人という生き物は、間違えるものである。
ただし、必ずしも間違いが過ちに繋がるとは限らない。
何故ならば過ちというのは、間違えたという事実を改めないことをいうからだ。
なればこそ、俺はこれから間違いを正しに行かなければいけないのだろう。
そう思い、その扉の目の前まではどうにか足を運んだ。
運んだが、そこで足が止まった。
あの日の自分を思い出したからだ。
『何が分かるってんだよ! 老いぼれたジジィにッ! 世界的権威で、誰からも必要とされるお前にッ、無条件に愛されるお前らにッ! 俺の何が分かるっていうんだよ!』
俺の口から出された『老いぼれたジジィ』という言葉。
これがどれだけおじいちゃんの事を傷つけたか。
心の痛みについては、俺自身がよく知っていたはずなのに。
(むしろ痛みを知っている分、重みを知っている分、謝りづらい)
俺が、昔の何も知らない無邪気な頃だったら。
俺がまだ、期待に押しつぶされる前であったら。
俺がもう少しだけ、横暴であったら。
こんなに苦悩することは無かっただろう。
「はぁ、また明日でいいか」
ふと空を見上げればとうに日は下りに差し掛かっており、どれだけ自分が扉の前で立ち往生していたのか気付かされた。
問題の先送りに過ぎないことは自覚しつつも、俺は研究所を後にしようとした。
「……だれか居るのかの?」
すりガラスの向こうにシルエットが浮かび上がる。
今まさに諦めようとしたところだったからか、脳が微妙に思考を停止した。
その停止した分のリソースで、過去がフラッシュバックする。
『おじいちゃん! 今日一番道路にすげーコラッタが居たんだ! 炎を体にまとってポッポに突進してたんだ!』
『こりゃ! また勝手に草むらに忍び込んだな!』
『わー! おじいちゃんが怒ったー!』
『全く……』
その後俺はどうしたんだったか。
……そうだ、俺は笑ったんだ。
おじいちゃんに叱られて、それなのに笑って。
扉が開き、白髪の権威が顔をのぞかせる。
「……おじいちゃん」
俺から先に、口を開いた。
おじいちゃんは少し口を開き呆然としている。
その差は心の準備をしていたかどうかで、数時間葛藤していた俺だけが動けたのは道理であった。
「……おじいちゃん、ごめん。リーグで負けた時、俺は自分の事しか考えてなかった。おじいちゃんの事酷く言った。それだけじゃない、ポケモンの事もきちんと向き合えてなかった」
何日も、何日も。
謝る状況はシミュレートしていた。
大丈夫、なんだかんだ言って許してくれるさ。
だから、だから。
(この震える体をどうにかしてくれ……ッ)
怖かった。
自分を否定されることが。
不安だった。
また失望されるんじゃないかと。
恐怖だった。
もうやり直せないかもしれないということが。
「心の痛みは、誰より知っているつもりだったのに、おじいちゃんの事を傷つけた。ポケモン達の事を傷つけた。あいつに、悲しい顔をさせてしまった」
もう一度謝罪の言葉を口にしろ。
反省を示せ。
時間は経てばたつほど重みを増し、切り出しにくくなる。
だから……。
だけど、俺の口は頑なに閉じたままだった。
所詮俺はそんな人間だったということだ。
ああ、これはだめかもしれないな。
そう思った時だった。
ポンっと。
渇いた音が響き渡った。
腰に付けたボールベルトからみんなが顔を出した。
驚いてそちらに顔を向けると、ウインディが顔を押し出してきた。
俺の顔を、おじいちゃんの方に向けるように。
「あ……」
ようやく気付いた。
謝罪するという立場にありながら、俺はおじいちゃんの顔を見ていなかったのだ。
怖くて、恐怖で、不安で。
そんな余裕すらなかったんだ。
「ワシが悪かったんじゃ。お前はいつも期待を超えてくれていたから、いつからか過度な期待をしておった。それがどれだけお前を苦しめていたかなんて、ここ最近になってようやく気付いたんじゃ」
おじいちゃんは、静かに涙を流していた。
一歩俺に歩み寄る。
思考が停止して、混乱して、一歩退こうとした。
ラプラスがそれを阻む、いや、支えてくれた。
「ポケモンリーグ優勝、それは誰にでも出来る事じゃあない。それを成し遂げたのはお前がたゆみない努力をしてきたからじゃ。だからこそ、わしは本来こういうべきだったのじゃろう」
おじいちゃんが俺を抱きしめた。
「……ポケモンリーグ優勝、おめでとう。いい勝負じゃった」
目頭が熱くなる。
振り払うように、意識をそらすように。
それを自分の口から吐き出した。
「でも、結局あいつに負けて、もう一度挑んだっていうのにまた負けて」
「いんじゃよ。負けたって」
おじいちゃんは俺を抱きしめたままポンポンと背中を叩いた。
思い出が蘇る。
昔よく、バカをやって叱られて、その後こうやって励まされたんだった。
「負けたっていいんじゃ。負けて何を学ぶか、何を改めるか。それが大事なんじゃ」
涙腺が決壊した。
抑えきれなくなった雫がボロボロと零れ落ちる。
「二度目の挑戦の話は聞いておる。あと一歩だったじゃないか。一度目から見て大きな進歩じゃ。お前は改めることを知った。お前の旅はまだ始まったばかりじゃ」
だからの、と言って。
おじいちゃんは俺の肩をがっちりとつかみ、俺の瞳をのぞき込んだ。
「お前はお前の信じる道を進めばいいんじゃ。お前はワシの孫だが、自分の道は自分で切り開けば、それでいいんじゃ」
今のお前たちならできるはずだ。
そうおじいちゃんは言った。
俺は無様に泣いた。
声をあげて。
それは断末魔だったのか産声だったのか。
この日俺は鎖から解放され、自己を手に入れたんだ。
*
「もう行くのか?」
次の日の朝早く、まだ日も登っていないころ。
俺は旅支度を整えて家を出ようとしていた。
そこをおじいちゃんに呼び止められた。
年寄りの朝は早い。
「うん。あいつを追い抜くなら、あいつと同じスピードで成長してちゃダメなんだ」
「焦るんじゃないぞ。お前には」
「俺にはみんながいる、そうでしょ?」
もう暗闇の中で一人悩んだりしない。
もう霧の中で迷ったりしない。
辛いとき、苦しいとき。
いつだってみんながいる。
「心配ないようじゃな。気を付けるんじゃぞ」
「分かってるって! リザードン!」
リザードンの背に乗ってマサラタウンを後にする。
「さて、どこへ向かおうか」
無計画な旅路。
でも、それでいい。
誰のものでもない、俺自身の道を築き上げるんだ。
曲がりくねっていたって、ボロボロだって構わない。
いつか誰かに誇れるような。
そんな道を作ろう。
とりあえずここに。
最初の一歩として、様式美として。
宣誓を打ち立てようと思う。
「待ってろよ。いつかおまえを追い越して思い知らせてやる」
脳内に浮かぶのは、俺の前を行くあいつの影。
「このオレ様が、世界で一番強いってことをよ!」
今度こそ終わり