未だに見えぬ朝を乞う 作:明科
ご注意を。
どれくらいの時が経ったのだろう。
ふと、ミメイはそんなことを考えた。
考えた所で意味が無いのに。
今度はどうしてそんな思考に行ってしまったのかを考える。
ああそうか、急に意識が浮上したから。
だからついつい、そんなことを考えてしまったのだ。
俯いていた顔をゆるゆると上げれば、冷たくて鋭い視線を直接浴びる。
その目に映るのは愉悦の色。
ああこの人は愉しいんだなぁ、とミメイは他人事のように思った。
「爪全部剥がされてやっと起きるなんて、お前つまらない奴ね。」
目の前に立つ黒衣の男の言葉で、掌の先がジリジリ痛むのに気が付いた。
そしてやけにスースーする。
守られているべき所が空気に直接触れているような、そんな感覚。
また爪を剥がされたのか、と精一杯の困り顔を取り繕えば、男は気に食わなさそうに舌打ちした。
「···あは、そんなに褒められても何も出ないわよ、フェイたん。」
「そのおかしな抑揚やめるね。イラつく。」
ミメイ曰くフェイたん────幻影旅団の1人であるフェイタンは床に散らばったミメイの爪を踏み潰す。
「私が楽しいからやめない。
それともフーちゃんが良かった?
可愛い路線は嫌だろうから、少しは慮った結果だったんだけど。
失敗だったかしら。」
「チッ。」
さっきより露骨な舌打ちが聞こえたかと思うと、ミメイの腹を熱が襲ってきた。
「ひどーい、いたーい、やめてよー、フェイたーん。」
椅子に縛り付けられているミメイの無防備な腹に、突き立てられたのはフェイタンが手にしていた刀。
既に赤黒くなっていたミメイのセーラー服に、鮮血がじわぁと広がる。
「思ってもないこと言うのやめるね。」
「私だって痛みは感じるのに。顔に出ないだけで。」
「何度やっても拷問し甲斐のない奴。」
「それならやめて欲しいんだけど。」
胡散臭い義兄のようにミメイがヘラヘラ笑えば、フェイタンはとうとう彼女に背を向けた。
パタン、と静かな音で閉まったドアから視線を外し、地下室特有の低い天井を見上げた。
「あーあ、また放置プレイか。」
足首に枷がはめられてはいるが、少しは自由が許されている足を動かす。
手と同じ様にスースーする足先を床に滑らせれば、ピチャリピチャリと響く水音。
それから鼻の奥に貼り着くような血の匂い。
どうやらミメイが気絶している間に、爪剥がしフルコースを2、3回振舞ってくれたらしい。
「フェイたんは容赦ないなぁ。」
やれやれ、と赤い汚い水溜まりから足の裏を引き上げる。
他にやることもない為その足をブラブラ振りながら、ミメイを何度も拷問している男────フェイタンのことを考えることにした。
幻影旅団のアジトからの逃亡未遂の後、ミメイはこの地下室に監禁された。
恐らく何日かはそのまま放置(水、飯抜き)され、忘れられているのではなかろうかと彼女が思い始めた時、現れたのがフェイタンだった。
柊家での教育のお陰で水も食料も無しでそこそこ生きていけるミメイだが、流石にキツくなっていた頃。
やっと配膳係が来たと安堵の息を吐き出したのも束の間、ミメイに与えられたのは水は水でも、直接顔面にぶつけられた水だった。
気絶した人間を無理矢理起こす為のアレである。
ミメイが抗議の声を上げる間も無く、その後はフェイタンによる拷問フルコース。
どんな傷もすぐ治ってしまうせいで、延々と与えられる責め苦。
例を挙げるなら、綺麗に剥がされた爪は何分かすれば元通りなのだが、その爪を間髪置かずに剥がされたことだろうか。
ミメイの体が普通の人間より遥かに頑丈で、よっぽどのことがない限り死なないと悟ったフェイタンは、嬉々としてミメイを拷問した。
ミメイは情報を隠し持っている訳でもないのに。
フェイタンの方もそれは分かっているようで、仕事というよりただの遊びのように彼女を痛めつけた。
どこまでやったらどうなるのか、そんな純粋な好奇心で目を鈍く輝かせて。
餓死だけはしないように水と食料は補給されたが、その時に受けさせられた辱めは割愛である。
大体のことは柊家の訓練で経験済みで、結構慣れているミメイだったがアレはいただけない。
ミメイを拷問した、柊家の教育係は義務でやっていただけだった。
しかしフェイタンは違う。拷問が趣味であろう彼は違う。
考え方が根本から違うのだ。
「痛いなぁ。」
腹の刀傷から、命がボタボタこぼれ落ちていく。
洗うことを許されないセーラー服は既に綺麗な赤色で。
虚ろな目をして狭い天井を見上げれば、まるで死んでしまったように見えることだろう。
けれどミメイは死なない。
死ねない。
人間をやめてしまった再生速度で、体が元通りになってしまうから。
「お腹······空いた。」
くうくうと腹が悲しそうに鳴る。
一般的な食欲ではなく、唾棄すべき欲望が宿っている。
絶望の叫びを上げた所で、助けてと吠えた所でどうしようもない。
ミメイはミメイでなくなっていく。
人間でなくなっていく。
「会いたいなぁ。」
逃げきれただろうか、あの子は。
ミメイを人間だと肯定してくれたあの子は。
彼のことを考えると、体がジリジリ燃えるように痛む。
澱んだ欲望が身を焦がし、心の奥底から鬼が手を伸ばしてくる。
そしてお腹が空いてくる。
唇の下に隠された白い犬歯が、何かを求めるように痛む。
酷く乾いた喉元が、何かを求めるように鳴る。
「会いたい、会いたい、会いたいよ。
でも会ったらきっと」
─────死なない程度に殺しちゃうんだろうな。
ガチャン。
重いドアが開いて、再び閉まる音。
それによってミメイの意識は現実に引き戻され、一時的な貧血による目眩で歪む世界を目に映した。
「生きてる?」
揺らめく視界の中に、鋭い目の女が入ってくる。
椅子に座らされたまま天井を見上げているミメイを見下ろしている。
その女───マチと目が合って、ミメイはにっこり笑いながら唇を開いた。
「あ、マチさんだ。」
「パンならあるけど食べる?」
硬そうな黒パンをミメイの顔の前に見せるマチ。
そのパンに視線を移すミメイは、さながらパン食い競走の選手であった。
「え、くれるの?やっぱマチさんは優しいなぁ、誰かと違って。」
「ほら。」
「ありがとう。」
もご、と少々雑に口に突っ込まれたパンを咀嚼しながら礼を言った。
「手当てしようか?」
真っ赤に染まったミメイの腹を見て、マチが呟く。
拷問中にミメイが腕を切り飛ばされた時、マチは彼女の腕を縫い合わせていた。
どうせすぐにくっつくからとミメイは遠慮したのだが、何やらミメイにシンパシーを感じているマチは親切にしてくれたのだ。
「ううん、大丈夫よ。もう治ってきたから。」
その言葉通りミメイの腹の傷は既に塞がっている。
「じゃあ服縫ってやろうか。」
「ううん、やっぱり自分で縫う方が好きだし。
気持ちだけ貰っておくわ。」
「確かにね。」
納得したように頷くマチを見て、裁縫が好きな者同士だからだろうか、とミメイは不思議に思う。
そして、パンを飲み込んだ代わりにその疑問を吐き出した。
「マチさんはどうして私に親切なの?」
その問いに対し、少しだけ眉間に皺を寄せるマチ。
「アタシが親切だと思うんだね、アンタは。」
「だって殺そうとしないし、拷問しないし。
ご飯くれるし、手当てしてくれたし。
充分親切だと思うけど。」
「···アタシにはアンタをどうこうする理由が無いからね。」
懐から手拭いを取り出し、水が張った盥にそれを浸けながらマチは答えた。
「ふぅん。でもだからって私を逃がしてはくれないのね。」
「団長の命令だから。」
ほら口閉じな、という言葉と同時に濡れた手拭いがミメイの顔面に押し付けられる。
ゴシゴシと顔についた血を拭き取られながら、ミメイは瞬きを繰り返しながらマチを見上げる。
「クーさんかぁ。
······どうしてクーさんは私を監禁したままなんだろう。
殺したいなら早く殺せば良いのに。」
血を拭き取られて少しすっきりしたミメイは、手拭いを洗っているマチの背に問いをぶつけた。
「団長はアンタを殺す気、無いと思うよ。」
「知ってる。殺すんだったら最初に殺されてるもの。
流星街で初めて会った時に。」
まあ実際死ぬなら死ぬで良かったんだろうけど、とオーラをぶつけられて強制的に精孔を開けられたことをミメイは思い出す。
「団長はその時からアンタに執着してたから。
手に入れ損なったって、珍しくボヤいてた。」
「へぇ······クーさんの執着とか嫌だなぁ。ゾッとする。」
研究者にとっての実験用のモルモット、飽きっぽい幼い少女にとっての人形、そんな類の執着に違いない。
そんなものは勘弁である。
心底遠慮するミメイだった。
「それには同意するよ。」
ミメイよりもクロロとの付き合いが長いであろうマチも肩をすくめた。
「同情してくれても良いのよ?」
「ああ、してあげるさ。」
マチもクロロがどういう人間か理解しているが故に、ミメイに同情している。
マチだけではなく、ご愁傷さまと言っていたシャルナークも。
「ついでに逃がしてくれても良いのよ?」
「それはナシだね。」
「あは、知ってた。」
これだけ長い間幻影旅団の巣にいれば、この組織がどういう性格なのかが分かってくる。
秩序が適用されない無法者の集まりでは決してなく、彼等には彼等なりのルールが存在する。
その1つが「団長の命令は絶対」。
つまりクロロの命令は絶対。
ミメイに対して比較的好意的なマチを懐柔しようが、拷問好きなフェイタンにミメイという存在に飽きてもらおうが、ミメイが解放されることはない。
恐らく他の旅団員も同様だろう。
闘った後1度も顔を見ていないノブナガもウボォーギンも。
偶にミメイを観察しているシャルナークも。
顔も名前も知らない、他の団員も。
「結局クーさんをどうにかしないと、私の自由は戻ってこない。
でも最近クーさんはいないみたいだし。
どうしようかな。」
「···アンタはどうしたい?」
ミメイの向かい側に椅子を置いて、そこに座るマチが問う。
最近はマチがミメイの話し相手になることが多いのだ。
拷問中以外暇なミメイとしては願ったり叶ったりである。
「それを訊くってことは私を逃がしてくれるってこと?」
「いや、ただの興味。」
スラリとした足を組み替えながらマチは言った。
「なぁんだ、つまんない。
でもマチさんの質問には答えるわ。親切にして貰ってるお礼。
···そうね、取り敢えず拘束は嫌。
特別自由が好きって訳じゃないけど、縛られたままでいるのも趣味じゃないの。
出来れば拷問もされたくないし。」
「慣れてるんだろ?
フェイタンが舌打ちするくらいには。」
「まあそうだけど。
フェイたんが望む反応はしてあげられないのが残念。」
フェイタンがミメイに苛つく姿を思い出して、クスリと笑いを漏らした。
「アンタ、やっぱり
マチが目を細めながらミメイを勧誘する。
「いや。」
「向いてると思う。」
「···そう、ね。」
向いていないとは言えなかった。
恣に奪い、殺し、蹂躙する旅団という組織の性質は、今のミメイの嗜好と似通っている。
ミメイは否定しているが、嫌がっているが、それでも鬼からは逃げられない。
ミメイだって、それは承知していた。
承知した上で絶望し、諦めながら足掻いている。
矛盾の海で独り泳いでいる。
「でもね、違うのよ。私にだって好みはあるから。」
「へえ、どんなのが好き?」
「雛鳥みたいに可愛くて弱い癖に、誰より欲張りで。
目的の為なら自分の身だって犠牲にする。
自分以外も犠牲にするつもりでいる。
でもね、結局の所弱さを捨てられないせいで、自分以外は差し出せない······そういうタイプが好きよ。」
「特定の誰かを思い浮かべて言った気がするね。」
「ふふ、どうかしら。」
こうして言語化してみれば、ミメイと真昼はやはり似ていたとよく分かる。
流石双子と言う他ない。
男の趣味が近過ぎる。
まあだから実際、ミメイの初恋はグレンだったのだが。
「無差別に食い散らかすつもりは無いの。
どうでも良いものを手にした所で、なんの腹の足しにもならないから。
だから私に泥棒は無理よ。」
だって泥棒の守備範囲は凄く広いでしょう、とミメイは微笑んだ。
「欲しがってるものを全て手にしたら、その後アンタはどうする?」
「そもそもね、私は自分のものにする気は無いわ。
したいけど、したくて堪らないけど、しちゃいけないの。」
「やりたきゃやれば良いじゃないか。
なんで躊躇うんだか。」
自然に生まれたマチのその問いに、ミメイの体がピシリと硬直する。
その後すぐにミメイの顔にはしっていた緊張は解け、代わりにベトリとした笑みが浮かぶ。
「だって、殺しちゃうもの。」
その静かな声は、抑揚の無い軽い声は、血の色だった。
「大切にしたいのよ、大切にしなくちゃいけないのよ。
でも私は、殺してしまう。
欲望のままに自分のものにしたら、ぐっちゃぐちゃに
でも死なれたら困るから。
死なない程度に殺し続けるの。」
たとえどんな手を使っても。
たとえ誰が許さなくても。
真昼はどうしてグレンを殺さずに済んだのだろう。
今となってはそれが不思議なミメイだった。
しかしすぐにいや違う、と否定する。
真昼だってグレンを滅茶苦茶にしてしまいたかった筈だ。
それが鬼の本質だ。
強い鬼を取り込んだ人間は皆そうやって狂うのだ。
そうであったとしても────殺したい程恋していても、殺したくない程愛しているから。
だから「死なない程度に殺したい」が答えになる。
命を奪わずとも、その目に自分だけを映させて。
恐怖や戸惑いで強ばる頬に爪を立てて。
その唇が血を流すまで噛み付いて。
生を訴える血管が通う首筋に牙を突き立てて。
「······酷いなぁ、ほんと。」
体も心もズタズタにグチャグチャに、私の手で傷ついて欲しい。
そんな最低な欲望しか生めない恋なのだ、これは。
馬鹿みたい、とミメイは目尻を下げて笑う。
さっきまで浮かべていた血色の不気味な笑顔は霧散して。
哀しそうな、困ったような笑顔を形取るミメイの顔を、マチは静かに見つめていた。
好きならば大切にしなければいけない。
恋が纏う雰囲気は優しくてあたたかな方が良い。
愛は与え合い、分け合うものだ。
そうだと分かっていて、そうしたいと願っていて、ミメイには出来そうにもない絵空事だった。
世界滅亡を巻き込んだ真昼の恋の方が、まだ素敵に思えてしまう。
「ねえマチさん。」
正面のマチの方を見ないまま、ミメイは口を開く。
「マチさんは、恋をしたことがある?」
「·····さあ、どうだろうね。」
「私ね、最近よく思うの。
普通の女の子に生まれたかったなぁ、って。
普通に生まれて、普通に成長して、普通に恋をして、それで、」
そこで1度唇を止めて、知らず知らずのうちに強ばっていた肩から力を抜いた。
「結ばれて、家族になれたら···幸せなんだろうな、って。」
「······。」
「あ、別にね、そう出来ない私が幸せじゃないとは言わないわ。
今私そこそこ幸せだから。」
「そう。」
「それでもね、夢を見ちゃうの。
血の匂いも色も知らないまま生きている私を。」
馬鹿みたいでしょ、と紅色に変わった瞳に瞼を下ろす。
そこに映るのは、綺麗なワンピースを着て白百合のように笑う少女。
そしてその少女の手が赤く染まり、ワンピースも破れて穢れ、闇を引き連れて嗤う変わり様。
「生まれた瞬間に私の運命って奴は決まってたのね。
うん、知ってた。昔っから。」
真昼がそうだったから、嫌というほど。
柊に生まれ、鬼と混ざって生まれた時点でミメイの“人”生はいつか終わる運命だった。
絶望なんてとっくにしていた。
助けを求めた所で意味は無い。
ああそれならば────────
「あは。」
パキン、と乾いた音が響く。
それがマチの鼓膜を揺らすより早く、ミメイは金属製の枷を壊して自由になった体を動かす。
枷の赤い跡が残っている手を、向かいで少し腰を浮かしただけのマチに伸ばし、そのまま力任せに床に押し倒す。
太陽の光が届かない地下で鬼の力を引き出したミメイは、少しだけ気を抜いていたマチを凌駕する。
してしまう。
念能力をまともに使いこなせていないと幻影旅団員達に評されたミメイでも、鬼の力だけでその壁を飛び越える。
「思ってたことがあるの。
マチさんがこの部屋に来てから、ずっと。」
マチの体の中心を片方の掌で押さえることにより、彼女の抵抗を完全に殺したミメイは赤い口内を見せて笑う。
「今日のマチさんはすっごく良い匂いがするって。」
マチに覆い被さったまま、空いている方の手を彼女の頬に這わせる。
そして頬から顎の下、顎の下から首筋へ。
つ、と薄ら浮き上がった血管をミメイは白い人差し指でなぞる。
「肩の所、怪我してたのね。
服の下だから見えないし、ちゃあんと手当してるから傷も塞がってる。
でも分かる。
これが足とかならまだしも首近くの肩だもん。」
血色の目を妖艶に細め、包帯か何かで少し膨らんでいるマチの肩に視線を落とす。
それから首筋をなぞっていた指を布の下に差し入れて、肩の傷にそっと触れた。
ピクリとマチの指が跳ねる。
その反応を見て笑みを深めたミメイは、親指で傷口をグリグリ捩る。
引き攣っていた肌を解すように、繋がっていた肌を離すように。
「アンタ、」
ミメイの腕1本、それが丹田を押さえているだけで起き上がれないままのマチはミメイを睨みつける。
「なぁに、マチさん。」
その鋭い視線をゆったり受け止めるミメイの口は、はくりと動く。
白い牙を覗かせて。
「何がしたいの。」
鈍い音がして、傷口がゆっくり開いていく。
繋がり始めていた繊維が千切れて、じわりと血が滲んでいく。
肩に感じる柔い痛みに、マチは表情を動かさないままミメイに訊いた。
「さぁ?私にもよく分からない。
分からないけど、仕方ないじゃない。
空きっ腹の私の前に、血の匂いを漂わせて来る方が悪いでしょう?」
マチの傷口が開いた途端濃くなった血の匂いを味わうように、小さな赤い舌を出すミメイ。
その様は獲物を定めた獣のようで。
喰らい尽くすことを得意とする捕食者のようで。
マチが今までに感じたことのない異質で禍々しい殺気を放っている。
床に押し付けられた背中を冷たい汗が滑っているのを感じて、初めてマチは自分が緊張しているのに気が付いた。
恐怖とまではいかない。
しかしどこか畏怖に近い。
近付いてはならない、見てはならない、触れてはならない。
そんな禁忌を前にしているような。
強い人間を相手取っている時とは違う、異常な緊張感。
心臓を直接撫でられているかような不快感。
「ねえマチさん、私マチさんのその顔好きよ。
私が“何”か分からなくても本能的に危機を嗅ぎ取って。
表情は変えまいと感情を抑えてるけど、目だけはどうしても揺らしてしまう。」
肩の傷口に爪を立て、ほんの少し傷口に指を差し入れて嬲るように掻き混ぜる。
流石に顔を歪めたマチを見下ろして、ミメイは血の香りを胸いっぱいに吸い込み、恍惚とした笑みを浮かべた。
「もっと傷つけたくなる。
もっともっと、傷ついて欲しくなるの。
私の為に傷ついて、私のせいで傷ついて。
消えない傷を刻みたくなる。」
にぃ、といやらしい弧を描く赤い唇。
そこからチラリと覗く白い牙。
人間らしさを失って爛々と輝く赤い瞳。
強烈な狂気と混沌がマチの目の前にあった。
人当たりのよい薄っぺらい笑みを浮かべていた少女はいない。
世話をされて少し照れ臭そうに笑っていた少女はいない。
困り顔で夢と幸せを語る哀しそうな少女はいない。
“これ”は一体、何だ?
「ちょっと遊ぶだけのつもりだったのに。
マチさんが思ってたより良い反応するから、私も愉しくなってきちゃった。」
人間らしくない尖った犬歯を見せて、ミメイはマチを見下ろしている。
傷口をまさぐっていた指を首に持っていき、マチの肌の薄い所を探るように撫でる。
「うーん、ここかな。」
トントン、と優しく首のある一点を叩き、再び何かを確かめるように指を動かす。
「実は私ね、処女じゃないんだ。
でも童貞喪失はまだなの。
だからマチさんが貰ってくれる?」
「は?」
「やだマチさんのえっち。私の下半身をそんなに見つめないで。」
「いやだって、アンタ···。」
「違うよ、そういう意味の童貞じゃないよ。
はえてないよ。私は正真正銘女の子だもん。」
少し拗ねたような口調。
おませな女の子らしい抑揚。
それらに一瞬マチの気が緩むが、ミメイの顔を見てすぐ表情を凍らせた。
「人間を殺したことはあってもね、まだ食べたことはないのよ、私。
私は女の子だから処女って言い方でも良いんだけど、貫くのは私だからやっぱり童貞かなぁ、って。」
混沌が口を開けていた。
ゾッとするほど赤い中身を見せて、鋭い牙をチラつかせて、ぽかりと口を開けていた。
グルグルと欲望が渦巻く赤い目が、そうしてマチを見下ろしていた。
「お腹が空いたらご飯を食べる。
当たり前のことでしょう?
だから貰ってくれるよね、吸血童貞。」
マチの首を触っていた指を動かして、ミメイはマチの顎に手をかける。
ぐいと顎を上向かせて固定し、首に顔を近付けやすくする。
そしてミメイは口を開けたまま、マチの無防備な首筋に鼻先をくっつけた。
あと少し、あと少しで、と誰のものか分からないが逸る心のままに、ミメイは舌で牙の感触を確かめる。
今からこの牙を首に突き立てて、それで、
────────それで?
ポタリと疑問が落ちてくる。
まだ血は炎のように熱いまま。
高揚感と恍惚感で心は満たされている。
それなのに何故か、不安で堪らなくなってしまう。
シャツのボタンを掛け違えてしまった気がしてしまう。
「あ、れ?」
おかしい、何かがおかしい。
絶対に何かが間違っている。
どこがおかしいのさ、さあ早く、さあ今すぐ、と鬼宿が叫んでいる時点でミメイは間違えてしまっている。
ミメイと鬼宿は鏡合わせ。
ミメイが望まないことを鬼宿は望むから。
力が抜けていくミメイを引き剥がし、マチはミメイの下から抜け出して距離を取る。
警戒は最大限。
目の前の得体の知れないものが接近した時すぐにでも殺せるように。
そんな彼女をぼぉっと見つめて、ミメイも体を起こしてぺたりと座り込む。
グルグル、ぐるぐる、混乱しきった思考が回っている。
「私今、何をしようとしてたんだろう。」
半開きの唇に手を持っていき、親指の腹を尖った犬歯に当てる。
そっと当てた筈なのに、プツリと可愛らしい音がして皮膚がちぎれてしまう。
人間の歯はいくら尖っていたとしても、触れたぐらいでは皮膚を割けない。
ならばこれは犬歯ではなく、ただの牙だ。
人間の歯ではなく、正真正銘化け物の牙。
「嘘。」
親指の腹に出来た、ぷっくりとした赤い玉。
自分のものだからか全く美味しそうに見えない。
これでは食欲を満たされない。
そんな思考が頭を支配していく。
更なる欲望が心を侵食していく。
そして、その全てを否定する理性が叫んでいる。
化け物、人間をやめた化け物、吸血鬼紛い、と。
「いや···どうして···?
私は人間だもん。
真昼と約束したの。私だけは人間をやめちゃいけないの。」
幼子のように喚き散らす。
拙い言葉で訴える。
それでも慈悲の心を持たない鬼は、ミメイに優しく囁くのだ。
早くおいでよ、こっち側の壊れた世界へ、と。
「私、人間なのに。
人間なんて食べたくない。
血なんて欲しくない。
お腹なんて空いてない。
空いてないのに、どうして。······どうして、こうなるの?」
いつの間にかマチの姿は無く、代わりにクロロがミメイの前に立っていた。
そしてミメイは、彼の首に飛びついていた。
首の皮膚の下に流れる赤い血潮。
それを狙って口を開いてしまっていた。
今にも首に突き立ててしまいそうな牙を自分の舌で止めて、唇の端から血を漏らしながらミメイはクロロの肩にしがみつく。
「クーさん、私今ね、おかしいの。
おかしくなっちゃってるの。
だから早く私を拒絶して。
殴ってでも蹴り飛ばしてでも良いから、私を貴方から引き剥がして。」
その言葉とは裏腹に、クロロの肩の上の指に力が入る。
「縋りついているのはお前の方だと思うが。」
「うん、そうだね。
だからお願い。私の理性が勝ってるうちに、私を引き剥がして。」
自分の舌に牙を突き立てて必死に牙を押し留める。
舌から溢れて顎を濡らす血を気にもとめず、ただ必死に。
「お前の願いを聞き入れてやる義務は無いな。」
「権利も義務も、貴方にとっては塵芥にすぎないのね。
そんなことだろうとは思ったけど。」
欲しい、欲しい、血が欲しい。
熱い血が欲しい。
首に噛みついて、牙を突き立てて、好きなだけ貪って。
そんな甲高い鬼宿の声にノイズが混じる。
年頃の女らしい、聞き慣れた声が。
真昼と全く同じ声が。
ミメイは鬼宿で、鬼宿はミメイで。
深い深い所で混ざり合って融け合って1つになる。
これではもう、どちらが鬼か分からない。
いや結局の所ミメイも人間ではなかったということなのだ。
どれだけ否定しようとも、同じ穴の狢という言葉を真実は紡ぐ。
「俺は言った。
お前が恣に振る舞う化け物になるのを見たいと。」
「···。」
クロロの鎖骨付近に顔面を埋めたまま、ミメイは理性の泣き声を聞いていた。
今にも欲望に呑まれて消えそうな、その叫びを。
「今ここでお前を拒絶すれば、お前は踏みとどまる。
それだと俺の欲しいものは手に入らない。」
クロロはミメイに触れない。
ミメイには好きなようにさせておきながら、何もしない。
ただ静かにその時を待っている。
何をしてもしなくても、ミメイが化け物になることは予定調和だと感づいているからである。
「ほんと、趣味悪い。
趣味が悪いわよ、クーさん。
可愛い女の子がお願いしてるのよ、それなのに。
それなのに貴方は私の嫌がることを望むんだ。」
ミメイだって分かっている。
目の前の男がミメイを拒絶することはないと。
肯定もせず、否定もしない。
ただ自分の欲しいものの為に、価値を見出したものの為に動くだけなのだ。
そういう類の人間だと嫌という程分かっていた。
分かっていながら、縋りつく。
縋りつかずにはいられない。
人間でいたいが故に、人間に縋りつかずにはいられないのだ。
「変なの。
誰だって自分が喰われそうだって気付いたら、逃げようとするのに。
クーさんは逃げてくれないなんて、酷いね。」
ミメイは化け物で、捕食者で、人間を犯す存在で。
けれどこれでは、どちらが捕らわれているのか分からない。
「酷い、酷いよ、貴方は本当に酷い人。
···でも本当に酷いのは、私なんだろうな。」
真昼との約束も破って、弱い人間のまま死のうと誓った仲間達も捨てて。
ミメイは独り、化け物になる。
これが幸せな物語なら、きっと優しい王子様が助けに来てくれた。
化け物に呪われて化け物になる運命だったお姫様を、愛の力で救い出してくれる王子様が。
けれどもこれは悲しい現実で。
真昼とグレンでも駄目だったものを、ミメイがどうしようというのだろう。
そっと顔を上げてみる。
すぐ近くで暗い昏い目が2つ、ミメイを見下ろしていた。
不気味なほど凪いだ目が。
熱を感じさせないその目に映るのは、赤い目の化け物だった。
血に欲情して顔を赤らめる、ただの人でなし。
鬼宿と真昼と吸血鬼と同じ類の、人間としての枠を外れてしまった存在。
「ねえクーさん、私を人間だと肯定してよ。
私は人間だって、人間に見えるって。」
クロロは何も答えない。
助けを乞うような、救いを求めるようなミメイの手を振り払うこともなく、ただ黙っている。
「私は人間だよね?」
「お前が人間かどうかなんて、俺にとっては関係のないことだ。
俺はお前が欲しい。
化け物として目覚めたお前が。」
淡々と紡がれたその言葉に、ミメイは瞳孔の開ききった目で瞬きをする。
恋人達が交わす素敵な睦言よりも直接的で、真っ直ぐに歪んだその言葉に、ミメイの心は一際大きな鼓動を奏でる。
「そう、私が欲しいんだ。私を欲しがってくれるんだ。
人間をやめちゃった私を欲しがってくれるのね、クーさんは。」
嬉しい、と血に濡れた唇を動かして、ミメイは舌から牙を引き抜いた。
欲望を何よりも好む鬼と混ざっているから分かる。
クロロの言葉に何一つ嘘は無いと。
彼は間違いなくミメイを欲しがっている。
恐らく鬼のように、真昼のように、吸血鬼のように、壊れてしまったミメイを。
この世に生きる人間の中でも特に欲深いであろうクロロは、そんなミメイまでを欲するらしい。
混沌の底、深淵の向こう側、世界の破れ目、それらを見ようと、手にしようとする人間のなんと欲深いことか。
その先には何も無いというのに。
柊家も百夜教もそんなくだらないものを欲しがって、その末に世界を滅ぼした。
そのとばっちりを食ったミメイの家族と仲間は運命に轢き殺された。
ああどうしようもなく救えない、馬鹿みたいなお話だ。
世界は救えない。
お姫様は救えない。
王子様は救えない。
これはそんな、くだらない御伽噺。
鬼宿の言葉は本当だった。
どんなミメイでも、人間をやめたミメイでも愛してくれる人間がいると。
欲しがってくれる人間がきっといると。
だからもう、壊れてしまって良いのだと。
我慢なんてしなくて良い。
苦しいのも痛いのも辛いのも、何も無い場所へ行こう。
欲しいものを好きなだけ、好きなものを欲しいまま。
「······ごめんね。」
珍しく嘘が混じらない謝罪を口にした。
これから傷つけると決めた男に対し、心からの笑みを浮かべて。
欲しがってごめんね。
でもどうしても、貴方が欲しいの。
──────ブツリ。
戻れなくなる音が、世界を揺らした。