十三歳の天才少女は、普通の恋をした   作:まなぶおじさん

4 / 10
十二歳の少年は、十三歳の天才少女の騎士になる

 父の手で食卓の上にハヤシライスが置かれ、黒沢と父、母が喜色満面の笑みとともに椅子に着く。

 夕飯の前で、三人が両手を合わせ、

 

「いただきます」

「いただきます!」

「いただきますッ!」

 

 父と母はいつもの調子で、黒沢はいつもより上機嫌そうに礼をする。

 その理由を知っている父は、早速とばかりに黒沢へ視線を投げかけてきた。

 

「お前は今日から夏休みか。いいなー」

「いいしょー、いいしょー」

「いいなー、いいなー」

 

 つまりは、そういうことだった。

 夏休みという時点で上機嫌ポイントが重なるというのに、明日は友人とプールへ、明後日は愛里寿とボコミュージアム、明々後日も遊び呆ける予定なのだから、言動が軽くなるのも致し方がない。友人と遊ぶ、という計画を前向きな姿勢で組めるようになったのだから、なおさらだ。

 

「ああ、凄く羨ましい。あー、俺も夏休みを堪能してえよ」

「あら、夏休みならあるでしょう? なけなしの」

「一ヶ月くらい遊んでいたい」

「そうねえ、私も遊びたいわあ」

「うへー、大人になんてなりたくないなあ……で、やっぱり忙しいの? ここ最近は」

 

 父がハヤシライスをスプーンに乗せながら、苦笑いとともに「ああ」と答える。

 そんな父の心境などはつゆ知らず、開かれた窓からは虫の大合唱が伝わってきた。

 

「ほんと、ここ最近はきついんだ。世界……いやまあ、色々あってな」

 

 父が、力なく言葉をこぼす。ハヤシライスは食べる。

 途中で言葉を区切ったのは、仕事の話を持ちかけたくないが為だろう。全ては自分のためだ。別に良いのに、と思う。

 そうしてハヤシライスを一口二口と食べていって――戦車道の話が出たのであればと、黒沢は何気なさそうなフリをしながら、

 

「ねー父さん母さん」

「何だ?」

「えっと、島田流って知ってる?」

 

 父と母が、意外そうな顔をして顔を合わせる。

 疑惑めいた空気が間に生じて、黒沢は思わず口をつぐんでしまった。

 ハヤシライスすら手につけらない、沈黙の間を少し置いて――母が、黒沢へ首を傾げながら、

 

「あなたから島田流という言葉が出て来るなんて。どこで知ったの?」

「あ、いや、たまたま戦車道について調べてたんだよ。仕事の話ってさ、ほら……息子としては気になる時もあるわけさ。だから少し調べたら、島田流っていうのが出てきて、ね?」

 

 我ながら苦しい言い訳だったが、父は「おお、そうなのか」と明るく応じてくれた。母も「嬉しいわねえ」と微笑する。親の仕事が、息子に受け入れられたからだろう。

 ――親に聞こえないように、安堵のため息をつく。

 

「島田流というのは、日本戦車道における有力流派の一つだな。単騎で、変幻自在に戦うことを重視しているんだ。ワンマンアーミーってやつだな」

「へえー、かっこいいね」

「ふふ、そうね。で、変幻自在の戦術というのは、またの名をニンジャ戦法って呼ばれているのよ。目的があれば何処からでも現れる、そういう意味合いもあるらしいわね」

「ニンジャ!? かっけえ!」

 

 聞いたことのない格好良い由来を聞かされて、黒沢は男の子らしく盛り上がる。母は、にんにんと指を立てていた。

 黒沢のそんな姿に対して、父も嬉しそうに微笑みながら、

 

「だよな、格好良いよな。――で、島田流を語る上で、どうしても外せないのが、西住流の存在だな。統一された集団の力を尊ぶ、西住流っていう有力流派とは、昔から切磋琢磨しあっているんだ」

「へえー」

 

 どうやら「この手」の関係は、戦車道界隈の中では有名な話らしい。言い終えた父が、上機嫌そうにハヤシライスを頬張っていく。

 曰く、切磋琢磨し合う関係と教えてくれたが――心の中では、島田流の方が上だけどねと言っておいた。

 

「ああ、そういえば」

「どしたの母さん」

「この近くにね、その、島田流の家元が住んでいるのよ。といっても、顔を合わせたことはないんだけれど」

「……へー」

「で、」

 

 で?

 

「その師範の娘である島田愛里寿さんが、島田流の継承者でね」

「んぐふっ」

 

 心臓が爆発しそうになった。

 反射的に立ち上がった父が、喉に詰まったのかと狼狽する。母からは、「水水」と水を差し出される。俺は大丈夫だとばかりに、手のひらを左右にふるってみせた。

 

 そのあとは、島田愛里寿について色々聞かされたが――全部知っていた。

 

 

―――

 

 

 そうして、夏休みが始まった。

 休日の朝は早い。目をギンギラに輝かせながら布団から起き上がり、スパスパと服を着替える。そうしてキビキビとリビングへ降り立った後で、既に用意されていた朝食をモリモリ食べ始めた。

 スーツ姿の母が「若いっていいわねえ」と微笑み、同じく仕事着の父が「休みっていいなー」とまだ言っている。時折は大人への憧れを抱くものだが、長期休みになるたびに「やっぱり子供でいいや」と前言撤回するのも、黒沢の伝統行事の一つである。

 

 朝食を食べ終え、歯を磨いて、水着の入ったバッグを手にして、ドアを開けてみれば――暑苦しい空気と、暑苦しい日光をその身に受ける。

 

「いってらっしゃい。車に気をつけて、友達と遊ぶのよ」

「あいよー、いってきまーす」

 

 母が、実に嬉しそうな顔で手を振るう。そんな母を見て、思わず微笑してしまった。

 そりゃあそうだよな。

 そんな上機嫌を胸に抱えたまま、黒沢は市民プールまでひとっ走りする。

 

 

 □

 

 

「――まあ、昨日はこんなことがあってさ」

 

 ボコミュージアム内におけるいつもの場所(ベンチ)で、黒沢と愛里寿は今日も隣同士であれこれ語り合っていた。

 話し終えた黒沢が満足そうな顔をして、愛里寿も楽しそうに頷いている。

 

「そっか……最近は、本当に楽しく暮らせているんだね」

「うん。やっぱり、友達と遊ぶってのは最高だよ」

 

 飲み干したボコ缶を両手に、愛里寿が小さくこくりと頷いて、

 

「私も楽しいよ。今日のボコショーも熱かったし、勝てそうな感じがしたから」

「ねー、まさか真空回し蹴りまで披露してくれるなんて」

「外しちゃったけどね、惜しかったけど」

 

 オチなんてわかっているくせに。黒沢と愛里寿が、ボコミュージアム内で含み笑いをこぼしあう。

 

「次はどんな技をリクエストするの?」

「うーん、投げ技にしようかなあって思うんだけれど、多分触れもしないまま終わるよね」

「そうだね。掴んでしまったら、その時点でポイント高いもんね」

「そうそう。やっぱ打撃技中心でいくかな……今度、色々調べてみるよ」

「うん」

 

 愛里寿が、楽しみにしていますという顔で頷いてくれた。

 

 ここ最近は、本当に笑いっぱなしの日々が続いている。先日のプールにしたって、授業とは違うプールに浸るのは本当に心地良かったし、せっかくだからと滑ってみたウォータースライダーは、恐怖混じりの歓喜を覚えたものだ。

 種村はビート板サーフィンをしでかそうとして盛大にスッ転んだし、それを友人ともども指さして笑うのは最高に楽しかった。その光景を見た種村が「じゃあ黒沢、テメーやってみろよ」とビート板を渡してきたので、「俺は同じ過ちは繰り返さないんだぜ」とビート版の上に乗って、三秒もかからずに空を舞ったのは記憶に新しい。

 疲れ果てた頃にプールから出て、せっかくだからとスイーツ店で一緒に甘いものを食べ、予定も立てずに「また遊ぼうぜー」と解散。そうしてロクに髪も乾かないまま、音楽ショップへ足を運んでいって――ピンときたのは二枚、俗にいうジャケ買いをした。

 

 これが、先日までの出来事である。こんなことがあと二十日ほど続いてくれるのだから、やっぱり子供という身分は最高である。

 ――けれど、

 

「そういえば島田さんは、夏休みとかはあるの?」

「一応。ただ、ほとんどは戦車道を歩んでるかな」

「マジかー……偉いなー」

「島田流の継承者として、当然のことをしているだけ」

 

 けれど、愛里寿は微笑んでくれた。その顔を見て、黒沢の中に熱が篭もる。

 また、よく分からない感情だ。

 そっと、胸に手を当てる。確かに、胸の鼓動が高まっている。けれど、不愉快さなんて感じない。

 

「あ、どうしたの?」

「いや、なんでもないよ。――そうだ、データはある?」

 

 愛里寿が、慣れた手付きで携帯を渡してくれた。

 

「見てみて」

「当然」

 

 そして、島田流の活躍劇が始まる。戦車と爆炎が、黒沢の中に眠るオトコに火をつける。

 

 

 □

 

 

『状況終了』

 

 そうして、動画が終了した。

 愛里寿の携帯を手にしたままで、黒沢が深く深く息をつく。館内で響くボコのテーマだけが、耳にそっと入る。

 けれど、沈黙はそこまでだ。

 黒沢は、愛里寿へ携帯を返して、

 

「エクセレンッ!」

 

 勢いよく、親指をぐっと立てる。

 愛里寿も、控えめな笑みとともにサムズアップしてくれた。

 

「いやー、やっぱり嘘みたいな活躍するよな島田さんはッ! いや、嘘じゃないんだけど」

「うん、ありがとう」

「つーか、前より活躍してねえ? 積極的に動いて、敵という敵をやっつけてるような」

「そ、そうかな?」

 

 黒沢が、高いテンションのまま「うんうん」と頷いて、

 

「なんつーのかな、そう見えるんだよな。言っても、データを見たのは数回程度だけれども」

「ううん。黒沢が言うのなら、きっとそうだよ」

「そうかな?」

「うん」

 

 愛里寿から肯定されたことが、とてつもなく嬉しく思う。おだった気持ちが抜けきらないまま、黒沢は両腕を組んで、

 

「ただでさえ日本一なのに、更にレベルアップなんてなあ。これは世界一も夢じゃないかな?」

「言いすぎだよ、黒沢」

「えー? 俺は本気で言ってるんだけどなー」

「まずは西住流を超えてから」

 

 けれど愛里寿は、やっぱり嬉しそうに破顔してくれるのだ。

 心の底から称賛してはいるが、この顔見たさにあれこれ言っていることも否定はできない。

 

「これは、次の試合も楽しみだな」

「うん。次は……日曜日にやる予定。その日は、社会人チームと交流試合を行うの」

「社会人チーム? 年上?」

 

 愛里寿が、小さく首を縦に振って、

 

「侮れない相手。戦車道における強豪校のOGが、多く参加してる」

「マジか。勝てそう?」

「勝つ」

 

 そう言ってみせた愛里寿の顔は、携帯越しから見える島田流継承者そのものだった。

 射抜かれたような気がして、体温が引き締まっていく。冗談の一言も言わせない空気が、瞬時に訪れた。

 

「……島田さん」

「なに?」

「勝てるよ」

「――うん」

 

 けれど、島田愛里寿とは友達だ。だから、怯む必要なんてない。

 

「……とりあえずは、しばらくは練習の日々が続くかな。だから、日曜日まではボコミュージアムへ行けない」

「いやいや、しょうがねえって。俺のことは気にしなくていいから」

「ごめんなさい。私も、楽しみにしているのに」

「いやいや、むしろ偉いなって思ってるよ。日曜日まで戦車道に励むなんてさ、本当に愛里寿はすごい」

「……うん」

 

 そうして、愛里寿がまた微笑んでくれた。

 それは黒沢の視界に広がって、確かに黒沢へ差し出されて、黒沢の胸の内がまたしても落ち着かなくなる。

 

「私も、黒沢のことは凄いって思ってるんだよ」

「え、俺が?」

「うん。あなたはずっと孤独に耐えてきて、けれども決して腐敗はしなかった。私には……それは無理」

「……そっか」

 

 黒沢と愛里寿に、差なんてものはない。

 

「島田さん」

「うん」

「これからも、よろしくな」

「うん、こちらこそ」

 

 自然と、互いに手が伸びて――固く、握りしめあった。

 

 ――思う。

 愛里寿の手は、自分の手のひらよりもやっぱり小さい。けれども愛里寿は、この身で島田流という大いなる力を体現してみせている。

 島田流という誇りを日本中に広めるために、今日も明日も愛里寿は戦い続けるのだろう。夏休みなんて関係なく、愛里寿はこれからも戦車道を歩み続けるのだろう。

 小学生の身でも、安易に想像できる。愛里寿は、毎日が忙しいはずであると。

 その姿はまるで、スーツを着た父と母だ。けれども愛里寿は、父と母とは違ってまだ子供でしかない。本来は自分と同じく、夏休みに浮かれるべき身であるはずなのに。

 大変だ、とは思う。凄い、とは思う。

 けれど、そんな他人事のように済ませたくはない。

 だって愛里寿は、まちがいなく自分の友達だから。自分を前に正してくれた、仲間だから。これからも笑ってほしい、女の子だから。

  

 だから、この人の力になりたい。

 

「――ねえ、島田さん」

「なに?」

 

 そっと、手を離す。

 

「社会人チームとは、どこで戦うの?」

「えっと、大学の敷地内」

 

 よし。

 

「わかった、それなら行ける」

「――え?」

 

 俺は、自信満々に拳を作り上げてみせた。

 

「俺も試合、見に行くよ。会場で直接、応援しまくるぜ」

「え、え? く、黒沢が? い、いいの?」

 

 愛里寿の目に、光が灯る。それが見えた瞬間に、自分は正しいことができているのだと、強く思えた。

 

「何も予定はないし、何より夏休みだからさ。ノープロブレム」

「黒沢」

「島田流、しっかりと見届けるよ。一秒も見逃さない」

「――うん」

「……島田さん」

「うん、」

 

 両拳を、しっかりと作る。

 息を、大きく吸う。

 

「――がんばれっ! 島田さんっ! がんばれっ! 俺も戦うっ!」

 

 戸惑いの色に染まっていたはずの、愛里寿は、

 

「――ありがとう黒沢! がんばるっ! がんばるっ!」

 

 ボコミュージアムで、二つの声が高らかに響いていた。

 

 

 

―――

 

 

 

 大学へ向かう途中に、次は山でも登ろうぜと提案していた小学生グループとすれ違った。

 それを見て、「ああ、夏休みだっけ」と苦笑してしまう。だのに自分は、今日も今日とて戦車道を歩む予定だ。しかも本日は、年上がたと相手取らなければいけない。

 小学生が羨ましいな、と思う。

 夏休みが恋しいなあ、と思う。

 そんなことを考えながら、パンツァージャケット姿のアズミは、なんだかんだで背筋を伸ばすのだった。

 ――さて、やるか。

 両頬を叩き、意識を戦車道履修者のものに切り替える。

 一息こぼし、キャンパスの中央に設けられた花壇を通り過ぎようとして――大学内で歩んでいく人々の中から、違和感めいたものを目で捉える。

 

 一人きりの子供が、いた。

 

 イヤホンをつけた少年が、花壇の前で視線を泳がせている。気になって数秒ほど様子見してみたが――戦車道履修者としての観察眼が、「あの子は迷子」という判断を下した。もしかしたら、親とはぐれたのかも。

 放っておくわけにはいかない。

 戦車道履修者として、このままにしてはおけない。

 戦車道とは強く、そして優しくなる為のものでもあるのだから。

 よし。

 先ほどまで真顔だった己が顔を、そっと柔らかいものにする。早すぎず遅すぎない足取りで、そっと、真正面から少年の元へ歩んでいく。

 

「君」

 

 イヤホンをつけてはいたが、視界に入れば反応もされやすい。関心を向けられていることに気づいた少年が、すぐさまイヤホンを耳から外した。

 アズミは、少年の目線まで姿勢を屈ませる。

 

「君、どうしたのかな? 道にでも、迷った?」

「あ。実は、そうなんです」

「ああ、そうなんだ……それは大変だったわね。すぐに、交番まで送り届けるわ」

「あ、違うんです。おれ――僕は、大学に用事があって」

 

 アズミの中で、色濃い疑問が生じる。

 子供が一人で大学なんて、意図が全く読めない。ここ数年は「子供」とマトモに話したことなんてなかったから、なおさらだ。

 

「なになに?」

「えっと……今日ここで、戦車道の試合が始まるんですよね? だからここに来たんですが、どこが会場かわからなくて」

 

 それを聞いて、納得した。同時に、珍しいな、とも思った。

 戦車道といえば、女性のための武芸だ。だから、どちらかといえば女性客が多いものだし、趣味として年配の方々が応援へやってきたりもする。あとは家族連れに、カップルか(羨ましい)。

 だから単独で、それもまだまだ若い男の子が、わざわざ試合を見に来る場面なんてものは初めて見た。

 ――正直、結構嬉しかった。こうして戦車道に関心を抱いてくれるのなら、アズミとしては大歓迎だ。

 

 だからアズミは、上機嫌そうに小さく頷いて、

 

「事情はわかったわ。私でよければ、ぜひ案内させて」

「あ、ありがとうございますッ!」

「いいのよ。私、こう見えて戦車道履修者だし」

 

 えいやと、パンツァージャケットを少年に見せる。対して少年は、「たしかに」と呟いた。

 ――知っているらしい。これは将来有望だ。

 

「それじゃあ責任を持って、あなたを会場まで案内するわね。……あ、私はアズミ。ここで戦車道をやっていて、このあと試合にも出るの。よかったら応援してね」

「は、はい! というか、最初から大学選抜チームのことを応援するつもりで来ましたッ!」

「まあ、ありがとう! これはお姉さん、頑張らなくちゃいけないわね!」

 

 アズミが腕まくりをする。それを見た少年が、「期待しています!」とはきはき応えてみせる。

 先ほどまでの脱力感なんて、もうどこにもない。少年と出会えただけでも、今日一日は思い出深いものとなった。

 

「じゃあ、行きましょうか。……えっと」

「あ……僕は、黒沢っていいます」

「黒沢君ね、よろしく」

 

 そうして自然と、握手が交わされた。

 

「じゃ、今度こそ行きましょうか。――あ、ところで黒沢君は、うちの隊長のことは知ってる?」

「え――あ――もちろん知っています!」

 

 む。

 今の、すこし躊躇いがちな反応はなんだろう。

 つい思考を働かせてみるが――もしかしたら黒沢少年は、愛里寿隊長のファンなのかもしれない。

 気持ちはわかる。よくわかる。

 女性の目線から見ても、愛里寿隊長は格好良いし、強いし、可愛い。ましてや男の子目線とくれば、愛里寿隊長に惚れてしまっても致し方のないことだ。

 だからこそ、余計な詮索はしない。

 子供の心とは、大人のそれよりも繊細なものであるから。

 見守ることにしよう。それがいい。

 

「そっかー、やっぱり有名なんだなあ、隊長は。うん、よかったら隊長のことも、応援してあげてね。きっと喜んでくれるわ」

「――はいッ!」

 

 ――よし。

 今日は私も、張り切らなくちゃね。

 

 

 

 

 勝った。

 

 社会人チームは確かに強かった。年上というアドバンテージはやはり伊達ではなく、必要とあれば囮になったり、時には盾になって捨て身のカウンターパンチを食らわせてきた。あれほどの強固な連携は、信頼しあっていなければ出来たものではない。

 それに比べて大学側(うちら)は、確かに連携の甘さが――ワンマンプレイが目立った。ワンマンアーミーこそ島田流という思想が、悪い方向へ動き出してしまうケースが多発してしまったのだ。

 『私がやる』という最後の通信を、今日は何度聴いたことか。

 けれど、大学選抜は勝った。その主たる原因はもちろん、全隊員の前で直立している天才少女だ。

 

「お疲れ様でした」

 

 アズミが、隊員全員が、「お疲れ様でした!」と返す。

 

「みんな、よく頑張った。みんな、島田流の本懐を成そうとしていた」

 

 しかし、隊員の間に安堵は訪れない。

 

「けれど、戦車道の基本を忘れてしまっているように見えた。――撤退はどうした」

 

 誰一人として、表情を変えない。否定もできない。

 愛里寿の背後には、回収されたばかりの、すっかりボロボロになってしまったパーシングの群がある。

 

「島田流を意識してくれているのは分かる。島田流こそ、と思ってくれているのも分かる。だからこそ、大物相手に誇りを証明しようとして……一歩も退かず、焼かれるまで戦うのは、決して勇敢なことじゃない」

 

 やはり島田愛里寿は、人のことをよく見ている。こうも言われては、ぐうの音も出ない。

 

「私とて、たった一両で三十両を相手取ることはできない。天才と持て囃されようとも、最大で五両が限界だ。それ以上は撤退する」

 

 ちなみに基準は、二、三両である。

 

「相手は確かに強かったが、私は最後まで戦えた。理由は簡単、実力を弁えているからだ。……やられる前提で奮闘するよりも、最後まで耐え忍び、生き残ることこそが島田流、真のニンジャ戦法であると、私は思っている」

 

 隊員全員が、重く静かに頷く。

 

「その点、アズミは最後まで善く戦ってくれた。あくまで冷静に、それでいて徹底的に相手の弱みを突き続けた……これにより、相手の戦術は何度崩れたことか」

 

 あくまで無表情で、心の内でびっくりする。

 「あの」隊長から、いきなり自分の名前が飛び出してきて、あまつさえ評価してくれたのだから。それはもう動揺してしまう。

 

「私を守ってくれたことも、しっかりと確認した。あの助けがなければ、私は潰されていただろう。感謝する、アズミ」

「――ありがとうございます」

 

 島田愛里寿は、大学選抜の隊長にして軸だ。だからこそ、何としてでも守り抜かなければならない。

 それは社会人チームも理解していて、あの手この手で愛里寿を撃破しようとした。突撃、迂回、狙撃、包囲、とにかく何でもありだ。これも、卒業校がバラバラであるが故の利点だろう。

 対して自分は、何度も何度も落ち着けと呼吸した。そして、「見てくれているんだから」と三度ほど呟いた。

 応援してくれている子がいるからこそ、撃破されることは、無様な姿を晒すことだけは絶対に避けたかった。だからこそ自分は、最後の最後まで冷静でいられたのだと思う。

 今度また、黒沢少年と出会ったら、ありがとうって言おう。

 

「さて、」

 

 愛里寿が、両目をつむる。

 そろそろ、話が終わる頃合いだ。

 

「今日は戦術の基本について、学び返すことにする。異論は?」

 

 隊員全員が、「ありません!」と返事をする。

 

「よし。では一時間後に、反省会を行う。何か質問は?」

 

 沈黙。

 

「それでは、時間まで体と心を休めるように」

 

 はい!

 

「では、解散」

 

 そうして、愛里寿がいずこへと立ち去っていく。瞬く間に、空気が弛緩されていくのを肌で感じた。

 とある隊員が「まだまだだねー」と苦笑し、メグミが「やるじゃん、アズミ」と肘鉄をついてくる。やめてよねーと、面倒そうに体を曲げる。

 ――そんなことをしていたら、もう遠くなっていた、愛里寿の背中が目に入った。

 

 「もう」だ。なぜなら愛里寿は、全速力でどこかへ突っ走っていたから。

 

 愛里寿と戦車道を共にして、かれこれ半年ほどが経過するが――あんな姿を見るのは、初めてだった。

 

 

 □

 

 

「黒沢っ」

 

 大学の入口付近で、愛里寿が黒沢めがけ駆け寄ってくる。早いなあと思いながら、黒沢はイヤホンを取り外し、ご機嫌なナンバーを停止させた。

 

「や、島田さん。はい、ジュース」

「――え?」

「お疲れ様。これはおごりだから、気にしなくてもいいぜ」

 

 あえてカッコつけた顔をしながら、親指を立ててみせる。

 

「く、黒沢」

「なんだい?」

「あ……ありがとうっ」

「いえいえ」

 

 パンツァージャケットを着たままの愛里寿が、いつもの調子で控えめに微笑んでくれた。

 自分の行為が正解だったことに、心の底から安堵する。

 

「――そういえば、何で大学の入り口? 観客席じゃないの?」

「あ。えっと、観客席には、選抜メンバーらしい人たちもいたでしょ?」

「うん」

「それで今は、黒沢とこうして親しくお話をしているよね? でも、そこを隊員たちに見られでもしたら、隊長としてのイメージが変わってしまうかもしれない」

「イメージ」

「うん。隊長っていうのは、とにかくそういうのが大事なの。年下だから、なおさら」

「……そっか」

「だからみんなの前では、そう、試合をしている感じで接してる」

「――なるほど」

 

 先ほど、愛里寿から『大学の入口付近で待っていてほしい』というメールがやってきたのだ。

 理由はさっぱり分からなかったが、あまり考えることもなく、黒沢は観客席から大学の入り口付近にまで移動を開始した。その途中で「あ、そうだ」とジュースを買い、愛里寿が来るまで上機嫌にご機嫌なナンバーを聴いていて、現在に至る。

 

「そっかー。やっぱりリーダーっていうのは、大変なんだな」

「少しだけ。でもね、隊長としての私も、いまの私も、私が好きなように見せている姿だから」

「あ、そうなんだ。それなら良かった」

 

 その言葉を聞けて、黒沢はシンプルにほっとした。前の自分とは違って、我慢なんてしていないことが分かったから。

 ――つまらないことを思い出して、首を左右に振るう。

 

「ああ、そうそう、そうそう、試合についてなんだけれどさ」

「あ……うん。どう、だった?」

 

 俺はもちろん、親指を立てた。

 

「サイコーだった」

 

 愛里寿の目と口が、ぱっと前向きに開く。 

 

「あんな格好良い島田さんを見せてくれて……サイコーだった、ワンダフルだったッ!」

「ほ、ほんとう?」

「マジマジ。十三両も撃破って……凄いでしょ、最高でしょ、天才でしょ!」

「……やったっ」

 

 愛里寿が、目をつむりながら両手を握りしめる。その姿はまちがいなく、普通の女の子だった。

 

「いやあ、ナマで見るとやっぱ色々違うね。迫力というか、臨場感というか……そういうのが凄い。画面越しだけれども、十分だった」

「よかった、楽しんでもらえたようで」

「ああ、マジで楽しかったよ。なんてったって、島田さんが勝てたんだから」

「うん。けっこう危なったけれど、何とかなったよ」

「さすが島田流」

「うん。……それも、あるんだけれどね」

 

 よかったよかったと黒沢が浮かれている中で――愛里寿の顔が、急に上目遣いとなる。

 息が、止まったかと思う。

 

「あ、少し飲ませて」

「い、いいぜ。どぞ」

 

 少し苦戦しながらも、愛里寿がジュースのプルタブを開ける。味はいつものオレンジジュースだ。

 愛里寿は、それを一杯口にする。喉が乾いていたのか、「ふう」と小さくため息。

 

「――黒沢が応援してくれたから、勝てたんだよ」

 

 小さなため息の次は、大いなる証明を口にした。

 試合の興奮が冷めやらぬ黒沢から、「へ?」の間抜け声が漏れた。

 

「黒沢が、友達が見てくれているからこそ、絶対負けたくない、絶対に勝ちたいって思えたの。だから、勝てた」

「……そう、なの」

「うん」

 

 愛里寿が、はっきりと頷いた。

 その姿を見て、黒沢はすぐにでも結論を出す。

 無駄な謙遜なんて必要ない。友達として、言うべきことを言うだけだ。

 

「……それならよかった。愛里寿の力になれて、マジで嬉しい」

「私も嬉しい。ありがとう黒沢、ありがとう!」

「ああ。俺でよかったら、また見に行くよ」

「ほ、ほんとうっ?」

 

 黒沢が、「ほんとほんと」と首を振る。

 

「俺、すっかり大学選抜チームのファンになっちまったもん。そのファンとして、友達として、これからも応援させてもらうぜ」

「――うん!」

 

 愛里寿が、これ以上ないくらいに明るく笑ってくれた。

 その顔は、黒沢の胸の内をまたしても刺激させる。不愉快さなんてなくて、むしろ舞い上がってしまうような、原因不明の痛みがほとばしってしまう。

 ――己が胸を、軽く叩く。

 何か口にしなければ。黙るのは危ない。何か話題は、

 

「あ、そういえばさ、さっきアズミさんっていう人と会ったんだ。花壇あたりで」

「アズミと?」

「うん。開始前に、大学まで来たのは良かったんだけれども……会場がどこか、分からなくて」

「あっ、ごめんなさい。教えるのを忘れてた」

「いやいや、いいっていいって。でさ、俺が路頭に迷ってたところを……アズミさんが声をかけて、会場まで案内してくれたんだ」

「そうなんだ。……今日のアズミは、活躍ばかりしてるなぁ」

 

 それには同意だとばかりに、黒沢も頷く。

 

「試合中のアズミさんも、格好良かったもんね。……しかも優しいんだもん、そりゃあ選抜のファンにもなりますって」

「そっか」

 

 大学選抜とは、愛里寿の一部分でもある。だからこそ、愛里寿の顔も柔らかくなったのだろう。

 

「みんな、本当に頑張ってたよね」

「うん」

「これからも沢山、活躍して欲しいな」

「私もそう思ってる。……みんな才能があるから、実現できるんじゃないかな」

「グッド」

 

 愛里寿が、オレンジジュースをもう一度飲む。

 

「まだまだ未熟な面はあるけれど、あの人たちは、その未熟さを真正面から受け止められるの。だから、日頃から成長を続けていっている」

「島田さんの教え方がいいんだね」

 

 愛里寿が、くすりと微笑む。

 

「だから、もしかしたら私を超えるかもしれない。いつかは、あの人達に負ける日が来るかもしれない」

「そう……なのかな」

「もちろん、負けるつもりはないよ。ただ、私が負けたら負けたらで、それは島田流にとって喜ばしいことなの」

「どうして?」

「あの人達もまた、島田流を学んでいるから」

 

 納得する。

 島田愛里寿は戦車隊隊長で、島田流の継承者だ。それを隊員が、島田流の門下生が乗り越えられれば、愛里寿としてはこの上なく嬉しく思うのだろう。

 だから黒沢は、「そっか」と頷く。黒沢もまた、島田流の繁栄を願っているから。

 

「……あの人達は強い。身も心も」

「そうだね」

「だから、私を超える戦車乗りが現れる可能性は、十分に高い」

「……うん」

「いつか、私は負けるかもしれない。壁にあたって、島田流継承者として苦しんでしまうかもしれない」

「島田さん」

「……その時は」

「え?」

 

 そして愛里寿は、寂しそうな顔をして、

 

「その、ときは、」

 

 黒沢のことを、真っ直ぐに見つめ、

 

「――応援して、ほしい」

 

 大学から、音が消えた。耳に入るのは、島田愛里寿の声と、自分の鼓動と、虫の鳴き声だけ。

 あまりにも生真面目で、あまりにも誠実なその一言に対して――黒沢は、

 

「もちろん」

 

 秒もかけずに、言えた。

 愛里寿の両肩に手を乗せて、力強く頷いてみせた。

 

「俺はいくらでも、島田さんの力になる。だって島田さんは、俺の友達で、ボコ仲間で、」

 

 ――私とボコは、あなたの味方だよ

 

「俺を前に正してくれた、世界でいちばん優しい戦車乗りだから」

「――黒沢」

 

 愛里寿が震えている。だから、愛里寿の肩をそっと叩く。

 

「……黒沢、黒沢」

「ああ」

 

 そして、愛里寿は、

 

「――ありが、」

 

 今まで陰りを見せていたはずの、愛里寿は、

 

「黒沢ッ! ベリーサンキューッ! サンキューッ!」

 

 この世界に広がる夏空のように、どこまでもどこまでも、笑ってくれた。

 

 

 

 

 ――ねえ黒沢

 ――うん?

 ――あの……転勤の話、出た?

 ――ああ……まだ、出てないよ。父さんが言うには、何か緊急事態でも起こらない限りは、しばらくはここに滞在するって

 ――そうなんだ。……よかった

 ――俺も俺も。まだ遊びたいし、試合も見たいし

 ――あなたなら、いつでも歓迎するよ

 ――っしゃ!

 ――ふふ。……あ、もうこんな時間

 

 腕時計を覗ってみれば、確かに四十分ほどの時間が経過していた。

 残念そうに、鼻息を出す。

 あっという間、だった気がする。

 そう思えるということは、楽しかった証拠だ。

 

「じゃあ、私はそろそろ行くね」

「分かった。戦車道、頑張って」

「うん」

 

 ここで、愛里寿とはお別れだ。

 そうして黒沢は、胸ポケットからイヤホンを取り出す。そのまま耳に取り付けて、携帯を操作して、

 

「黒沢」

 

 声をかけられて、「なに?」と黒沢が反応する。

 

「えっと……黒沢って、音楽が好きだよね。待ち合わせをしている時は、いつもイヤホンをつけてるし」

「うん、まあね」

「やっぱり、良い?」

「もち。機嫌が悪い時とか、寂しくなった時に、良い気分転換になるし」

「――そうなんだ」

 

 愛里寿が、どこか嬉しそうに口元を緩める。ここから、間が生じた。

 ――なんだろう、音楽にでも興味を持ったのかな。

 だとすれば、それは喜ばしいことだ。愛里寿にとっての気分転換が、また一つ増えてくれるのだから。

 

「……あの」

「何なに?」

 

 そして愛里寿は、すこし控えめに微笑しながら、

 

「あなたの聴いている音楽を、教えて欲しい」

 

 その質問に対して、秒以上の時間がかかった。

 何らおかしい質問ではないはずなのに、答えるのが何故だか気恥ずかしい。聴いている曲が完全に男向けだからか、内面を覗き見られるような気がしてならないからか。

 少し考えてみて、島田愛里寿という女の子のことを見て――黒沢は「そうか」と閃く。

 好みじゃない音楽を教えて、愛里寿を不機嫌にさせたくないからだ。

 これまでの愛里寿のイメージから察して、おそらくは静かな曲がベストマッチすると思う。逆に、騒がしくもご機嫌なナンバーは合わないかもしれない。

 だから黒沢は、「っだなー」と唸る。

 愛里寿は、今か今かと目を輝かせていた。

 

「島田さん」

「うん」

「……よかったら、島田さんにぴったりの曲を探してくるよ」

「――え、どうして?」

「いや、その……こん中に入ってるのって、やかましい曲ばっかりだから、島田さんには合わないと思う」

「聴きたい」

 

 そして愛里寿は、秒もかけずに返答した。

 

「あなたの聴いている曲が、聴きたい」

 

 上機嫌そうな顔で、愛里寿はクリティカルなことを口にした。

 ――なけなしの気力を振り絞って、黒沢は「どうして」と聞く。

 その問いに対して、愛里寿は頬を赤く染めて、目線を地面に逸らして、消えそうな声で「それはね」と言って、

 

「あなたのことを、もっと知りたいから」

 

 自分の顔を見て、愛里寿ははっきりと言った。

 

 

 □

 

 

 世間は夏休み日和らしいが、今の日本戦車道連盟にとっては無縁も無縁な話だ。その中核たる家元となれば、忙しさも超重力級になる。

 腰も痛くなるし、ため息も出放題になるが、これも日本戦車道の、島田流の繁栄のためだ。

 だから、仕事を投げ出す気はない。時折、娘と泳ぎに行きたくなる時はあるけれど。

 デスクの前で、腕を回す。

 娘――島田愛里寿は、今日は社会人チームと試合を行ったようだ。強豪校のOGが多く所属する、あの社会人チームと。

 愛里寿のことは、もちろん信じている。ただ相手が相手だから、つい万が一のことを考えてしまうのだ。

 

 ――もし勝ったら、ハンバーグを作って、たくさん褒めよう。

 ――もし負けたら、ハンバーグを作って、いっぱい励まそう。

 

 そうしよう、うん。

 そうして、ペンを握り直して、

 

「ただいま」

 

 島田千代は、ペンを置いて玄関に直行する。早歩きで。

 

「おかえりなさい」

「はい。――今日行われた、社会人チームとの試合ですが、無事に勝利しました」

 

 ハンバーグと、褒めまくりが確定した。

 千代は、心安らかに二度頷く。

 

「そう、勝ったのね。……凄いわ、愛里寿」

「島田流の継承者として、使命を全うしたまでです」

「偉いわ、愛里寿」

 

 そうして、そっと愛里寿の頭を撫でる。愛里寿から、「ん」の一声が漏れた。

 

「今日はハンバーグにするわね。たくさん、武勇伝を聞かせてね」

「はい」

 

 千代の緊張感が解かれ、深々と安堵の息を吐く。

 ――時間も時間だ。そろそろ夕飯にしよう。仕事なんて後でいい。

 そうして改めて、娘のことを見つめ直す。

 愛里寿はまちがいなく、成長し続けている。隊長としての威厳を保ち、年上のチームをも破り、その上で慢心したりもしない。

 いつか愛里寿は、自分を超えてしまうのかもしれない、

 それは、とても素晴らしいことだ。島田流としても、母としても。

 

「――あら?」

 

 そして千代は、今になって気づく。

 愛里寿が手にしている、黄色い買い物袋に。

 

「それは……何か、買ってきたの?」

「――食べ物を」

「そ、そうなの」

 

 愛里寿が、真顔で答える。

 ――黄色いレジ袋なんて、自分はついぞ知らない。そもそも袋には「Music World」と、青文字で堂々と印刷されているし。

 

「じゃあ、夕飯になったら呼んで」

「あ、はい」

 

 そうして愛里寿は、真顔のままで自室に向かっていってしまった。

 その小さな背中を見届けながらで、千代は思う。

 

 すごく、ウキウキしてたわね、あの子。

 

 まあ、機嫌がよさそうならそれで良い。

 千代は、キッチンへ向かう前に――テレビを点けて、夕飯の支度に取り掛かる。ラジオ代わりみたいなものだ。

 

『今日はビアガーデンということで、中央公園が大変賑わっております! ねえ、見てくださいこの客の数! いやあ、私も一緒になって飲んでみたいですねえ』

 

 ビアガーデンか。

 いいな、と思う。お祭りめいた空気は、嫌いじゃない。

 

『お、あそこにカップルがいますね……こんにちはー!』

『こんにちはー!』

『今日は賑やかですねえ。……おや? もう顔が赤い!』

『お酒を飲んで、あまり経っていないもので』

『そうなんですか!』

 

 初々しくて、思わず若い頃の自分を思い出す。

 昔の自分ときたら、お酒を飲みたての頃はすぐにでもダウンしてしまった。今はもちろん、一晩コースでもイケる口になってしまったのだけれども。

 若くないなーと、苦笑する。

 

『お酒を飲まれたきっかけなどはあるんですか?』

 

 千代の場合は、大学戦車道全国大会の優勝打ち上げ会で、勢いで飲んでみたのが原因だ。

 この子はなんだろうねと、冷蔵庫から食材を取り出しながらで耳を向けてみる。

 

『はい! その……彼氏がお酒好きで、私も飲んでみようかなと!』

 

 手が、ぴくりと止まった。

 

『そうなんですか! いや、いいですねえ!』

 

 そして、勢いよく見上げる。

 白い天井が目に入るが、見たいものはそれではない。我が娘である島田愛里寿だ。

 愛里寿は先ほど、実に珍しいことに音楽CDを買っていた。「Music World」とレジ袋に書いてあったから、たぶん間違いない。

 CDの内容は何でもいい。問題は、なぜ音楽に手を出したかだ。

 愛里寿の趣味といえば、ボコか――それぐらいなものだ。それ故に、先ほどのアレは割と衝撃的だった。

 

「……まさか、まさかね?」

 

 思わず、口にまで出てくる。

 音楽CDを購入し始めたきっかけが、私にすら秘密にしている彼氏の影響なら――深刻に考えてみて、

 

 別にいいんじゃないか、と思う。

 

 相手にもよるが、その人が愛里寿を支えてくれるのであれば――母としては、喜ばしいことだから。




ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。
ご指摘、ご感想があれば、お気軽に送信してくださると、本当に嬉しいです。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。