未だに見えぬ朝を乞う 作:明科
気付いたのが遅かったので、素知らぬ顔で火曜に出してます。
そのせいで2週に1回投稿がズレましたが、(きっと)次回はちゃんと月曜日に出ます。
終わりのセラフ最新刊付近のネタバレ注意。
「──────という訳なの、おにいさん。」
「お前話上手いな。最初は何の人生相談かと思ったのに、全部聞いちまった。結構面白かったしな。
ほら、蛇焼けたぞ。」
「ありがとう。」
男から木の枝で串焼き状態になった蛇を受け取り、迷わずそれにかぶりつく。
鋭い牙が生えてきたお陰か引きちぎることが容易く感じられたが、そこそこ硬くて程良い弾力のある肉だった。
血抜き処理をしていたのは見ていたが、まだまだ野生の香りが残っていて新鮮な味わいである。
それに何より鼻を擽る鮮血の香りが心地好かった。
そんなごく普通の食レポをしながら、ミメイは目の前で弾ける炎を見つめていた。
焦点の合わない目で炎の向かい側に視線をずらせば、ミメイが今口にしたのと同じものをガツガツ喰らっている男がいる。
何故こんな夜の砂漠の真ん中で、見知らぬ男と2人で焚き火を囲んで蛇を食べているのかミメイには分からなかった。
そして男に不本意ながらも助けられた後、服を乾かし体を暖める為の焚き火を2人で囲んだ瞬間堰を切ったように、洗いざらい身の上話をしてしまった理由も分からなかった。
お互いに名乗らないまま、半裸のまま、こうして座っていることさえも不思議でたまらない。
「なんでかな。」
役目を終えた串を手の上で転がしてから、その串でサラサラした砂漠の砂に適当な図形を描いてみる。
三角四角、丸、六芒星、楕円、五芒星、ハート、五角形。
何の規則性もなく、なんとなく思いついたものをミメイは片っ端から描いていく。
「俺が知るかよ。」
2本目の串に手を伸ばしながら、男は素っ気なくミメイに返した。
「私のことをなぁんにも知らない赤の他人だからかもしれないね。
それか貴方がお人好しだから。」
「お人好し、ねぇ。」
「だって私の話、全部聞いてくれたでしょう。」
「お前の話は面白かった。それだけだ、俺がお前の話を聞いた理由なんてもんは。」
「そっか。」
今度こそ役目を終えた枝を焚き火の中に捨てて空になった手を膝の上で組んで、体を丸めるように体育座りをする。
焚き火に照らされて橙色を帯びる腕に顔を埋めれば光は見えなくなる。
パチパチと、さっきミメイが焚き火に放り込んだ枝が弾ける音だけが響いていた。
「お前は自分に興味が無いんだな。」
「変なこと言うのね、おにいさん。」
「自分に興味を持たないように、無関心であるように、そうやってきたんだろ。」
「私は普通に私に興味を持ってるわ。好きなものも嫌いなものも知ってるし、長所短所も自覚してる。」
「じゃあお前、自分が好きか。」
「─────。」
虚をつかれた。つかれてしまった。
明らかに瞠目したミメイを見逃さず、男は矢継ぎ早に問いを重ねた。
「自分のことは嫌いか。」
「······。」
「ほらな。」
鼻で笑うように言われて苛立ちくらい覚えても良い筈なのに、何も言えなかった。何も感じられなかった。
唇さえ噛めなかった。
ただ、とても驚いていた。
「一応人並みの自己愛も自己嫌悪も持ってはいるんだろうな。
けどな、お前はそれさえもどうでも良いものにしたんだろ。
どうでも良いものなら見なくて良いから。
お前はどんな自分自身であっても見たくなかったから。」
「···でも私は、私はちゃんと私自身を分析してた。私は私を理解してた。」
声を絞り出す。
枯れて干からびた花の汁を搾るように、結局は何も出てこないと知りながら声帯を震わせる。
「人間か化け物かって奴か?
んなのどうでも良いだろうが。
結局お前が面白いか、面白くないかなんだよ。
必要なのはそれだけで、それだけで生きてんだよ。」
「意味が分からないよ、おにいさん。全然分からない。」
本当に分からない、分からない。分かりたくない。
分かったら進まなければいけないことが薄々理解できるから、何も分かりたくない。
「人間だろうが化け物だろうが、屑だろうが善人だろうが、それでお前が楽しいなら良いんだよ。
自分自身をちゃんと目に映して、認識して、好きになるなり嫌いになるなり勝手にすれば良い。
そっからだろうが。」
「何それ。おにいさんの言うことは難しくて分からないよ。」
「んじゃまあ、分かってこいよ。
寝てる時に会えるんだろ、お前の“鬼”って奴とは。」
その言葉が鼓膜を揺らした時にはもう、ミメイの首の後ろに手刀が決まっていた。
またこれか、と油断の多い自分に呆れながらも、自然と落ちてくる瞼には逆らえずに体が奈落の底に落ちていくような感覚をゆっくり味わう。砂の上に長い紫の髪が広がるのを目に映したのを最後に、ミメイの意識は真っ黒になった。
─────────────
夢を見ていた。
自分の体が少しずつ融けて、足元に広がる血に混ざっていく夢を。
ドロドロと汚い液体になっていく体を保とうと、とろけた掌で肩を抱くがその肩さえ形を無くす。
きっともう顔も融けていると直感するが、まだ視界ははっきりしていて。
自分の体の惨状をまざまざと見せつけられたミメイは狂いそうになる。
『君は僕を受け入れると決めた。
たった1人を
だから今こそ君に真実を話そう。』
聞き慣れた幼子の声の筈だった。
それなのに何故か、少し低くなり女性的な色を帯びているように感じた。
そんな声が融けた全身に纏わりつき、と同時に赤黒い泥のような血の中から白い手が伸ばされた。
『君も薄々気が付いているみたいだけど、僕は元々この世界で生まれた存在だ。
初めに光は無かった。
あったのはただの混沌だけ。
僕はその中から吐き出されたナニカだった。
生命体でもなく現象や概念ともまた違う、よく分からない存在。
それが僕。
その時はまだ、“僕”という自我も無かったけどね。』
ミメイの融けた腕を掬い上げるように、鬼宿の細くて白い手が動く。
『暫く何も無い混沌を彷徨っていれば、気付いた時には世界というものが出来上がっていた。
そして僕も体らしきものを得ていた。
まだまだ混沌の塊と呼ぶに相応しい見た目だった。
生命体と言うには気持ち悪い姿をしていた。
でも僕を取り巻く世界というものを認識して初めて、僕は“僕”という自我と体を得たんだと思う。
···そうだね、色んな生命体がいたよ。
生き残る為に、他の生命体に勝つ為に特化した奴が多かったから、今の人間から見たら歪な姿の奴が殆どだった。
勿論僕もそうさ。
でもこのままでは生存競争で負けると僕は本能的に感じ取った。
だからゆっくり進化していった。
僕が生まれた世界で勝ち残っている奴等の特徴を上手く盗みながら、僕が生き残れる方法を模索した。』
白い手が伸びていた赤黒い泥の中から美しい金髪が浮かび上がる。
次に出てくるのは赤い目を爛々と光らせ、人間離れした美貌を貼り付けた白い顔。
その化け物は牙を見せて嬉しそうに笑いながら、ドロドロにとろけたミメイの首辺りに抱き着いてきた。
『どんな生命体も欲望を持たずには生きられない。
そもそも生存という行為自体が欲望そのものだろ?
だから僕はそれを利用した。
生命体に取り憑いて、絡みついて、その欲望を引き出すんだ。
そうして僕が引き出した殆どが力を渇望するものだった。
だから僕は与えたよ、皆が欲しがる力をね。
宿主が抱いた欲望を糧に願いを叶えてやったのさ。
後は分かるだろ?皆僕に依存したよ。
欲しい、欲しい、もっと欲しいって。
あれが欲しい、それが欲しい、全てが欲しい。
人間ほどじゃないけど、みぃんな欲深かった。
僕はそれを叶えたさ。望まれるがまま全てを叶えてやったのさ。
でも馬鹿だよね、僕が無償で何でも叶えてやる訳がないだろ?
少し考えれば分かるだろうに、力を与えれば皆それに目が眩む。
馬鹿だなぁ、愚かだなぁ、そう笑いながら僕は取り憑いた生命体の魂を啜っていた。
欲望を引き出して、望みを叶えてやってドロドロに甘やかして、その代償として僕は精を得ていた。
僕が精を吸い尽くせば僕の宿主だった生命体は死に絶える。
そうしたら次の宿主を探して、また干からびさせて。
そんなことを繰り返していれば、僕は1番効率の良い生命体を見つけた。
人間だよ、分かりきってるだろ?』
きゃはははっと甲高い笑い声を上げながら、ミメイの顔付近に頬を寄せて来る美しい化け物。
『欲深い人間の精を啜っているうちに、僕は人間に受けが良い、騙しやすい姿を取ることが増えていった。
それまで僕の体は不定形に近かったけど、人間という美味い餌を安定して得る為ならば適応する価値があると判断したのさ。
それがこの姿だ。人間の幼子を象った姿。
この姿を見た人間は皆一瞬油断する。
僕が弱そうだから。僕を通して自分の幼少期を思い出すから。理由は色々あるんだろうね。まあ僕には関係無かったけど。
この姿は便利だったよ。人間の中で美しいと持て囃されている女の姿形を参考にしたからか、永く生きていた僕なりの美醜の価値観を混ぜ込んだからか、何よりも美しい存在として生まれ出ることが出来た。
······ああ、未明にとっては不愉快だったかな。
そうだね、1番美しいのは人間の苦悩だ。うん、よく分かるよ。
傷ついて痛みに顔を歪める人間の様、それは何より美しい。』
違うと言いたかった。
けれど違うと言えなかった。
この融けた体の全てが、その言葉の全てを肯定していた。
『この体を得た僕は人間に取り憑くのをやめることにした。
魂から精を啜るのも良かったけど、戯れに作ってみた牙が人間の捕食に向いていたことが分かったからだ。
そうさ、僕は生き血を啜って精を得るようになった。
味の薄い魂よりも血の方が美味しかったしね。
何より選り好みが出来るようになったのが良かったよ。
女、男、老人、若者、子供。
みんな違ってみんな良いって奴だ。
まあ1番美味いのは子供だったけど、大人になる手前の少年少女も良かった。あれはハズレがない。』
未明も普通に美味しそうだよと囁かれ、心臓がありそうな胸の中心がドクンと弾む。
『人間の願いを叶える代わりにその生き血を啜る僕は、いつしか神として崇められ始めた。
僕に惹かれて擦り寄ってくる珍しい人間もいたから、戯れに眷属にしてやったこともあったなぁ。
僕と同じ、人間の血を吸う化け物にしてやった。
そうそう、生贄とか持ってくる人間もいたっけ。
まあ生贄を喰った所で願いを叶えてやるとは限らなかったけど。
その頃の僕は結構強くなっていて、好き勝手に人間を喰えたから。
そもそも僕が捕食対象の欲望を糧に願いを叶えてやっていたのは、そいつの油断を誘う為だ。
直接捕食行動に出たら最後、逆に喰われるくらいかつて僕は弱かったからね。
取り憑いてじわじわ嬲るように精を啜って殺すしかなかった。
でも数多の生命体を喰らった僕は強くなっていた。
だから油断なんてさせる必要は無かった。
ただ掴んで、噛み付いて、血を啜って、殺して────そんな風に蹂躙するだけで良かったんだ。
弱い人間相手は勿論、かつては格上だった存在さえも僕には適わなくなっていたし。
うんそうだ、きっとあの頃僕は神だった。
強い自分自身に酔っていたからね、間違いない。
自分を神だと思っていたし、周りも神だと信じていたし、僕は神になっていた。
戯れに世界を滅ぼそうとしたのもこの時だ。
いつからこの世界に存在していたのかは知らないけど、そこにはただ滅びをもたらす装置があった。』
その口振りに覚えがあった。
真昼の運命を犯し、グレンに十字架を背負わせた、あの忌まわしい実験。
愚かな人間達が始めた愚かな実験。
世界を滅亡へと誘う“終わりのセラフ”。
ミメイの心にその名が浮かんだ瞬間、美しい化け物の口元は酷薄さを極めたような笑みを描いた。
『そう、君達の世界では“終わりのセラフ”と名付けられていたそれに近しい何かが存在していた。
面白そうだったから僕はなんとなく触れてみた。
深く考えてなかったよ。
だって僕は神だから、そんな根拠のある自信があったんだ。
今となっては反省してるよ、後悔はしてないけどね。
結論から言うと、僕は神でなくなった。
いや、自分は神ではないと気付いたって言うのが正しいのかな。
僕が真実神であったなら、あれを支配下における筈だろ?
でも無理だった。
この世界丸ごと平等に滅ぼすなんて僕の手には余る。
僕は人間共でさえ平等に見れなかったんだから。
勿論どいつもこいつも平等に醜くて、生き汚くて、欲深い。
でも面白い奴と面白くない奴、血が美味い奴と不味い奴、色々いるのは知っていた。
だから平等に見るなんて無理だった。
僕は神ではない、神にはなれない存在だと気付いたのさ。
負け惜しみみたいだけど、それで良かったんだと思うよ。
僕はこの世界に生まれた一生命体で、それ以上でもそれ以下でもない。
この世界を支配し、僕達生命体を生み出した存在を神と定義するのなら、それに比べれば僕はちっぽけなナニカに過ぎない。
その事実に落胆して、と同時に酷く安心したよ。
感情のない当時の僕でさえそう思ったんだから、グレンは大変だろうなぁ。
自分が神であるかのように世界を滅ぼして、代わりに自分の仲間達の命を甦らせた。
それは余りに重過ぎる。
十字架として背負うには重過ぎる。
矮小な人間ごときが背負うには重過ぎるだろう。』
そしてそんなグレンだから、真昼は彼に恋をした。
世界を巻き込んで、家族を捨てて、未来を殺してでも良いと思えるほどの恋を。
ミメイが今しているのもそんな恋なのだろう。
故郷を捨てる。
故郷に残した家族を、仲間を捨てる。
人間としての生を捨てる。
それでも構わないと思えるほどの激情だ。
『自分が神でないと気付いた僕は、取り敢えず鬼と名乗ることにした。
神として崇められるのはもう飽きてたし。
作った眷属達を連れてこの世界を巡って好き勝手に生きていれば、僕と眷属達は血を吸う鬼────吸血鬼として恐れられるようになった。
そして僕は全ての吸血鬼の親である始祖と呼ばれたよ。
この世界の吸血鬼の第一始祖様、それが僕だったのさ。
そうやってブイブイいわせてた僕だったけど、気付いた時には異世界の柊家に鬼として呼ばれてた。
それで偶然君に混ざったって訳。
ちなみに未明が生まれた世界の第一始祖はね、シカ·マドゥって名前でね。今は一応シノアの中にいるんじゃないかな。
そう、四鎌童子だ。シノアに混ざって生まれてきた鬼で、一時期真昼が飼っていたあいつ。
四鎌童子、しかまどうじ、シカ·マドゥ······あいつらしいクソみたいなセンスだろ?』
小馬鹿にしたように笑う鬼宿に対し、ふと疑問が湧き上がる。
ミメイの中にいた鬼宿が、シノアや真昼の中にいた四鎌童子と面識がある様子なのは何故だろうかと。
吸血鬼の第一始祖同士、特別な何かがあるのだろうかとミメイは思う。
『ああそれはね、シカ·マドゥ────四鎌童子が真昼の中にいた時に未明の体を乗っ取った僕があいつに接触しているからだ。
シカ·マドゥは碌なことを考えてなかった。
それに未明が巻き込まれちゃ堪らないから、僕から牽制しようと思ったのさ。』
「···ねえ、それってまるで私を守ってるみたいね。」
融けていた筈の唇がいつのまにか形成されて、勝手に喉が震えていた。
『さあ、どうだろう。僕は君を守りたかった訳じゃない。
でも、君に幸せになって欲しかったんだ。
他者愛に依存することで、生来の狂気から逃げようとする君に。
我慢してばかりで、欲しいものに手を伸ばそうともしない君に。
僕はただ、君に幸せになって欲しかった。』
そう言って、鬼宿は残酷な悪魔のようにわざとらしく笑った。
「どうしてそこまでして私を?」
『初めは鬼と人間で、僕らは別々の存在だった。
だから普通なら鬼である僕が人間としての未明を喰い尽くす、そんな終わりが来る筈だった。真昼みたいにね。
でもそうはならなかった。そうはしたくなかった。』
「···ねえ、どうして。どうして、どうしてなの。」
泥の中から頬が作られたことが分かる。
血の中から瞳が作られたことが分かる。
自分の体が再形成されていくことがミメイに分かる。
熱い透明な血が頬を伝っていると感じるから。
『前にも言っただろ。
君が僕に問いかける時はいつだって、既に君自身は答えを得ている。
自問自答にしかならないって。』
「分かってる、そんなこと分かってる。」
分かっているよ、でも。
どうしても言葉にするには難しくて、代わりに目の前にいる鬼宿の小さな肩を掴む。
幼子の形を取っているものらしく柔くて、弱くて、折れてしまいそうだった。
『僕は君の感情を食べた。僕は君の感情を貰った。
何も持たない筈だった化け物は、君の心を得たんだよ。』
「美味しかった?」
『うん、凄く。君の心は凄く美味しかったよ。』
不条理な契約の末に魂を奪っていく悪魔のように、鬼宿は目を細めていた。
ミメイが泣けているのと対照的に鬼宿は笑っていた。
白々しく、馬鹿みたいに白々しくニタニタと。
「貴方はそうやって、私が落としてきた心を守ってくれていたのね。
貴方は私の最後の自己愛になってくれたのね。」
『うん。』
幼子の姿をとる化け物は、愛らしい笑みを浮かべた。
その様は親に愛されて、その愛を存分に享受できることを信じきっている子供のようだった。
「どうしてなってくれたの?
かつてはナニカで、神で、吸血鬼だった貴方が、ただ1匹の鬼として私と一緒にいてくれたの?」
『要らないと求められたから。
不必要であることを望まれたから。
僕なんか要らないと、力なんか要らないと、君が僕を拒絶してくれたから。
僕に何も願わずに、ただ名前をくれたから。
対価無しに何かを与えられたのは初めてだったから。』
「“鬼宿”?」
『そう、それだよ。その名前を貰ったからだ。
君の心をなんとなく喰らって感情を得たその瞬間に、僕は初めての喜びというものを名前に対して抱いていたと理解したから。
そしてその喜びという奴が美しかったから。
美しかったから憧れて。
それで、僕はその為だけにいようと思えたんだ。』
ああそうだった、そうだったんだよと他人事のように事も無げに呟いて、鬼宿はまた笑った。
「······馬鹿ね、鬼宿。貴方は本当に馬鹿なのね。」
この美しい化け物には、何も無かったのだ。
何も持てなかったのだ。
何にもなれなかったのだ。
自分は神かもしれないと錯覚するほどの力を得ながらも、何も与えては貰えなかった。
この悲しい化け物を満たしてくれるものは、この世界のどこにも無かったのだ。
きっと永い時間を生きた筈だ。
永い時間を、様々なものと共に生きていた筈なのだ。
それでもこの化け物は、ちっぽけなものさえ一度たりとも与えては貰えなかった。
自分でも欲しいものが分からないまま、ただただ彷徨っていた。
そのことがどれほど哀れで、悲しいことなのかミメイには分からない。
けれども飴か何かを貰った子供のように無邪気に笑う鬼宿を見て、余計に泣きたくなってしまう。
『うん。でも僕は嬉しかったよ。
何者でもない僕が何かになれた気がしたから。
僕は鬼宿だ。未明に宿る鬼の、鬼宿だ。
どうしてかな、それだけで酷く気持ちが良かった。』
「馬鹿だなぁ、貴方は本当に馬鹿だ。」
いつも鬼宿がミメイに言うのとよく似た調子で、ミメイも口角を引き上げながら呟いた。
頬から唇へと、塩辛くて熱いものが通っていったのをそのままにして、ニタリと笑いながらまた口を開く。
「私は、」
『うん。』
鬼宿は頷いた。良い子にしてるのよと親に言いつけられた子供のように。
「貴方を恨んでる。貴方なんかが私に混ざらなければ、私はちゃんと人間だったのに。」
鬼宿の赤い目の中に、赤い目の少女が映っていた。
ミメイはそれを食い入るように見つめながら、鬼宿の細い肩に置いた手に力を込める。
『そうだね。』
「貴方を憎んでる。貴方が私を狂わせなければ、私は醜悪な私自身に蓋をしたままで良かったのに。」
『だろうね。』
「私は、
『知ってるよ。』
その答えに鬼宿は満足気に笑う。
その笑顔が憎々しい、切り刻んでしまいたいくらいに憎くてたまらない。
今までミメイはこんなにも何かを憎いと思ったことはなかった。
憎しみを抱いたことはある。
恨みを抱いたこともある。
きっと恋しいクラピカのことだって、憎いと思ってしまうくらいに愛している。
それでもそれらの感情にはいつだって、べたべたと欲望が付き纏っていた。
けれどこれは違う。
ただの純粋な憎しみである。
憎くて憎くて、大嫌いで────ただそれだけなのだ。
「でも私は
鬼宿の肩に食い込ませた指を解いて、そっとその細い首に這わせてみる。
首に指を回して一息に締めてやろうかと本気で思いながらも、ミメイの口は好意を吐き出していた。
『うん。』
「痛みで人を愛することしか、傷つけることでしか満足できない私でも、私はそんな
指を首から離す代わりに腕を伸ばす。
伸ばしてから、鬼宿の小さな体をかき抱いた。
今にもミメイの腕から滑り落ちていきそうなその体を、全てから閉じ込めるように抱く。
『うん。』
鬼宿の小さな掌も、ミメイの背にそっと回される。
温かいのか冷たいのかもう分からない。
前までは鬼宿の体は、血の通わない化け物らしく酷く冷たいと感じていたというのに。
どうしてだろうか、何も感じられない。
自分の腕を抱いた時のように、よく分からない気持ちの悪い温さだけがそこにある。
「だからもう、私は
口にしてしまえばなんて簡単な言葉だろうか。
けれどそれが難しかったのだ。
きっと何より難しかったのだ、ミメイにとって。
それを誰より知っている鬼宿は唇で柔い弧を描いて微笑んだ。
『うん良いんだよ、もう。君はやっと君になれる。
君が望まないかもしれない、君が求めていたかもしれない君になる。
それで良いんだ、多分それが生きるってことだから。』
「化け物として?」
『そうだね、そうかもしれない。でもどんな生命体だって生きている。
人間も、化け物も、生きているんだ。
死んでいないなら生きている。
そして君は死にたいと望んだことは無い筈だ。
死んでも良いと思ったとしても、死を願ったことは無い筈だ。
君は生きることに絶望しているかもしれない。
でもね、死ぬことに希望を見出してはないんだよ。』
死は救いにはならない。希望なんか生み出しはしない。
死んだ本人にとっても、死なれた周りにとっても。
「···生きているだけで、たったそれだけで私達は簡単に絶望してしまう。
希望なんてどこにもないの。死だって希望になってはくれないの。
でもだからこそ」
『─────生きることは美しい。』
「素晴らしいとは思えない。素晴らしくなんてない。
それでもきっと、私達が生きていることは美しい。」
真昼の生は美しかった。
グレンや深夜、美十、五士に雪見と花依の生だって美しかった。
暮人兄さんも。シノアだって。
名も知らぬ母だってそうであった筈だ。
そうであったとせめて信じていたい。
意味も価値も無かったと言われてしまうような生だったとしても、ただそれ自体が美しかったと思っていたい。
この地獄で、この絶望の中で、せめて生きることだけは美しいと思わせて欲しいのだ。
『だから未明、君は生きろ。
君は君として、ちゃんと君になって生きるんだ。
他の誰でもない君の生を歩んでいくんだ。』
「うん。」
鬼宿の金髪に顎を乗せ、その額を自分の心臓に押し付けながらミメイは頷いた。
『ああ、君は生きてるよ。君の心臓は動いている。
たとえ吸血鬼になってこれが止まったとしても、君は生きている。
君は“君”を生きている。』
「そうね。」
『ああ。』
「······私は、
憎みながら、愛しながら、私は“私”を生きていく。」
誓いをここに。
自分自身を憎み、愛し、自分というものを受け入れるという誓いを。
どんなに醜い自我でも、どんなに美しい自我でも、それが自分であると。
『うん、そっか。そっかぁ。
やっと君は
今まで棄ててきた
心底嬉しそうに鬼宿は笑った。
唇の向こう側の牙を見せ、目尻を下げてくしゃりと笑った。
「私は多分、これから先も迷うわ。
人間でいたいとごねて、化け物になりたくないと叫んで、それでいて他人を傷つけたいと思うのよ。
そんな自分が大嫌いで、憎くて···それでもきっと愛したいの。」
『そうだよ、皆そうだ。
綺麗なだけの存在はない。醜いだけの存在もない。
どんな奴も、自分を愛しながら憎んでいる。
どうしようもない矛盾を抱えて絶望しながら足掻いている。
でも、それを生きることだと呼ぶんだろ。』
僕達は。
と小さく呟いたのを最後に、今度は鬼宿の体が融けていく。
どろりどろりと、ミメイの腕の隙間から落ちていく。
「鬼宿。」
掬えない。ミメイの腕では何も掬えない。
とろとろと血色の泥に混ざって鬼宿の体は消えていく。
『そんな顔するなよ。元にあった場所にあるべきものが帰るだけだ。』
どこか嬉しそうに笑ったまま、鬼宿は目を閉じてミメイの胸に頬を押し付けた。
「それは私の心の話でしょう。貴方は、貴方はどうなるの?
どこにいくの?」
いかないでなんて言えなくて、ただただこのままでいて欲しいと融けていく鬼宿を抱きしめる。
『君の中に。』
「ねえそれなら、今までと変わらないんだよね。
今まで通り私の傍で私に話しかけて、ちょっかい出してくるんでしょ?」
ミメイの声は涙で濁っていた。
そんな彼女の様子に鬼宿は笑みを深め、その胸に自分の頬を寄せて緩い熱を感じる。
そのことに酷く安心しきったように、指の形を取れなくなった掌をミメイの腹に当てた。
『夢を見ていたんだ。』
「夢?」
この悲しくて愚かな化け物にはかつては似合わなかった、今は案外似合うようになった素敵な言葉をミメイは繰り返した。
『親も兄弟もいない僕だけど、人間みたいに母親って奴の腹に宿ってさ。
その優しい羊水の海の中に帰って、浸かってみたかったって。
そういうことに、少し興味があったよ。』
「タマ、貴方······。」
ミメイは母を知らない。
今更知ろうとは思わない。
そうしてミメイがどうでも良いと諦めたものを、本当にこの鬼は全て拾い上げていたのだ。
心の欠片。
ミメイがミメイになる為の大切なピース。
母親を知らないということへのミメイの根源的な喪失感さえも、守り抜いていたのだ。
守り抜いて、その末に夢を抱いた。
ミメイだけのものではない、鬼宿のものでもある大切な夢。
『だから、うん、なんていうのかな。
君の中に融けるのは割と嫌じゃない。寧ろ多分、嬉しいんだと思う。』
「良い、夢ね。本当に。」
心からそう思った。
『うん。』
満足そうに鬼宿も微笑んだ。ような気がした。
もう鬼宿の顔がどこか分からないミメイはなんとなくだがそう感じた。
「鬼宿。」
『なに?』
もう殆どただの泥になってしまった鬼宿の声が、直接ミメイの頭に響く。
「全部、貰うね。貴方の全部、私が貰うから。
貴方が守っていた私の心だけじゃなくて、貴方の全てを私が貰ってあげる。」
泥を自分の元へ集めるようにかき抱いて、それらが自分の体に混ざっていくのを感じながらミメイは穏やかな微笑を浮かべた。
『そっか。』
「ええ。」
『それは凄く嬉しいんだろうな、多分。
だって僕』
──────笑ってるだろ。
もう声は聞こえなかった。
幼子のような────小さな時のミメイのような、またどこか今のミメイのように女性的な声はプツリと途絶えてしまった。
「─────あ、ああああっ!」
失った筈だ。
憎い鬼を、愛しい自我を失った筈だった。
それなのに、何かが満たされたような気がした。
何かが帰ってきたような気がした。
無くしていたパズルのピースをやっと見つけて、それをピタリと嵌めて完成させた時のように満足していた。
具体的に何とは言えない。
心と言ったところで、かつてミメイが棄て去ったものの寄せ集めである。
それらを棄てた後である今のミメイではよく分からないのは当たり前なのだ。
自分が何を棄てたかさえもう、覚えていないのだから。
「···おかえり。」
唇がひとりでに動いていた。
それ以外に適切な言葉を知らないかのように、不思議な確信を持って呟いていた。
ただいまの声は聞こえない。
しかしミメイはこの静寂の中を生きていく。
化け物と人間との狭間を彷徨いながら、いつか化け物になる日を嫌々夢見て生きていく。
それからも、その先も。
そうやって生きることは美しいと信じていたいから。
─────────────
「お、良い顔になったな。」
目を開けてすぐ見えたのは、ミメイがさっき洗ったものの年季が入っているせいで小汚いままだった服を身につけた男の顔だった。
「···おにいさん。」
「しっかしお前見た目に依らず寝相悪いんだな。好き勝手暴れやがって。あまりに暴れるから肩外しちまった。」
全く悪びれずにさらっと言われたことにミメイは少し苛立ちながら、確かに違和感のある右肩に左手を伸ばしてみれば言葉通りだと分かる。
地面に横たわっているのと寝起き特有の寝惚けのお陰で今は痛みがないが、起き上がったら面倒だと察しが着いた。
「ごめんね、おにいさん。」
「おい、顔とセリフが合ってねーぞ。」
男は童顔気味な顔を顰めながら、ミメイの額を指でグリグリしてくる。
こんなふうにクラピカの額にデコピンを食らわせていたことを思い出し、小さく吹き出してから頬を緩める。
「ならありがとう、おにいさん。」
そう言うと、ミメイを覗き込んでいる男は彼女から視線を外しながらぶっきらぼうに呟く。
「···ジンだ。」
「······何が?」
いや本当に何が?と訝しげな顔をすれば、ガリガリ頭を掻きながら男はミメイに向き直る。
「察しが悪いな。その『おにいさん』って奴やめろっつってんだよ。」
「あ、おにいさんの名前?ごめん、突然だったから。
宜しくね、ジンおにいさん。」
「変わってねーだろ、それ。」
額に再びゴツンと指が降ってくる。
「痛いよ、ジンおにいちゃーん。」
「馬鹿なこと言ってねーで肩見せろ、戻してやる。」
「ううん、大丈夫。もう戻すし。」
と言いながら肩を無理に動かせば、嫌な音と痛みと共に肩が元の位置に戻っていく。
「随分な荒療治だな。」
「それ、貴方が言うの?」
「でもどうにかなったんだろ?良い顔になってるからな。」
「······ほんとだ。良い顔、してる。」
湖を覗き込めばそこには、ぼたぼたと大粒の涙を落として満面の笑みを浮かべている顔があった。
幼い頃のような、感情のままに生きていたあの頃のような輝く夢の形。
棄ててきたピースを嵌め込んで、やっと出来上がった“私”の心。
生まれた時から何かが欠けていた、不完全な心が完成したのだ。
心から憎むべき、心から愛すべき“私”がここにいた。
「お前の名前は?」
水辺に座り込むミメイに、すっかり乾いたセーラー服を差し出しながら男───ジンは尋ねた。
「ミメイ、ミメイ=ヒイラギ。
私の名前、ミメイっていうの、ジンさん。」
セーラー服を受け取って、それを胸に抱きしめながらまた涙をこぼして笑う。
「じゃあおはよう、ミメイ。」
「おはよう、ジンさん。」
いつも通り昇ってきた太陽の光を浴びるミメイは、独りになったミメイは、今をちゃんと生きていた。
生き始めていた。
───────これは真っ直ぐに歪みながら破滅に向かっていく、ミメイの物語である。
もう少しミメイちゃんをウダウダさせても良かったんですが、色々考えて無しにしました。
ウダウダうじうじ系ヒロインターンは程々にしたい作者です。
そういう女の子も可愛くて好きなんですけどね。
それにミメイちゃんみたいなタイプはジンに会ったら、良い意味でも悪い意味でも変わるだろうなと思いました。
余談なんですが、この話書いていて不思議な既視感があったんですよね。
後書きまでかいて分かりました。
羽川さんだわ、これ。特に猫物語の時の羽川さんだ。