未だに見えぬ朝を乞う 作:明科
自分の咳の音で目が覚めた。
喉がやすりで削られた様にヒリヒリと痛む。
その喉をさすっていれば、未だぼんやりしている視界に浮かび上がるのは薄茶けた天井。
知らない天井だ。
そう、知らない······──────
体の重さなど、どこかへ行ってしまったかの様に跳ね起きた。
まず素早く自分の体の状況を確認する。
鎖や縄で縛られてはいない。
毒か何かを盛られた様な感覚もない。
体の怠さは恐らく寝起き特有のものだろう。
だがまだ油断は出来ない。
次に周りを見渡す。
何の変哲もない部屋だ。
今自分が体を起こしたベッド、部屋の真ん中には簡素なテーブルと椅子2脚、その奥にはキッチン。
出入り出来そうなドアはキッチン横のドアと、ベッドの近くのドア。
見た所キッチン横のドアが外と繋がっている出入り口だろう。
錆びついてはいるもののちゃんと鍵穴があることが確認出来る。
まだぼんやりする頭を叩き起し、記憶を辿っていく。
最後に残っている記憶は、冷たい赤茶けた土の上で座り込んでいたものだ。
何日もまともに食べていないせいか、陽炎の様に揺らめいてきた視界の中に白い雪の欠片が見えて。
寒さが痛さに変わり、その痛ささえも少しずつ感じなくなりそうになっていて。
そうだ、そこに誰かが来たのだ。
黒く光るカラスと共に現れた人影。
紫がかった人影だったのを薄ら覚えている。
何か話したような話していないような、そしてその後の記憶が無い。
時折暖かさを体全身や、額や頬に感じていた様な気もするが、それはその人影が触れたからだろうか。
分からない。
思い出せない。
だが悩んでいても仕方がない。
再び自身の体に拘束の類がないことを判断し、掛けられていた布団から足を出す。
床に足先を着ければ途端そこから冷たさが全身に回り、暖かい布団の中に逆戻りしたい気持ちが湧き上がる。
しかし今は我慢である。
一思いに布団を引き剥がしながら、ベッドの縁に手をついて立ち上がる。
パサリ。
そんな音が足元から聞こえた。
勢いよくベッドに叩きつけた掛け布団がずり落ちたのかと見てみれば、そこに鎮座ましましていたのは女性用の下着だった。
恐らく掛け布団の下にあったのだろうが、下着の持ち主の見当違いな気遣いを知る筈もないのだから、それをどうして良いか分からず立ち尽くす。
何故布団の中にと不思議に思いながらも、かぁっと頭の方に血が上っていくのを感じた。
下着を見てしまったことに対する衝撃も相まって、ふらりと目眩が襲ってくるが、無理をしてベッドから手を離して壁伝いに歩く。
覚束無い足取りで暖炉前を通り過ぎ、キッチンを覗き込む。
人影は無い。
人気のない部屋から恐らく自分以外は誰もいないだろうと思っていたが、その通りで良かったと胸を撫で下ろす。
起きてすぐ、ベッドの横に木刀含む自分の荷物が無造作に置いてあったのは確認していた。
しかし唯一の武器たる木刀を手に取らず、この狭い部屋の探索をしていたのにも訳がある。
今の自分の掌には、木刀を握る力も残っていまい。
何日もまともに食べていなかったこと、想定以上の刺すような寒さだったこと、それらが力を奪っているのだ。
ともかく回復するまでは戦う気はない。
そして、そもそもろくに戦えないと分かっていた。
「···、······!」
ふと足元に何か感じた。
小さな声の様な超音波の様な、はっきりと音として聞こえはしないが何かが足元から耳に届いたのだ。
先程事故のようにして見てしまった下着が歩いてきたのでは、そんなオカルトじみた考えが浮かぶがすぐに打ち消す。
気のせいだろう、そう自分を安心させるように呟きながら下を見る。
何も無い、何も無い、何も······無い筈だったのだ。
信じていた何かに裏切られた、そんなセンチメンタルな気分だ。
軽く現実逃避をしかけながらも、自分のズボンの裾を必死に引っ張っているらしい白い紙切れを視覚は認識している。
人型に切られている小さな紙切れ。
踏んでしまえばぐしゃりと破れてしまいそうな弱さだが───現にズボンの裾を引っ張っているのだろうがその感覚はほぼない───仕草から必死さが漂ってくること、いざ踏んでみるかと思い起こせば考えが伝わったのか、捨てられた子犬のような目───目はなく、ただペラリとした白い表面だが───を向けてくることから、踏むに踏めない。
1匹、と呼んで良いのか分からないが取り敢えずその1枚の紙切れをじっと見つめていると、もう1匹がテケテケと駆けてくる。
先程まで寝ていた布団に潜んでいたのか、ベッドから墜落してべチャリと潰れかけながらも、フラフラ立ち上がって懸命に駆けてくる。
それからズボンの裾を引っ張っている仲間の背中(ということにする)に張り付いて、うんうんと仲間を引っ張る動作をする。
2匹で協力しようとしているらしいが、申し訳ないことに全く引き止められている感覚はない。
特に力を込めずとも、紙切れ2枚程度振り切ってしまえるだろう。
「···すまない。」
哀れみを誘う紙切れ達の姿についつい絆されて、得体の知れない物体だということも忘れて身をかがめる。
「······!!···!」
またもや超音波のような声なき声を発している。
「お前達が何と言いたいのか私には分からない。」
「···、······。」
心なしか悲しそうに紙が萎んだ気がした。
「だがお前達が私にどうして欲しいのかは分かる。
私に出て行って欲しくないのだろう?」
「···!」
ぱああ、そんな擬態語と共に紙切れ2枚の周りに花が飛ぶ幻覚が見えた。
存外分かりやすい紙達だ。
顔が無いため顔色を見ることさえ出来ないというのに。
「それは、お前達の主人にあたる人物の望みか?」
問いを重ねる。
闇雲に部屋をあさるよりも情報を得られそうだと判断したからだ。
紙達は迷ったのか、2匹でチラチラと顔(ということにした)を見合わせている。
「······。···!」
だが少し経ってから、頷く様に僅かに首(と考えたい)を縦に振った。
「そうか。
お前達は何だ?」
「···!」
胸を張られた。
えっへん、と堂々胸を張られた。
全く分からない。
何故かは知らないが自慢げなのは伝わってきた。
「質問を変えよう。
お前達の主人は何だ?」
「···?······?···!」
質問の意図は分かったらしいが、どう説明して良いものか、そんな様子でバタバタ両手を振る紙2匹。
「分かった。はいかいいえで答えてくれ。
頷くか首を横に振るかで頼む。」
「······!」
薄っぺらい頭部分が取れるのでは、と心配になるほど勢いよく首が縦に振られた。
「お前達の主人は男か。」
性別は大事である。
性別によって対応を変えるつもりであるし、男であるならば力負けしないようにする為の対策が必要であるからだ。
「······。」
首がブンブンと横に振られる。
「よし。若いか?」
こくんと可愛らしく2つの首が縦に動く。
「若い女か···、奴隷商人をしている若い女がいるだろうか。
いや、そうでないと決めつけるのは良くない。
人は見かけに寄らないのだから。」
伸びた金髪を邪魔に思いながら、今まで遭遇した人間達のことを思い出す。
人の良さそうな笑みを浮かべて、保護してやると言った若い男は奴隷商人だった。
温かなスープを恵んでくれた妙齢の婦人は、美しい少年少女をいたぶって殺すのが趣味の異常者だった。
誰も信じられない。
誰も、人間は信じられない。
嫌なことを思い出して少し俯いていれば、紙切れ達が心配そうに首を傾げる。
大丈夫?そんな声を発しているのだろうか、床についた手をチョコチョコ撫でてくる。
「ああ、大丈夫だ。心配ない。
次の質問をしても良いだろうか。」
「···!」
2匹が交互に頷く。
「お前達の主人は悪人か?」
「···?······?······。」
微妙な所らしい。
小さな手を頬辺りに当てて固まっている。
顔があるならば渋い顔をしていたのだろう。
「奴隷商人か?」
「···!」
勢いよく首を横に振り回す。
「ならばどこかの金持ちの愛人か何かか?」
今度は手も一緒に振って、全身で否定してくる。
富豪の愛人である若い女の道楽として、見目好い少年を家畜の様にして飼うことがここ最近流行っていると耳にしていた。
その線が強いと思っていたのだが、宛が外れて少し肩を落とす。
「そうか、違うのか。
······一体お前達の主人は何者なのだ。
善人なのか?」
「···?······!」
まっさかー、そんな笑いを漏らすかの様に緩慢に手を振る。
「悪人でもなければ善人でもない···?
益々分からない。」
質問に答えたのだから褒めてくれ、というかの様に掌に頭を押し付けてくる紙切れ達。
「まるで犬の様だ。そもそもお前達は何なのだ。
さっぱり分からない。」
仕方なくペラペラの頭を撫でてやり、それから溜め息を吐き出す。
「───────知りたいの?」
突然、ぞわりと背筋が凍る。
優しく柔らかい、全てを蕩けさせる様な甘い声。
聞こえたのはそんな女の声だった筈だ。
だというのに、首の後ろが引きつってピリピリする。
「知りたいんでしょう?教えてあげましょうか?」
後ろから声が少しずつ近付いてくる。
だが振り向けない。
お前は誰だ、そう聞いてやりたいが声が出ない。
糊でぴったり貼り付けられたかの様に喉が開かない。
「あらあら、手懐けちゃったのね。
その子達は弱いとはいえ、そんな風に人に引っ付いたりしないのよ。」
コツリコツリと足音が響いて、ピタリと目の前で止まった黒いブーツが見える。
黒いブーツから伸びる白い足が少し見える。
今や声の主は目の前にいた。
何だ、これは何だ。
何か分からない。
全く分からない。
だがそれでも、得体の知れないものだ。
これは人間か?
分からない。
人間よりもっと、触れてはいけないような存在なのではないか?
恐ろしい。
ただ、恐ろしい。
感じるのは本能的な恐怖。
ひょいと紙切れ達に手が伸びて、その小さな姿が視界から消えた。
「ねえ、私のこと悪人じゃないとか善人じゃないとか、好き勝手言ってたみたいだけど。
何か弁明したいことは?」
ございません、そんな震え混じりの声なき声が聞こえた気がした。
「ご主人様がいないからって好き勝手したら駄目よ。
私、怒ると怖いの。知ってるでしょ?」
体が硬直して顔を上げられない為、紙切れ達がどうなっているかは見えないが、あの薄っぺらい頭を必死に縦に振っていることは容易に想像出来た。
「改めてこんにちは。」
唐突にすっと身がかがめられ、声の主の顔が視界の中に入る。
うずくまったまま動けないのに合わせたのか、しゃがみこんでにっこり目を合わせてくる。
「私の名前はミメイ、ミメイ=ヒイラギ。
“昨日未明、渋谷区のアパートで女性の遺体が発見されました”、のミメイよ。」
シブヤク、と聞き慣れない言葉を口にした声の主───灰色がかった紫の髪を首に巻き付けた女は、澄んだ茶の瞳で見つめてきた。
得体の知れない不気味な気を漂わせた女は笑う。
鬼か悪魔か堕天使か、はたまた神の御使いか。
見た目は普通の少女だというのに、どこか人間味を感じられない。
いや人間なのだ。
見て分かる。得体の知れなさはあるが紛れもなく人間だ。
だが何だこれは。
向こう側に“何か”がいる。
向こう側から“何か”が見ている。
向こう側で“何か”が笑っている!
女の姿を通して、小さな黒い人影が見える。
2つの赤い目が光っている。
ギラギラと獣じみた、鋭い目が笑っている。
「貴方の名前は?」
女に問われ、はっと意識が覚醒する。
白昼夢だったのだろうか、何か嫌なものを見た気がした。
気のせいだ、気のせいだったのだ。
そう自分に言い聞かせる。
その様子を、女の両肩の上にそれぞれ乗っかる紙切れ達と同じ様に、キョトンと可愛らしく首を傾げながら見つめてくる。
「···。」
「あは、緊張しちゃった?
まあそうよね、突然拉致された様なものだもの。
警戒して当然よ。」
「···ら、ち?」
不穏な言葉に警戒心が燃え上がり、掠れた声が口をついて出る。
「誤解しないで頂戴。
私は体の冷え切った状態で道端に座り込んでいた貴方を保護してあげたのよ。
雪が降り始めてたし、ここに連れてこなかったら貴方死んでたかもしれないわ。」
ああ寒い寒い、そんなことを呟きながら、女は首にマフラーの様に巻き付けていた髪を解く。
珍しい色の長い髪がパサリと床にも少し広がった。
「あのね、私には貴方をどうこうしようって気は無いの。
ただ死にかけの貴方を拾っただけ。
別に感謝なんてしなくて結構よ。
これは私の自己満足だから。」
「信用出来ない。」
ピシャリと跳ね除ける様に言う。
「あは、警戒心強いなぁ。そんなとこもシノアにちょっと似てる。」
眦を緩やかに下げて、女は懐かしそうに笑う。
「シノアっていうのは私の妹。
無表情が多めで、貼り付けた様な笑顔も得意とは言い難くて。
色んな事情のせいで感情表現が薄めなの。
でもね、私の妹なの。
捨てられなかった、これからも捨てられない妹なのよ。」
聞いてもいないことをペラペラと話す。
「だからね、貴方も捨てられなかったの。
私の方に倒れてきた貴方を、捨てられなかったのよ。」
女は手を伸ばす。
簡単に避けられそうな程、ゆっくり手を伸ばしてくる。
だが避けられなかった。
まだ体が硬直気味なのも理由の1つだ。
しかし1番は、女の顔全体は柔らかな笑みを浮かべているのにも関わらず、瞳が頼りなさげに揺れていたからであった。
恐らく自分よりも歳上の女が、この様に僅かながらでも弱さを見せる姿を見るのは初めてだったのだ。
その様が余りに危うく、儚く、美しく、どうしようもなく目を離せない。
何故感じるのかさえ分からない恐怖をずっと抱いてはいる。
だがそれ以上に、引き寄せられる。
「逃げないの?
私、貴方にとっては得体の知れない不審者よ?」
雪の様に冷たい掌が片頬を包み込む。
抵抗しないのに安心したのか、不思議に思ったのか、興味深そうに尋ねながら女はもう片方の手をも伸ばしてくる。
「自分で言うのか、それを。」
逃げない。
逃げられない。
ただ女の掌が頬に触れるのを待ち、通常時の自分と似通った色の瞳を見つめ返す。
「うん。ちゃんと自覚あるのよ、私。
······あは、あったかぁい。」
ついに女の両の掌が頬を包み込んだ。
「私は冷たい。」
「知ってる。わざとだもん。」
悪戯っ子の様な笑みを漏らし、抗議をやんわりと躱す。
「ねえ、貴方の名前はなぁに?
そろそろ教えて欲しいの。」
無条件に浮かべているかのような無邪気さを含んだ瞳を向けられ、溜め息混じりの答えを返す。
「···クラピカだ。」
「クラピカ。」
白い肌との対比でやけに目立つ赤い唇を開いて、女は名を呟いた。
それが何故だか、少しくすぐったい。
人に名を呼ばれたのが久しぶりだからだろうか。
「クーちゃんだとクーさんと被るわね。
決めた、貴方はクラピカ呼びにするわ。
ね、クラピカ。」
女は頬から手を離し、そのまま強引にクラピカの手を引いて立ち上がらせる。
突然のことに体は追いつかずゆらりと体が傾くが、女───ミメイにそっと支えられた。
正面から抱きしめられている様な自分の状況に気恥ずかしさを感じて、ミメイの腕から抜け出そうとするが抵抗は許されない。
薄ら寒さが見え隠れするのに、何故か甘ったるさを含んだ笑顔で黙らせられる。
「好きにしてくれ。」
最早どうにでもなれ、そんな思いを込めてどこか投げやりに呟いた。
「クラピカ、かぁ。初めて聞く響き。新鮮だわ。」
「そうだろうか。
私はミメイという名の方が新鮮だが。」
正直な感想を口にすれば、微苦笑をたたえる。
「あらそう?
ちなみに私の双子の姉の名前は真昼っていうのよ。」
「マヒル?朝昼晩の?」
「そう、お昼ご飯食べる真昼。」
再び郷愁の色がミメイの瞳に映る。
「不思議な名の姉妹だな。」
「でしょ?
名前の由来なんか知らないけど、何か意味でもあったのかしら。」
そう言いながらも余り興味は無さそうな様子であるのは見て取れた。
「さあ。私も特に、自分の名に関して由来を聞いたことは無い。」
「そんなものよね。
さ、まずは遅いお夕飯にしましょうか。」
くうくう、そんな頼りない音がタイミングよくクラピカの腹から響いた。
思わず顔を赤くするのを見て、ミメイはくすりと笑いを漏らす。
「硬いパンと粉末スープしかないけど、我慢して頂戴。
私料理出来ないの。」
クラピカを椅子に座らせた後、そんなことを言いながらこちら側と壁で仕切られていないキッチンに入るミメイ。
シュコーと蒸気機関車の様に煙を上げだす、シンクに唯一鎮座する旧式の湯沸かし電気ポット。
それから溢れだしたほわほわ壁まで昇って消える白い湯気と、それを見あげないまま質素な夕飯の用意をするミメイの後ろ姿を、クラピカはただぼんやり見ていた。
白い紙切れ2匹───式神さんは、皆様ご想像通りのあれです。
いわゆる、という感じのあれです。