十三歳の天才少女は、普通の恋をした   作:まなぶおじさん

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十二歳の少年は、十三歳の天才少女と対話する

 きりつ、れい! さようならー!

 

 黒沢は「またなー」と挨拶をして、半ば早歩きで教室から出ていく。友人の種村も、何の疑いもせずに「また明日なー」と黒沢を見送った。

 

 あの日以来、黒沢は、時間があればボコミュージアムへ出向くようになった。

 もちろん、目的はある。バトルを繰り広げるボコを見届けること、そのボコを大声で応援しまくること、やっぱり負けるボコの一言、「次は必ず勝つぞ!」を聞くこと。

 ――そして、

 

「あ」

「やあ」

 

 あの女の子と、出会いたいから。

 最初は単なる観客同士として、応援仲間として接してきた。それはそれで構わなかったのだが、やはり同好の士という繋がりは強いものであるらしく、黒沢と女の子の間に、緩和めいた雰囲気が生じてきたのだ。

 

「おう! また来てくれたんだなお前ら! 今日こそ勝つから、オイラの活躍、見てくれよな!」

 

 ボコが腕まくりをする。そうして挑戦状を受け取ったらしい白猫、黒猫、ネズミの三人組が、「俺たちにケンカを売るたぁ、懲りない奴だぜ!」と煽りに煽る。

 数的に不利な状況だが、ボコは決して怯まない。腕をぶんぶん振り回し、「今日こそお前らに勝ってやっからなー!」と宣言する。

 ――四秒後、ボコはダウンをとられた。容赦のない足踏みを食らっていく中、ここぞとばかりに黒沢と女の子が立ち上がり、

 

「ボコ! がんばって! ボコーッ!」

「何してんだボコーッ! 根性出せーッ! スタンダッ! スタンダーップ!!」

「ぐああ! もっと力を、力を貸してくれーッ!」

「ボコ! 負けないでボコ! ボコ! すたんだっぷー!」

「立て! 立ってくれぇッ! お前はやればできるクマだろーッ!」

 

 瞬間、ボコの目が光ったと思う。

 

「っしゃぁ――――ッ!」

「やった! やった!」

「グレイトォォォッ!!」

 

 ボコが勢いよく立ち上がり、女の子がお転婆に二度跳ね、黒沢は拳を振り上げる。

 復活の流れは、いつだって良いものだ。

 

「お前らの応援のおかげで、今日は勝てそうな気がするぜ!」

「ボコ! 距離をとって、スライディングで決めるんだ!」

「スライディングだな! わかったぜー!」

 

 ここ最近は顔を覚えられたのか、黒沢のリクエストに答えてくれるようにもなった。ますますショーと一体化したようで、けっこう嬉しかったりする。

 そしてボコは、黒沢の言葉通りに距離をとる。標的にされた白猫が、やってみなと腕をくいくい動かしてみせた。

 結果はわかっているはずなのに、黒沢と女の子の前のめりが止まらない。両手を握りしめ、小声で「頼む、頼むぞボコ」と応援し、まるで西部劇のような殺意の間が生じ――遂に、

 

「うおぉぉぉあぁぁぁッ!」

「踏み込みがたりねー!」

 

 白猫が飛んだ。

 スカッた。

 隙だらけになった。

 

「見え見えなんだよー!」

「オラオラその程度かよー!」

「おっせえスライディングしやがってよー!」

「ぐああああッ! やめろっ! やめろーッ!」

 

 ボコがボコられていく。初心者だった頃は「は?」と間抜け面を晒していたものの、今となっては絶好の応援タイムに他ならない。

 黒沢が「頼むッ! 立ってくれーッ! リベンジしてくれー!」、女の子が「負けないでー! がんばってー! ボコーッ!」、黒沢が「俺はお前を信じているんだぞ! 頼む! 復活してくれーッ!」、女の子が「勝って! お願い! 立ってーッ!!」

 

「――へ、今日はこれぐらいにしといてやらぁ」

 

 結局は、ボコの敗北で終わるのである。

 ここでスライディングの一発でもキメられていれば良かったのだが、残念ながら、ボコはチャンスに恵まれないキャラクターをしているのである。

 なぜならば、

 

「く……次は必ず勝つぞー!」

「次は必ず勝てるよ、がんばってボコ!」

「また来るからな! お前が勝つまで!」

 

 それがボコだから。

 自然と女の子と顔を見合わせ、微笑一つで感想を伝え合う。

 これが、ボコミュージアムにおける日課だった。

 

 

 

 ボコショーの熱が醒めてきた頃、相変わらず閑散とした施設内で、黒沢は「どうすっかなー」とボヤいた。

 改めて見渡してみると、壁に亀裂が走りまくりだし、床にはゴミが落ち放題だ。ポスターらしきものも破れかかっていて、経営状態が本気で心配になってくる。

 ――そうだな、と思う。

 ボコミュージアムに来てからというもの、根性とは何たるかを見せてもらった。気持ちよく、大声も出させてもらった。

 そして、女の子とも出会えた。

 だから黒沢は、ポケットから財布を取り出す。いくらかのお札が入っていることを確認し、黒沢は「グッド」と呟く。

 

 次の行き先はもちろん、グッズショップだ。

 

 子供一人でどうこう出来るわけではないが、やらないよりはマシだ。そもそもボコミュージアムには、恩義もある。

 ここまで楽しませてくれたのだから、お金の一つや二つを落とすぐらいは訳がない。ボコが勝つその日まで、ボコミュージアムには生きていて欲しい。

 そんな想いを胸に秘めながら、黒沢は初めてグッズショップに足を踏み入れ、

 

 女の子が、いた。

 しかも、目が合った。

 

 どこか気恥ずかしいような、心が躍るような。そんな熱を抱きながらで、黒沢の体がぴたりと止まってしまう。

 女の子の方も、この偶発的な出来事にびっくりしてしまったのだろう。幾度ものまばたき、気まずそうに目逸らし、黒沢の「あー」とか「んー」の唸り声、

 己が頭を、軽く叩く。

 自分は単に、グッズショップへ寄っただけだ。女の子につきまとったわけじゃない。だから、何も悪いことなどしていない。

 そう強く思い、両手をぐっと握りしめる。そのまま堂々とグッズショップへ立ち寄り、なるだけ女の子とは距離を保ったままで、わざとらしく「どれどれ」と言って商品を物色する。

 ――抱きしめられるサイズのボコぬいぐるみ、ボコの目覚まし時計、手乗りサイズのボコのぬいぐるみ、白猫と黒猫とネズミのキーホルダー、ボコ名言つきカレンダー。

 へえ、と思う。どのグッズも良さげだが、特にボコ名言つきカレンダーは中々良さげだと思う。この商品はとりあえずマークしておいて、ひとまずはショップ全体を一回りする。黒沢は、商品を手に取るのは後回しにするタイプなのだ。

 そうして色とりどりのボコグッズを見渡して、時には興味を抱いて、これ買おうかなと呟いて、「残りひとつ! 激レアボコ」の見出しが目に入って、

 

 お、と声が漏れた。

 カゴの中に、ファイティングポーズをとった、手乗りサイズのボコのぬいぐるみが鎮座していた。

 

 残りひとつという宣伝通り、確かにぬいぐるみは一つしかない。その「一つしかない」というシチュエーションと、激レアという響きが、黒沢の欲求を否応に震わせる。

 ――値段も安いし、手乗りサイズというのは中々どうしてお手軽だ、かわいいし。施設内にお金を落とすのなら、これで丁度良いのかもしれない。

 よし。

 黒沢は、そっと手を伸ばし、

 

 手と手が触れ合った。

 顔を見合わせた。

 女の子の目が、これまで以上に大きく見えていた。

 

 羞恥心と申し訳無さが弾け飛び、情けない声とともに女の子から距離をとる。

 女の子も同じように動いて、「あ」、「えと」、「その」と、声が迷ってしまっている。

 少しだけ、判断が鈍った。

 けれどすぐに、黒沢の中に住まう男気が、背を叩いた。

 

「その」

「あ」

 

 激レア手乗りボコへ、そっと指差す。

 

「いいよ、どうぞ」

「え」

「君の方が早かった」

「……同じだった気がする」

「そうかな? まあ、いいからいいから」

 

 カゴから手乗りボコを抜いて、そのまま女の子へ差し出す。「あなたにあげます」という、意思表示のつもりだ。

 対して女の子は、目をすっと逸らして、ほんの少しの間はそのままで、やがては黒沢と目を合わせて、口元を緩ませながら、

 

「あり、がとう」

 

 そうして、手乗りボコをそっと受け取ってくれた。

 そして、手と手が触れ合った。

 

 体が、びりっとした。この不審なリアクションが感づかれていないか、女の子を伺い――女の子は、愛おしそうに手乗りボコを眺めている。

 よかった、バレてない。

 ――思うと、女の子と「対面」をしたのは、これが初めてだ。今の今までは、ボコショーというフィルターがあったから、二人きりとは言い難かった。

 そう実感すると、胸の内がどきりとする。

 ほんとうに嬉しそうに微笑みながら、手乗りボコを軽く握りしめる女の子を見てみると――これまで感じたことのない胸の痛みが、じわりと押し寄せてくる。

 なんだろう、これ。

 こんな感情、クラスメートの女子を見ても湧いて出てこなかったのに。だのに目の前の女の子からは、見たことも聞いたこともない熱情が降り注いでくる。

 わけがわからなかったが、不愉快ではないのは確かだった。この熱に浮いたような感覚が、何だかこう心地よかった。

 

「――じゃあ俺は、カレンダーでも買って帰ろうかな。うん」

 

 あえて口にして、すばやく女の子から距離をとる。そのままカレンダーを手に取り、それをじっと見つめたままで――ため息をつく。

 いけない。

 女の子に対して、感情移入してしまった。

 首を横に振るう。

 いつかやってくる転勤が訪れたら、深く傷つくのは自分だぞ。女の子に出会えなくなって、どうしようもなさを覚えるのは俺だぞ。

 ちらりと、女の子を見つめる。目が合ったから、そっとカレンダーに視線を戻す。

 そろそろ、潮時なのかもしれない。

 十分に楽しんだと思う。

 両肩で、息をする。

 ささやかではあるが、ボコミュージアムの力になれてよかった。

 そうしてカウンターまで歩み寄って、ペンギンの着ぐるみをした店員から「毎度あり! また来てくれよ!」と言われ、振り返らずに立ち去ろうとして、

 

「待って」

 

 決意の足踏みが、あっさりと止まった。

 

「その」

 

 音もなく、そっと振り向く。

 手乗りボコを手にしたまま、目を斜め下に逸らしていて、二度三度ほどまばたきをした後に――女の子が、黒沢のことを見た。微笑みながらで。

 

「いつも、ここにいるよね」

 

 その普通の言葉に対して、判断が少し鈍った。

 黒沢は、若干トチった調子で「あ、あ、ああ」と言い、

 

「まあ、そうだね、うん」

「応援する時、すごくのりのりだよね。なんというのか……サンダースっぽい感じ」

「サンダース……ああ、ウチの母さんの母校だったかな。うん、盛り上がるといつもこんなふうになっちゃうんだ」

 

 女の子が、くすりと笑う。

 

「そうなんだ。でも、あなたのお陰で私も盛り上がれた」

「そう、かな? ならよかった、うん」

 

 黒沢は、決して口下手ではない。同年代の女の子と話すことぐらいは、日常茶飯事だ。

 だのに、目の前の女の子に対しては慎重の姿勢をとってしまう。背筋からして同年代ぐらいであるはずなのに、なぜだか触れがたい雰囲気を感じ取ってしまうのだ。

 ――けれど女の子は、あくまで自分に対して話しかけてくれている。そうしてくれるのなら、自分もそれ相応の態度をとらなければいけないのに、なのに、ついしどろもどろになってしまう。

 

「ねえ」

「な、なに?」

「ボコ、好き?」

 

 ああ――

 その質問に対しての答えなら、二つほどある。

 一つは「好き」だ。そうでなければボコミュージアムのリピーターになどはならないし、お金を落とすこともなかっただろう。だから、「好き」という答えは正しい。

 けれど、でも、

 真っ直ぐに自分のことを見つめてくる女の子に対して、引っ張られるような熱情を抱かせてくれるこの子に対しては、自分の「すべて」を知ってもらいたかった。そうすることで、もっと仲良くなれると思ったから。

 ――転勤が怖くないのか。

 怖い。

 けれど、溢れ出るなぞの気持ちは止まらない。

 

「……好き、というか」

「うん」

「憧れ、かな」

「憧れ?」

「うん。ボコは、何度倒れても諦めない、すげえガッツの持ち主でしょ? ……俺は、そんなボコのことを、ヒーローだって思ってる」

「ヒーロー……――そう、なんだ」

 

 聞いたことのない言葉、だったのかもしれない。

 女の子は、興味深そうに頷いていた。

 ――ここで、黒沢は息を深く吸う。

 

「……俺さ」

「うん」

「俺は、まあ、転勤族ってやつなんだ」

「転勤族……いろんな場所に行くの?」

「うん。だから、友達を作っても離れ離れになっちゃうんだよね」

「……つらい?」

「正直、ね。でも、ボコを見ているとさ、腐っちゃいけないぞっていう根性が湧いて出てくるんだ」

 

 女の子が、実に意外そうな声で「そうなの?」と言う。

 

「だってボコは、勝てないのにぜんぜんへこたれないじゃない。だからさ、その……そんなボコを見ていると、おっしゃー俺もボコを見習うぜーって気になれるんだ」

「――そう、なんだ」

 

 ボコを称賛したからだろう。女の子が、嬉しそうに微笑んでくれた。

 ――心の内を言えて良かった。本当にそう思う。

 

「まあ、ボコもそうなんだけれど……俺の父さんと母さんもさ、俺のことをいつも気遣ってくれるから、だからグレずに済んでるよ。ボコにも、親にも感謝してる」

「えらいね」

「いやいや」

「ううん、えらい」

 

 ストレートな物言いをされて、ついつい表情が崩れ落ちてしまう。歓喜のやり場が抑えきれなくなって、つい頭を掻く。

 

「ねえ」

「うん?」

「その、差し支えなければでいいんだけれど……親は、どんな仕事をしているの? 気になって」

「ああ」

 

 その疑問に対して、黒沢は何でもない顔になって、いつもの声色に戻って、特に深い考えもなく、

 

「戦車道の委員、だったかな? 何か、現場の視察とかで大変らしいね」

 

 ――その瞬間、女の子から、絶句の眼差しを差し向けられた。

 黒沢の思考が乱反射し始める。何かまずいことでも言ったのか、戦車道というものに縁があるのか、戦車道のことが好きなのか、それとも嫌いなのか。

 わからなかった。だから、女の子の言葉を待つほかなかった。

 女の子がうつむく、手乗りボコを胸に抱く。延々と流れている、ボコのテーマだけが耳に届く。

 

「――あの」

 

 長い時を経た、と思った。

 

「その、あなたは……戦車道のこと、どう思ってる?」

「え? ……そっだなー……」

 

 戦車道のことはよく知らない。ただ、親がそれを生業としていることぐらいしか。

 ――確かに、小3までは「何が仕事の都合だよ」と叫んではいた。けれど今は、ちょっとは分別のついた今なら、本心を以てこう言える。

 

「どちらかといえば、好き、なのかな?」

「え」

「ほら、さっきも言ったけど、母さんと父さんってさ、いつも俺のことを気遣ってくれるんだよ。優しいし、料理も美味いし、小遣いもたくさんくれるし」

 

 小遣い云々のところは、あえておどけて言ってみせた。

 

「母さんと父さんは、職場で結ばれたらしいけど……もしそうなら、戦車道やってる人って、きっと優しい人ばっかりなんだろうなーって、そう思ってる。これはマジ」

 

 嘘と思われたくない。だから黒沢は、女の子の両目をじっと見つめ、はっきりと言葉にしてみせた。

 真正面に居る女の子は、しばらくは沈黙したままでいて、やがては小さく頷き、か細く「そう、なんだ」と呟いた。

 

「本当にそう思ってるから、戦車道のことを憎んでなんかいないから」

「……うん。……その、ありがとう」

「え、どゆこと?」

 

 女の子は、ようやく、にこりと笑って、

 

「私ね、戦車道を歩んでるんだ」

「――え、マジ?」

 

 女の子が、こくりと頷き、

 

「島田流って、知ってる?」

 

 首を横に振るう。

 

「そっか……私はね、その、島田流っていう、戦車道にまつわる流派の継承者なの」

「け、継承者ッ!? マジ!?」

「うん」

 

 継承者という単語を耳にして、盛り上がらない男など存在しない。

 

「お、俺とそう変わらなさそうなのに……す、すげえ」

「これでも飛び級してるの。十三歳だけど、大学生」

「とっ」

 

 飛び級という単語を耳にして、盛り上がらない男など存在しない。

 

「地元の大学に通っているんだけれど、私はそこの戦車隊の隊長を務めてるの」

「たっ」

 

 隊長という言葉を聞いて、盛り上がらない男なんて男じゃない。

 

「だから、その……ボコ仲間であるあなたに、戦車道を肯定してくれたことが……とても嬉しかった」

 

 本当に、ほんとうに安心したのか、女の子は深々と胸を撫で下ろす。

 その一方で、いち庶民である黒沢は、一斉に飛びかかってきた島田流継承者、飛び級、戦車隊隊長という強力単語を未だに飲み込めずにいた。

 ――マジか、ほんとうか、そうなのか。どこか遠いように見えたのは、あながち間違ってはいなかったのか。

 黒沢は、特に思考力が追いついていないままで、

 

「……すげえ」

「え?」

「すげえよ、島田さん……で、いいのかな? ほんとうに、アンビリーバブル……」

「そ、そう?」

 

 うんうんうん。黒沢は、ぶんぶんと首を三度ほど縦に振るう。

 

「凄いなあ……でも、大変そうだよね……継承者だもんね、隊長だもんね……」

「うん。でも、戦車道は私の誇りだから。だから迷ったりしない」

「……すげえわ、マジ。俺なんかより、よっぽど強い」

「――それは違うよ」

 

 え。黒沢の思考が、体が、硬直化する。

 

「あなたは、幾度もの孤独に耐えてきた。そして、道を違えずにここまで生きてきた。だからあなたも、強いよ」

「そ、それは、当然のことをしただけで、」

「その当然を全うすることは、極めて難しいの」

 

 島田から、真剣な表情と両目を差し向けられる。

 ――そうか。

 島田が言うのなら、きっとそうなのだろう。

 

「――島田さん」

「うん」

「ありがとう」

「ううん、こちらこそ。……その、すごいって言ってくれて、とても嬉しかった」

「そ、そう? それはよかったー……」

 

 間。

 黒沢は動けない、島田のことを見つめたまま。

 島田は動かない、黒沢のことを見つめたまま。

 黒沢は、悠長にも思った。クラスメートの女子とは何度もトークを交わしあったはずなのに、この瞬間がどうしようもなく嬉しくてたまらない、と。

 男黒沢は、必死になって思った。俺が、この場を切り上げないと。

 

「と、とりあえずっ」

「あ、うん」

「まずはそれ、お会計を済ませないと」

「あ! そうだった……ごめんなさい、店員さん」

 

 ペンギンの店員が、「いいってことよ」と親指を立てる。そうして島田がお金を支払い、実に幸せそうな顔で手乗りボコを持ってきた。

 

「よかったね」

「うん。その、ありがとう……えっと」

「あ、ごめんごめん。俺は黒沢、フツーの小学六年」

「わかった。私は島田愛里寿。よろしくね、黒沢」

「よろしく、島田さん。……いい時間だし、そろそろ帰ろうか」

「うん」

 

 今日はいいことがあった、明日もここに行こう。

 そう思いながら、黒沢ははきはきと両足を動かして、

 

「――あの」

「うん?」

 

 振り向く。

 後ろで立ち止まっていた愛里寿が、まるで申し訳無さそうに、携帯をゆっくりと取り出していく。

 黒沢が、はてと、首をかしげる。

 

「そ、その……えっと……」

「うん」

 

 愛里寿に、そっと近寄る。

 

「えっと……わ、私と、と、とも……とも」

 

 瞬間、黒沢の思考に火が着いた。

 取り出された携帯に、「とも」という単語が出てくれば、結びつく答えは一つしかない。

 ポケットから、携帯を引っこ抜こうとして、

 

 ――また傷つきたいのか、お前は。

 

 頭の中の冷静な俺が、そう語りかけてくる。これまで自分は、転勤という抗えない出来事のせいで、たくさんの友人と離れ離れになっていった。

 メールアドレスの交換ぐらいはしているし、時たま電話だってする。けれど、顔と顔を合わせての会話には決して「かなわない」。それを知っているからこそ、自分は友情めがけ深追いをしてこなかったのだ。

 

 でも――ボコの勇敢なテーマが、耳に入ってくる。

 

 いま、おれの目の前にいるのは、なけなしの勇気をかき集めてでも俺と友達になろうとしている、俺とそう変わらない女の子だ。

 飛び級でも、天才でも、流派の継承者であろうとも――島田愛里寿は、俺と同じボコ仲間で、女の子なのだ。

 俺は男の子だ。だから、女の子を泣かせてはいけない。

 

 ――黒沢は、ポケットから携帯を引っこ抜いて、

 

「俺でよかったら、友達になるよ」

「――え」

「せっかく会えたボコ仲間、だからね」

「――黒沢」

 

 ――俺は、この時に見せてくれた愛里寿の表情を、一生忘れることはないだろう。 

 

 

 

―――

 

 

 

 ここ最近の日本戦車道は、極めて忙しい時期にある。それもこれも、世界リーグが関わっているからだ。

 島田流の家元が言うのも何だが、日本戦車道は若干ながらのマイナースポーツだ。その名を何とかして広めたいが為に、世界進出へ向けての計画が昨日も今日も明日も行われ続けている。

 正直腰が痛いが、日本戦車道の繁栄の為なら仕方がないことだ。こう見えて、暇なのはあまり好きじゃないし。

 デスクの前で、うんと背筋を伸ばす。

 窓を見てみれば、空はすっかり赤い。夏が真っ盛りだからか、虫の音色がしんと聞こえてくる。時計を見てみれば、もう午後の五時。

 ――そろそろ、あの子が帰ってくる時間か。

 よいせと立ち上がる、これも夕飯を作るためだ。

 娘は、今日はどんな話をしてくれるのだろう。戦車道における活躍か、大学における何でもないことか、それとも別の何かか――娘の話なら、なんでもよかった。

 

「ただいま」

 

 噂をすれば。

 島田千代は、足音を立てながらで玄関にまで駆け寄る。

 

「おかえりなさい、愛里寿」

「うん」

 

 愛里寿は、こくりと頷く。今日も何事もなかったようで、何よ、

 

「あら?」

 

 家元の目が、ちょっとした違和感に気づく。

 愛里寿が、胸に抱えているそれは、

 

「それは……確か、ボコだったかしら?」

 

 名前は知っている、愛里寿がよく「ボコミュージアムに行ってくる」と知らせてくれるから。

 

「かわいらしいぬいぐるみね。買ってきたの?」

「あ――なんでもない」

 

 真顔のまま、愛里寿は二階へ走っていってしまった。たぶん、自室へ向かったのだろう。

 千代は、首をかしげながらも、

 

「もう少しで夕飯ですからねー」

「はーい」

 

 ――思う。

 あの子、なんであんなに慌てた顔をしていたのかしら。




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