未だに見えぬ朝を乞う 作:明科
(遥か先の)ヨークシン編とかではキーマンになるかもしれません。
とある街のとあるバーは今日も今日とて、しっとり落ち着いた雰囲気である。
橙色の照明は店内を薄らと照らし、数人の客が談笑したり酒に口をつけたりしている音だけを浮き彫りにする。
妖艶な影が支配するカウンター席の端には、やはりというべきか一組の男女が座っていて。
どちらも夜更けのバーには似合わない格好をしてはいるものの、不思議とこの穏やかな空気の中に混ざり込んでいた。
「そんなにむくれなくても良いじゃないか♥」
男の方が、不貞腐れている女の頬をつつこうとする。
「誰のせいだと思ってるの?」
しかし女は伸びてきた指を容赦なくへし折って、自分から遠ざける。
「まあまあ、落ち着いて♠」
「試験官で遊んでたのはヒソカ君だけなのに。
どうして私まで落とされるのよ······。
マスター、お代わりお願いします!」
それでも尚めげずにちょっかいを出してくる男の足を踏んずけながら、女は空になったグラスを滑らせた。
何故ミメイが夜のバーにヒソカと連れ立ってやってきて、仲良く酒なんか飲んでいるのかという問いに答えるには、今もまだ進行中であろうハンター試験にまで話を遡らなければならない。
1次試験、2次試験と順調にクリアしていたミメイとヒソカだったが、3次試験で2人は見事失格になってしまったのだ。
理由は簡単、ヒソカが気に入らない試験官を半殺しにしたから。
そしてミメイはそのとばっちり。
と本人は思っているが、ヒソカにボロ雑巾のようにされて助けを求めた試験官に精神的トドメを刺したのは他でもないミメイである。
試験官が再三送ってくる秋波を鬱陶しいと思っていたため、ついつい容赦なく叩き潰してしまったのだが、ミメイはそれに微塵も罪悪感を抱いていない。
何をしたのかは割愛するが、きっとあの試験官は色々な意味で再起不能になることだろう。
つまり、ミメイがハンター試験に落ちたのは至極真っ当と言えば真っ当でもあった。
しかし本人はヒソカのとばっちりを食らったと信じ込んでいるため、文句タラタラ膨れっ面。
果てには「ヒソカ君の奢りね。」と堂々宣言しながら彼をバーに引き摺っていったのである。
「ミメイだって受験生で遊んでたじゃないか♦」
心外だなぁ、と笑いながらヒソカは酒の香を楽しむ。
「それはヒソカ君もでしょ。何人殺したの?」
「ん〜、3人だったかな♥」
「絶対もう少し多かった。」
新しいもので満たされたグラスを手に取るミメイは、隣に座る男を睨み上げる。
「ならミメイは覚えてる?殺った人数♣︎」
「覚えてるわけないじゃない。
私を女と侮って、いかがわしいことをしようとした奴等のことなんて一々数えてないもの。」
まだ半分くらいが残っているグラスをカウンターに叩きつけるように置いたミメイは、嘲りの色を赤い瞳に浮かばせる。
「ほらね♥」
「ほらね、じゃなくて。ああもう、これじゃ私が貴方と同類みたい。」
「同類じゃないか♦2人ともハンター試験で失格になったし♠」
「ハンター試験に落ちたことはさておき、私は貴方とは同類じゃないよ。
共通項は多かったとしても、決して同類にはなり得ない。
私は貴方とは違って、強者との戦いはあんまり好きじゃないもの。」
グラスの外側を伝う水滴を指先でなぞり、潤んだ爪でグラスを軽く弾くミメイ。
「確かに君はどちらかと言えば、弱い者虐めの方が得意そうだ♦」
「そうね、弱い人間をいたぶるのは得意よ。
特別好きというわけでもないけど。」
弱い者虐めが得意になってしまったのは、柊家での教育の賜物なのだろう。
あの呪術世界において圧倒的上位に君臨する柊家の人間として生まれたミメイは、自分より弱い他者とは屈服させて従わせるものだと教えられた。
それこそが自然の摂理で、柊家に生まれたからには当たり前の原理として受け入れるしかなかった。
「なら君は何が好きなんだい?」
「言ったでしょ、私はたった1人でしか満たされない。
他の人間を代用して憂さ晴らしをしたとしても、結局お腹がすくばかり。
そこそこ楽しかったとしても、それは一時しのぎにしかならないの。」
そうだ、ミメイには1人しかいない。
クラピカしかいないのだ。
グラスを両手で握りしめ、その中身に映る自分自身と見つめ合う。
今にも蕩け落ちそうな赤い目は欲望で染まり、唇から覗く牙は何かを求めるように鈍い輝きを称えている。
そんな自分を飲み込むように、ミメイはグラスに口をつけた。
「一途だね♣︎」
「私の恋はそういうものだもの、当然よ。
······だからあんまり私に近付かないでくれる、変態ヒソカ君。」
クロロといいヒソカといい、どうしてこうもセクハラしてくるのかと苛立つミメイであった。
「欲求不満なんだ、ボク♠」
「どこかで適当な女でも引っ掛けてきたら?」
「ハンター志望の人間が沢山集まる試験でなら、良いオモチャを見つけられるって期待してたんだ♦
でも駄目だね、今回はミメイだけだ♣︎
だからボクは君とヤりたいんだよ♥」
ヒソカはにまりと目を細め、カウンターに置かれたミメイの手の甲をなぞる。
その感触と仕草にゾクッとしたミメイは、彼の手の甲をつねり上げて自分から引き剥がす。
「どちらにせよ却下。
私は貴方と寝る気もない。勿論殺し合う気もないもの。」
今ヒソカと殺り合ったところでミメイには何のメリットもない。
クラピカを
既に一度蝶の力は使ってしまっている上に、ヒソカの念能力の全貌を知らないからである。
ヒソカに強制的に引き寄せられるという嫌がらせを何度か受けたことから、彼がオーラを粘着質なゴムのようなものに変えているのだろうということには気付けた。
しかしそれ以上は推測のしようがない。
きっと何かしらの奥の手を持っている筈であり、それを受けた時に対処しきることが出来るのか不安なミメイであった。
実際ヒソカのゴムのような念を引きちぎろうとしてみるも、手応えはあったが結局失敗した。
つまり、今のミメイはヒソカに対する決定打を持っていないのである。
恐らくそれは、ミメイに首輪をつけてくれたクロロにも言えることで。
ミメイが気侭に生きる為に必要な駒を掌の上で転がすのには、やはり力が必要なのだと思い知る。
人間としての限界を越えて、化け物になるしかないと再確認する。
「君に手を出したらクロロは怒るかな♦」
不機嫌そうなミメイの横顔を見つめながら、ヒソカはそう呟いた。
「別に何にも思わないんじゃない?
······ああでも待って、私の首を絞めるくらいはするかも。」
「絞められたのかい?」
「うん、割と本気で。
私ね、クーさんと一番最初に出会った時は我慢ばっかりしてる子だったんだって。
溢れ出しそうな欲望を抱えてる癖に、何も望まない聖人ぶってたんだって。
クーさんはそれが気に入らなかったらしいの。
だから私が自分の欲望に呑まれて壊れ始めるまでは好きなようにさせて、1番良い時にクーさんの手で最後の引導を渡して自分のものにするつもりだった。」
空になったグラスをカウンターに置いてから、頬杖をついたミメイは淡々と語り出す。
「でもそうはならなかった♣」
「私はクーさんの見ていないところで、勝手に欲望の捌け口を見つけちゃった。
たった1人を好きになって、恋をして、愛してしまって、それから自分の欲望に正直になったの。
クーさんはそれも気に食わなかっんだって。」
「歪んだ独占欲だね♥」
「どうせアレよ、オモチャを奪い取られた子供とか
そんなものに巻き込まれる私、本当に可哀想。」
やれやれ、と呟きながら嘆息するミメイだったがその顔に嫌悪の色は浮かんでいない。
「でも君は今クロロのものなんだろう?
『自分の
そう彼も言っていたしね♠」
「そうね、素敵な首輪がついてるもの。
さしずめ私は犬かしら?」
「猫じゃないかな♦君、結構我儘で気まぐれだし♠」
「私、猫好きじゃないんだけど。」
元々主に対する忠誠心が高めの犬と違って、猫を従順な僕になるよう調教するのには時間を要するからである。
そうやってすぐに恐怖政治を敷こうとする自分本位なところが、式神達を怯えさせていた根本原因だと気付かないミメイであった。
しかし柊家を始めとした呪術師達は、そうやって多くの存在を屈服させることを至高と考える節がある。
その中で価値観を植え付けられてしまったのだから、仕方ない部分もあるのだ。
「同族嫌悪だね♥」
「······まあ、クーさんに飼い慣らされてるわけじゃないって意味では猫でも良いのかな。
あくまでこれは取引だもの。
私はクーさんのものになる代わりに、クーさんを利用する。
それ以上でもそれ以下でもない。
だから安心してね。
ヒソカ君がクーさんと殺り合うのも止めたりなんかしないから。」
自分がクラピカにするように、ヒソカがクロロに執着しているのを知っているミメイはヒラヒラ手を振って笑う。
「残念だなぁ、クロロを殺ったら君もボクと殺り合ってくれると思ったのに♣」
ヒソカは心底残念そうにそう言った。
「するわけないでしょ、そんなこと。
でもヒソカ君、クーさんと殺し合いなんて現実的じゃないと思うよ。
貴方一応、旅団のメンバーでしょ。
つまりクーさんの部下ってことになる。
それに私が見た限りでもメンバーは皆クーさんと仲良しで、貴方との殺し合いを容認しそうにもないけど?」
カウンター奥のマスターから新たなグラスを受け取ったミメイは、その中の氷でカラカラと遊びながら尋ねた。
「そう、だから困ってるんだよね♦
旅団に入ってクロロに近付いたのは良いものの、彼はいつも警戒を怠らない♣
必ずメンバーの誰かしらを傍に置いているし、一度仕事が終わればすぐに行方を眩ませる♠」
「つまりヒソカ君としては
ふぅんと素っ気なく呟きながらも、ヒソカというカードの価値を更に上げるミメイであった。
使いようによってはクラピカをもっと苦しめることができる。
一手先、二手先、三出先、と様々なパターンをぼんやり考えるミメイは、想定よりも辛めの酒に舌鼓を打ちながらヒソカの話に耳を傾ける。
「クロロと戦う上ではね♦
勿論彼等も皆、ボクの大切なオモチャだから殺り合うのは大歓迎♥」
「わぁ、歪みない。流石戦闘狂。」
「ミメイだって人を殺してる時愉しそうじゃないか♣
戦闘狂いの気は君にもあるよ♦」
「貴方みたいに戦うこと自体を愉しんでるわけじゃないもん。
単に私は、私より弱い人間を蹂躙するのが好きなだけだもん。
それに何度も言うけど、そんなものじゃ私は満たされないんだから。
復讐の為なら何だって利用する決意をしてる癖に、誰より優しくて弱くて甘いせいで、結局自分しか差し出せないあの子が1番なんだから!」
バーンと派手な効果音がつきそうな勢いで熱く語るミメイ。
その手には既に空のグラスが握られている。
「くっくっく、言葉の端々から君の変態性が感じられるね♥」
「うるさいよド変態ピエロ。」
「もしかして酔ってる?」
「そうなれたら良いなって思って、多めに飲んでるんだけど全然酔えない。
毒とか薬に耐性があるせいね、やっぱり。」
そうぼやくミメイの顔は確かに赤くなってもいないし、目も潤んでいない。
いつも通り、クラピカに対する欲望で表情が歪んでいるだけだった。
「ねえヒソカ君、貴方は来年もハンター試験受けるの?」
「ボクの趣味を楽に愉しむ為には便利だからね、ハンターライセンスは♥」
「ふぅん、そう。ちなみに私も受けるつもり。
今年の試験だと私の目的は半分しか達成されなかったから、来年に期待ね。
来年こそは受けに来ると良いんだけど。」
今年のハンター試験にクラピカは現れなかった。
だから実はクラピカがいない時点で、ミメイは適当なところで今年の試験に落ちるつもりではあった。
それが自分の意志とは関係なく起きたことに少しの苛立ちを感じていたミメイだったが、来年の試験への期待でそれらは上書きされていく。
「君の大好きな“彼”かい?」
「勿論。」
空のグラスをカウンターに置きながら、ミメイは椅子を引いて立ち上がる。
薄暗いバーでも仄かな光を失わない紫の髪を靡かせながら、彼女はヒソカの後ろを通り過ぎようとする。
と、そこでふとやるべきことを思い出して立ち止まり、彼の首に指を当てる。
「······ヒソカ君、分かってるよね?」
頸動脈が皮膚近くで流れている部分を、トントンと軽く叩きながらミメイは囁いた。
その様はまるで別れ際に睦み合う恋人同士のようで、この良い雰囲気のバーでは違和感のない光景である。
だからミメイとヒソカに対して誰も特別視線を向けないのを良いことに、彼女はじわりとオーラを膨らませる。
「くっくっく♦」
途端に濃くなった背後からの血の香りを愉しむヒソカの口角がゆっくり上がる。
「手、勝手に出したら怒るから。」
つ、とヒソカの頸動脈をなぞるミメイの言葉に熱は無い。
ただ淡々と決定事項を告げるのみ。
「ん〜、あまりに美味しそうだったらどうだろう♠
約束は出来ないな♥
君が執着している“彼”がどんな人間なのかボクは知らないし、気付かないうちに手を出しちゃうかもね♣」
こうやって煽るようなことを言えば、今すぐミメイが遊んでくれるかもしれないと思ってのヒソカの言葉だったが、流石にミメイも簡単には乗りはしない。
「ふぅん、そんなこと言っちゃうんだ。
···まあ良いけど。
その時はその時で、私もちゃあんと対処するから。」
ヒソカの首筋から指を離し、彼に背を向けて去っていく。
「つれないなぁ♥」
その背中にヒソカは声をかけるも、ミメイは軽く手を振りながらこう言い残すだけだった。
「貴方の欲望処理に付き合う気はないの。
ばいばい、ヒソカ君。
あ、そうだ。来年までに花札のルール覚えてきてくれたら私は嬉しいな。」
バーのドアが静かに閉まり、ミメイの気配が徐々に遠ざかっていくのを感じながらヒソカは呟く。
「······最後まで我儘だね、君は♠」
クロロと同じ特質系なんだろうなぁ、とそんなことを考えながらミメイが残していったグラスを軽く弾くヒソカだった。
────────────
残念ながらハンター試験に落ちてしまったミメイは、任務に勤しんだりアリサに連れ出されて遊んだりと、代わり映えのない日々を過ごしていた。
そして今日も、窓から薫る秋風を頬で感じながらアリサの屋敷でお茶を飲んでいる。
気付けば前回のハンター試験から10ヶ月もの時間が経過しており、次のハンター試験まであと数ヶ月。
今度こそはクラピカに会えるだろうかと希望に胸を高鳴らせて、ミメイはじっと待っている。
「ヨークシンはいかがでしたか、お姉様。」
かたりと音を立たせてティーカップを置きながら、アリサは向かいに座るミメイに尋ねた。
「マフィアと公的権力の癒着が感じられた。」
「うふふ、あの街はマフィアが実効支配していると言っても過言ではありませんもの。
それよりミメイお姉様、陰獣になられたというのは本当ですの?」
「うん。」
アリサが紅茶を注いでくれたティーカップを持ち、胸近くでその手を止めたままミメイは答えた。
「陰獣としてのお名前は何でしたか?」
「『灰猫』。」
「あら、確か猫はお嫌いでは?」
「うん、嫌いよ。」
クロロにはペット扱い、ヒソカには猫呼びされるミメイは若干不機嫌そうに唇をひん曲げる。
十老頭の1人である上司にヨークシンのオークションに連れて行かれたと思ったら、十老頭のお偉方が揃い踏みする前で顔も名前も知らない男と戦わされて。
見世物のようにされたことが不快で、ミメイを執拗に殺そうとしてくる男の頭をすぐに蹴り潰した。
そこでお偉方皆のスタンディングオベーションである。
ミメイが殺した男は彼女の上司お抱えの陰獣だったらしく、最近やらかしたとか何とかで処分することが決まっていたそうだ。
知らぬ間にその処分役を仰せつかり、あれよあれよと言う内に陰獣になったミメイであった。
その腕一つで陰獣という地位まで成り上がった美しい
十老頭達はそんなからかいの意味を込めて『灰猫』と名付けたのだが、その意図にミメイは全く気付いていない。
彼女には成り上がったという意識が皆無だからである。
「ミメイお姉様の所のボス様は、少しばかり見栄っ張りですもの。
きっと十老頭の皆様にお姉様を自慢したかったのですわ。」
20になってもまだ子供っぽい膨れっ面をしているミメイを見たアリサはくすりと笑いながら、代々レンフィールド家に仕える執事が焼いたクッキーを口にする。
「みたいね。」
ミメイも紅茶を飲んでからクッキーを手にし、それを指で半分に砕いてから口に運ぶ。
そもそも陰獣とは、世界中のマフィアを牛耳っている十老頭お抱えの実行部隊であり、それぞれの長が組織最強の武闘派を選出することで結成されている。
ミメイとしては雇われ懐刀という地位に収まっていたかったのだが、騙されるように陰獣の名を貰ってしまっては仕方がない。
いつどう使えるかは分からないが、手札が増えたと思っておくことにしている。
使えないと判断したならばすぐに捨てても良いのだから、取り敢えず貰えるものは貰うという適応力を備えているミメイであった。
「仕方ありませんわ、お姉様はお綺麗ですから。
その
その上誰よりもお強くて······もしもエドがいなかったら
「そう?」
「はい。最近特にお綺麗になられましたから、余計にそう思いますの。」
「そっか。」
ミメイはティーカップを静かにテーブルに置き、窓の向こうに広がる青空を仰ぎ見る。
見事な秋晴れで雲一つない。
真夏よりは弱くなったとはいえ、眩しい太陽の光がミメイの目を灼く。
「···アリサはさ、従兄弟と結婚しないの?」
澄み切った青を見上げたままミメイは小さく呟く。
「エドとですか?勿論するつもりですわ。
けれど
私とエドの祖国では、男女共に17歳からしか結婚が認められておりませんの。」
「ふぅん。じゃあドレスとかはまだ?」
「はい。私の背が伸びていることもあって、仮縫いもまだ先になりそうです。」
「そっか。きっと、似合うよ。アリサには白が似合う。」
赤い髪と青灰色の瞳には純白のドレスがよく映えることだろう。
軽く瞼を閉じて、ウェディングドレスを身につけたアリサの姿を想像してみるミメイ。
「ありがとうございます。けれど白はお姉様にも合う色ですわ。」
「······。」
瞼をゆっくり上げて、青い空を再び目に映す。
今日も真っ赤に穢してやりたいくらいに綺麗で、憎たらしいくらいに綺麗で、見ているだけで涙がこぼれそうになるのは何故だろうか。
陽の光をこうやって僅かでも浴びていれば、どうしようもなく気だるくなって頭にもモヤがかかってしまう。
そうして変なことを考え出してしまう。
「···お姉様、何かありましたの?」
ミメイの目尻から1滴雫が流れ落ちたのを見て、アリサは新品のハンカチをミメイに差し出しながら心配そうに訪ねた。
「夢を見たんだ。」
アリサからハンカチを受け取ることなく、ミメイはただ空を見つめ続ける。
「夢、ですか?」
「真昼とグレン────私の双子の姉とその恋人の結婚式。
私がそれに出席してる夢。
壊れてない真昼がグレンの手を取って、綺麗に微笑みながら光の中を歩いてた。」
少し前まで、蝶の力で見る夢はクラピカの血を啜るものばかりだった。
ミメイが今1番望んでいることなのだから当たり前である。
けれど最近はそれだけではなく、
大切なあの人達がミメイの周りにいて、皆で笑っていて、間違いなく幸せだと感じられる夢を。
「私は仲間や家族と一緒に、真昼とグレンを祝福するの。
暖かな春の日差しの中で沢山の花を降らせて、おめでとうって口々に言って。
もう、誰も殺さないの。もう、誰も殺されないの。
檻なんてどこにもない。籠も牢も何にもない。
皆生きていて、皆自由に生きていて、そこにあるのは幸せだけ。」
「素敵ですわね。」
優しく穏やかなミメイの声音に、アリサも素直に相槌を打つ。
「それでね、気付いたら皆殺しちゃってた。」
幸せな夢を語っていたのと同じくらい平坦な熱量で、そう言葉は続いていく。
淡々とした、いや寧ろどこか柔らかさを孕んだミメイの声に対して、アリサが返せたのは息を呑む音だけ。
ごくり、という音が部屋に木霊する中、身動ぎさえ出来ずに固まるアリサを他所に、ミメイは緩慢に唇を動かす。
「みんなみんな、ぐちゃぐちゃの血の海に沈めてね。
私はそこに1人足を浸して、笑ってた。」
酷い話でしょ、と呟いてからアリサの方を向いたミメイの目は真っ赤に染まっていた。
その赤から涙は流れない。
けれど。
見る者を思わず絶句させてしまうほど壮絶な笑みを浮かべていて。
苦悩と憂いと悲しみと、そんなものを嫌というほど味わった末に最早笑うしかないと絶望しきった色を帯びていて。
感受性豊かなアリサの瞳から涙がつぅと伝って、軽やかな音を立ててテーブルに落ちる。
「今日はもう帰るね。紅茶ありがとう。」
そっと立ち上がったミメイは、何も言えずにただ唇を震わせるアリサの横を通り過ぎる。
そしてそのまま窓を開け、その隙間に体を踊らせて下へ降りてしまう。
目の前からミメイが消えたことでやっと我に帰ったアリサは、弾かれたように窓に駆け寄って身を乗り出す。
窓の真下にミメイの姿は無かったが、少し離れた所をゆっくり歩いている後ろ姿がアリサの視界に入って。
「でも···ミメイお姉様の恋は本物でしょう?!
貴方がどんな苦しみを抱えていて一体何に悲しんでいるのか、
でもお姉様、貴方のその気持ちだけは殺してはいけませんの。
絶対にそれだけは駄目なんですの。
恋を叶えて幸せになる未来を諦めてしまうことだけはしないで下さいまし!」
その言葉が聞こえたのであろうミメイの手がひらりと上がるも、アリサの方を振り向くことはない。
「一度恋を始めたならば、どんな方法を使ってでも私達は幸せにならなくてはなりませんのよ。
それが恋する乙女なんですもの!
それが、恋の為だけに様々なものを犠牲にした私達に課せられた義務であり、奪い取った権利なんですもの!」
ミメイの後ろ姿があまりに陰を帯び、暗い昏い闇を孕んでいたことに更に涙をこぼしながら、アリサは必死に声を上げた。
しかしアリサが瞬きをした隙に、ミメイは一陣の風となって姿を消してしまう。
「······お姉様は
分かってますわ、分かってますの。
私では何もかも足りませんもの。」
────だからお願い。
どうか、あの美しい
どうか、あの
窓枠を強く握りしめながら、アリサはそう心から願う。
“誰か”がミメイを救ってくれるように。
かつて愛する従兄弟がアリサを救ってくれたように、陳腐だが意味のある愛の力で救ってくれるようにと。
──────────
腹が空いていた。
喉が乾いていた。
足りない、足りない、と全身が騒いでいた。
見える世界は真っ赤に歪み、聞こえるのは幸せそうな笑い声や悲痛な叫びだけになり、鼻は血の香りのみを嗅ぎ分ける。
だから殺した。
殺してしまった。
ミメイは沢山殺してしまった。
人気のない薄暗い路地裏でこの体を落ち着けようとしていたのに、軽々しく声をかけてきたナンパ男達を殺してしまった。
首を捻じ切って、心臓を奪い取って、内臓を引きずり出して、手足を踏み潰して、頭を掻き回して。
そうやって心のおもむくままに殺してしまった。
誰も殺さないように。
誰も喰わないように。
夢だけで我慢できるように。
そうやって必死に自分を抑えていた所にズカズカと踏み込まれて、気付いた時には血の池地獄。
「···あは。」
掌からとろりと滑り落ちていく血液が、路地裏の黒い地面を赤く汚す。
それを勿体ないと思いながら、口腔内を支配する大量の唾を飲み込もうとする。
しかし随分立派になった牙が邪魔で、なかなか唾液を腹に下せない。
周りに転がるのはガラクタではなく元人間だった肉塊達。
建物の壁から地面まで、乱暴に塗りたくられているのは赤いペンキではなく血。
ここまで派手にやってしまっては余計に腹がすくばかり。
沢山の食べ物を目の前にぶちまけられて、食欲は更に高まってしまう。
アリサを殺したくないが為に、欲を抑える為に彼女の元を辞したというのに、これでは何の意味もない。
「─────っ!」
背後でカサリと音がしたのと同時に、可愛らしい悲鳴未満がミメイの鼓膜を揺らす。
ぐるんと首を回して、返り血で汚れているであろう顔を声の主に向ける。
そこにいたのは幼い少女と彼女よりも大きいであろう少年。
運悪く
少年は少女の兄なのだろうか。
この惨状を見て体が竦み、泣くことしかできなくなっている少女を庇うように強く抱きしめていた。
そして少女よりも幾分か勇敢だったらしい少年は、今すぐミメイから逃げようとして音を立ててしまったらしい。
「妹を守ってるの?良い子ね。」
赤黒く染まった手を少年少女に伸ばせば、少年は恐怖で顔を強ばらせながらも少女を守ったまま必死に下がる。
しかしミメイには為す術もなく、哀れな子供達は壁際に追い詰められてしまう。
「その子を私に差し出すなら、貴方の命は助けてあげる。」
ブルブル震える少年の腕の中の幼い少女を指差して、ミメイは赤い舌を見せて笑う。
その様は正に不条理な取引を持ちかける悪魔であった。
子供達にもそう見えたのだろう。
2人とも大きな澄んだ瞳から、ぼたぼたと涙をこぼしてしまう。
「お、れを···」
少年が声を絞り出す。
ミメイと少女を交互に見てから、恐怖で真っ青になりながら必死に細い声を紡ぎ始める。
「うふふ、なぁに?」
優しい悪魔はにっこり笑って、小さな少年の話を聞いてやる。
「おれに、してください。いもうとはだめです。
だからおれを、おれならいいんです。」
涙がいっぱい溜まった目で、しっかりミメイを見上げて少年は宣言する。
震えながらも、今にも崩れ落ちそうになりながらも、妹を守る為に自分を差し出す選択をした。
「······あはは。」
羽虫を振り払うようにミメイが軽く手を動かせば、少女の華奢な体が地面に転がる。
「おに、いちゃ···!」
嗚咽と悲鳴が入り交じった小さな嘆きがミメイの脳を揺らしたが、彼女はもう止まらない。
どこまでも無防備で弱々しい少年の体を組み伏せて、その肩を地面に縫いつける。
妹ではなく自分を狙ってきたことに安堵したように小さく笑いながらも、これから訪れるであろう死に怯えを隠せない少年の首に手を伸ばす。
細い細い、首。
真っ白で、柔らかそうで、熱い血が通っている首筋。
そこに指を這わせて、激しく脈打つ頸動脈に愉悦を感じるミメイは大きく口を開ける。
真っ赤な口内と、真っ赤な舌と、真っ白な牙。
混沌の入口が、ぽかりとその裂け目を開く。
諦めたように涙を流す少年の顔をじっとり見つめてから、ミメイは開いたままの口をその首筋に寄せる。
お腹がすいているのだ。
喉が乾いているのだ。
どうしようもなく足りないのだ。
体の中心から湧き上がる空虚感を埋めるには、きっともうこれしかない。
血が、血が、血が欲しい。
血だけが欲しい。
欲しい欲しい欲しい欲しい、欲しい!
「おにいちゃんをはなしてぇっ!」
鋭い牙が少年の首に穿たれる寸前、可愛らしい衝撃がミメイの背を襲う。
「やだやだやだ、おにいちゃんはだめ!
だめだよぉ!」
ミメイがたった今少年から引き剥がした少女が、ミメイを止めようと彼女に飛びかかったのである。
さっきまで泣くことしかできなかった少女が、兄を助ける為に必死に声を上げたのだ。
息ができなくなりそうなくらいにしゃくりあげながら、ミメイの服を引っ張るのだ。
「マオ、だめだ!はなれろ!」
ミメイに拘束されている少年が首を振り回しながら妹の名を叫ぶ。
「やだぁ、やだよぉ!
おにいちゃんはだめだよ!」
しかし少女は更に泣くばかりで、ミメイからその小さな手を離そうとはしない。
「マオ!」
少年が再度妹の名を叫ぶ。
このままでは妹の命まで危険に晒されてしまうと分かっている少年は、血を吐き出しそうな勢いで喉を震わせる。
その剣幕に怯えてしまったのか、少女は余計に引っ込みつかなくなってミメイのセーラー服を引く。
「はなれてよ、はなれてよぉ。
おにいちゃんをかえしてよ、このバケモノ······!」
「······。」
ずるりと力が抜ける。
くたりと力が抜ける。
何もかもが滑り落ちてしまったように、体がゆっくり歪んでいく。
バケモノと呼んだその存在が黙ったまま突然崩れた隙に、少年はいとも簡単に拘束から抜け出して。
泣きじゃくる少女の手を引いて、この地獄から逃げる為に足を動かす。
後ろは振り向かずに、バケモノという言葉を聞いた瞬間に何故か泣きそうになっていた女になど気を払わずに、一目散に逃げていく。
その小さな足音が離れていくのをどこか遠くで聞いているようになっていたミメイは、ガラクタで埋め尽くされた地面の隙間に座り込む。
血の海の中、たった独りで力なく座り込む。
薄暗い路地裏に射し込む僅かな月明かり。
それは平等にミメイの体も照らし、彼女は血溜まりに映る自分自身と目を合わせてしまう。
獲物を捕えたという悦に染まっていた血色の目、獲物を喰いちぎろうとしていた白い牙、辺りに一面に広がる血と獲物の血に欲情しきった薔薇色の頬。
これのどこが人間だと言えるのだろうかと、血溜まりの中の
「······馬鹿みたい。」
馬鹿みたいだ、本当に。
ミメイは今生きている。
心臓を動かして生きている。
けれどこれが生きていると、人間として生きていると果たして言えるのか。
言って貰えるのだろうか。
お前は人間だ、とあの日と変わらぬ声音で言ってくれるのだろうか。
クラピカはミメイにそう言ってくれるのだろうか。
「お腹、すいた。」
喉が悲しい鳴き声を上げる。
ぽかりと開いたままの唇から、口内に留まれなかった涎が垂れる。
無色透明の滴は真っ白なミメイの手首に落ちて。
それに吸い寄せられるように手首に口元を持っていって。
思考を放棄したまま、手首に己の牙を突き刺した。
薄い皮や肉を貫通し、その奥でゆったり眠る血管を目指して牙は進む。
そうしていればすぐ、ぶちりと血管を破く音が身体中に響き渡る。
血が溢れる。
牙が赤く汚れる。
ミメイの口内は血で満たされる。
ごくりとそれらを飲み下す。
けれど。
「意味なかったなぁ。
何にも意味なかった。
余計にお腹すいちゃった。」
たった今自分が噛みついた手首から赤い蝶が飛び立つのを見送り、ミメイは諦めたように笑ってみる。
唇の端に残った自分の血を舌でペロリと舐めとって、やはり何の味もしないことを心から残念だと思う。
自分の血では味がしない。
全くもって美味しくない。
この自傷行為は無駄な流血であった。
ただ、牙の使い方が少し上手くなっただけ。
“いつか”の為に牙の扱い方を覚えただけ。
「─────好きだよ。」
金色の月光の下で、紅の代わりに血を引いた唇を動かす。
ああ、そうだとも。今日も今日とて月は美しい。
唯一無二の光として、今夜も化け物を照らしてくれている。
どれだけ手を伸ばしても届かない遠い場所で静かに微笑んでいる。
だからこそ堕としたい。
美しい玉には
綺麗な花には棘を刺したい。
·············ああ、あああ、ああ、違うそうじゃない。
そんなのはおかしい。
人間として間違っている。
好きならば大切にしたい。
恋はもっと優しくあるべきだ。
愛するという行為は心を寄り添わせる尊いもの。
そうだと知っている。
ミメイはそうだと知っている。
知っている筈なのに、その可愛らしい定義を嘲笑ってしまう自分がいると気付いている。
そうだ、これが生きるということだ。
矛盾を抱えて生きるということだ。
「知ってるよ。
私はもう知ってる。
だからこそ、この世界は美しい。
生きることは美しい。
美しいから、私は好きになったんだもん。
折れていた膝に力を入れる。
ピチャリと血溜まりが撥ねて、タイツの黒色が更に濃くなる。
それでもミメイは立ち上がる。
真っ赤を蝶を陽炎のように従えて、たった1人で歩き出す。
まだ悩む。
この先後悔は山ほどする。
運命なんてものがあるのなら、今すぐ殺してやりたいくらいに憎い。
それでもこの手に答えは得た。
だから往こう、いつか出会える貴方の元へ。
長かった。
本当に長かった。
原作までいくのにここまでかかるとは夢にも思いませんでした。
作者の妄想だけで構成された話を、今まで読んで下さり本当にありがとうございます。
そして!これからも!よろしくお願い致します!