未だに見えぬ朝を乞う 作:明科
グレン以外の仲間達の間では、未明は死体も残さずに消えてしまった(恐らく死亡)と認識されています。
この投稿分で長ったらしい過去編は終わりです。
『────これを聞いているのが誰かなんて私には知る由もない。
でも、これを貴方が聞いている時既に私はいないでしょう。
···そんなお決まりの台詞を言ってみたけど、これって微妙よね。
そう思わない?』
ピッと無機質な音を押し込める様にボタンを押す。
『私が生贄になれば、真昼は助かるの。
真昼は生きられるの。』
またボタンを押す。
『真昼も、シノアも、仲間達も、皆大事よ。家族なんだもの。
だからね私、思ったの。
私が、私だけが犠牲になることができればって。』
もう一度。
『後悔はするわ、きっとね。
でも嫌悪感なんて微塵も抱いてないの。
追い詰められた鼠ほど強いってこういうことかしら。』
もう、一度。
『大好きよ。』
ガシャンと、掌から滑り落ちたボイスレコーダーが床に転がった。
けれども少年少女の泣き声に、その哀れな音は掻き消されていく。
ゴシゴシ、ゴシゴシ、消しゴムで消すように無くなっていく。
この世界から、1人の少女がいた跡も無くなっていく。
仲間達に傷痕だけを遺して。
そうして少女は跡形もなく消え去った。
────────
五士典人にとって、柊未明はある種の憧れだった。
名門五士家の長男として生まれながらも、幾つか下の優秀な弟ばかりに集まる期待に辟易としていた頃、何度か見かけた。
優秀な柊家次期当主候補の双子の妹である未明を。
初めは親近感だった。
自分と同じ様に優秀な兄弟を持つ未明のことを、彼女は尊い柊様だった為勿論口には出来なかったが、内心似た者同士だと思っていた。
しかしその認識が覆ったのは、とある日の夕方のこと。
帝ノ鬼配下の名家が集まる定期的な会合では、大人達は真面目な話をし、子供達は子供達で一室に集められていた。
けれど不出来な長男というのは居場所が無いに等しくて。
五士はふらりと太陽が沈みゆく外へ出た。
それから行く宛もなくさまよっていれば、小さな訓練場に行き当たった。
金属同士がぶつかり合う鈍い音に少し怯えながら、それが聞こえてくる訓練場を覗き込んだ。
そこにあったのは、“あの”柊暮人とほぼ互角に戦う未明の姿だった。
五士はひとりでに息を呑んだ。
夕陽に照らされて、未明の紫の髪がじわりと輝いて。
彼女の持つ白刃が閃いて。
風が巻き起こり、火花が弾け。
何より柊暮人と刀を交える彼女は僅かに笑っていて。
その光景はまるで1つの絵の様で。
きっとその日、五士はちょっとした恋を、そしてちょっとした失恋を経験したのだろう。
だから今、あの紫の髪が二度と見られないと知って、力がふっと抜けてしまいそうになった。
────────
十条美十にとって、柊未明は柊様の1人、というよりは“真昼様の妹”という認識だった。
強く美しい真昼に憧れていた美十からすれば、真昼の後ろに隠れてばかりの未明は少し、物足りない存在だった。
いや勿論、真昼と同じ美貌には心惹かれていたのだが。
だが真昼の慈愛のこもった笑みと違い、未明の笑みは軽薄で。
冷たくて、暗くて、濁っている様に思えた。
少なくとも幼い美十はそう思っていた。
のだが、あの日あの姿を見たことで、全てがくるりと反転した。
透明な液体で満たされた巨大なビーカーの中に浮かぶ白い体。
その白い体に繋がれた無数のチューブ。
生々しい血の匂い。
コポリコポリと水面に上がっては消える泡。
一瞬、“それ”が何なのか、美十には分からなかった。
実験動物の様に生かされている“それ”が何なのか、分からなかった。
偶然見かけてしまった“それ”は余りに衝撃的で。
鬼呪装備の調整の為に柊家の研究所に一緒に来たグレンが、「未明」と血を吐き出すかの様な痛々しい声でその名を口にしなければ、“それ”が柊未明だとは分からなかった。
柊家の研究者から話を聞いて、鬼呪装備の要である鬼を抑える為の鎖に未明の血が使われていると知れば、腰に提げた鬼呪装備がズンと重くなった気がした。
あんな方法で、人権も何もかも奪われて、それで······ああ···、そんなのって···。
次に美十が見たのは、グレンにおんぶをされる真っ白な顔の未明。
儚く笑う彼女に、真昼のことで怒る彼女に、グレンに縋る彼女に、美十は泣きたくなった。
未明は柊様なんかではない。
1人の女の子で、美十と同じ女の子で。
好きな人だって、守りたい人だって、家族だって、美十と同じ様にいて。
それなのにどうして、未明はあんな目に合わなければならないのだろう。
ビーカー漬けになって、全てを奪われなければならないのだろう。
だから美十は、未明の手を取った。
冷たくなんかない、ちゃんと美十と同じ血が流れている温かい手を。
仲間だから、友達だから、大切だから。
そして未明が握り返してくれたことがまた嬉しくて。
なのにどうして、
どうして、
美十は小さく首を傾げて、それからポタリと涙を垂らした。
────────
花依小百合と雪見時雨にとって、柊未明は憎い女だった。
大切な主人を振り回し、傷つける柊真昼の双子の妹。
敵。唯一無二の敵。
憎んでも憎んでもまだ足りない。
そう思っていた。
いや、今もそう思っている。
今だって多分、憎くてたまらない。
大切な主人に最期まで傷を遺していくあの女が、憎くてたまらない。
同じ人を想い、同じ様に想い、そうして散ったあの女が、憎くてたまらない。
でもどうして、どうして。
目の奥が痛いのだろう。
泣きじゃくる花依小百合を抱きしめて、雪見時雨は思う。
真昼と違って自分達を1人の人間として扱い、仲間と呼び、その命を賭して守ろうとしたあの憎い女のことを。
自分達が作った食事に顔を綻ばせていたあの憎い女のことを。
自分達に今涙を流させる、憎い女のことを。
────────
柊深夜は柊未明の義理の兄である。
血の繋がりは全くない。
だが恐らく性格はよく似ていた。
何故か同族嫌悪を起こさない、絶妙な加減だった。
だからだろうか、許嫁である真昼よりも未明と一緒にいる方が心地好かったのは。
だからだろうか、幼い頃隣にいればなんとなく手を重ねていたのは。
だからだろうか、お義兄ちゃんと呼ばれるのが嫌だったのは。
義妹が唯一遺していった、ボイスレコーダーを
皮肉っぽくて、回りくどくて、芝居がかっているその話し方は健在で。
けれども、もうこの声しか遺っていないのだと思うと変な笑いが口元に浮かんでしまう。
結局の所、あの義妹は何がしたかったのだろうか。
たった独りだけどこかへ消えてしまったらしい彼女の真意などもう分からない。
いや、今目の前に彼女がいた所で分かりはしなかったに違いない。
けれど、
「死なないって言ってたのにさ。
僕らが生きて、君だけ死ぬのは、約束破りだろ。」
なあ未明、とボイスレコーダーを握りしめる。
人は、人を声から忘れていく。
そうやって忘れて、過去に出来る筈なのに、そうやって生きていくしかない筈なのに、こんなものを遺されてしまったら忘れられやしないのだ。
深夜が20歳になっても、24歳になっても、それよりもっと歳をとっても、きっと鼓膜には16歳の未明がこびりついたままなのだ。
セーラー服を身につけて、紫の髪を靡かせて、薄く笑う少女が居るままなのだ。
『深夜。』
多分まだ、声が消えない。
────────
「未明姉さん。」
そう呼んでみる。
目立たない方の姉の名を。
シノアが思うに、軽い方の姉の名を。
どちらかといえば、人間らしかった姉の名を。
勿論誰も答えない。
シンとした静寂が支配するこの広い部屋に、シノアはたった1人だ。
ほんの少しの間、姉と二人暮らしなんかしていたからか、静寂をやけに重く感じる。
シノアは姉のことをよく知らない。
姉達のことをよく知らない。
美人で、強くて、一見優しいが、その実何を考えているか分からなくて、怖い。
シノアの前で感情を表に出す方である未明は真昼よりマシの様に思えるが、本当の所シノアにとっては未明の方がよく分からなかった。
どうしてそんなに、シノアを見ているのか。
どうしてそんなに、シノアに興味をもつのか。
自分が死んだら悲しんでくれますか、と冗談めかして訊いた時に、ただ黙ってシノアを抱きしめたのは何故だろう。
やはり理由が分からない。
自分に宿る鬼───四鎌童子によれば、姉達はシノアを守ろうとしていたらしいが。
上の姉はシノアの鬼まで体に取り込んで、その末に狂ってしまって。
下の姉は鬼呪装備の完成の為に搾取されて、その身は消えてしまって。
跡形もなく融けた氷の様に、どろりといなくなってしまった2人の姉。
彼女達のことを思うと、鬼の好む欲望が湧いてしまう。
だから心に壁を建てる。
感情も欲望も、全てを遠くにして。静かに蓋をして。
「真昼姉様。」
今度は目立つ方の姉の名を。
ピエロとして踊り狂った姉の名を。
下の姉───未明のことさえも守ろうとしていたらしい、姉の名を。
もっと呼んでみても良かったその名を、小さく吐き出した。
────────
「いやだよ。」
それが最期の言葉だった。
未明の。
愛した女の妹の。
懐かしい幼馴染の。
大切な仲間の。
未明は真昼に何かをしていたらしく、それに真昼が抵抗して、その懇願を囁く様に笑って拒否して。
それからゆっくり目を閉じた。
グレンがいくら体を揺すっても、彼女はもう目を開けない。
深夜と同じ様な微笑を浮かべて、彼女は命を失っていく。
周りには仲間達の体が転がっている。
世界滅亡を止める為、生き残る為、真昼を助ける為、ここまで来たというのに、全ては泡の様に消えてしまった。
あっさり皆死んで、グレンは独り、取り残されてしまった。
「ああああああああああ··········!」
体が震える。
涙が溢れて止まらない。
怒りが、憎悪が、悲しみが震え上がって止まらない。
目の前の現実から逃げて、正気を失ってしまいたい。
だがそれは駄目なのだという。
皆で弱いまま、人間のまま死ぬと決めたから。
仲間達との約束だから。
この現実から逃げたいのに、逃げ出したいのに。
人間をやめて、弱さなんか捨てて、狂ってしまいたいのに。
震えながら、命の火を消した2人の体を床に置いた。
落ちていた刀を拾って、立ち上がる。
けれどこの武器ではどうせ、真昼に勝てはしない。
軽く刀を投げ捨てて、投げた先で床にストンと突き立つそれを見て。
そうして、真昼に問いかける。
「皆死んだ。お前の望み通りだろ?
お前を救う方法があるなら教えてくれ。」
真昼は優しく微笑む。
「ううん。もう私は救われたよ。
最期に貴方が来てくれたから、私はもう、救われた。」
「意味が分からない。」
すると彼女は焦った様に携帯の画面を見て、ゆっくりグレンの方に歩いてくる。
「何を焦る?」
「分かってるでしょ?世界が破滅するの。」
「お前がさせるのか?」
しかしその問いには答えずに、真昼はグレンの斜め前に立つ。
「人間の中でも、吸血鬼の中でも、禁止されている呪術実験、知ってる?」
「終わりのセラフだろう。鬼呪を超える、世界を終わらせる大規模破壊呪術兵器。
お前の資料にそう書いてあった。」
そう言うと、真昼は肩をすくめる。
「発動の仕方は?」
「知らない。」
「ふうん、未明は貴方に話さなかったんだ。」
ちらりと床に転がる血まみれの妹を見やる真昼。
「未明は知っていたのか。」
「私は未明にちゃんとは教えてないよ。
でもきっと未明なら私が残した資料から、おおよその答えを導き出した筈。」
真昼の資料にあった情報。
まるで預言者の様な言葉。
世界中の13歳以上の人間が皆死に、欲深い大人が皆死に、大地は腐り、魔物が徘徊し、空から毒が降る。
終わりの
か弱い人間は生き残れない。
傲慢な人間を罰する為に、神が下す罰。
それが世界を壊すのだ。
そんな預言が、今日成就するのだという。
クリスマスに、世界に破滅が訪れるのだという。
「いったい、終わりのセラフとは何なんだ?」
「神の罰───天罰のコントロール。それが終わりのセラフの正体。」
真昼は躊躇わずに答える。
馬鹿みたいな答えを笑わずに。
「なんだそれは。神なんかいない。」
もしいるなら、何故こんな世界を創る?
こんな酷い世界を創る?
「あはは、それがさぁ、神って奴はいるんだよ。
残念なことにね。」
聞こえる筈の無い声が、鼓膜を揺らす。
反射的に振り向く。
仲間達が、深夜が、未明が倒れている方を。
けれど、そこにいる筈の人間が、1人いなかった。
1人足りなかった。
「あら未明、起きたのね。良かったわ。
今更貴方に死なれたら困るもの。」
なんてことない様に、真昼は足りない1人の名を呼んで。
グレンに近付いてくる足音の主に笑いかけている。
「真昼、僕を未明って呼ぶのはやめてくれないかな。」
僕。未明はそんな一人称を使っていただろうか。
いや、そんな覚えグレンにはない。
「あらごめんなさい。ならタマ。」
タマ、と呼ばれた“未明”の体は鼻で笑う。
そして未明とはうって違う、冷たさと禍々しさしか感じられない声音で真昼に返す。
「それは未明専用なんだ。」
「相変わらず注文が多い鬼ね。」
「はは、そうかな。
それにしても今の今まで僕を待たせるなんてね。
僕にしては珍しく、よく辛抱したと思うよ。
ま、それは君のせいじゃないってことくらい、僕だって分かってる。
全てはあいつのせいさ。
シカ·マドゥ───四鎌童子のね。」
吐き捨てる様に、シノアの中にいる鬼の名を呟く。
「やっぱり貴方は四鎌童子が嫌い?」
「大嫌いだよ。
未明は僕のものなのに、ちょっかい出そうとしてたから。」
拗ねた幼子の様に上擦る声。
「貴方は未明のことが好きなのね、昔から。
だから、未明だけは救ってくれるんでしょう?」
「勿論さ。未明だけは、連れて行く。」
グレンの横を颯爽と通り過ぎて行く“未明”の体。
揺れる紫の髪。
翻るセーラー服のスカート。
後ろ姿はただの未明だ。
グレンのよく知る未明にしか見えない。
「ああ···良かった。未明だけは、柊から逃げられる。
この鳥籠から逃げられる。
私達が知らない世界を見ることが出来る。」
心から安心した様に、愛しそうに、真昼は相好を崩す。
「今の台詞、未明に聞かせてあげたかったよ。」
そう言いながら、“未明”はさっきグレンが放り投げた刀を引き抜く。
そしてそれを二三回戯れの様に振ってから、夜の雨を思わせるじっとりさで笑った。
「駄目よ。そんなことしたらあの子、鳥籠の鳥のままになるでしょ。
あの子だけは自由に広げられる翼があるんだから、飛んでくれなくちゃ。
私達の分まで、飛んでくれなくちゃ駄目なのよ。」
向かい合う双子の姉妹。
どちらもグレンなんか眼中に無いらしい。
真昼はともかく、“未明”は一度もグレンの方を見ない。
「ふうん。ま、どうでも良いけどさ。
僕は未明を救いたい。だから未明を連れて行く。
それだけだ。
盟約は今果たされる。
そうだろ?」
“未明”がグレンの刀を真昼に差し出す。
“未明”の顔はグレンからは見えないが、真昼の顔はよく見えた。
やはり愛しそうに、とても愛しそうに真昼は笑って、刀───ノ夜を受け取る。
「ああ、お帰り、ノ夜。
たくさんたくさん、人と鬼を殺してきたわねぇ。」
グレンを無視したまま、真昼はそう言って。
グレンは言った。
「真昼。」
「なあに、グレン。」
真昼は小さく瞬きをして、小首を傾げながらグレンと目を合わせる。
と同時に“未明”も緩慢に振り返り、グレンの方を見る。
その“未明”の目は赤かった。
真昼と同じ様に赤かった。
そのせいか、双子の姉妹は本当に鏡合わせの様で。
もっと言ってしまえば、真昼も“未明”もどこか人間らしくない薄っぺらい微笑を浮かべていた。
それが余計に、鏡の国にでも迷い込んでしまったかの様な思いをグレンに抱かせる。
「お前は、何だ。」
乾ききった喉を鳴らしながら、グレンは“未明”に尋ねる。
「僕?僕はねぇ、未明だよ。
君が最後まで見てくれなかった、可哀想な未明だ。
君が愛した女の妹、ただのスペア、ただのおまけ。」
きゃははははっと愉しそうに手を叩く。
「なら何故、お前は目が赤い。」
「そりゃあ僕が未明の体を乗っ取ったからさ。」
クルクルとバレリーナの様にその場で回転し、にたりと口角を上げる“未明”。
「やっぱりお前は鬼か。」
「うん、そうだよ。
かつてはナニカ、かつては神、かつては吸血鬼、そして今はただの鬼。
それが僕であり、未明でもある。」
キラキラと妖しげに赤い目を光らせる。
「未明は、どこにいった。」
一言一言を刻む様に、グレンは尋ねる。
「君の言う未明はねぇ、今は寝てるよ。
まあだから僕が出てこれたんだしね。」
「生きてるんだな。」
「生きてるよ。」
「なら、」
早く未明を返せよと、仲間を返せよと、鬼に言おうとした。
が、その前に嘲笑が重ねられる。
「でも駄目だ。もう未明はこの世界で死んだんだ。
もう二度と、この世界で未明が目を開けることは無い。」
「何故だ。」
「何故何故何故、訊いてばっかりだね一瀬グレン。
僕は答えないよ。
真昼にでも訊いてみたらどう?」
「真昼。」
双子のもう片割れの方を見る。
「未明だけはね、救われるの。
鳥籠を飛び出して、飛んで行くの。」
答えになっていない様な夢見がちな返答。
この双子の姉妹にはよくあることだ。
最早そのはぐらかし方には慣れているグレンは、躊躇わずに踏み込んでいく。
「なら真昼、俺はお前を救えるか?」
すると彼女はそれに、美しい、それでいて泣きそうな顔で、
「ごめんね。今日は無理。貴方に私は救えない。」
と言った。
それから突然、グレンの刀をくるんっと翻し、それを自分の胸に刺してしまう。
刀が刺さったのは心臓の位置で。
さっき未明が真昼ごと自分を貫いたのと全く同じ様に、刀が真昼の華奢な体に突き刺さって。
「かぷっ」
という可愛らしい、空気の抜ける様な音が真昼の喉からして、膝からがくんと崩れ落ちようと────
「真昼っ!」
グレンは走り、倒れゆく彼女の体を支えた。
グレンの胸の中で、彼女はぐったりと力を失う。
「これは、どういうことだ。」
腕の中の真昼と、黙ったままグレン達を見下ろしている“未明”に尋ねる。
真昼はそれに、嬉しそうに笑う。
「···········ああ、グレンの体、温かいな。」
グレンはその胸に刺さった刀を引き抜こうとするが、
「駄目だ。」
白い冷たい手がグレンの手に重なる。
「何故止める、鬼。」
邪魔をするなと吠える。
今にも死にそうな真昼が目の前にいる。
さっきの未明と同じ様になっている真昼が。
「抜いたら真昼はすぐに死ぬよ。」
「なっ···。」
「君の鬼呪は真昼の心臓と一体化した。」
その“未明”の言葉で、真昼の胸でグレンの鬼呪───ノ夜が脈打っていることに気付く。
呪詛が、彼女の体を汚染していくのが見てとれる。
はあ、はぁ、はあと、真昼は苦しそうに吐息を漏らす。
あれほど絶対的な強さを誇る真昼が、みるみる弱っていく。
その細い体を抱きしめる。
抱きしめるグレンの手は、血に汚れている。
深夜と未明の血だ。
五士も、美十も、小百合も、時雨も、深夜も、皆皆死んで、さらに真昼も、グレンの腕の中で死のうとしていて。
「これはいったい、なんだ。お前はいったい、何がしたい。
鬼、お前は何を知っている。」
「僕は大体知ってるよ。真昼がしたいことだって、何だって。」
グレンの真横に立つ“未明”は静かに答えた。
「真昼、なあ、真昼。」
腕の中の真昼に縋る。抱きしめて、縋る。
どうして良いか分からなくて、正しい答えを求める様に縋る。
「あは、グレン、私を呼んでくれるの?」
「お前の望みは、何だ。」
「···普通の女の子になること、かな。」
昔の様に、小さな白いワンピースを着ていた何年も前の様に、真昼は笑う。
「好きな人と恋をして、抱かれて、子供とか産んで···ああ、でも、欲張り過ぎか。
グレンが今、抱いてくれてるのに。」
呪詛が広がる。黒く黒く、黒く。
そうやって弱っていく真昼を見つめて、聞く。
「死ぬのか?今日、お前は、死ぬつもりだったのか?」
その答えは酷いものだった。
「だって、生まれた時から、そう決められてたから。」
そういう計画なのだ。
結局これはそういう計画なのだ。
真昼はずっとそれを知っていた。
自分の運命を知っていた。
グレンの仲間達を殺したのも全部計画通りで、真昼は絶望の檻に住んでいて。
「神の罰をコントロールする実験───終わりのセラフの為に私は生まれた。
鬼呪はその為の実験。
私はその為だけに、その計画の為だけに、生まれた。」
「ならこれも全部、計画通りか。」
「······。」
真昼は答えない。
「俺はどうすれば良い。俺はいったい、なんなんだ。
お前も仲間も、何も救えないで······」
「でも、全部が計画通りな訳じゃないの。
今日貴方が来てくれたから、世界を、救える。」
呪詛は、真昼の白い喉を越え、頬まで到達した。
「貴方が今日ここにいるのは、計画の外。
未明がここにいるのも、計画の外。」
「ま、僕達の場合は、生きてここにいるか、死んでここにいるかの違いだけだったろうけど。」
今まで黙っていた“未明”が口を開く。
「鬼、答えろ。
未明も、計画の中にいたのか。ずっと。」
真昼を抱きしめたまま、彼女を見つめたまま問いをぶつける。
「···勿論、と言いたい所だけど違う。
未明はそもそも生まれる筈がなかった。
けど生まれた。
そもそも未明は最初から計画外なんだ。
だから未明は計画を知らない。
計画の外にいたから、外の檻に囚われていたから、何も知らない。」
「本当はね、未明は私の一部になる筈だったの。
でも未明は、私の双子の妹として生まれてきた。」
真昼が苦しそうに喘ぎながら、“未明”の言葉を継ぐ。
「だから未明だけは救われる。
計画の外だから、鳥籠から飛び立てる翼を持っているから、未明だけは僕が救うんだ。」
「ならお前のことは、誰が救ってくれるんだ、真昼。」
双子の妹のは救われて、双子の姉は救われないなんてそんな話がどこにある。
「···。」
真昼は答えない。
苦しそうに嬉しそうに笑うだけ。
「俺はどうしたら、お前を救えるんだ。」
「私はもう、救われたよ。貴方が来てくれたから。
······ねえグレン、終わりのセラフは人間を蘇生しようとすると、始まるの。」
「なっ······」
突拍子もないことで言葉にならない。
「でも神様がそれを許さない。蘇生をしたら、滅びが始まる。天罰が下る。
今の人間の技術ではまだ、その天罰を少ししかコントロール出来ない。
世界は滅ぶ。生き残るのは鬼と子供だけ。
生き返った人間も、10年しか生きられない不完全体になる。
でも今日、実験は行われる。」
「なんの為に。」
「神に近づく為に。」
狂っているとしか思えない。
グレンには到底理解出来ない。
「グレン、貴方が言いたいことは分かるわ。
そうね、狂ってる。でもそういう場所に私達は生まれた。」
と言ってから、真昼は儀式場の中央にある棺へと目を向ける。
「棺の中に死体が入ってる。その中心に刀を差し込む場所がある。
この実験───終わりのセラフに必要なのは沢山の鬼の命と、沢山の人の命と、そして吸血鬼の貴族の命。
この3つが揃わないと人間の蘇生は始まらない。」
「でも既に、十分血を吸った武器はある。」
そう言いながら、真昼の胸に刺さっている刀を更に差し込む様にその柄を握る“未明”。
確かにグレンの刀は鬼呪を持った人間を沢山殺していた。
「そして吸血鬼の貴族も、ここにいる。」
刀の柄を握る力を強くする“未明”。
その口元に浮かぶのは微笑。
しかし真昼と同じ赤い目は深海の様に虚ろである。
「真昼、お前がその吸血鬼の貴族役か?」
「未明がね、なろうとしてたの。
私の代わりに生け贄になって死のうとしてたの。」
未明が死に際に何かしていたのはそれかと、グレンはすぐに理解した。
「何も知らないのに、私を救おうとして。
······本当に馬鹿な妹。」
呪詛が真昼の頬を、目を、頭を、呪い侵していく。
その呪いに這い巡られても未だ美しい、真昼の顔を見つめてグレンは言う。
「お前は今日、生け贄になって死ぬと決まっていたのか。」
「ううん、違う。
きっと、王子様に抱かれて死ぬって決まってた。
それが私の運命。
神様に体は取られても、魂は取られないの。
次に生まれ変わった時は普通の女の子になれるようにって。
······普通の姉妹になれるようにって。」
“未明”は黙っている。
黙って、刀から手を離した。
「王子様がね、私を強く抱きしめて······口づけを。
醜い、汚れた鬼の私に、口づけを────」
真昼は泣いていた。
赤く美しかった瞳もとうとう呪いで真っ黒に染まってしまった。
がくがくと、彼女の体が痙攣するように震え始める。
それを抑えようと、グレンはその体を抱く。
「真昼。」
「·········。」
彼女はもう、答えない。
彼女がどうなるのかも、分からない。
ず、ずずずずと、刀が音を立て始める。
真昼の胸を、体を、刀の中に引きずり込もうとしている。
「やめろ、やめてくれ。」
真昼の体を抱きしめる。
連れて行かないでくれと、強く掻き抱く。
しかし、
「無理だよ、一瀬グレン。真昼の中には呪いがかけられてる。
君の刀に宿る鬼を取り込んで鬼になる呪いがね。」
“未明”は淡々とグレンにそう告げた。
「···何故。」
真昼の望みは普通の女の子になることなのに、普通に生きることなのに、まだ彼女は運命に犯される。
「どうすれば────」
そこで真昼の言葉をグレンは思い出す。
お姫様の魂を王子様が救うのだ。
抱きしめ、口づけして────
それで、本当に彼女が救われるなら、
「いくな、真昼。」
とグレンは、彼女の細い体を抱きしめた。
灰色がかった紫の髪に手を回し、もう呪いで黒くなってしまった唇に自らの唇を合わせて────
「······。」
そして、それで終わりだ。
ずっと意地悪されていた可哀想なシンデレラは王子様に見初められて、救われ、皆で幸せに暮らしましたとさ。
「······。」
お伽噺ならそう終わる。
真昼と未明が好きなお伽噺ならそう終わる。
きっとどんな物語だって、最後はハッピーエンドの筈だ。
だが、これはお伽噺ではなかった。
お姫様は不幸で。生まれた時から死ぬ迄ずっと不幸なままで。
普通の女の子に憧れたまま、お姫様───真昼は消えた。
王子様───グレンの腕の中から、その姿を消して、刀だけが残る。
カランッと軽い音を立てて床に落ちる黒い刀だけが。
「真昼。」
返事はない。
誰からの返事もない。
“未明”はグレンの隣で黙って立っているだけ。
残されたのは仲間達の死体と、救われないお姫様が入った黒い刀と、力のないノロマな亀と、死体の様な鬼だけ。
その重い静寂を切り裂く様に、アラームが鳴る。
真昼が床に落とした携帯のアラーム。
時刻は20時30分。
小さな液晶には予定:滅亡の時間という文字。
「さあ一瀬グレン。君はどうするんだ。」
“未明”が平坦な口調で、グレンの正面に回る。
そして床に転がるグレンの刀を手に取り、その柄を彼の方に突き出してくる。
「俺は、どうしてまだ、生きている?」
「君にはやるべきことがあるからさ。」
「仲間も死んだ。真昼も死んだ。それで何をすれば良い?
俺に出来ることなんかあるのか?」
「あるさ。」
“未明”はいやらしく笑う。
その血化粧を施された赤い唇をニタリと上げて、グレンに刀を握らせる。
「未明を救ってくれよ。」
刀を力無く掴むグレンの拳に、その掌を重ねる“未明”。
「どうやって?」
「世界を滅ぼして。」
「何故?」
「この世界の滅びは、この世界の綻びと同義だ。
その小さな綻びが通り道になる。
未明を連れて行く為の通り道に。」
「どこに行くんだ。未明まで、どこに。」
まだ生きているのは未明しかいない。
それなのに何故。
未明まで、グレンから離れてしまう。
「この世界の向こう側へ。
僕が元いた世界へ。」
「違う、世界?」
「そうさ。君達人間が使う式神だって使い魔だって、この世界とは違う場所から来ていることの方が多い。
俗に言う異世界からね。
僕はその異世界からこの世界に鬼として召喚された。
そして未明達の母親の体に混ぜられて、偶然か必然か分からないけど未明と巡り逢った。
僕は未明と混ざり合い、僕は未明に、未明は僕になった。」
「······。」
グレンは何と言えば良いのか分からなかった。
世界滅亡に異世界。
まるで夢物語のようだ。
「僕はずっと、未明を救いたかった。
この世界に未明の救いはない。
だから僕の
これは決定事項だと、柔らかさの欠片も無い声で“未明”は言う。
「未明だけなのか。」
刀になってしまった、救われなかったお姫様───真昼のことを思い、グレンは掠れた声を絞り出す。
「未明だけだ。
僕と混ざった未明だけがこの世界の綻びを抜けて、世界を越えられる。」
「どうして···。」
「どうして、か。
君がそれを言うのか、一瀬グレン。
未明は真昼を愛してた。未明は君を愛してた。
でも結ばれたのは君達だった。
幸せだと言ったよ、未明は。
好きな人達同士が結ばれて、幸せになってくれるならそれで十分だと。
だからその為に、その為だけに未明は生きた。
真昼と君が笑って生きられる未来を、可愛い妹のシノアが、大切な仲間が、笑って生きられる未来を。」
「······。」
そこで“未明”は顔を歪めた。
心底嫌そうに、苦しそうに、言葉を吐き出した。
「でもそんなの、ありえないだろ。
未明だって1人の人間だ。
未明だって自分の為に生きて良い筈だ。
でも未明はその欲望を我慢し続けた。
自分の幸せなんか悪だって思い込んでね。」
「······。」
「そうでもしなきゃ、未明は狂ってしまいそうだったから。
そしてこの世界にいる限り、君達がいる限り、未明は我慢をし続ける。
君達の幸せを願い続ける。
自分の感情も欲望も何もかもを殺して。
ほんと、気持ち悪いくらいの自己犠牲だよ。」
馬鹿みたいだろ、と舌打ちする。
「未明が他者愛に依存するなら、
ただのエゴイストになってやる。」
グレンの手を強く握りしめる“未明”。
その顔は下を向いている。
その肩は震えている。
その姿にグレンは妙な既視感を覚え、すぐに何ヶ月か前の未明の姿を思い出した。
真昼を救ってと、そうグレンに縋った未明の姿。
真昼は救えなかった。
仲間も皆死んだ。
あの時確かに、グレンは未明に約束した筈だった。
真昼を救う、仲間も守る、そして未明も救ってみせると。
それがこのザマだ。
もう皆いない。
生きているのは未明だけ。救えるのは未明だけ。
「未明はそれで、救われるんだな。」
グレンの手に貼りつく“未明”の指を解き、グレンはふらりと立ち上がる。
「勿論だ。」
「未明だけは、俺が、救えるんだな。」
「ああ、君は未明を救える。だから世界を滅ぼせよ。
人間の蘇生に手を出せよ。
ほら、丁度良く君の仲間達が死んでるんだ。」
「あいつらも、救えるのか。」
床に打ち捨てられたままの仲間達。
彼等を見てから、次に真昼が言っていた棺に視線を移す。
「君は仲間を救い、未明を救う為に、この世界を滅ぼす。」
「······。」
そうだ、こんな世界なら、こんな狂った醜い世界ならいっそ滅びてしまった方が良い。
それで未明が救われて、仲間達がまた目を開けるなら、十分じゃないか。
この世界で皆が泣いていた。
苦しい悲しいと泣き叫んでいた。
最早執着する必要なんてない。
グレンは棺の中を覗く。
見知らぬ男の死体がある。
それを棺から引きずり出す。
それから仲間達の所へ行く。
五士の千切れた頭と体を、小百合の千切れた頭と体を、時雨の千切れた頭と体を、美十の千切れた頭と体を、全て一人一人拾い上げて、棺の中へと入れる。
そして深夜を拾う。
彼も死んでいる。
その彼を生き返らせれば、世界中の人間が死ぬらしい。
全く関係のない、罪のない人達が、神の罰を受けて死ぬ。
エゴだ。
ただのエゴだ。
世界を売る様な、裏切り行為。
未明に宿る鬼がエゴイストなら、グレンだって相当酷いエゴイストだ。
だが。
グレンは棺まで深夜を大切に、大切に抱えて移動して中に入れた。
そして棺の中央に位置する、刀が差し込めそうな場所を見下ろす。
グレンは黙って、さっき“未明”が手渡してきた刀をその場所の上に翳す。
“未明”はグレンから少し離れて立っていた。
そしていつの間にか、その隣に銀髪の長い髪を持った吸血鬼が増えていた。
数ヶ月前、上野動物園で真昼と共に戦った男だ。
名前は確かフェリド·バートリー。
何を考えているか分からない、吸血鬼の貴族。
「盛り上がってるねぇ。
僕はこれ、普通に考えたらやめといた方が良いと思うけど。」
パチパチと軽快な拍手をしながら、フェリドはグレンの方を見てくる。
「邪魔しに来た訳、吸血鬼。」
“未明”がフェリドを睨む様に見上げ、その目を赤く光らせる。
「同胞に向かって酷い言い草だなぁ。
それにしても、やっぱり君はこちら側だったじゃないか。
真昼ちゃんは君を隠したがってたみたいだけどね。」
「お前と僕を同じにするなよ。」
「それは失礼。異世界の“第一位始祖”様。」
「···ちっ。」
“未明”はフェリドの言葉に小さな舌打ちを返し、それからグレンを射貫く様に見つめる。
「一瀬グレン。」
“未明”が、未明と同じ顔で、儚げに笑った。
「俺は、」
「救えよ。お前のやりたい様にやれよ。」
一見グレンに選択を委ねている様でいて、グレンがどちらを選ぶか確信しているらしい強い口調。
けれど顔は未明なのだ。
未明らしくない口調のくせに、表情だけは未明だ。
今にも泣きそうなのをこらえるかの様に、唇を歪めていた。
「······。」
音がした。
カチリカチリと音がした。
絶望の音。
滅亡の足音。
世界が終わるまで、あと3秒。
終わりの世界へ。
血脈の世界へ。
カチリ、カチリ、カチリ。
カチン───と軽い音を鳴らして、グレンは刀を穴に差し込んだ。
「分かったよ。俺は罪を背負う。」
するとその瞬間。
一斉に世界崩壊が始まった。
カツン───と軽い音を鳴らして、何かが床に転がった。
さっきまで未明がいた場所に、ぽつんと残されたボイスレコーダー。
未明が声を吹き込んでいたボイスレコーダー。
それだけが寂しそうに残っていた。
未明の姿は、欠片も煙も何も遺さずに消え去っていた。
さよならも遺さずに、未明はこの世界からいなくなっていた。
──────────
「あーあ、終わっちゃうと馬鹿みたいだ。」
鬼宿は自分の宿主である少女を抱きしめながら、少女と出会った世界に召喚された時と同じ様な浮遊感を味わっていた。
世界を越えるのは案外簡単だ。
鬼は勿論、その他色々なものが召喚という形でそれなりに世界を跨いでいる。
まあ再び元いた世界で召喚されなければ、そこにはいつまでも帰れないのだが。
しかしそもそもの話、召喚される存在にはなれない人間にとっては、世界を越えることは不可能だ。
だが鬼宿はやり遂げた。
人間であった筈の少女───未明を連れて、今世界を越えている。
「今まで長かったなぁ。」
かたく目を閉じたままの未明の冷たい頬を撫でる。
鬼という奴は元来気長ではない。
欲望のままに動くのが本能なのだから、我慢という言葉がその頭に入っている筈もない。
だが鬼宿は待った。
待ち続けた。
人間以外ならば何でも世界を越える事が許される、世界の崩壊まで。
世界に綻びができるまで。
昔真昼がシノアの中の鬼を引き受けた様に、未明の鬼も取り込もうとした時、鬼宿は真昼に接触した。
そして鬼宿は、世界滅亡へのカウントダウンをこっそり数える側になった。
カウントの数字を早められる様に協力したこともあった。
全ては世界を越える為。
しかしそれだけではまだ足りない。
人間は世界を越えられない。
世界を滅ぼすことは出来ても、世界を越えることは出来ない。
だから仕方なく、鬼宿は未明に人間をやめさせることを決めた。
未明が寝ている間にその体を乗っ取って真昼と相談した後、まずは鬼呪装備の研究という形で未明に近付くのが1番という答えを、鬼宿は弾き出した。
それから未明の感情が溢れる様に仕向け、鬼宿の力が必要になる状況に追い込み、そうして未明と鬼宿は深く混ざり合った。
未明は鬼宿に、鬼宿は未明に。
その後はあっという間だ。
世界滅亡まで超特急。
真昼の計画通り、鬼宿の計画通り、誰かの計画通り、世界は滅び、未明は世界の狭間に落ちた。
そもそも、未明を人外に変えてまで、彼女を連れて世界を越えようとしたのには鬼宿なりの理由がある。
未明の気持ち悪い自己犠牲の精神、それが1番の理由だ。
未明は真昼の為ならば何でもやってしまう。
危険だろうが何だろうが、死に近付こうが、未明は真昼の為だという大義名分を得てしまえば動き続けてしまう。
未明には真昼しかいなかった。
だからひたむきに真昼を愛し続け、被虐趣味としか言い様がない献身に走った。
その対象にグレンやシノアが増えてしまっても、未明のスタンスは変わらない。
自分の欲望は遠くにやって、ただひたすらその身を犠牲にする。
それが昔の鬼宿は理解出来なかった。
何故他人ばかりを愛するのか。
何故自分を愛さないのか。
鬼宿が今まで見てきた人間は、自分だけを愛し、そして他人を蹴落とし利用する醜い生き物だった。
他の動物と違って理性という得難い進化をした筈なのに、その片鱗もない愚か者。
統制の取れた群れを組む動物の方が、余程理性的と言えるだろうに。
鬼宿はそんな呆れと諦観と愉悦を胸に、人間を観察していた。
それなのに、何故未明はそうしない?
不思議に思った。
だから知りたくなった。
しかし未明は教えてくれない。
だから食べた。
未明がゴミ箱に放り投げた、感情という奴を食べてみた。
未明が要らないものだと切り捨てたものを、もぐもぐむしゃむしゃ食べてみた。
食べてみれば、未明の感情が少しは分かると思ったからだ。
ぱくりと齧る。
苦い。舌いっぱいに広がるのは錆びた金属の様な苦さだけ。
鬼の主食である人間の欲望の様には甘くない。
変な味だなぁと思いながら歯を動かして、それからごくりと飲み込んだ。
また1つ、未明が捨てた感情を口に放り込む。
今度はよく噛んでみる。
舌の上で転がして、口全体で味わう様に。
するとどうだろう。
錆びついた苦さの中に、舌が痺れる様な甘さを見つけられた。
気持ち悪い、甘さ。
全身を襲う、甘さ。
ひとりでに鬼宿の口角が上がる。
今間違いなく愉悦に浸っていた。
人間の欲望を口にした時以上に、悦んでいた。
おいしい、おいしい。
もっと、食べたい。
食べたい、食べたい、タベタイ。
だから食べた。
沢山、食べた。
感情を食べた。
未明が捨てた感情を、鬼は初めから持たない感情を、食べた。
食べ過ぎて、気付いたら感情が鬼宿の一部になってしまうまで、食べた。
そうして鬼宿は感情を知った。
愛を知った。
持つ筈のなかった、感情を手に入れた。
と同時に、未明の奥底に眠る心も知った。
鬼宿でさえ呆れた無茶苦茶な精神構造を。
まあそうしてしまったのは、柊家という異常空間と鬼宿のせいなのだろうが。
だが未明はきっと、最初から半分以上壊れていた。
真昼の様に仕方なく壊れたのではなく、未明は初めから壊れきっていた。
だから鬼宿という狂気をその身に宿しても、壊れようがなかったのだ。
未明という少女の人生は、他者愛に依存し、不器用ながらも聖女たらんとし、哀れな無能でありながらその身を削って愛を捧げるばかりだった。
愚かで弱くて、可哀想な不幸な女の子。
それが未明だ。
それが皆の思う未明だ。
崩壊した世界に残してきた仲間達の思う未明だ。
それも確かに未明である。
間違いなく未明である。
しかしそれは一面に過ぎない。
醜悪な中身を隠す為の、巧妙な仮面。
本人も無視してしまいたくなる───実際“まだ”気付いていない───ほど狂気にまみれた内面を隠す為の、大切な仮面。
初めから壊れていた本性は鬼宿の戯れによって更に荒らされ、今や真昼以上の天災級になっている。
だが未明は自分のその本質に気付かない。
その歪な心も含めた数多の感情も、それと鬼宿も、全て一緒くたにして鎖で縛って封印しているからだ。
鬼宿以外は誰も知らない。
いや真昼は薄々気付いていたのかもしれないが、彼女はあくまで姉だった。
妹の中身がどれほど倒錯的な魔女の様であったとしても、姉は妹を妹として認識した。
気付かないふりをしたのだろう。
「ねえ未明、僕は君の対極だ。
だから君が狂気を隠したいと願うなら、僕はその狂気を暴きたいと思う。
君が他人を愛することに依存して、それに逃げてばかりなら、僕は
隠された狂気も全て愛そうと思う。
だからさ、未明、もう隠さなくて良いんだよ。
本当に望んでいることを、もう口にして良いんだよ。
救ってあげる。
“掬って”あげるよ、全部。」
世界の狭間を落ちながら、鬼宿は自分の膝の上に頭を乗せて目を閉じたまま───俗に言う膝枕───の未明の両頬を、小さな掌で包み込む。
「君の奥に隠されている本性は、鬼だって吃驚の醜悪さだ。
ある意味1番人間らしいけど、1番人間から乖離してるよ。
矛盾しかないのに、道理は通ってる。
気持ち悪い、狂気的な、本性だ。」
未明のことを静かに見下ろして、その白い額を見つめる鬼宿。
「君の献身と愛に、違う意味が隠されてたなんて誰が気付くんだろうね。
真昼やグレン、シノアや仲間······彼等への思いは嘘じゃない。
真実だ。
でもその裏に眠っているものが、余りに常軌を逸してる。」
微睡む幼子に言い聞かせる様に言葉を繋ぐ。
「考えてもみてよ。
未明、どうして君はそんなにも自己犠牲に拘ったんだろうね。
どうして君はあんなに派手に死のうとしたんだろうね。
刀で十字架刑だなんて、皆忘れられないよ。
グレンは忘れられないよ、絶対に。
心の奥底に傷となって残り続ける。
だから皆君を語り継ぐ。
『むかーしむかし不幸な女の子がいました。
でも女の子は、不幸なりに頑張って、その身を削って、皆を助けようとしました。
でもやっぱり女の子は1人だけ死んでしまいました。』って。
それで皆思うんだ。
なんて可哀想なんだろう、って。」
「良かったねえ、未明。
それこそが、君が本当に望んでいたことだろ?
君は本当に、生まれながらにして人を傷つける天才だ。
いや天災かなぁ。
何をすれば1番人が傷つくのか、本能で分かってしまっている。
だから人を傷つける為ならば、君は自分の身だって簡単に犠牲にしちゃうのさ。
真昼が人の痛みが分からない天才なら、君はそれを分かり過ぎている天災だね。」
鬼宿は嗤う。
愉しそうに、嬉しそうに、未明の中にいる狂気に嗤いかける。
早く出ておいでよ、と誘う様に。
「君は好きな様に愛して良いんだ。
君の中に眠る狂気のまま、衝動のまま、愛して良い。
そしてそんな君を愛してくれる人間が必ずいる。
君の狂気ごと受け入れてくれる人間が。
真昼にグレンがいたように。
シノアの前にも誰かが現れるように。
運命っていうのは存在するのさ。
人間を好き勝手に犯す癖に、調子の良い時は幸運の青い鳥になる気分屋だけど。」
だから、さぁ、我慢なんかやめて理性なんか捨てて本性に気付いて、それを叫ぼうよ。
鬼の手を取って、狂気とワルツを踊ろうよ。
鎖は斬り刻んで、檻は捻じ壊して、自由に羽ばたいてみようよ。
それを真昼も望んでたよ。
「欲しいものは欲しがって、要らないものは殺しちゃって。
全ては君の思うがままだ。
まずは僕の手を取って、もっと人間をやめようよ。
それが君を救う唯一の方法だから。」
その為にはああ···何から始めよう。
出来ることならば未明が苦しんで悲しんで、鬼に苛まれて、自分の中の狂気に蝕まれて、そうして限界に達して“壊れ直す”のが1番だろう。
それが1番愉しい筈だ。
鬼宿も、未明も。
「ああ、
見なよ、未明、あれが君の
鬼宿は赤い目を瞬かせて、金の髪を溢れさせて、やはり幸せそうに嗤った。
──────その日その世界は滅び、
──────その日その世界には凶星が落ちた。
人が他人の為に尽くすことはあると思います。
自己犠牲も献身も。
それもまた愛だと私は認識しています。
しかしながら、当作品の主人公である未明の言動はあまりに常軌を逸していると思うのです。
他者愛の為に自己愛を殺し過ぎなのです。
それを当たり前の事と思って、自然に為す人もいるでしょう。
けれどそういう人達は皆それぞれ、ある種の強さを持っている。
彼等と比べれば、あまりに未明は弱過ぎる。
不安定過ぎる上に幼い。
筋が通っている様でいて、揺れに揺れている。
だから未明は本当の所、自己犠牲を素でやってしまう“聖女様”ではないのです。
皆がその姿を可哀想だと思わずにはいられない悲劇のヒロイン。
皆の心に深い傷として残る、不幸で愚かな悲劇のヒロイン。
そんな女の子、本当にいるのでしょうか。
あまりに作為的、あまりにご都合主義、あまりにドラマチック。
全部全部、無意識下で計算されたことだったとしたら·······ゾッとしますねぇ。