』
「真昼が、どうしてそんなことを?」
真昼が柊家を離れた今となっては自爆行為にはならず、ただ残された未明とシノアを売ったことにしかならない。
一体どうしてそんなことをしたのか。
真昼に売られたとは思っていない。
真昼に捨てられたとは思っていない。
いや別にそうであっても構わない。
真昼も未明と同じく、
全ては力を得る為に、未来を掴む為の力を得る為に、人間として生きる為に、シノアを守る為に、好きな人の隣にいる為に、その為に柊家を裏切って百夜教を利用した。
だから今度は、売られて利用されるのが未明だったというだけで。
別にそれは良いのだ。
だがどこまで情報が漏れたのか。
シノアを守ろうとしていた真昼のことだ、きっとシノアを実験に巻き込まないようには取り計らってくれた筈。
だが本当にそうだろうか。
人間の真昼はともかく、鬼の真昼は本当にそうしてくれるだろうか。
······いや駄目だ。
思考の海から浮かび上がってきて脳を埋め尽くす疑いの心を振り払い、未明は胸の前で強く自分の手を握りしめる。
周りの全てが敵になったとしても、未明だけは真昼の手を離してはいけないのだ。
何も出来ないからこそ、真昼の傍にいなくてはいけないのだ。
物理的距離ではなく心的距離の話だが。
未明だけは真昼を信じなければ。
「ねえタマ、“終わりのセラフ”って知ってる?」
『あれだろ、百夜教がしてる怪しい研究。
それのせいでクリスマスに世界は滅ぶんだろ?』
未明が真昼から聞いた話をなぞるだけである。
意味ありげなニヤニヤ笑いを浮かべて、何か知っている様に口角を上げて、鼻歌を歌って。
残念なことに、嘘ばかりつくこの鬼の今の言動が演技かどうか判断出来ない。
「私も真昼から詳しく聞いた訳じゃない。
でも、その“終わりのセラフ” に真昼は···」
『踊らされてるって?操られてるって?』
「分からない、何も分からないの。
私は“終わりのセラフ”にあんまり関わっていないから。」
でも、と言葉を区切ってから視線を落とす。
「それって偶然?
私は鬼呪の研究ばかりしていた、それってたまたま?
“終わりのセラフ”に関わらないように、それとなく真昼に誘導されていたんじゃないかしら。」
『そうなの?』
「そうじゃないの?」
『さあ?』
はぐらかす様に鬼宿はせせら笑う。
それさえもわざとらしい。
「真昼と鬼呪と柊家と百夜教、世界滅亡、そして“終わりのセラフ”······。
何か···何か繋がりがある筈なのよ。
今思えば真昼の行動に不可解な所があるもの。」
『あはは、疑うのは嫌だって言ってた癖に。
いいの?
そうやって考えるってことはさ、真昼を信じてないって···そういうことだろ?』
「真昼のことは信じてる。
真昼の全てを信じてる。
真昼の望む未来を信じてる。
でも、このままじゃ何か取り返しのつかないことをした気がするの。
ううん、してしまったんじゃないかしら。
もう既に、してしまったんじゃないかしら。」
言いようのない不安が未明の心を襲う。
何も説明されていなかった。
鬼呪のことを柊家にバラすなんて予定、聞かされていなかった。
柊家に実験体にされるなんてこと、予測していなかった。
今までは大体真昼の計画通りに、真昼の言う通りに動いてきた。
真昼が音信不通になることはあれど、真昼と未明はちゃんと情報を共有出来ていた。
それなのに突然のこの事態だ。
真昼からの手酷い裏切りのようにも考えられるこの状況下。
未明は不安で仕方なかった。
自分の身は勿論大事だが、それ以上に今真昼がどうしているのか、何を考えているのか知りたかった。
シノアは無事なのか、実験体にされていないだろうか、心配で仕方なかった。
真昼のおまけ、残りかす、影、抑制者······称号をつければキリがない。
未明はその全ての称号を自分のものとして受け入れていた。
柊家に押し付けられたり、自分でレッテルを貼ったり、そんな風にして得た数々の称号だったが、その全てを受け入れていた。
何故なら、その称号は皆、前に“真昼の”とつけなければ成立しないものだったからだ。
未明は真昼のものでいたかった。
未明は真昼の“何か”でいたかった。
どんな形であっても、真昼にとっての“何か”でいたかった。
別にそれが、“王子様”でなくても最早構わなかった。
未明は真昼を救えない。
未明は真昼を守れない。
だから未明は“王子様”には、グレンにはなれない。
でも良かった。
真昼とグレンが結ばれることは未明の希望でもあったから。
きっといつか、グレンは真昼を救い出す。
幼い日に、真昼と2人で読んだ童話の様に、颯爽とグレンは真昼を救い出す。
そう信じているから。
「真昼。」
大切な姉の名を呼ぶ。
いつもいつも、後をついて回っていた姉の名を呼ぶ。
「大丈夫だよね。諦めてないよね。
真昼、貴方は諦めてないよね。
幸せな未来を、グレンとの未来を、諦めてないよね。」
誰も大丈夫だと励ましてくれはしない。
確信なんて持てはしない。
それでも自分に言い聞かせる。
そうでもしないと、何か嫌な仮説が頭の中で組み立てられてしまいそうで。
全てを掌の上で転がしていた真昼でさえ、強大な何かにとっての一歯車だったのではないかと、そんな絶望の音が聞こえてきそうで。
「真昼、まひる、まひる······」
魔法の言葉の様に何度もその名を口にして。
三日月の様に細められた鬼宿の目に不安を掻き立てられて。
そしてまた未明は、真昼の名を繰り返す。
────────
揺れている。
くらりくらり、ぐらりぐらり、緩やかに揺れている。
そうまるで、ぬるま湯に浸かって鼻歌を歌って体を揺らしているかの様な。
母胎の羊水の海で眠っているかの様な。
優しく暖かい子守唄を聞きながら、揺蕩っているかの様な。
「······まひる?」
心象世界の中で何度も呼んでいた様にまた、その名が自然に口をついて出る。
「···俺は真昼じゃない。」
不機嫌な声だ。
ムスッとした声だ。
でも聞き覚えがある、大好きな声。
目を閉じたまま、その声がした方に頬を寄せる。
温かい。
人肌の柔らかさを感じる。
するりするりとその肌に自分の頬を擦り付ければ、鼻先に何か触れた気がして、そのくすぐったさに薄ら目を開ける。
ピンぼけした写真の様な視界の中で、ぼんやり見えるのは赤茶けたもの。
少しずつ瞼を開いていくと、その赤茶けたものが地面だと分かる。
「起きたか。」
「···まひる?」
「だから真昼じゃない。」
やっぱりというか何というか不機嫌な声。
ここで未明はやっと、今自分と密着しているのがグレンだと認識した。
「······なんだ、グレンかぁ。」
ゆらりゆらり、揺れている。
その優しい揺れと、柔らかな体温。
これで眠くならなかったら人間ではない。
ああでも、私って人間じゃないんだっけ。まだ人間なんだっけ。
そんな取り留めのないことを考えながら、眠気をどうにか覚まそうと瞬きをする。
「どういう状況?」
「暮人にやっと解放されたお前を、俺がおぶって運んでいる。そんな所だ。」
「記憶が無いの。
暮人兄さんに拷問室に呼びつけられて、シノアに会って、そこで私は気を失って。
それが最後。」
「シノアが言っていたのと相違は無いな。」
「あれシノアに会ったんだ。
まあ暮人兄さん、グレンを使うって言ってたし。
脅された?」
「ああ。真昼をどうにかしないなら、シノアとお前を殺すってな。」
「それで?グレンはどうしたの?
私が今生きてるってことは、グレンは真昼をどうにかすることに決めたの?」
「······ああ。」
間があった。
嫌な間があった。
「ねえグレン、何があったの?
真昼は、どうなったの?」
「······。」
グレンは答えない。
伸びた黒髪がぴょこんと跳ねている首筋が目の前にある。
顔は見えない。
だがグレンが耐える様に唇を噛んでいるのはなんとなく分かった。
「鬼呪。」
グレンは答えない。
しかし未明のその言葉に、ほんの少し足が止まる。
「柊家が研究を始めたんでしょ?」
「ああ。」
「ねえグレン、教えて。」
未明は乞う。
甘さを感じさせないながらも、ゆったりとした優しい声で乞う。
「···鬼呪は完成した。
強大な力を得る武器として完成した。」
「やっぱり真昼が情報を漏らしたの?」
「俺だ。」
「ふうん、真昼がグレンに喋ったんだ。」
真昼が直接柊家にリークした訳では無いのであれば仕方ない。
元々柊家は真昼の動向を探るのに躍起になっていたのだ。
よくよく考えれば、鬼呪のことがバレるのは時間の問題だったのかもしれない。
「それで?どうやって鬼呪は完成したの?
真昼と私が作った“ノ夜”じゃ、グレンに押し付けたあれじゃ、万人受けするものじゃない筈。
あれは力が強過ぎるもの。
鬼が強過ぎて、すぐに喰われてしまうもの。」
「柊家───暮人は、鬼を制御する術を研究し、そしてそれを開発した。
それで鬼呪はお前の言う通り万人受けする武器になった。
真昼に言わせれば安全マージンたっぷりの武器らしい。」
「真昼らしいなぁ。」
力が必要だった。
誰にも邪魔されない力が必要だった。
人間として生きていたかった。
だから危険な方法と分かっていても手を出した。
リスクは冒して当たり前だった。
そんな真昼からすれば、慎重派の暮人が作った鬼呪は甘っちょろいものに思えるだろう。
「その為に、鬼呪を完成させる為に、お前が使われたらしい。」
吐き出す様に絞り出す様に、グレンは前を向いたまま言った。
「私?······ああなるほど。」
心象世界で鬼宿が言っていたことだと未明はすぐに思い当たる。
柊家お得意の人体実験。その実験体になったようだ。
「具体的にはどんな?私の血でも取って分析した?
でもそんなものでどうにかなったのかしら。」
「お前の血を培養して、そこに色々加えて鬼呪に混ぜたらしい。
それのお陰で、安全に鬼を使う為の呪い───鎖が出来た。
暮人がそう言っていた。」
「わあ、私の血にそんな力があったなんてね。
因みに血はどのくらい取られたのかしら。」
「知りたいか?」
「やめとくわ。」
グレンの口振りから、口に出すのもはばかられる量だということがよく分かった。
輸血のお陰で死にはしなかったが、人間が何度か失血死を起こせるくらいだとは見当がつく。
「真昼は?」
前座は終わりだ。本題に入ろう。
グレンの首に回された腕に無意識的に力が入る。
彼の首を絞めないようにと注意していれば、ふと赤茶けた地面以外のものが目に入る。
同じ赤だ。
しかし違う赤だ。
赤い赤い夕日。
河川敷に沈みゆく夕日と、少女をおぶって歩く少年。
あら、なんだかとても青春っぽい。
そんなことを思いながらグレンの背から伝わる規則的な揺れに身を預け、未明は大きく息を吸う。
鼻腔をくすぐるその香り。
ああ、やはり勘違いではなかった。
「グレン貴方、真昼を抱いたでしょう。」
「···。」
「無言は肯定ととるわ。」
女の勘をなめるな。
「···お前には関係ない。」
「あるわよ。可愛い可愛いグレンが大人になったんだから、関係大ありよ。
お赤飯炊かなきゃ。」
「お前なぁ······。」
グレンが深い深い溜め息をつく。
ここで初めて、グレンの雰囲気が目に見えて緩んだ。
高校入学から今までずっと、グレンは未明を警戒していた。
気を張っていた。
つまり未明を敵と認識していた。
けれど今この瞬間、彼は未明を敵と見なすのをやめたのだ。
真昼とのことを口にして、それを茶化しながらも祝ってやれば、気が緩むなんてやはりグレンはグレンだと、そう未明は微笑む。
昔から何も変わっていない、可愛いグレン。
昔未明が恋をした、今も真昼が恋をする、可愛いグレン。
「どうだった?」
「感想を求めるな。」
「ええー、良いじゃない。
私の真昼を寝取ったのよ、少しは申し訳ないと思って。」
ポカポカとグレンの肩を叩く。
「深夜と同じ様なことを言うんだな。」
「あは、私と深夜は似てるもの。
ふうん、にしてもね、本当にグレンと真昼がね······。」
思わず腕に力が入り、グレンの首が軽く絞まる。
「どうした、怒ってるのか?」
「ううん、違うの。」
違うのよ。
未明はグレンの首に腕を巻きつけたまま、彼の首筋に頬をうずめた。
「···良かった。真昼はちゃんと、初めてが好きな人とで良かった。
月並みな言葉だけど、心からそう思うの。」
ピタリとグレンが足を止める。
「グレン?」
「···。」
「犬の糞でも踏んだ?」
「お前は、違ったんだな。」
ふざける未明とは対照的にグレンの纏う雰囲気は重めだ。
そして何故か苦しそうにグレンは言った。
「うん、そうだよ。バレちゃった?
あーあ、グレンの前では清純派でいたかったのに。」
ふふ、と乾いた笑いが漏れた。
「前、お前が変わったって俺は言った。」
「そうだね。」
「取り消す。お前は変わってない。昔と何も変わってない。」
動きを止めたのは、今度は未明の方だった。
ブランブランと揺らしていた足をピタリと止め、金縛りにでもあったかの様に硬直する。
それからどうして良いのか分からず視線を彷徨わせ、グレンが見つめている夕日の方に目を向ける。
「······そういうのは、真昼に言ってよ。」
「ああ。」
「これだからグレンは、これだから···。
ほんとにもう、酷いね。」
グレンが好きなのは真昼の癖に、昔からこうだ。
どうしようもない人たらし。
無意識か意識的かは知らないが、時折未明の心にハートの矢をぶっ刺したり、鷲掴みにしたりする。
そんなことをされたら恋をするに決まっている。
いや決まっていたのだ。
未明の初恋がグレンになるのは至極当然のことだった。
真昼の初恋がグレンになり、未明の初恋が二重の意味でぶち壊されるのも仕方のないことだった。
「でも、ありがとう。」
こんなことしか言えない。
こんな普通の言葉を返すことしか出来ない。
想いは全て過去のものだ。
今に続くものではない。
駄目なのだ、望むのも欲するのも駄目なのだ。
言葉にしてはいけない。
言葉という形にして吐き出してしまえば、すぐさま鬼宿が未明の心に付け入るだろう。
今だって既にグラグラしているのだから。
恋に取り憑かれ、欲望に取り憑かれ、鬼に喰われ、その最後に待っているのは真昼だ。
未明が真昼と同じになる訳にはいかない。
真昼と約束した。
未明は最後まで、人間のまま真昼を見ていると。
だから未明は、想いを殺して欲望を捨てて鬼宿を縛る。
「そうだグレン、今日何日?
その、もうすぐ大事な予定があって。
準備をしたかったりしたくなかったりするの。」
再び歩きだすグレンの背の上で、雰囲気を変えようと明るい声で未明が尋ねる。
「8月28日。」
「え。」
「8月28日。因みにお前の記憶が止まったのは8月20日。」
「1週間以上寝てたの、そうなの。···どうしよう。」
困った様にあうあうあうと呻く。
「どうした。」
「ごめんね。」
「どうした。」
「真昼と違って、私は何も用意出来なかった。
真昼は前倒しの“プレゼントはわ、た、し♡”をしたみたいだけど、私はそれをする訳にはいかないもん。」
そこでようやくグレンは合点がいったらしく、小さく笑った。
「そんなことか。」
「そんなことじゃないの。そんなことで済ませちゃ駄目なの。
だってグレンの誕生日なんだから。」
一瀬グレンの16歳の誕生日。
それが未明の大切な予定だった。
何をあげようか、何をしようか、そんな具体的な計画があった訳では無い。
でもどうしても、未明は何かしたかったのだ。
それなのに、
「まさか目を覚ました今日が8月28日なんて、ついてないなぁ。」
「気にするな。」
「やっぱりお赤飯炊かなきゃ。」
「なんでそうなる。」
「まあ私、お米炊いたことないんだけど。
電子レンジでチンするタイプで良い?」
「······お前といるのは疲れるな。」
「ありがとう。」
「褒めてない。」
「あはは。
······ねえグレン、16歳の誕生日おめでとう。」
「ああ。」
素っ気なく返すグレンは、1つのマンションに足を踏み入れる。
ここがきっとグレンの家なのだろう。
一瀬の家が持っているマンション。
確か従者の子達も同じ場所に住んでいる筈だ。
グレンの背に乗ったままエントランスを通り、エレベーターに乗って25階で降りて。
がちゃんと鍵を回せばそこはグレンの家。
未明は高揚する気持ちを押さえつけ、静かに深呼吸をする。
グレンの家グレンの家······もしかしたらまだ真昼も足を踏み入れていないグレンの家···。
いやいや、ごく普通のマンションの玄関だ。
興奮する要素は特に無い筈だ。
落ち着け、もう一度深呼吸。
そう息を吸った瞬間、
「あれ、未明だ。暮人兄さんの虐めは終わったの?」
そう言いながら、何故か廊下の向こうから姿を現すのは深夜。
「どうして深夜が?」
「僕だけじゃないよ。」
ほら、とリビングへと続くドアを開ければ、確かにそこには前未明がチームを組んだ面々が揃っていた。
十条と五士の子供とグレンの従者達。
未明が入ってきた途端、彼等の表情は目に見えて固まった。
女子3人組は、おんぶ、おんぶ、何故おんぶ···と何かの呪詛の様に呟いている。
まあそれは置いておくとして、何にせよ変な緊張がリビングを支配する。
しかしそれをすぐに破ったのは、他でもないグレンだった。
「小百合、時雨、包帯あるか。救急箱も。」
「ほ、包帯ですか?グレン様、どこかお怪我を」
「してない。してるのは未明だ。」
そう言いながら、ソファの上に無造作に置いてあった雑誌をどかし、そこに未明を下ろす。
それからあたあたする小百合を制し、言葉に忠実に従った時雨から包帯と救急箱を受け取る。
「グレン、私怪我なんてしてないわ。」
「適当な手当しか受けてないんだろ、腕も足も首も。」
グレンにそう言われて、未明は初めて自分の全身に注射跡があるのに気がついた。
血が止まっている所もあるが、まだ薄らと滲んでいる所もある。
「でも、どうせすぐに治ると思う。」
だってこの身には鬼が宿っているから。
斬り落とした腕でさえ患部にくっつければ完全に治るのだと、グレンは身を以て知っている筈だ。
一般的な人間が必要とする手当ては、鬼を宿した未明には必要ないと分かりきっている筈だ。
「部屋に血を垂らされても困る。」
「ええー、怪我人にその言い草は無いでしょう。」
未明の腕を取り、適当にマキロンを振りかけてから包帯を巻いていくグレン。
その動きは手慣れている。
だが乱暴だ。
だが丁寧だ。
「あ、え、やっぱり未明様ですよね。真昼様じゃなくて。」
十条が恐る恐る、といった風に未明に話しかける。
「うん。真昼じゃないわ。
真昼が良かった?」
自分では巻きにくい腕に包帯を巻いた後、グレンは残りは自分でやれと言わんばかりに救急箱ごと包帯を未明に押し付けた。
それを放り投げようとして、軽くグレンに睨まれた為大人しく足に包帯を巻き始めた未明は笑いながら尋ねた。
「いえ、」
「でもごめんね。私も真昼の居場所は知らないの。」
「いえ、その」
未明から視線を外しながら慌てて首を横に振る十条。
「安心して。すぐにここを出ていくから。
だからグレンの従者ちゃん達もそんなに警戒しないで。」
包帯止めをペチリと付けた後、少し違和感の残る首を触る。
血を触った時特有のぬるりとした感覚はない。
首には巻かなくて良いだろう。
「えー、ご飯くらい食べていきなよ。」
「深夜の家じゃないでしょう、ここは。」
我が物顔で振る舞う深夜に呆れた声を返す。
「まあまあ。
でもご飯を食べていって欲しいっていうのは僕だけの希望じゃないよ。
でしょ、グレン。」
キッチンの方のグレンに呼びかければ、ああ、と素っ気ない返答がある。
「ここにいる理由が私には無いわ。」
「僕らにはある。真昼のことも聞きたいしね。」
だろうと思った。
今や未明と真昼が繋がっていたこと、2人で鬼呪の研究をしていたことやその他諸々がバレてしまったのだ。
未明にとって聞かれたくないことは、深夜やグレン達にとって聞きたいことに違いない。
「話すことなんて何も。」
「未明だって現状把握出来てない癖に。」
「うるさい、深夜の癖に。」
深夜から顔を背け、ベランダからでも良いからここを出て行こうと立ち上がろうとする。
しかし足に力を入れた瞬間ぐらりと未明の体は傾いて、倒れ込む様にしてソファに逆戻りした。
「暮人が言うには、重度の貧血の上に薬の副作用で暫く体に力が入らないらしい。」
キッチンから戻ってきたグレンが冷めた目で未明を見下ろす。
その彼の視線と、この部屋にいる他の人から向けられた視線により、未明はたった今晒した自身の醜態を思い返して羞恥心を抱き、すごすご小さくなる。
貧血のせいであまり顔は赤くならなかったが。
「先に言ってよ。」
そう文句を言うが、グレンはそれを無視してまた姿を消した。
代わりに未明に答えたのはまたもや深夜である。
「じゃ、未明は僕らと一緒に夕ご飯を食べるってことで。」
「···。」
「僕を睨んでも仕方ないでしょ。未明が今動けないのは事実なんだし。」
だからグレンにおんぶされてたんでしょ?と揶揄うように笑う。
「そういえば今日の夕ご飯は何ですか、小百合さん。」
「カレーです。」
十条の問いにエプロン姿の花依小百合が答えた。
「良かったね、未明。カレー好きでしょ。」
「···だから?」
好きだけれども、好きだけれども······!
エプロン姿の花依小百合と雪見時雨が連れ立ってキッチンに向かうのを見送りながら未明は溜め息をつく。
作っているのがグレンの従者達だという点が気になる。
未明は真昼の妹だ。
そして真昼はグレンの恋人だ。
つまり彼女達にとって未明は、大切な主を誑かして振り回している女の妹なのだ。
未明は彼女達にとっての敵なのだ。
前会った時も殺意を向けられていたし、今だって警戒したようにこちらを見ている。
未明の方も、グレンに近しい女には敵意を向けがちだ。
グレンは真昼のものなの、それなのに近付かないでよ、と殺意を抱きがちだ。
総じて言えば犬猿の仲。水と油。相容れない。
そもそも帝ノ鬼を率いる柊家の人間と、一瀬家率いる帝ノ月に属する人間だ。
相容れないのは仕方のないことだろう。
「あの、未明様。」
「なにかしら、十条美十さん。」
「ええと、なんて言ったらいいんでしょう、えっと···その、」
少し顔を赤らめて、躊躇いながらも十条は言葉を紡ぐ。
「私は未明様に感謝しているんです。」
「どうして?」
まさか十条の口から感謝なんて言葉が出るとは。
柊様の未明に対して言うのは現実的ではないが、恨み言や罵詈雑言なら飛んできてもおかしくはない筈なのに。
それだけのことを未明はやった。
未明と真昼はやった。
柊家を、帝ノ鬼を裏切って、百夜教と組んだ。
帝ノ鬼と百夜教が争うように仕向けた。
何人も死んだ。何十人何百人も死んだ。
未明達が原因で死んだ人間は少なくない。
もしかしたら十条の家族や友人が命を落としたかもしれない。
それなのに何故。
十条だけではない。五士も未明に対して悪感情を抱いてないらしい。
目で分かる。
「未明様のお陰で、グレンを助けられたからです。
グレンを人間に留めておけた。」
「私のお陰?逆じゃない?
私のせいで、真昼と私のせいで、グレンは人間をやめる羽目になったんだから。
そういう計画だった。
グレンには強くなって貰わなきゃいけなかった。
だから人間をやめて貰わなきゃいけなかった。
鬼を宿して貰わなきゃいけなかった。」
「それでも未明様のお陰でグレンを助けられたんです。
未明様の血のお陰でグレンは助かった。」
腕に巻かれた未明の包帯。
それを痛ましそうに見つめながら十条は言う。
「未明様の血を使って鬼呪が完成したと、鬼を抑え込む札が生み出されたと、そう聞きました。
だから未明様のお陰です。
鬼呪が無ければ私は、私達はグレンを助けられなかった。」
「ねえ十条美十さん、その口振りだとグレンに何かあったってことなの?
グレンを助ける為に、貴方達が鬼呪を持たなくてはいけない程の何かが。」
この部屋に入った時から、もっと言えばこのマンションの前に着いた時から気付いてはいた。
鬼を身に宿した、鬼呪を手にした────禁忌を犯した人間がいると。
「あ······」
未明の鋭い視線に狼狽える十条が逡巡した後、口を開く。
が、
「そこら辺は食べながらにしようか。
カレーが出来たみたいだよ。」
そこで深夜が割り込んでくる。
「深夜。」
「あーはいはい、そんなに睨まないでよ未明。
ほら手貸すから。何ならおんぶでもしようか。」
「自分で歩けるわ。···でも手は貸して。」
「我儘だなぁ。」
「うるさいわよ、深夜お義兄ちゃん。」
「その呼び方やめてよね〜。別に良いけど。」
「うるさい。」
悪態をつきながら深夜に体重の殆どをかけて歩き、それからズルズルと椅子に座り込む。
グレンの向かい側だ。
グレンのことが大好きな深夜お義兄ちゃんは、グレンの隣に座るに違いないと未明は思っていたが、予想は外れて深夜は未明の隣に腰を下ろす。
これから始まる
ただの被害妄想かもしれないが、未明にはそんな気がした。
「未明、手に力入る?」
「問題ないわよ。」
そう深夜に答えて、前に並べられたカレーにスプーンを刺し入れる。
多少手は震えるがスプーンを握るくらいならば大丈夫そうだ。
「優しいお義兄さんが食べさせてあげようか。」
「御免こうむるわ。」
馬鹿にして、とテーブル下の深夜の足を踏みつけようとするがスルリと逃げられる。
「遠慮しなくて良いよ。」
「姉妹以外にそんなことされたくない。」
「さっすがシスコン。でも僕も君のお義兄ちゃんなんだけど。」
「男はいらない。」
「暮人兄さんは?」
「暮人兄さんの食事介助とか···」
想像出来ない。
いや想像したくない。
やめよう、何だか地獄を見る気がする。
頭を軽く振って、スプーンではなく刀をこちらに向けてくる暮人のイメージ画像を思考の海から追放し、未明はテーブルを見渡す。
グレンは黙々と食べている。だが警戒を怠っていない。
腰に差したままの刀がその証拠だ。
そんな彼を気にしながらも、時折コソコソ未明を睨む2人の従者。
本人達はこっそりやっているつもりなのかもしれないが、未明からすれば普通にバレバレだ。
そして、この微妙に緊迫感のある晩餐に気を病んでいるらしい十条美十と五士典人。
と全く気に病んだ様子の無い深夜。
ああもう仕方ない。
やれやれと嘆息する。
未明は元々息の詰まる食事は苦手だ。
というかそもそも食事という行為自体があまり好きではない。
お腹も空くし、好物もあるし、拒食症でも過食症でもないのだが、あまり食事が好きではない。
だから早く終わらせてしまおう。
「先にちゃんと言っておくわ。
私は真昼の居場所を知らない。」
ピリリと部屋に更なる緊張が走る。
未明が真昼の名前を呼んで、真昼のことを話しただけでこれだ。
「じゃあ無関係?」
「まさか。
私は真昼と一緒に行動していた。
真昼のしたことは私のしたこと。
ただ真昼の全てを私は知らないだけ。」
「柊家を裏切って百夜教についたのは?」
「真昼がそうしたから、私も倣ったわ。」
「仲悪いっていう噂は?」
「意図的に流したわ。情報の為に真昼がそうしろって言ったから。」
深夜の問いにスラスラ答える。
「グレンが人間をやめそうになったのは?」
「真昼と···間違いなく私の意志でもある。
だってグレンには力が必要でしょう。
真昼を救い出す為の力が。
今度こそ、2人が幸せになれる未来を掴む為の力が。」
違う?と可愛らしく首を傾げれば、グレンの従者達がガタンと立ち上がる。
「···っ、勝手なことを!」
「グレン様は、グレン様は、あの女のせいで······!」
片方は沢山の涙を目尻に溜め、もう片方は袖から出した暗器を構えている。
「怒ってるの?ねえ、どうして怒ってるの?」
「っ···!」
怒りで顔を赤くする従者達を煽るように問えば、彼女達の怒りは更に燃え上がったらしい。
暗器が未明の頬を掠め、後ろの壁に深々と突き刺さる。
「あは、怒ってるのね。
私を殺したいくらいに怒ってるのね。
それはどうして、どうしてかしら?」
「あの女は、グレン様を······大切な主を···!」
どうやら言葉にならないらしい。
まあその後に続くのは恨み言だと分かりきっていた為、未明はクスリと笑う。
可愛い従者達だ。
とても、可愛い。
とても、弱い。
柊から支給されたらしい鬼呪を手にしたとしても、彼女達は弱くて可愛い。
可愛くて弱い。
「だから?」
だから何、と未明は嗤う。
「ふざけるなっ······!」
「ふざけてなんかないわよ。
だから何、だからなんだっていうの?
貴方達はグレンの為にとその身を砕くんでしょう。
私は、貴方達と同じ様に真昼の為にこの身を捧げている。
分かるわよ、同じだもの。」
「分かるわけが···!」
「分かるわ。」
断言する。
従者達はグレンの為なら死ぬだろう。
そして未明も、真昼の為なら死ぬだろう。
だから分かるのだ。痛いほどに。
それ故に未明は、この可愛くて弱い従者達をどうこうする気はなかった。
たとえ殺気を向けられても暗器を投げられても、未明は怒らない。
鼻で笑って軽くいなすだけだ。
それなのに、
「···あの女の···化け物の妹が、私達のことを分かった······?」
「よくも、そんなことが、」
化け物。
その言葉が未明の耳に勢い良く飛び込んでくる。
そして未明の脳を焼く様にして、その意味を弾き出す。
バケモノ、バケモノ、バケモノ。
暮人が真昼のことをそう呼んだこともあった。
だがそこには何の感情も込められていなかった。
ただ事実として淡々と、彼は真昼をバケモノと呼んだ。
だが今彼女達は、侮蔑と憎しみと怒りと、何かそういうものをたっぷり含ませて、真昼を化け物と呼んだ。
その
彼女達自身も、彼女達が慕うグレンも、皆そのバケモノを体に飼っているのに。
人間をやめているのに。
「あは、あはははははっ!」
おかしくてたまらない。
口をついて笑いが出る。
「化け物?そうね、真昼は化け物だわ。
私もそうなんでしょうね。
ならグレンは?貴方達の愛する主は化け物じゃないの?」
「そんな、わ、け···」
断言出来ない。
グレンは化け物ではないと断言したいのに、そうすることが出来ない。
従者達にも思う所があるのだろう。
今でこそグレンの中の鬼は小康状態を保っているが、暴走したことが無かった筈がない。
グレンはグレンでなくなり、人間をやめ、化け物になり、そして鬼の破壊衝動に従って従者達を殺そうとしたに違いない。
「ほら。
そもそもここに、人間がいるの?
なんの混ざりっけもない、純粋な人間が?
冗談でしょう。
ここにいるのは揃いも揃って鬼呪装備持ち。
鬼を宿した元人間。
化け物じゃないの。」
「···違う!」
「違わないわ。
構わないでしょう、化け物で。
人間をやめたからって何も変わらない。
人間と化け物の境界線って何?はっきりとは分からないでしょう?
だから良いじゃない。」
歌うように未明は口を動かした。
仕草は少しばかり芝居がかっている。
「私は、生まれた時から人間じゃなかったわ。
化け物として生まれたわ。
でも、どうだった?
学校で私は化け物だったかしら。
人間には見えなかったかしら。
違うわね。私は普通の人間に見えた筈よ。
ほら、違いなんて無いのよ。」
「未明は人間だろ?」
深夜が問う。
未明の右手を、刀を顕現させようとしていた右手を掴んで、彼女に刻み込むように問う。
「話聞いてたの、深夜?
私は真昼と同じなの。
生まれながらにして化け物なの。
後天的にそうなった貴方達とは違う。」
そう、違うのだ。
だからやはり、未明はここにはいられない。
未明は真昼と同じだから。
元人間の化け物が生まれながらの化け物を厭うなら、生まれながらの化け物同士が身を寄せ合うしかないだろう。
真昼のいる場所が未明のいたい場所。
捨てられても裏切られても利用されても、未明は真昼のそばにいたいから。
「なら未明はさ、目的の為ならどこまで捨てられる?
どこまで殺せる?」
未明の手首を掴んだまま、深夜はにへらと笑った。
きっと真昼が柊家を売り飛ばしたことを言っているのだろうと未明には分かった。
真昼は捨てた。
家族だってなんだって、きっと未明やシノアだって最終的には捨ててしまえる。
彼女が捨てられないのはグレンだけだ。
「全てを。真昼の為ならば私は全てを、捨てることが出来るわ。」
深夜に掴まれた手首から拘束の呪いが流れ込んでくるが未明は気にしない。
体が万全でなくても関係ない。
鬼の力を引き出せば、深夜の呪いも体の不調もあまり問題無い。
「ここにいる人間でも?」
「お望みなら今すぐそうしてあげるわよ。」
ぶわりと未明の全身から禍々しい気が立ち上る。
すぐに反応出来たのは、未明に拘束の呪いを流していた深夜と刀を腰に下げたままだったグレンのみ。
他は未明の気に圧されて顔を青白くしている。
「酷いな、未明は。
僕は未明の義兄なのに、僕のことも捨てるんだ。」
どうせ大して傷ついてはいない癖に悲しそうに言う深夜を見ながら、未明は彼の拘束を破る。
早く、ここから出ていかなければ。
真昼のそばに、いかなければ。
「ええ。真昼の為なら。」
「暮人兄さんは?」
「捨てるわ。」
鬼宿、と名を呼んで右掌に黒い刀を握らせる。
それからその切っ先を深夜に向ける。
彼はいつもの様に笑うばかりだ。
脅しているのはこちらの筈なのに、何故それほどまでに余裕ぶっているのか。
ああでもどうでも良い。
早く行かなくちゃ。
「家族なのに?」
「家族?私の家族は初めから真昼とシノアだけ。」
おかしなことを、と未明は小さく呟いた。
耳障りな鬼宿の笑い声を振り払う様に、刀を深夜の首筋に当ててみる。
あと少しだ、あと少し動かせば深夜は死ぬだろう。
それなのに何故、深夜はニヤニヤ笑っているのか。
未明には分からなかった。
ああでも本当にどうでも良いの。
早く出て行かなきゃ。
「ならシノアは?」
「······シノアを守ることが、私の目的だもの。
真昼の目的でもある···から。」
「へえ、じゃあグレンは?」
「······グレンは真昼のものだから。だから、そう、だから」
悪足掻きの様にして、矢継ぎ早に未明に問いをぶつけてくる。
そんな深夜のせいで、未明の刃が曇る。
ほんの少し前までここを出ていく為ならば、邪魔する深夜を殺そうと思っていたというのに。
そう、早く出て行かなきゃいけないのに。
そっと首を動かせば、静かに刀を抜いたグレンがそこにはいた。
その切っ先は未明に向けられていて。
つまりグレンも、未明の邪魔をしようとしていて。
ならばグレンも、殺さなければならなくて。
「······嫌だ、なぁ···それは。」
真昼が1番の筈なのに。
真昼の為ならば、真昼のそばにいる為ならば、なんだって出来る筈なのに。
柊家は勿論、深夜も暮人も、多分皆殺せる筈なのに。
グレンを殺さなくてはならないと分かった瞬間、彼を殺したくないという気持ちが溢れてくる。
と同時に未明が深夜を殺したら、優しいグレンはきっと未明を殺そうとするだろうな、そう気付いてしまった。
そうなれば殺し合いの中で、未明はグレンを殺してしまうだろう。
未明が嫌でも、体は、鬼宿は嫌がらない。
グレンに宿る鬼の再生力を上回って、未明の中にいる鬼は彼を再起不能にするだろう。
未明は真昼より弱い。
でもグレンよりは、強いのだ。
未明は生まれた頃から鬼と付き合ってきた。
鬼を宿して数ヶ月程度の人間とは訳が違う。
「嫌、だな。」
殺したくない。
グレンを殺したくない。
真昼が悲しくなってしまうから?真昼が泣いてしまうから?
それもある。
でもそれだけではない。
未明が、悲しくなってしまうから。未明が、泣いてしまうから。
だから未明は、グレンを殺せない。
鬼宿は静かだ。
こんな時にこそ茶々を入れてきそうなものだが何も言わない。
うんともすんとも言わない。
未明がグレンを殺す為の力を、鬼宿は与えてはくれないらしい。
未明が彼を殺すことを欲していないから。
鬼宿の好む欲望にはならないから。
そんなこと1番、
「あーあ、だから、早く出て行きたかったのに。
だから、早く出て行かなきゃいけなかったのに。」
戻って良いわよ、と掴んでいた刀に告げて、鬼の力を再びしまい込む。
未明が禍々しい圧を消したことにより、グレンも刀を下ろして鞘に戻した。
深夜はやれやれといった風に椅子に座った。
他の面々は自然に止まっていた呼吸を再開する様に、苦しそうに咳き込んだり喉を鳴らしたりしている。
「未明。」
鬼呪を解いてやる方無く立ち尽くし下を向く未明の前に、フローリングしか映らない彼女の視界の中に、グレンの足が入り込んだ。
「···なぁに、グレン。」
「もう俺から離れるな。」
「···無理よ、もう遅いもの。」
もう遅い。
もう遅いのだ。
真昼とグレンと未明と、3人で笑える時間はもう来ないのだ。
真昼は壊れてしまった。人間をやめてしまった。
未明だって、グレン達に比べればどうしようもないくらい手遅れだ。
いくら鬼を縛り付けた所で、抑えきれない時が来るかもしれない。
いやそれどころか、必死に縛り付けたせいで鬼と自然に一体化している傾向がある。
真昼の様に鬼に喰われ二重人格的になって壊れるのではなく、未明は鬼宿、鬼宿は未明、という風に嫌な親和をしてしまった。
融け合ってしまった。
「手遅れなんてことはない。」
「嘘つき。」
「俺がやる。お前を助ける。」
「あは、その台詞だってどうせ使い回しでしょう?
真昼には通じなかったから今度は私?
私なら簡単に籠絡出来ると思った?」
どうせそうだ。
優しいグレンが、真昼を抱いた時に彼女に優しくて残酷な言葉を投げかけない筈がない。
いつもそうだ。
未明は真昼の後。おまけ。ついで。
知っている、そんなこと。
それでも良かった。構わなかった。
未明には真昼がいたから。
真昼の“何か”でいられたから。
でも今、真昼はいない。
何にせよ未明は真昼に売り飛ばされた。柊家の実験体として売られた。
つまり捨てられた。
真昼になら捨てられても裏切られても構わない。
それは本心だ。
真昼に愛される為に、真昼を愛したのではない。
未明が真昼を愛したいから、愛しているから、真昼を愛したのだ。
見返りなんて要らなかった。
望んだことはあっても、願ったことはあっても、それでもきっと、要らなかった。
「嘘つき、グレンの嘘つき。」
目の前にいる優しい男をなじる。
なじってみる。
「嘘つき、最低、口だけ男。」
グレンの足が近付いてくる。
怒ったのだろうか。
怒ってくれたら、いいな。
自分の発した言葉でグレンの感情が揺れていれば、それだけは真実だから。
その時だけは自分のことを見てくれるかもしれないから。
だからそう未明は思う。
そう思って、顔を上げる。
「俺が助ける。」
グレンの黒い目と未明の目が合う。
残念なことに青い電流も桃色のハートも生まれない。
ああやっぱり、貴方が見ているのは真昼なんだね、グレン。
分かっていたことだと、未明は小さく笑った。
ひりつく喉を小さく鳴らした。
静かに燃える様な目が未明を見ている。見てくれている。
けれども、向こう側に真昼を見ているのが丸分かりだ。
どうしたって未明は真昼に勝てない。
胸の辺りが痛い。
酷く痛い。
ずきりずきりと甘さなんて存在しない容赦のない痛み。
問い:真昼には捨てられて、グレンには見てもらえなくて、こんな私はどうしたら良いのかしら?
答え:いつもの様にキューピット役に徹しなさい。
最後の夢に、希望に、それに縋りなさい。
「なら助けて、真昼を助けて。」
真昼ともグレンとも、どちらともどうにもなれないのなら、未明はこうするしかない。
今までだってずっとこうしてきた。
大切な人同士が結ばれるの。それって素敵なことでしょう?
とっても、素敵なことでしょう?
愛しい人達の幸せを望むのは、願うのは、とっても素敵なことでしょう?
「···。」
「私よりも、真昼を助けてよ。
真昼を、助けて。
私の大切な人を、愛しい人を、たった1人の姉さんを、助けてよ。」
グレンの肩を掴んで、力が入らなくて、ずるりと手を滑らせて、そのままグレンのズボンの裾まで手を下ろしてしまうのにつられて体が崩れ落ちる。
「···。」
「真昼は泣いてたの、ずっと泣いてたの。」
グレンは答えない。
今グレンのズボンの裾を力無く掴んでいる様に、最後の夢と希望に縋り付く未明に何も言ってくれない。
「こんな体じゃ、人間をやめた体じゃ、グレンに嫌われちゃうって。
でもグレンは真昼を抱いた。
化け物でも良いって、真昼を受け入れた。
それならグレン、真昼を助けて。
貴方が愛する真昼を助けて。
何とも思ってない私なんか助けないで。
貴方は貴方の愛する人を助けて。
真昼を···助けて。」
「···すまない、未明。」
「謝らないでよ、謝らないでよ、謝らないでよ!」
そんな辛そうな顔しないで。
そんな痛そうな声絞り出さないで。
「助けてよ、真昼を、助けて。」
「すまない。」
手が触れた。
未明の頭に、手が。グレンの手が。
温かくて優しくて。
そっと頭の上に置かれたその手が、柔らかくて。
それなのに棘の様な痛みを未明の心に運んでくる。
「助けてよ、助けて。」
「すまない。」
「···グレン、酷いよ。酷いな、貴方は本当に酷い。」
その謝罪は誰に向けたもの?
願いを却下するしかない未明に?
それとも助けられない真昼に?
「助けて、お願い、助けてよ。
真昼を助けて、真昼だけを助けて。
真昼だけを見て。真昼の為だけに生きて。
だから今、皆殺して。貴方の仲間や部下を全部殺してよ。
そしたら貴方は真昼だけを見るでしょう?」
「できない。」
「···そうだよね、グレンは優しいもん。
そんなの、できないよね。」
だから貴方を好きになったんだもん。
「お前もできないだろう、未明。」
「······そうだね。」
真昼の為なら何でもできると思っていた。
けれども無理だった。
グレンを殺せない。シノアを殺せない。
グレンが大切に思う部下や仲間もきっと殺せない。
未明はまだ人間でいなければならない。
人間でいようと努力しなければならない。
目的の為に全てを捨てられる、全てを殺せる化け物にはなれない。
真昼がそれを望んでいたから。
「そっか、もう駄目なんだ。」
あは、と乾いた唇から空虚な笑いが漏れる。
真っ直ぐに保つ力を失った首がかくんと折れて、伸びた前髪が垂れ下がる。
ぐしゃぐしゃに乱れた、真昼と同じ紫色のその髪と薄茶のフローリングとのコントラスト。
それが綺麗だなぁなんて心にも無いことを思って。
最後の砦である涙は流さずに、いつもの微笑を貼りつけて。
そうしていれば分かってしまった。
もう無理なんだと。
もう遅いのだと。
夢も希望も、もう無いのだと。
真昼とグレンが結ばれる未来、そんなもの来ないのだと。
そして真昼は、最初からそれが分かっていたのだろうと。
「駄目じゃない。」
グレンの手が未明の肩を強く掴む。
痛い。
「さっきと違うこと言ってる。
グレンはやっぱり嘘つきだね。」
ごく自然に口角を上げてグレンの方を見上げれば、彼は唇を噛みしめて耐える様な顔をする。
それが辛くて悲しくて、それなのに少し嬉しい。
「俺は、守りたい。」
一言一言、噛みしめる様に、刻みつける様に、針山の上を歩く様に、グレンは吐き出した。
「誰を?仲間を?」
「ここにいる仲間も部下も家族も、お前も、真昼も。」
「無理よ。」
「うるさい。黙って守られろ。」
「貴方は弱いのに?力が無いのに?
それなのにそんなこと言うの?」
「ああ。」
「なら、貴方が大切にしている仲間を殺せば良いわ。
そうすれば貴方は強くなれる。」
「俺は仲間を殺せない。」
「なら、真昼を殺せるの?
貴方の大切な仲間を守る為に、真昼を殺せるの?」
「···。」
グレンは答えない。
未明から少し視線を外しながらも、未明の肩を掴む手に力を入れる。
「殺せないんでしょう?」
「···。」
グレンはやはり答えない。
でも、それが答えだ。
グレンは真昼を愛している。だから殺せない。だから守りたい。
ならばその為の力を得るのか。その為に仲間を殺せるのか。
だがグレンは仲間を殺せない。何が何でも守りたい。
そうしてグレンは、どちらも選べない。
どちらも選べない、弱い人間。
目的の為ならば何でもするという気概が足りない、弱い人間。
でもだからこそ、真昼はグレンに恋をしている。
そしてきっと、未明も────
薄く瞼を閉じて、肩を掴むグレンの手の上に自分の手を重ねる。
そっと、重ねる。
胸の前で腕を交差させて、グレンの手だけを抱きしめる様にして未明は静かに瞬きをする。
真昼を救い出す王子様にはなれない。
グレンに助けてもらうお姫様にもなれない。
お姫様と王子様が結ばれる幸せな未来も来ない。
夢も希望も、何も無い。
けれどまだ、ここには願いがある。
真昼は未明に願った。
「人間のまま見届けて」と。
グレンは未明に願った。
「黙って守られろ」と。
鬼宿は未明に願った。
「人間をやめなよ」と。
未明は鬼宿に願った。
「人間でいたい」と。
「良いよ、グレン。
貴方の好きにすれば良い。貴方は貴方のしたいようにすれば良い。」
グレンの手を掴んで押し戻し、未明は前髪をかき上げる。
「守られてあげる。貴方にちゃんと、守られてあげる。」
真昼には拒否された願いを、未明は受け入れた。
そのことが嬉しいのか自己満足を得たのか、グレンの心はハッキリとは分からない。
でもほんの少しだけ、彼の顔が緩む。
「私も人間をやめられない。
真昼が願ったから。貴方が願ったから。
私は全てを殺すことなんかできない、弱い人間でいようと思う。
でもね、」
人間をやめちゃえよ、欲しいものは全部手に入れようよ、そう囁く鬼宿を鎖で縛りつけて封印する。
これで良い。
けれどこれでは悪いのだ。足りないのだ。
そんなことは分かっている。
それでも、
「私が真昼を殺すわ。」
その言葉で、グレンが弾かれた様に未明の方を見る。
水面に石が投げ込まれた様に、ゆらゆら広がる波紋の様に、グレンの心が揺れている。
それはなんとなく分かった。
そしてそれが嬉しかった。
今だけはグレンは未明を見ずにはいられないから。
「私が、真昼を殺す。」
鬼宿が叫んでいる。
じっとりとした奈落の底から鬼宿が叫んでいる。
そんなことを望んではない癖にと。
殺せる訳ない癖にと。
うん、確かにそうだ。
けれど未明は嘘でも虚構でもはったりでも虚勢でも、そうでもしないともう立ってはいられない。
だから未明は、再び唇をはくりと開く。
「最初で最後の姉妹喧嘩よ。
全てを掛けた殺し合い。
ふふ、それくらい許されるわよね。」
────だって私、真昼とグレンのことを愛しているんだもの。
そう言って、桜が散りゆく様を連想させる微笑を浮かべた。
ついつい長くなりました。
過去編はあと2話程でまとめたいですが、その分1つの話が長くなりそうです。