未だに見えぬ朝を乞う 作:明科
···ストックが切れたらその予定もパァなんですが。
「ふと思いついたんだけど────」
ミメイのそんな軽い言葉から、その作戦は決行された。
今となっては後悔している。
深く深く後悔している。
後ろ手に縛られた状態でミメイと身を寄せ合い、怯えて泣きそうになっている演技をしながらクラピカは─────絶賛女装中のクラピカは心中で呟いた。
遡ること3日前─────
(残念なことに)特に何も無かった同衾を済ませてしまった2人だったが、それ以降も目立った変化はない。
ほんの少し、距離が縮まったような縮まないような。
その程度だった。
丁度マフィアからの依頼が途切れ、暫くの間は自由が許されて、闇オークション荒らしも無しになったその日。
少し高めのジャポン風旅館に止まった2人は、畳の上で思い思いに過ごしていた。
ミメイは久しぶりに式神を引っ張り出して、紙相撲ならぬ(式)神相撲をやらせていた。
クラピカはクラピカで本を読みながら、時折ミメイの横暴さに耐えられなくなって逃げてきた式神の保護に勤しんでいた。
そうして、そろそろ夕食時かという時突然ミメイが口を開いた。
「ふと思いついたんだけど、緋の眼を売ってみるっていうのはどうかしら。」
「そうか緋の眼か、それは考えつかなか······今なんと言った?」
あまりにさらっと言われた為に、クラピカは初めは意味が理解出来なかった。
1度そのまま口に出してみて、それから違和感に気付く。
緋の眼を売る?
ヒノメ、ひのめ、緋の眼···間違いなくクルタ族特有の赤い目のことであり、幻影旅団に同胞が惨殺された理由だ。
「クラピカ、貴方が誤解する前に言っておくけど、私は本物を売る気はないわ。
そもそも持っていないし、流石に私だって貴方の前でそんなことをする気はないわ。
その位の分別はあるもの。」
だからこの手を離して頂戴、と落ち着き払った声が真下から聞こえる。
そう、真下から。
考える間もなく体が勝手に動いていたせいで気付かなかったが、ミメイの冷たい掌が頬に触れたことでクラピカは我に返る。
自分がミメイの肩を掴んで畳の上に押し倒し、その首に手を伸ばそうとしていたこと。
自分がミメイの上に覆いかぶさっているということ。
それに気が付いて、慌てて手を離す。
手を離した時に、すこしだけミメイの唇が歪んだ。
「す、まない。痛かったか。」
その僅かな表情の変化を見て、ミメイの痛みに気付いたクラピカは彼女が体を起こすのを手伝いながら謝罪した。
「大丈夫。大丈夫だから、そんな顔しないで。
今のは私が悪かったの。
貴方が緋の眼と同胞と幻影旅団のことになると、本能のままに動くのを忘れてたわ。」
「すまない。」
座り直したミメイの前に顔を俯かせて正座する。
「また目が赤くなっちゃってたし。
もう少し感情を制御しなくちゃ駄目よ。」
見せて、とクラピカの顎の下に人差し指を入れて、顔を上向きにさせるミメイ。
そんな彼女と目が合ったクラピカは、彼女の瞳の中に映る赤い目の自分を見つけた。
「落ち着いたかしら。」
向かい合って座り、クラピカの両手を握っていたミメイは穏やかに尋ねる。
「ああ。」
「情けない顔しないの。
大丈夫よ。痛くない。」
「······そうではなくて、いや痛くなかったのなら良かった···いや痛かった筈だ。
ああ違う、そうではない。
そうではないんだ。
······なんと言ったら良いんだ。」
もどかしい。
言いたいことが上手く言えない。
いやそもそも自分は何が言いたいのだろうか。
そんなクラピカの逡巡を読み取り、彼の心配事に思い当たったミメイは微笑を浮かべた。
「クラピカ、大丈夫。
私はこの程度のことで、貴方を嫌いになったり憎んだりしないから。」
「···そ、うか。」
クラピカの安堵した様子に、ミメイも穏やかに笑う。
1人残された幼子のような、帰り道を無くした迷い子のような、泣きそうな顔は崩れていく。
拒絶されることを恐れていた強ばった表情は解けていく。
「殺そうとしてきたならまだしもね。」
「だが私は、お前の首に手を、」
「その程度で私を殺せると思う方が大間違いよ。
貴方なんかにそう易々と殺される私じゃないもの。」
ふふん、と茶化すようにミメイは自慢げに胸を張る。
それからぺちーんと子気味良い音で、クラピカの額を弾く。
「これでお相子、よっ。」
いつも通りのデコピンだった。
「で、話を戻すけど、緋の眼を闇オークションに出品しようと思うの。
勿論本物じゃないわ、偽物よ。
ただし、本物か偽物かが見分けがつかない偽物。」
「そんなものがあるのか?
いや、そもそも何のためにそんなことをする?」
「偽物の心当たりについてはひとまず置いておく。
先に目的と理由を話すわ。
目的は緋の眼を求めるコレクター、並びに幻影旅団を釣り上げること。
本人達までいかなくとも、彼等に近しい人物を炙り出すことよ。
理由としては、そうね、このままだと何も変わらないから。
あっちが動かないなら、こっちが動いてあっちを無理矢理動かすしかないの。」
「それは分かるが···釣れるのか?」
実際手詰まりだった。
探せども探せども、幻影旅団や緋の眼に繋がる情報は見当たらない。
「釣れるわよ、餌が餌だもの。」
「餌というのは偽物のことだな。」
「ええ。」
「一体どうやって偽物を用意する気だ。
式神でどうにかするのか?」
クラピカは畳の上でダラダラしている式神を見やり、それからミメイに視線を戻す。
「そんな面倒なことしない。
簡単よ、私が餌になれば良いの。」
「······は?」
きっかり10秒、クラピカはぽかんと口を開けていた。
「私はクルタ族じゃないけど、目が赤くなる特異体質だもの。
売ってつけでしょう。」
「そんなこと、」
お前にさせる訳には、と続けようとした言葉はミメイの冷たい目に呑み込まれた。
「じゃあ貴方が売られる?
同胞の無念を晴らすことなく、幻影旅団に復讐することなく、あっさり目を抉られて、この世からばいばいする?」
「······っ、私は、」
「今の貴方じゃ、餌として売られた所で簡単に喰い尽くされるのがオチよ。
弱いもの。
弱くて可愛い貴方じゃ、どうしようもないの。」
分かるでしょう、とその形の良い赤い唇が動く。
「······少し虐め過ぎた。ごめんね。
でも事実なの。今の貴方じゃ駄目よ。」
黙ったまま唇を噛みしめるクラピカを見ていたミメイは、心に沸き立つ薄暗い喜びを隠しながら最もらしいことを口にした。
ミメイの言葉に酷く傷ついて、自分の弱さに苦しんで、逃げだすことを許さない事実に悔しがって。
そんな彼が可愛くて愛おしいだなんて、そんな────そんな酷いこと、誰が思うだろうか。
「緋の眼自体は売りに出されることもあるでしょう。
でもその目の持ち主は?
いる訳がないわ。
幻影旅団が皆殺してしまったんだもの。
誰だってそんなことは知っている。
勿論当事者の幻影旅団は嫌という程ね。」
そこで一度口を動かすのをやめて、目を伏せて唇を強く噛みしめるクラピカに視線を移す。
そしていつかの夜のように、ミメイしか知らない夜のように、彼女はクラピカの唇に自分の親指を押し付けた。
「血が、出てるわよ。」
じわり、とミメイの親指の腹に赤色が移る。
その鮮やかさにクラクラしそうになるのを必死に隠し、いつかの夜をなぞるように、その親指をクラピカの唇に滑らせた。
薄らと血化粧が施され、顔色の悪くなっているクラピカの儚さと美しさが際立つ。
そんな彼を見つめていると、良からぬ気持ちが首をもたげてくる。
全く困ったものだ、と他人事のようにミメイは嘆息した。
「もし私という生きた緋の眼の持ち主が売りに出されたとしたらどうなると思う?
運良く生き残っていたんだ、ふーん良かったね、だなんてことにはならないわ。
幻影旅団は十中八九、その緋の眼に手を伸ばす。
あのクルタ族の惨殺を生き延びていたのであれば、幻影旅団の目撃者かもしれないと考えるに決まっている。
まあ、目撃者の疑いがある人間を生かしておく気はないでしょうね。
それに······いいわ、これはやめておく。
言っても仕方ないことだから。」
死体蹴りは趣味じゃないの、とミメイにしては珍しく自重する。
「いや、言ってくれ。
どんな些細なことでも構わない。
気付いたことがあるなら、言ってくれ。」
傷つきながらも前に進もうと足掻くクラピカ。
目の奥に激しい炎を飼っている彼を見て、ミメイは小さく頷いた。
「···そう。
噂や数少ない情報から私なりに考えられる幻影旅団の像は、冷酷非道で残虐で、救いようのない犯罪者······なんて単純なものじゃないと思う。
そうだったらどれほど良かったか。」
「どういうことだ。」
「幻影旅団はただの無法者じゃない。
恐らく彼等には彼等なりのルールがあるわ。
そしてこれもまた推測だけど、流星街の出身者がいるでしょうね。
分かるのよ、私だってあの街で暮らしたから。
なんて言うのかしら。
何も無いから、欲しくなる。
棄てられたから、奪いたくなる。
そういう世界が滅びる直前の秩序っていうのかしら······その顔は分からないっていう顔ね。」
あれは実際に体験しないと分からないもの、と首を横に振った。
「仕方ないから、貴方にも分かることを言うわ。
貴方の同胞───クルタ族の遺体からは、酷い拷問の痕や激しい戦闘の痕が見つかったそうね。
これはクルタ族の感情を燃え上がらせて、目をより鮮やかにする為だったんでしょう。
でもきっとそれだけじゃない。
幻影旅団は愉しんでいたのよ。
拷問、戦闘、虐殺、蹂躙、その類をね。
その行為自体を愉しんでいた。
クルタ族が戦うことに関して天賦の才を持っていたから余計に。
だから幻影旅団は、クルタ族の生き残りの話を聞いたら興味を持つでしょう。
また愉しみたいと思って。」
「···。」
「強かったのね、貴方の同胞は皆。
心も体も。
でなければ拷問なんてされないわ。
強い心を、芯のある心を折ることがね、拷問の本当の目的なのよ。」
何度も折られたから分かるわ、と事も無げに吐き出した。
「でもそれ以上に、幻影旅団は強かった。
強者で、蹂躙者だった。
だからクラピカ、貴方は強くならなくちゃいけないわ。
彼等に復讐したいなら、彼等より強く。
これはその一歩よ。」
手を差し出す。
白い掌を。
人を殺める為に刀を握り、数えきれないほどの血を浴びてきたとは思えないほど、清廉に見える掌を。
「前は出来なかったことを、貴方にはしてあげたいの。
私がしたいと思うから、勝手に貴方に手を貸すわ。
もう後悔したくないから、勝手に貴方を導くわ。
これはただの私の自己満足。
それでも良いと言うのなら、この手を取って、クラピカ。」
今更だな、と諦めたようにクラピカはミメイの手を取った。
迷いはあった。
それでも、目的の為なら。
それでも、ミメイがそう言うのなら。
何度でもクラピカはミメイの手を取るだろう。
「何故私の為にそこまでするのか、訊いても良いだろうか。」
「私がそうしたいからよ。」
それだけ、と表情を変えないまま言った。
「それは、何故。」
「あら、それを訊くの。
貴方もまだまだ子供ね、クラピカ。」
再びクラピカの額で軽い音が鳴り、ジンジンとした痛みに彼は額を押さえた。
「それなら準備を始めましょうか。
大丈夫、任せて頂戴。
たとえ何が釣れたとしても、貴方のことは必ず守りきるから。」
にっこり笑って、クラピカの指に自分の指を絡ませるミメイ。
そんな彼女のことも守ってみせるだなんて、まだそんなことは言えないけれど。
まだまだ自分は弱いのだと、自覚しているけれど。
「私はいつか、お前のことも守りきってみせる。」
それでもきっと、いつかは出来ると信じている。
いや、やり遂げると決めている。
そのクラピカの言葉に一瞬驚いて目を見開き、それから心底嬉しそうにミメイは笑った。
「期待して待ってるわ。約束よ。」
ふわり、と花が綻ぶように笑った。
─────そして冒頭に戻る。
裏社会にクルタ族の生き残りの噂をまことしやかに流し、変装した状態でわざと奴隷商に捕まり、今は闇オークションにかけられるのを地下競売場で今か今かと待っている。
見張りの意識がこちらに向いていない隙に、クラピカはミメイの耳元に顔を寄せる。
「何故、私まで!」
「貴方自身が闇オークションにかけられることで見えるものもあると思ったのよ。」
コソコソ話す2人を見張りが気にしている様子はない。
さっきまでのミメイの意気消沈した演技を信じ込んでいるらしい。
「それはそうだが、何故こんな格好を!」
「変装。」
「女装だろうが!」
ミメイプロデュースの見事な女装。
どこからどう見ても女の子。
ゆるふわな茶髪の鬘、水色の可愛らしいフリルワンピース、リボンがポイントの綺麗な靴。
違和感が仕事をしていない。
「しーっ。声が大きい。」
クラピカを宥めるミメイはといえば、長い黒髪の鬘をつけてはいるものの、それ以外は普段通りである。
セーラー服を身につけるか否かは迷ったが、不測の事態に備えることにした。
ミメイが魔改造したセーラー服は防御力が高いのだ。
「それよりも設定の確認よ。
ここまで来たのに、ぼろを出してバレるなんて馬鹿みたいでしょう。
私はミツキ、あの惨劇を運良く生き延びたクルタ族の生き残り。
で、貴方は」
「···ミツキの異母妹。クルタ族の血は引いていないし、緋の眼の持ち主でもない。」
「名前は?」
「······クララ。」
心底嫌そうにその偽名を口にした。
そんな彼を見て、ミメイはニヤニヤ笑いながら思ったことを口にする。
「やっぱり私の名前、ハイジにするべきだったかしら。」
「クララとハイジの組み合わせなど、偽名と疑えと言っているようなものだろうが!」
「冗談よ。」
薄暗い檻の中で、2人は背中合わせに座り直した。
後ろ手に縛られている状態だと、その体勢が1番楽だと気付いたからである。
ちなみにミメイの方は念には念を入れられて、足も拘束されていた。
見張りは2人の方を見ていない。
弱々しく見える異母姉妹など、警戒に値しないのだろう。
2人とも抵抗らしい抵抗をせず、怯えきった振りをしたことも一役買っているに違いない。
「釣れるだろうか。」
「釣れるわ。
幻影旅団は分からないけれど、彼等に繋がる何かは掴める筈。
あとは貴方が、どんな些細なことも見落とさないようにすることね。
貴方だからこそ気付けることもある。」
「ああ。」
「それと、もしもの時は逃げること。」
守りきる、という約束の通りにミメイはクラピカを守り通すつもりである。
「···分かっている。」
「いつかで良いから。
言ったでしょ、期待して待ってるって。」
背中越しに感じる熱に、平坦な声に、ミメイの心を感じ取る。
嘘偽り無く、彼女はクラピカのことを待っている。
いつかクラピカが彼女を越えて、彼女より強くなることを。
信じて、待っている。
「ああ。」
そのことに、じんわりとクラピカの心が暖かくなる。
「ちゃんと私を捨てて、逃げるのよ。」
「捨てていくのはお前の方だろう。」
遥か先を往くミメイは、本当はクラピカのことなど見えない筈だ。
遠い場所に生きている、別の生き物なのだろう。
それでもミメイは、クラピカの隣で彼に手を伸ばした。
だからクラピカは彼女の手を取った。
そうして2人は大切なものを既になくしてしまった者同士、身を寄せ合っている。
クラピカは怖いのだ。
ミメイがどこか遠くへと往ってしまうのではないかと。
自分の手を振り払い、彼女のいるべき場所へと帰ってしまうのではないかと。
これ以上失いたくはなかった。
もう十分なまでに失ってきた。
だからせめて、この時間だけは。
誰にも奪われたくはないと切に願う。
「···そうね、捨てていくのは私の方かもしれないわ。」
一方ミメイも、クラピカの言葉に哀愁を滲ませる。
真昼が家族を捨てたように、ミメイ達姉妹を捨てたように、ミメイも何かを捨てていくのだろう。
真昼がグレンを唯一と定めたように、ミメイももう決めてしまったのだから。
手の中に掬っておける水はほんの僅か。
殆どは指の隙間からこぼれ落ちてしまう。
ああならば、ミメイは何を捨てるのだろうか。
何を捨てられるだろうか。
故郷、家族、仲間、初恋、人間性。
いくつかはもう捨てつつある。
あとどれだけ、捨てられるだろう。
そして捨て終えた時、ミメイはミメイでいられるのだろうか。
真昼が真昼でいられなくなったように、ミメイも壊れてしまうのだろうか。
それでも尚。
この恋だけは本物だと分かっているから。
身に宿る鬼が暴走するような想いに、嘘偽りなどないと気付いているから。
口には出来ない。
進めはしない。
想いを告げることも考えられない。
時計の針が少しでも進んでしまえば、ミメイはこの恋ごと全てを壊してしまうから。
鬼の狂気と殺意が淡い恋心を丸呑みして、もう元には戻れなくなる。
だから今だけは、刹那的快楽主義に堕ちていよう。
─────────
「皆様長らくお待たせ致しました。
本日の主役の登場です。」
陽気なオークショニアの声を合図にして、ミメイの体が引き摺られる。
彼女は檻から引き出される時に、黒い目隠しをされたせいで周りの状況は見えなくなっている。
しかし鋭い嗅覚と聴覚、触覚で大体の空間把握は出来ていたし、どのくらいの人間がどこにいるのかも感じ取っていた。
ここは恐らくステージの上だ。
クラピカはミメイの少し後ろにいるらしい。
恐らくこれから、ミメイの緋の眼発現の為に使われることになるのだろう。
クルタ族の怒りを引き出す為の餌として。
一応クラピカは高価なコンタクトをはめているため、彼の緋の眼が露見するということはない筈だ。
たとえ赤くなったとしても、気付かれない程度だろう。
目隠し越しでも、人工の光をなんとなく感じる程に眩しいスポットライト。
四方八方から向けられ、全身を這い回る視線。
目隠しの結び目がある後頭部に、骨ばった手が置かれる。
ミメイの体を引き摺ってきた男のものだ。
「世界七大美色の1つ、緋の眼の持ち主です。
あの惨劇を生き延びたクルタ族の生き残りこそが、この少女。
早速その美しい眼を皆様のご覧に入れましょう。」
オークショニアのその声と同時に上がるのはクラピカの呻き声。
そこまで痛めつけられている気配は無いが、彼は哀れみを誘う苦しそうな声を漏らしている。
クラピカも結構な演技派ね、と思いながらミメイも悲壮感を滲ませた声をこぼす。
「妹に、何をしているの!?
離して。クララを離しなさい!
妹は関係ないわ。」
目が見えないせいで妹がどこにいるのか分からない、しかし妹が苦しんでいるのは分かる、そんな必死な姉の演技をする。
「ねえ、さん···。」
「どこ?クララはどこにいるの?!
その子を離して!
離しなさい!」
妹の弱々しい声に激昂したかのようにミメイは語気を強める。
と、そのタイミングで目隠しが解かれる。
ミメイの閉じた瞼の上から布が去っていく感覚の後、その瞼に人々の視線が集中するのを嫌という程感じ取る。
────鬼宿。
────はいはい、分かったよ。
心の奥底からどろりと闇が持ち上がり、ミメイの心を侵食していく。
鬼の狂気が心から、腹から、体の中心から、血を介して全身へ。
鬼呪がミメイの体を蝕んでいく。
今すぐ周りのもの全てを壊したいという衝動を抑え込み、拘束など簡単にちぎってしまう程湧き上がる力を制御して。
ミメイはゆっくりとその瞼を上げていく。
長い睫毛が縁取る大きな赤い瞳を見開いて、様々な欲望が絡みついた視線を受け止める。
────おお、これは。素晴らしい。欲しい。本物だ。美しい。欲しい、欲しい。欲しい。なんとしてでも手に入れたい。欲しい。
欲望が、人間の欲望が渦巻いている。
声なき声がざわめきの中から聞こえてくる。
人間の欲望を何より好む鬼が反応を示しているせいか、ミメイも全身で欲望を感じ取る。
こんなに汚いものをクラピカは浴びてきたのかと溜め息が出そうになる。
初めて出会った時に手負いの獣状態だったのも仕方のないことだろう。
いや寧ろ、あの程度で済んでいたことが奇跡だ。
これだけの汚い欲望に晒されていながら、素直さと清廉さを失わなかったクラピカ。
きっと彼は心根が誰より真っ直ぐで、家族や同胞に愛されて育ったのだろう。
「妹を離しなさい。」
緋の眼のようになっている赤い目を見開いて、ミメイは斜めに後ろにいるクラピカの方に向き直る。
男に首を絞められて苦しそうにしている彼だが、上手く力を逃がしているため見た目ほど苦しんでいないのがミメイには見て取れた。
普段ミメイに投げ飛ばされる方が、よっぽど痛いことだろう。
「姉さん···。」
痛みに喘ぐ演技を継続するクラピカに倣い、ミメイも怒り任せに叫ぶ振りをする。
「っ、妹を解放して!」
しかし屈強な男に肩を掴まれ、ミメイは無理矢理前───客の方を向かされる。
オークショニアがミメイの顎を上向かせ、客によく瞳が見えるようにしながら競売を続ける。
「ええ、そうです。
皆様ならばお分かりでしょう。
もしかしたらこの中には、実際にご覧になったことのある方もいらっしゃるでしょう。
本物です。正真正銘、世界七大美色に数えられる緋の眼です。
しかしながら生きた緋の眼をご覧になるのは初めてでしょう。
ですから、皆様ご自身の手で目を抉るも良し。
目をそのままにして愛でるも良し。
孕ませて、次代の緋の眼を産ませるも良し。
全ては皆様のお好きなように!
今ならば、緋の眼ではありませんが見目の良い妹もオマケでおつけましょう!
それでは、3000万ジェニーから!」
「3200万!」
「5000万出そう!」
「5500万だ!」
度々商品の振りをして捕まり、競売にかけられているミメイだが、今までにない値の上がり方に苦笑が漏れそうになる。
これが緋の眼か。
これがクラピカの背負うものか。
狂気の檻そのものである柊家とどちらがマシだろうかと、とりとめのないことを考える。
恐らく今クラピカは、競売に参加している人間の顔と特徴を頭に叩き込んでいる。
少しでも彼の悲願に繋げるために。
得られる全てを得ようとしている。
このオークションはマフィアの影響下にはなく、素敵な趣味をお持ちな金持ちの道楽の1つだと先に調べておいてある。
最終的に商品を競り落とした人間に商品を引き渡す時、その主催者である金持ち本人が姿を見せるらしい。
引渡しをその目で確認しなければ気が済まない、ある意味では用心深い性格なのだろう。
また、生きた人間やそのパーツを扱う金持ちであれば、本物の緋の眼に関わったこともある筈だ。
緋の眼を所持している可能性もある。
だからミメイ達は事前に決めていた。
競り落とした人間、商品であるミメイとクラピカ、何人かの警備、主催者である金持ちだけになったその時がチャンスだと。
警備は一瞬で戦闘不能にし、競り落とした人間と主催者を尋問して情報を絞り出すのは。
たとえどれだけ縛られていたとしても、ミメイにとっては何の障害にもならない。
容易く目的を達成出来るに違いない。
情報を聞き出した後は漏れなく全員口封じ、という所にクラピカが引っかかっていた以外は、その作戦はあっさり決まった。
そうして、その作戦は今もつつがなく進行中なのだが─────
ミメイとクラピカ、2人の値が1億を越えた所で、唐突にミメイの首筋にピリリと嫌な気配がはしる。
クラピカも本能的に何かを感じ取ったのか、苦しむ素振りを一瞬止めてしまう。
オークショニアも客も警備も、2人以外は誰も気が付いていない。
競売は更なる高鳴りを見せ、熱い欲望は渦巻き、最高潮へ到達しようとしていた。
しかしその中で、ミメイの背中にたらりと冷や汗が伝っていく。
何かが来る。
何かが来ている。
随分前に、味わったことのある何かが。
まずい、まずいまずい。
今すぐここから、逃げなければ!
心臓に氷を押し当てられたようにミメイの体が冷えていく。
それに相反するように鬼の興奮が高まって、鬼呪の回りが激しくなる。
鬼宿の甲高い声が頭に響く。
───来る、来る、来るよ!
君がもっと壊れないと、もっと僕を求めないと、闘えない相手が!
混乱している自分をどこか客観的に見ている思考に従って、手と足の拘束を一瞬で引きちぎる。
誰かが気付く前に、誰かがミメイを見る前に、鬼呪装備である刀を掌を顕現させ、ステージ裏にある照明の大元────全照明の制御装置目がけて投げつける。
すぐに全ての灯りが落ち、人々がそれに対して戸惑いの声を上げ出すより速く、ミメイは拘束されたままのクラピカを小脇に抱えて走り出す。
さっき投げた鬼呪が自動的にミメイの体の中に戻ってくるのを感じながら、真っ暗闇の中を走り抜ける。
ステージ裏を駆け、商品を捕らえている檻を飛び越え、事前に確認しておいた裏口────ではなく、地上に直接抜けられる小窓を目指す。
「手枷は外せた?」
小脇に抱えたままのクラピカに尋ねる。
「あ、ああ。」
「作戦は中止。···逃げるわよ。」
小窓の前に到着し、先に入るようにクラピカに小窓を示した。
そのミメイの指示に大人しく従った彼は、するりと小窓の向こう側に顔を覗かせ、周りに人の気配が無いことを確認してから脱出した。
「何が、来ている。一体何が、」
「分からない。
分からないけれど、駄目よ。これは駄目だわ。」
先に外に出たクラピカの手を借りて、脱出を完了し、小窓を元通りにしたミメイは声を震わせた。
クラピカにとって初めてだった。
怯えのような恐怖のような、そんな類のものを見せるミメイの姿は。
何故かは分からないが変な興奮を覚えているらしく、赤く染まった目は爛々と輝き、口角は妖艶に上がっている。
闘う前の、残虐な殺しをする前の、いやしている最中の表情だった。
しかしその表情の中に、確かに恐怖が混じっているのが見て取れる。
「ミメイ、お前、」
「······っくそ!気付かれた!」
ただならぬミメイの様子にクラピカが何か言おうとする前に、ミメイは彼の手を引いて走り出す。
町外れの郊外に点在する家を通り過ぎ、深い林の中へと一心不乱に駆けていく。
夜明け前の薄暗がりの中を、霧がかった木々の合間を、斬り裂くように進んでいく。
「ミメイ!」
クラピカにだって分かる。
遥か後方からだが、何者かがこちら側を見ている。
殺気のこもった視線は、クラピカの首筋をチリチリ焼くかのように鋭い。
「分かってる!」
ミメイも叫んだ。
嫌という程感じる圧迫感に、叫びながら逃げるしかなかった。
そうして必死に息を乱して走っていれば、徐々に思い出してきていた。
この世界に落ちてすぐ、流星街の潜伏場所を強襲してきた、招かれざる客のことを。
結界も式神も簡単に破り捨てられて、無けなしのプライドをへし折られ、得体の知れない存在に冷や汗を流したことを。
それと同じだった。
今、ミメイ達を追い始めた何者かは、それと同じ重量感を持っていた。
つまり、念能力者。
今までミメイが簡単に斬り伏せてきた念能力者(仮)とは段違いの、紛れもない本物である。
ふと、ミメイの足が止まる。
それに追従して、クラピカの足も止まる。
何故突然、とクラピカが息を整えながら前を見れば、そこには星が薄くなり始めた紺碧の夜空。
徐々に橙混じりの白に変えられていく美しい空が広がっていた。
そう、その先は空しか道がない、ただの断崖絶壁だった。
「ミメイ。」
後方からの威圧感は更に重くなる。
うなじの毛が逆立っていく。
早く早く、と退避を急かすように警鐘が頭に響いている。
「クラピカ。」
ゆらりとミメイが振り返る。
朝日に照らされたその白い顔が、口角を上げたままの顔がクラピカの方に向く。
「クラピカ。」
その存在を確かめるように、輪郭をなぞるように、ミメイは再びその名を口にする。
そうして、繋いでいない方の手をゆっくりと上げて。
ガラスに触れるかのように、クラピカの頬に指を這わせた。
「ミメイ?」
クラピカがそう問えば、ミメイは目尻をゆるりと下げて笑う。
赤く妖しく輝く瞳には、もう恐怖の色は無く。
いつも通り凪いだ水面があるだけだった。
頬に這うミメイの指は冷たかった。
ひんやりと、柔らかな冷たさを帯びていた。
その冷たさに心地良さを覚え、今この時この場所だけ世界から切り離されたかのように錯覚していたクラピカは、最近自分の目線より下にいるミメイを見つめて、瞬きをして─────
気付いた時には宙を舞っていた。
慣れきった痛みが額を襲う。
そのことから、またミメイにデコピンを食らったのだと理解する。
しかし何故自分の体が浮いているのか、地面が遠くなっているのか、崖の向こう側の朝日が近付いているように見えるのか、分からなかった。
上を見上げる。
セーラー服のスカートが、リボンが靡いている。
黒い鬘が地面に落ちている。
灰がかった紫の髪がたなびいている。
橙色の朝日に照らされて、キラキラと淡い輝きを放っている。
血のような赤い瞳が、射抜くように見ている。
誰を。
私を。
断崖絶壁の向こう側に飛ばされ、重力のままに落ちていこうとしている私を。
そんなことを纏まらない思考の中でなんとか絞り出しながら、自分を見下ろしている女の名をクラピカは叫ぶ。
「ミメイ······!」
それに対し女────ミメイは、赤い唇を閉じたまま困ったように笑うだけだった。
何も言わず、何も語らず、静かに笑うだけ。
何度も見た微笑を、浮かべるだけだった。
────────
『これで良かったの?』
「······。」
鬼の問いには何も返さず、黙ったまま黒い刀を掌に生み出す。
『やっぱり捨てるのは君の方だったし。』
言葉には耳を貸さずに、式神を作って息を吹き込み、崖下に姿を消した少年の後を追わせる。
『確かに気配遮断の式神でクラピカを隠して、君が追跡者と闘えば、クラピカは無事逃げ切れるだろうけど。』
上手く木に引っかかった少年に、式神が張り付いたのを確認してから、それらことは意識の外に追いやった。
「鬼宿。」
もうすぐ現れる。
桁違いな威圧感を放つ追跡者が。
じっと木々の向こう側を見やり、ミメイは自分に宿る鬼の名を呼んだ。
『なぁに、未明。』
きゃはははっ、と愛らしい笑いが転がる。
「私に力を、寄越せ。」
『あは、そう来ると思ったよ。
じゃあ未明。僕に君の全てを、差し出してくれる?』
その言葉に逆らう術などミメイは持たないのだから。
諦めたように、待ち望んでいたかのように、はくりと口を開いた。
「あげるわ。」
情欲を煽るような赤色の口の中から、尖った白い歯がちろりと覗いていた。
次は随分久しぶりの戦闘回です。