十三歳の天才少女は、普通の恋をした   作:まなぶおじさん

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十二歳の少年に、宿命が訪れる

 ――それはね、恋っていうのよ

 母は言った、父も頷いた。黒沢は、あくまで他人事のように「へえ」と言った。

 夕飯を食べ終え、自室のベッドに横たわり、イヤホンを耳につける。音楽はつけないまま。

 

「恋、か」

 

 それぐらいは知っている。テレビドラマとか、漫画とか、ゲームとかでよく見かけるモノだ。

 ただ、知っていることはそれだけ。恋というものを抱いたことがなかったから、親に聞かれるまで自覚することができなかった。

 ――恋なんて、遠い未来の話だと思っていた。

 けれど今は、確かに恋を抱いている。島田愛里寿という女の子に対して。

 そして、必然的に考えてしまう。愛里寿は、自分のことをどう思っているのか。

 ただの友達か、それとも両想いか――考えれば考えるほど胸が痛みだす、これまで以上に。

 こりゃあ病だ、と思う。

 恋の病だ、と思う。

 

 胸の上に置いたままの、携帯を手に取る。

 さっきまで一緒だったのに、今すぐにでも電話をかけるのは迷惑だろうか。声が聞きたかったから、それだけの理由で通話をするのは迷惑だろうか。

 愛里寿はいま、とても大変な時期に入っている。来週の試合の為に、体も知恵も使いまくっているはずだ。

 そんな愛里寿に対して、自分勝手な理由で電話をかけるなんて。

 煩悩を振り払うように、頭をぶんぶんと振るう。

 駄目だ駄目だ。音楽でも聞いて、気を紛らわすとし、

 

 その時、部屋の中でトランスミュージックが鳴り響いた。

 

 考えるよりも先に、携帯の画面を目にする。画面には「着信:島田愛里寿」の文字、「マジかよ」と思考にウェイトがかかって、

 通話ボタンを、押した。

 おそるおそる、携帯を口元に近づけた。イヤホンがあるから、耳に当てる必要はない。

 

「……はい」

『あ、黒沢。いま、平気?』

 

 愛里寿の声。それを耳にするだけで、緊張感めいたものが湧いて出る。

 

「俺ならへーき。どったの?」

『あ……えっとね、うん。今度、試合があるでしょう?』

「うんうん」

『その試合に勝てたら、私の母が、ボコミュージアムのスポンサーになってくれるんだって』

「んマジで!?」

『うん』

 

 愛里寿が、極めて真剣な声で返事をする。

 

「で、でもさ、マジでなれんのかな? スポンサーに」

『なれると思う。一応、お金だけは持っているから』

「お金――」

 

 思い出す。

 自分は数時間前に、愛里寿と手をつなぎ、愛里寿を家まで送っていった。その時に見た愛里寿の家ときたら、まるで城かといわんばかりにとにかくデカかったものだ。声にまで出た。

 どうやら自分の気持ちを察したのか、愛里寿は「一応、ここが家」と口にした。呆けていた自分ときたら、間抜けな声で「グレート」。やっぱり島田流はスゴイ、改めてそう思った瞬間だった。

 でも、まあ、

 そのスゴさが、ミュージアムの継続に繋がるのであれば、それは実に良いことだ。

 

「そっか……良かったね、愛里寿」

『うん』

「こりゃあ、来週の試合は負けられないね」

『うん。絶対に勝つ』

 

 迷いのない、確固たる声。それを聞けて、黒沢はほっとする。

 

「なあ、愛里寿」

『なに?』

「俺、何か出来ることはないかな?」

『え』

「だって相手は、あの西住さんだからね。絶対に強いでしょ? だから……何とか、愛里寿の力になりたいなって思って」

 

 数の差だとか、戦車の性能だとか、それらはあえて口にしない。

 愛里寿の為に、好きな人のために。それらだけを念じながら、黒沢はやりたいことを言葉にする。

 

『――その言葉だけで、十分だよ』

「え?」

『黒沢がそう言ってくれただけで、わたしは嬉しい。心も、士気も、何もかもがマックスパワーになった』

 

 愛里寿からの、それはもう明るい声。

 

「そっか、それなら良かった。……ありがとう、愛里寿、ボコミュージアムの為に戦ってくれて」

『ううん、私もボコミュージアムのことは助けたかったから。……それにね、お礼を言いたいのは、私もなの』

「え?」

 

 この時に、間が生まれたと思う。

 

『あのとき、あなたは私に勇気を与えてくれたよね? だから私にも、お母さんにお願いする勇気が生まれたの』

 

 息が、止まったと思う。

 携帯からイヤホンを引き抜き、そのまま携帯めがけ耳を当てる。

 

『ありがとう、黒沢。黒沢のお陰で、私は私のやりたいことができた』

「――それは、」

 

 愛里寿の力があったから、

 言いかけて、首を横に振るう。

 

「どういたしまして」

『うんっ』

 

 そうして黒沢の、愛里寿の言葉はすべて終わってしまった。

 ただただ、気まずくない沈黙だけが過ぎ去っていく。満足感と、使命感めいた高揚感のみが、黒沢の中でゆっくりと漂っている。

 ――どうしようかな。

 こういう時は、男の自分から切り出すべきだ。

 決意するために、わざとらしく咳をつく。

 

「ありがとう、伝えてくれて。……じゃあ、そろそろ切るかい? いい時間だし」

『あっ、待ってっ』

 

 愛里寿に、言葉で掴まれた。

 

「ん、なんだい?」

『あ、えっと……その……』

「うん」

 

 待つ。

 

『その……黒沢は、夕飯は何を食べたの?」

「え? えっとー、カレー」

『カレー……いいね、うん』

 

 黒沢は「いいよー」と答え。

 

「父さんと母さんの合作カレーは、最高にウマいんだよ。愛情たっぷりでさ」

『あ、そういうのいいな……私も食べてみたい』

「じゃあ、今度家に来る?」

 

 勢いで言った後で、黒沢の舌が硬直する。

 友達を家に誘う、それは別にいい。小学三年生まではそうしていた。ノリで寝泊まりをしたこともある。

 けれど、愛里寿は違う。好きな人を家に、しかも一緒に夕飯をとって、しかもしかも自分の部屋で一緒に泊まって、

 

「うわー! ごめんっ、いまのナシっ!」

『えっ? どうして?』

「い、いやその、なんというか……気安すぎたっていうか」

『……いいよ?』

「え」

 

 え。

 

『いいよ? 黒沢の家なら、い、行く』

 

 聞き逃さなかった。黒沢の家「なら」、という言葉を。

 

「ま、マジで?」

『う、うん。試合が終わった後なら……いつでも、行く』

「……部屋、汚いよ?」

『それでも、いい。私の部屋だって、ボコだらけ』

「そ、そうなん」

 

 乾いた笑いが漏れる。嬉しいやら恥ずかしいやらの感情を、そうやって発散させるつもりでいた。

 

『そ、それにね?』

「お、おお」

『――黒沢がよかったら、だけど。私の家で、お母さんのハンバーグを食べていっても、いいんだよ?』

 

 溢れ出んばかりの感情なんて、制御できそうにもなかった。

 今の愛里寿の言葉を「曲解」するならば、つまりは、愛里寿の家に泊まっていってもいいということなのか。それで夜更けまで愛里寿とおしゃべりして、眠くなったら愛里寿と一緒に、

 己が頭をばしばし叩く。

 

『ど、どうしたのっ? すごい音がしたけれど』

「あ、いやなんでもないなんでもない! へ、へえ、お母さんのハンバーグか……俺も食べてみたいな」

『うん。お母さんの夕飯はね、世界一おいしいんだよ』

「マジか。俺の夕飯も負けてられねえなあ」

『うん』

 

 愛里寿が、含み笑いをこぼす。

 

「これは、試合終了後が楽しみだな」

『うん。必ず行く、あなたの家に』

「父さんも母さんも、きっと喜ぶよ。だって、」

 

 友達だから。

 そう言おうとして、自動的に言葉が途切れる。

 

「……愛里寿、だから」

 

 友達。そう言ってしまったら、それまでの関係になってしまうと思ったから。

 だから、こんな言い回しになってしまった。

 けれども愛里寿は、「そうなんだ」と言ってくれて、

 

『……必ず行くね、あなたの家に』

「うん、待ってる」

『ありがとう』

 

 そして、また沈黙が訪れる。達成感に満ち満ちた、余韻のある空白が生じた。

 いつまでも、このままでいたかったと思う。

 けれども、時を進めなければ試合はやってこない、ボコミュージアムも救えない、お泊まり会だってできない。

 だから、ひとまずは愛里寿と別れよう。次に会うために。

 

「……じゃあ時間だし、そろそろ切るよ」

『うん。……あ、最後に一つだけ、いい?』

「なんだい?」

『その、あの』

「うん」

 

 聞きにくい質問らしく、愛里寿の言葉がしばらく右往左往する。

 黒沢は待った。いつものように、待ち望んだ。

 ――そして、

 

『その、転勤の話は、出てきたり、した?』

 

 その言葉からは、限りない気遣いが感じられて。その声色からは、不安めいたものが伝わってきた。

 思う。

 転勤の話が出てきたら、自分はどんなふうになってしまうのだろう。聞き分けよく従うのか、前みたく駄々をこねてしまうのか――わからなかった。

 けれど今は、はっきりとこう言える。

 

「いや、ないね。まだまだ、愛里寿と会えるよ」

『そう、なんだ』

 

 そして、愛里寿の吐息が聞こえてきて、

 

『――よかった』

 

 その静かな反応に、黒沢の心は大きく揺れ動いた。

 だって、自分の好きな人が、自分の為に安堵してくれたから。

 

『黒沢』

「な、なに?」

 

 そして愛里寿は、まるで、当然であるかのように、

 

『――試合が終わったら、絶対に会いに行くね。一緒に、ふたりで遊ぼうね!』

 

 ――誓う。

 俺は、この人に一生を捧げようと思う。

 命を賭けてもいい。これ以上に好きになる人なんて、もう現れないと思う。

 両想いでなくたっていい、片思いのままでもいい。好きという感情で結ばれていること事態が、もう奇跡みたいなものだ。

 島田愛里寿の力になりたい、どんなことをしてでも。

 俺は、携帯をぎゅっと握りしめる。

 

「愛里寿」

『なに?』

「俺、会場まで行くよ」

『――え?』

「北海道まで行って、大学のみんなを、愛里寿を応援する!」

 

 抑えきれない使命感に捕まったまま、思いつきの誓いを口にした。

 北海道は遠い、それはわかっている。そこまで行くなんて、そう簡単な事にはいかない。

 けれども黒沢は、どうしても愛里寿の傍にいてあげたかった。大学選抜チームの盾になりたかった。

 十二歳ごときが、多大な影響力なんて及ぼせるはずがない。けれど、でも、自分はどうしようもなく愛里寿のことが好きなのだ。

 だから、言う。北海道に、行く。

 

『黒沢』

「うん」

『黒沢っ』

「うんっ」

『……待ってる』

「ああ」

 

『あなたを、待ってるっ!』

 

 

 □

 

 

 愛里寿との通話を終え、余韻を引きずったままでひとまず深呼吸。そのまま携帯をポケットにしまい、リビングへ通じるドアめがけ一歩ずつ歩み、ドアノブに手をかけて、

 いったん、動きを止めた。

 覚悟の充填をする。誓ったんだぞと己に責め立てる。愛里寿との約束を守るためなら、ワガママの一つや二つを言うくらいどうってことはない。

 そう思い込んだ。

 その思い込みを背負ったままで、ドアを開けた。

 

「父さん、母さん」

 

 ソファに座りながら、雑誌のクロスワードを解きあっていた父と母が、驚いたように黒沢へ目を向ける。

 邪魔をしてごめん。心の中で、謝りつつ、

 

「今週の日曜まで、行きたい場所があるんだ」

 

 父と母が、顔を見合わせる。

 

「北海道へ行きたい、絶対に」

 

 後先考えずに、言えた。

 点けっぱなしのテレビから、笑い声が聞こえてくる。窓から、控えめの虫の音が響いてきた。

 

「何か、あるのか? 北海道に」

 

 ただのお出かけ話ではない、ということを察したのだろう。

 父が、生真面目な真顔で問うてくる。母からも、真剣な眼差しを向けられた。

 わがままを口にするのが、とても怖い。断られることが、すごく恐ろしい。

 ――でも、

 左手を、ぎゅっと握りしめる。

 

「そこで、俺の好きな人が、戦車道の試合をする。応援に行きたいんだ」

 

 再び、父と母が顔を見合わせる。小さな声で「試合?」「もしかして、大洗と大学の?」「ああ、北海道といえばそれだな」、そう言い合い、

 ――父と母と、ふたたび向き合う。

 

「聞きたいことがある」

「うん」

「……大洗の子、なのか?」

 

 予想外の言葉だったが、冷静に考えてみて「そう予想するよな」と思う。年齢の差なんて、だいたい四つくらいしか離れていないし。

 ――でも、違うんだ。父さん。

 首を、横に振るう。

 

「まあ……もしかして、大学?」

 

 首を、縦に。

 これには驚いたのか、父も母も「おお、おお」「まあ、まあ」と動揺した。

 

「だれ……なんだ?」

「島田愛里寿」

 

 よどみ無く、まっすぐに言った。

 その名前を耳にした瞬間、日本戦車道委員の父は、母は、声を出さずに大きく驚く。

 

「……もしかして、会ったのか?」

「会った。俺の、かけがえのない友達で、俺の好きな――いや、大好きな人だ」

「――まあ」

 

 母が口に手を当てて、とても嬉しそうに微笑む。

 

「そう。島田さんと、仲良しなのね」

「うん」

「島田さんのことが、ほんとうに好きなんだな?」

「好きだ!」

「――そうか」

 

 父と母が、同時に頷いて、

 

「じゃあ、北海道に行くか」

「え」

「どんな旅行になるのかしら。楽しみねえ」

「え」

 

 あっさりとプランが決まってしまい、詰めた覚悟が腰砕けになってしまった。

 父と母を交互に見やる、ふたりとも気楽そうに笑い合っている。

 

「い、いいの? ホワイ?」

「おお、いいぞ。せっかくの夏休みだからな、旅行の一つや二つはしたかったし」

「ええ。それに、好きな人が頑張るんでしょう? それなら応援しに行かないと、絶対に」

「……本当に、いいんだね?」

 

 信じられないがあまり、改めて確認してしまう。

 そんな息子に対して、父はあくまでも優しく笑いながら、

 

「当たり前だろ。……お前には、たくさん迷惑をかけてしまったからな。これぐらいはやってあげたい」

「ええ。……それにね、私はとっても嬉しいのよ。あなたにとっての大切な人が、見つけられたことに」

「父さん、母さん」

 

 父がソファから立ち上がり、黒沢へ歩み寄って――肩に、手を乗せた。

 

「後は、俺達に任せろ」

 

 その言葉は、あまりにも大きすぎた。

 父と母の元に生まれて良かったと、本心から思う。

 

「ありがとう。父さん、母さん」

 

 

 送信者:黒沢

 北海道へ行くことが決まった! 土曜に出発するから、日曜までには絶対に間に合う。

 会場まで行って、愛里寿のことを、大学のみんなを応援する! 絶対に!

 頑張れ愛里寿! 俺も一緒に戦う! がんばれ!(・(ェ)・)

 

 

 ――それからすぐに、愛里寿から電話がかかってきた。

 

 

―――

 

 

 そうと決まれば話は早い。

 父と母はすぐにでも北海道行きを予約し、当日になってキャリーケース片手にいざ飛行機へ。その際に『これから北海道へ行くよ』とメールで送ったところ、間も置かずに『やった。でも、会えないのが寂しいな(・(ェ)・)』といったやりとりを交わした。

 

 そうして十五時あたりに北海道へ到着したのだが、家族揃ってまずはホテルへチェックイン、部屋へキャリーケースを置いた後は「せっかくだし、何か食いに行くぞ!」という父の提案のもと、我々黒沢家は早速とばかりにラーメン広場へ突撃し、父と母は醤油を、黒沢はみそを注文して、うまいうまいとラーメンを完食する。

 続いて本場のイクラ丼も平らげ、後はソフトクリームも口にして、その際に父が「ついてるぞ」と母の口元を指先で拭い、それをぺろり。母はきゃーと盛り上がっていた。

 そんなグレートな光景を前にして、最初は「やるねえ」と思い、後に「いいなあ」と思う。愛里寿にあんなことが出来たら、自分は生きていられるのだろうか。

 

 そうして北海道の町並みを歩んでいって、しばらくしてホテルへ戻ってはひとっ風呂浴びる。今回は恋愛感情が主軸になっているせいか、裸の父からは「数年前になー、母さんを見た時から惚れてなー」とか惚気話を聞かされた。

 ある意味、自分もそんな感じだ。血は、順調に継いでいるのかもしれない。

 

 そうして部屋に戻り、浴衣姿に着替えては意味もなくベランダに出る。温泉帰りの体に、夏の空気がとても心地よい。

 空はすっかり暗い。明日には試合があるというのに、星々がのんびりと輝き続けている。ベランダから見下ろしてみれば、光を灯った光や戦車が、いくつも通り過ぎていく。

 ベランダに用意された椅子に、なんとなく腰かける。

 今頃愛里寿は、何をしているのだろう。明日の準備で、これまで以上に忙しなくやっているのだろうか。

 通話は、もちろんしたい。けれど、邪魔になったりはしないだろうか。

 時計を見る、二十時。

 ふつうなら、かけてもいい時間帯だ。けれども今日は例外だから、一日ぐらいは我慢しないと。

 ――そう思っているのに、アドレス帳から愛里寿の携帯番号を引っ張り出してしまう。

 だめだな、どれだけ愛里寿に飢えているんだか。確かに自分は、マジモノの病にかかっているのかも。

 鼻息をつく、椅子にもたれかかる。イヤホンを耳にして、気を紛らわすとでもし、

 

 夜空いっぱいに、トランスミュージックが鳴り響いた。

 

 息を吸う暇もなく、携帯を真正面に捉える。「着信:島田愛里寿」の文字、を目にしたと同時に着信ボタンを押して大急ぎで耳に当てて、「もしもし?」、と言うと同時に慌ててイヤホンを引っこ抜く。

 

『あ――何か凄い音したけれど、大丈夫?』

「あ、あーヘーキヘーキ、ノープロブレム」

 

 いつもの言い回しに、愛里寿が小さく笑う。

 

『よかった……今、何をしてたの?』

「ああ、今はホテルで夜風に当たってたよ。いいものだね、北海道も」

『うん、ご飯がおいしかった』

「何食った? 俺はラーメンにイクラ丼」

『豚丼』

「ほおー、いいねえ。俺も食ってみようかな」

『うん、おすすめ』

「そっか……いや、愛里寿が元気そうでよかったよ」

『私は大丈夫。西住さんには選手宣誓ができたし……黒沢が、いてくれるから』

 

 自分の名前を出されて、緊張感めいたものが一気に湧いて出てくる。

 そして、部屋の方を見る。親に聞かれていたらとても恥ずかしいから――ほっと一息つく、父と母はボードゲームに興じていた。

 改めて、携帯に集中する。

 

「そう言ってくれて、すげえ嬉しいよ。ここに来たかいがあった」

『うん。私は島田流の為に、隊員のみんなのために……黒沢のために、がんばる』

「俺も、愛里寿のことを応援するよ。いまも、これからも」

『……サンキュー、黒沢』

 

 ひと息つく。

 愛里寿の声色からして、追い詰められたような雰囲気は感じられない。いつもの調子で話しかけてくれることが、とても嬉しく思う。

 

「……えっと、ほかに何か、伝えたいことはあるかな? なかったら、俺の方から切るよ」

 

 通話とは、思った以上に締めを切り出しにくいものだ。まだ話したいことがあるのではないのかと、ついつい読み合いになってしまう。

 だからこそ、黒沢の方から終了「してもいい」合図を示した。明日は大変だろうから、尚更だ。

 

『……えっと、あの』

 

 まばたきをする。

 

『その、黒沢は……どうして、ここまでしてくれるの?』

 

 この世で最も簡単な質問を問われ、この世で最も答えづらい質問を聞き出された。

 それはもちろん――それを口にしようとして、重圧に近い恥じらいが、ビビリが生じる。

 正直に本心本音を口にして、嫌われてしまったらどうしよう。かといって、友達止まりなんて絶対に言いたくない。

 他人事のように過ぎ去っていく、バイクの駆け抜ける音。

 両肩で思い切り深呼吸。

 

「それは、愛里寿が……大切な、人だから」

 

 なんとか、答えを引きずり出す。今の自分には、これが精一杯だった。

 

『……そうなんだ』

 

 愛里寿の、少し驚いたような声。

 

『――そうなんだ』

 

 愛里寿の、安堵しきった声。

 それを耳にして、自分は、正しいことが言えたのだと確信する。

 

『……ねえ、黒沢』

「う、うん」

『そ、その……』

「うん」

 

 待つ。

 

『わ、私ね、その、黒沢に聞いて欲しいことがあるの』

「聞くよ」

 

 つばを飲み込む、熱くなった携帯をもっと近づける。

 

『私は、黒沢のこと、』

 

 愛里寿から、深い深い深呼吸が聞こえてきた。

 そして、

 

『私ねっ! 黒沢のことっ! す、すきっ』

 

 死ぬかと思、

 

『――な戦車って、何かな!?』

「ん゛ッ!?」

 

 心臓が転倒するところだった。

 

「え、あー……えー……センチュリオン」

『そ、そうなんだ……そうなんだ』

 

 好きな理由はもちろん、愛里寿の愛車だからだ。

 二番目に好きなのはパーシング、応援していくうちに愛着を抱いた。

 

「ま、まあ、そんな感じ?」

『なるほど、うん、なるほど……』

 

 沈黙が降ってくる。

 とてもでないが、ここで締めを切り出せるような勇気なんて湧いてこない。せっかく愛里寿が質問してくれたのだから、自分も何か気の利いたことを聞かなければ、そんな強迫観念に陥る。

 ――考えて、考え抜いて、思う。

 愛里寿はいま、「すき」と言った。それは、今の自分にとっては一番大切な言葉だ。

 なぜなら自分は、いつかは、愛里寿に告白したいから。あわよくば、愛里寿と両想いであるかどうかを確かめたいから。

 改めて、両親に目配せする。母は「勝ったー!」と両腕を上げていて、父は大げさに背筋を丸めている。よほど悔しかったに違いない。

 たぶん、盗聴はされていない。

 言うなら、今しかない。

 覚悟を、決めろ。

 

「あ、愛里寿」

『なに?』

「え、えーっと、その……俺さ、愛里寿に伝えたいことがあって」

『う、うん』

 

 言え。言えなかったら、死ぬと思え。

 

「俺さ、実はさ、あ、愛里寿のことがさっ」

『! う、うんっ』

「愛里寿のことがっ、す、すきっ」

『あっ――』

「――焼きが食べたいんだけどっ、どうかなっ?」

 

 ヘタれた。

 死ねばいいのに、と思う。

 

『え、えっと……それは、その、黒沢の家で?』

「え? あ、あー、いいんじゃないかなあ? みんなですき焼きってのも、いいと思う」

『……うん、いいよ』

「え、いいの?」

『うん、私でよかったら。黒沢と一緒に、すき焼きを食べたい』

「……泊まり込みになるかもしれないよ?」

『……いいよ』

 

 感極まって、星空を見上げる。

 怪我の功名とは、まさにこのことかもしれない。結局肝心なことは言えなかったが、信頼されていると知れただけでも十分だ。

 

「わかった。じゃあ試合が終わったら、ね」

『うん、必ず行く』

 

 時計を見る、二十時半。楽しい時間というものは、やっぱりあっという間に過ぎていく。

 

「じゃあそろそろ、切ろうか。明日は早いだろうしね」

『うん。今日は話せてよかった、ありがとう』

「俺の方こそ、とっても楽しかった。じゃあ明日、頑張ってね、必ず応援しに行くから」

『うん』

 

 通話が切れる。

 父と母の方を見てみれば、ボードゲームのリベンジ戦が行われていた。

 ――しばらくは、二人きりにさせようかな。

 そんな生意気なことを考えながら、星空のことをただただ見つめる。

 

 

―――

 

 

 夜が過ぎ、意味もなく早起きして、気づけばもう十一時半にまで差し掛かっていた。

 

 今日に限って言えば、タダの十一時半ではない。あと三十分もすれば、大洗との試合が始まってしまうのだ。

 広々とした会場の中で、アズミは力なく周囲を見渡す。

 誰一人として浮かれることなく、血気盛んに笑うこともなく、ただただ無表情を晒す隊員達がいるだけ。副官としては見過ごせない場面ではあるが、仕方がないとも思う。

 学園艦の命運を勝手に背負わされて、あまつさえひどい戦力差で戦うことになって、どうやって士気を上げろっていうんだ。

 切り込み隊長であるメグミですら、パーシングに寄りかかってそれきり。ルミに至っては、ぼうっと青空を見つめている。肝心の愛里寿だって、淡々とタブレットを操作するのみだ。

 ――やるからには、やる。隊長についていく。

 みんな、そうは思っているだろう。

 けれど、ぜんぜん楽しくない。そうも思っているだろう。

 うんざりするように、首をひねった。

 今のうちに携帯を引っこ抜いて、SNSまわりを確認し始める。

 ――ひどい試合になりそうだ。大学側は本気でやるのか。大洗の子達が可哀想。これが戦車道なのかよ。辞退した方がまだいいのに――

 前日と全く変わらない反応を見て、ため息が出る。何が悲しいかって、自分もそう思っているところだ。

 忌々しげに、鼻息をつく。

 試合が終わったら、何か呑もう。

 自分はそれでいい、これでも酸いも甘いも知る二十一歳だ。

 けれど隊長は、まだ若い。こんなどうしようもなさを背負うなんて、いくらでも早すぎる。

 これまでの愛里寿は、島田流の正しさを教えてきてくれた。それなのにいきなり「ワルモノ」にされるなんて、いくらなんでもあんまりだ。是非とも、責任者の顔をひっぱたいてやりたい。

 

 ――そうして、十一時五十分になった。

 そろそろ、選手宣誓の時間か。

 携帯を胸ポケットにしまう。未だタブレットを操作している隊長に対して、何か声でもかけようとして、そっと近づいて、

 愛里寿の表情が、驚きのものに変わった。

 アズミの両足がぴたりと止まる。これまで緩慢だったはずの愛里寿が、機敏な手付きで、私物の携帯をポケットから取り出して――

 

 私は、初めて見た。隊長の、泣いてしまいそうな笑顔を。

 

 そして愛里寿は、携帯を胸に抱いた。とても愛おしそうに。

 誰かが見ているなんて、いまの愛里寿は気づいていないのだろう。だからこそアズミは、愛里寿の「次」を待った。

 愛里寿の幸せは、アズミの幸せでもあるから。

 

「――みんな、聞いて欲しい」

 

 そして、愛里寿は「いつもの顔」になる。

 履修者全員が、素早く列を作る。

 

「もう一度だけ、みんなに聞きたい。この試合に、参加する意思はあるか?」

 

 はい!

 

「この試合に礼節を見い出せないのなら、体調不良等で棄権しても構わない。正当な選択として、私は受け入れる。戦車隊隊長として、その選択を保証する」

 

 ――沈黙。

 

「みんな」

 

 はい。

 

「ありがとう。私と一緒に、戦おう」

 

 148人の大学強化選手が、一斉に敬礼する。

 

「行こう」

 

 そうして、審判の元へ向かい、

 

『待った―――――――――ッ!!!!』

 

 咆哮。

 あまりにも突然すぎて、全員の足が止まった。

 

 

 □

 

 

 すげえことになった。

 戦車道素人の自分でも、それぐらいは理解できる。何せ大洗側から、ありとあらゆる戦車が加勢しに来たのだから。

 父も母も、「どうなってるんだ」と右往左往する。観客からも、どよめきが止まらない。

 特設モニター越しからは、「転校手続きは済ませた」の一声が聞こえてくる。そうして間もなく、大洗側の戦力にティーガーとか、KVとか、チャーチルとか、とにもかくにも色々な戦車がカウントされていった。

 これまでは沈黙気味だった観客達が、瞬く間に大声を張り上げていく。中には、三人で抱きしめ合うおっさん達の姿も見受けられた。

 事情は、正直よく飲み込めてはいない。

 けれど、黒沢の口元は獰猛に曲がりくねっていた。

 ――丁度いい試合になるってことじゃねえか。

 高揚を胸に秘めたまま、いま一度携帯を取り出す。

 

送信者:黒沢

『いま、会場に着いたよ。あと数分もしたら、試合が始まるんだね。

愛里寿。いまはとても、苦しい状況にいると思う。それは、俺にもわかる。

でも俺は、そんな愛里寿の力になりたい。父さんも母さんも、愛里寿の力になるって言ってた!

頑張れ愛里寿! 負けるな愛里寿! 俺は大学選抜チームの、愛里寿の味方だ!

これが終わったら、ボコミュージアムへ一緒に行こう! 待ってる!(・(ェ)・)』

 

送信者:愛里寿

『Thank you! 黒沢!(・(ェ)・)』

 

 携帯をしまう。

 西住さん。いい試合を見せてくれ。

 愛里寿。俺も、一緒に戦うよ。

 

 

 □

 

 

 大洗側の戦力が整った時、文部省の役人が勢いよく抗議を口にした。対して千代は、「手続きは済ませているみたいですし」と返答する。

 未だ不満たらたらな役人を尻目に、千代はすぐにでも扇を口に当てる。なぜかと言われれば、そりゃあ愉快な笑みが止まらないからだ。

 ――見ろ、戦車道とはとても誠実だろう。政府の決定に対して、戦車を以てして「ナメるな」を体現してみせた。

 不意な増援に対し、愛里寿は当然のように「受けて立ちます」と言い放った。経験の差はともかく、これで戦況はイーブンになったはずだ。

 

「――あ!」

「なにか?」

「あ、あれはどうしたんですか!? あの秘密兵器は」

 

 千代は、扇子をひらひらと泳がせる。

 

「あれなら、『使い慣れていないので、返品します』とのことです」

「は、はあッ!?」

「使い慣れたモノの方が、勝つ見込みはあるでしょう?」

 

 役人が顔を真っ赤にしながら、もういいとばかりにモニターを注視する。

 ――まったく、笑いが止まらない。

 見ろ、この光景を。スジを通すためなら、戦車は無茶だって踏み越えてみせる。回り続ける無限軌道に不可能なんてものはない。

 戦車道の不義理なんて、戦車道履修者は絶対に許しはしないのだ。輝く勝利も、煤にまみれた敗北も、すべては戦車道履修者のものなのだから。

 ちらりと、右を見る。

 西住しほは、少し嬉しそうな顔をしてこの場を見守り続けている。

 ちらりと、左を見る。

 役人は、歯を食いしばりながらで、それ以上取り乱したりはしなかった。

 上機嫌な顔を隠さないまま、扇子をぱちんと閉じる。

 この試合が終わったら、居酒屋にでも行ってドンジャラホイしたい気分だ。それくらい最高だ。

 ――さて、

 

 存分に戦いなさい、愛里寿。私はずっと、あなたを見守ります。

 

 

 □

 

 

 試合が始まって、一時間ほどが経った。

 前半戦までは、確かに大学選抜チームが有利だった。的確な動きに、一騎当千を意識した立ち回りは、間違いなく大洗側を苦戦させたものだ。

 それに比例して、観客側からは悲観めいた反応が漏れる。大洗はここまでなのか、まだ希望はある、大学に負けるな。

 ――大洗の事情は、わかっているつもりだ。

 ここに座っている観客のほとんどは、大洗学園艦の住民か、或いは大洗に同情している人たちなのだろう。学園艦という世界の命運がかかっているのだから、大学選抜チームのことを良く思えないのは当然のことだ。

 そんな重苦しい雰囲気の中で、力いっぱいに応援する決意が湧いて出てこない。ヘタに激励しようものなら、敵意を向けられてしまうかも。

 ビビっていた。だから、控え目に「頑張れ」としか言いようがなかった。

 

「あ! やったぞ! 大洗が押してるぞ!」

「おお! さすが!」

「頑張れ! 負けるなッ! 大学に負けるなーッ!」

 

 みんな、大洗を応援している。大学の敗北を、期待している。

 気持ちはわかる。けれど自分は、大学のほうが、愛里寿のことが好きなのだ。

 

「また一両撃破だ! すげえな今どきの高校生はッ!」

「俺たちの希望だ!」

 

 がんばれ、がんばれ。

 周囲の応援に打ち消されながらも、黒沢は応援し続ける。アズミが狙われているのを目にして、声にならない声が漏れる。

 

「――お。あいつら、大将に向かっていくぞ!」

 

 何――

 モニターを見る。確かに、三両の戦車群が愛里寿めがけ突っ込んでいる。その動きに躊躇なんて感じられない。

 応援しなきゃ、愛里寿の力になるって決めたんだろう。

 息を吸う、沈殿しきっていた勇気をかき集める。周囲なんて見ないフリして、黒沢は口を開ける。

 

「頑張れ愛里寿! 負けるなッ! ニンジャ戦法でやっつけてくれ――――ッ!!!」

 

 その瞬間、周囲から猛烈な視線を浴びた。

 その無言の批判は、あまりにも強力で、あまりにも正しくて、それ故に声が出せなくなる。背すら縮みこんでしまって、歯を食いしばることしか出来ない。

 ――ごめん、愛里寿。俺は臆病野郎だ。こんなんじゃ、告白なんて出来るはずがないよな。

 情けなくなって、両目をつむる。このまま消えてしまってもいいと、そう強く念じて、

 

「大丈夫だ」

 

 右肩に、熱が籠もった。

 

「俺達が、お前を守る。一緒に島田さんを、大学のみんなを応援しよう」

「と、父さん」

「島田さんのこと、好きなんでしょう? なら、応援してあげないと、ね?」

「母さん。……いいの?」

 

 母が、頷く。

 

「当たり前じゃない。あなたが好きなら、私たちもそれを好きになるわ」

「そうだ。こうして見てみれば、大学のみんなは、こんなにも凛々しくて格好良いじゃないか。お前が好きになるのも、よく分かるぞ」

 

 母が、黒沢の左肩に手を乗せる

 

「さあ、島田さんに力を与えて。好きな人の為に、応援してあげて」

 

 父が、背中を軽く叩いて、

 

「父さんは、母さんは、お前の味方だ」

 

 その言葉に、勇気が装填された。

 だから黒沢は、勢いのまま立ち上がれた。

 

「ッ! がんばれ! 大学のみんな! 愛里寿! がんばれっがんばれっ! グレートな戦いを見せてくれ―――ッ!!」

 

 モニターに映るセンチュリオンが、三両のうち一両を一撃、

 

「FOOOO! サイコーだぜぇぇぇぇッ!!!」

 

 二両目を撃破。

 

「愛里寿! パンチだ!」

 

 センチュリオンが、三両目めがけ体当たりをぶちかまし――至近距離から、一撃をかます。

 

「やるなあ! 凄いもんだ島田さんはッ!!」

「エクセレントッ! さすがはあなたの恋人ねッ!」

「片思いだって!」

 

 その時、周囲から猛烈な視線が降り注いできた。

 立ち上がったままで、それらを見る。無表情で抗議する青年、気まずそうな顔をするおじさん、頭を掻いている老人。

 容赦のない年上からの注目を浴び、腰が引けそうになる。けれど歯を食いしばり、手を握りしめて、屈しないよう踏ん張る。

 

「――あら、なにか?」

 

 あらゆる目が、母に集中した。

 

「私達は、応援しているだけですよ?」

 

 そして母は、遠慮なく笑顔を振りまいた。

 それはあまりにも眩しかったのだろう、観客が慌てて目を逸らす。

 ――正直、チビるかと思った。

 

「さ、さて、応援するぞっ」

「お、おうよ!」

「がんばって島田さん! そこのパーシング! いいわ! スタイリッシュよ―――ッ!!!」

 

 いてもたってもいられず、母がその場でジャンピングする。さすがは、サンダース卒業生だった。

 

 

 □

 

 

 試合も終盤に差し掛かり、何の因果か愛里寿と西住みほが一騎打ちになった。

 こうなっちまうのか、と思う。ボコ仲間なのに、何で――

 ああ、

 ボコには、人と人とを繋げる力がある。だからこそ、こうなってしまうのは必然だったのかもしれない。

 

 そしてセンチュリオンは、みほの戦車は、絶対に撃たれまいと動き回る。その間にも砲撃は止まらない、当たったところで白旗判定には至らない。

 黒沢も、父も、母も、そして観客も、応援の声なんて上がらない。誰もが試合に見入り、誰よりも勝利を望んでいるのだろう。

 黒沢は、右手だけを握りしめる。どうか愛里寿に勝利を、島田流に日本一の座を、ボコミュージアムの存続を、俺の好きな人に幸せを――

 その時、みほの戦車にスキが生じた。

 砲身が明後日の方向に、センチュリオンはみほの戦車を捉えていて、

 

 その間に、クマの乗り物が、静かに通り過ぎていった。

 

 ――島田愛里寿のことを知っている黒沢は、小さく頷くしかなかった。

 だよな、そうだよな。愛里寿

 

 

 □

 

 

 ――島田愛里寿のことを理解している千代は、小さく頷いていた。

 わかる、わかるわ、愛里寿

 

 

 □

 

 

 そして試合は、大洗側の勝利に終わった。

 

 ほんの一息だけの沈黙の後で、自分以外の観客が一斉に大爆発を起こす。青年はガッツポーズをとり、三人組のおじさんは抱き付き合い、どこかの兄ちゃんは躍りに踊っていて、カップルらしい二人組がハイタッチ。間違いなく、幸せというものが溢れ出ていた。

 ――うつむく。

 愛里寿は、最後の最後まで格好良かった、持てる全てを出し切った。正しく戦い抜いた。

 これに文句のある奴は今すぐ出てこい、ぶっ飛ばしてやる。

 愛里寿はまちがいなく、この試合のMVPだ。

 

「……素晴らしい試合だったな」

 

 父が、肩を抱いてくれる。

 

「ええ。島田さんも、大学のみんなも、とても格好良かったわ」

 

 この時ほど、父と母の役職に感謝したことはない。

 戦車道の委員が、こう言ったんだ。愛里寿が最高なのは、絶対のものになった。

 

「父さん、母さん」

「うん?」

 

 自然と、笑えた。

 

「ありがとう」

 

 

 □

 

 

 先ほどから役人の声が途絶えているが、まあ疲れているんでしょうと軽く受け流しつつ、視線を西住流家元殿へ向ける。

 目は笑っておらず、けれども口元は小さく緩んでいて、千代は「へえ」と笑う。それに気づいたしほが、威嚇するように咳をこぼした。

 

「……どちらも、素晴らしい戦いぶりでした」

「ええ、それは認めます」

「だからこそ、次は正々堂々と戦いたいものですね」

「ええ」

 

 モニターには、西住みほと握手しあっている愛里寿が映し出されている。その横顔は、とても清々しい。

 

「さて、これから忙しくなりますね。この番狂わせは、戦車道界隈で大きく騒がれるでしょう」

「でしょうね」

 

 つまりは、そういうことになる。

 大学強化選手が、高校生に負けた。この事実をもとに、日本戦車道連盟は、島田流家元である千代は、西住流家元であるしほは、マスコミからインタビューを受けることになるだろう。試合に関しての評論文も書かなければいけない。

 廃艦の撤回も、文部省まわりに多大な影響力を及ぼすはずだ。しばらくはロクに眠れない日々が続くだろうが、それも組織ならではの宿命みたいなものだ。役人にはせいぜい強く生きて欲しい。

 うんと、背筋を伸ばす。

 自分には、ボコミュージアムのスポンサーになるという義務もある。慣れない仕事になりそうだが、きっと、なんとかなるだろう。

 

 

 □

 

 

 会場を後にして、黒沢家は真っ先にホテルへ帰還した。夕飯なんて後で良いと思えるくらい、疲れ切っていたのだ。

 黒沢も父も母も、ベッドの上で「あー」と横になる。こうしていると、先ほどまでの激闘が嘘のように思えてきた。

 けれど、黒沢は覚えている。家族総出で応援しまくったことも、愛里寿が必死に戦い抜いたことも、大学の皆が最後まで抗ったことも、最後に愛里寿とみほが握手しあったことも、ぜんぶ覚えている。

 ろくに声も出ない、油断すればすぐに眠ってしまいそうになる。父も母も「あー」とか「うー」とか言っていて、完全に疲弊しきっているようだ。

 ――すこし、眠っちまおうかな。

 そう思って、目をつむって、

 

 ホテルの一室で、トランスミュージックが鳴り響いた。

 

 眠気が木っ端微塵になる、けだるさなんてどこかへ飛んでいく。嘘みたいな速度で携帯を取り出し、画面を見てみれば、

 

「はい、もしもし!」

 

 すぐさまベランダへ向かい、そのまま戸を閉める。聞かれたら恥ずかしいからだ。

 

『あ、黒沢。今、だいじょうぶ?』

「よゆーよゆー元気元気。愛里寿の方こそ、大丈夫?」

『うん。今は休憩中』

「そうなんだ、良かった。……いや本当、よかったよ、試合」

『うん、頑張った』

「最高に格好良かった。これまで以上に、応援できたと思う」

『ありがとう。……なんだろうね、黒沢の応援が聞こえてきた気がしたんだ』

 

 その言い回しに、黒沢は気恥ずかしく頬を掻いてしまう。

 

「っかそか、力になれてよかったよ」

『うん。……黒沢がいてくれたから、私はあそこまで戦えたんだよ』

「マジで?」

『うん』

 

 ベランダの椅子に座る。

 その、愛里寿の言葉に全てが報われたような気がして――黒沢は、赤色に染まった夏空をじっと見つめる。

 

「……よかった、本当によかった。愛里寿が、後悔なく戦えて、ほんとうによかった」

『うん。……あ、あのね、黒沢』

「うん?」

『ボコミュージアムの件なんだけれども、お母さんがスポンサーになってくれるって』

 

 ぼんやりとした頭で、「へー」と思考し、

 

「マジで!?」

『うん。最高に立派だったから、だって』

「そっかー……よかった、本当によかったねぇ」

『ね、本当に良かった……やっぱり黒沢には、感謝してもしきれない』

「俺は何も……いや、そうか、そうだな、うん」

 

 黒沢と愛里寿が、笑い合う。

 

「なんというか、今日は本当にお疲れ様。ゆっくり休んでね」

『うん』

「じゃ、そろそろ、」

『待って』

 

 食い気味に止められた。黒沢は、少し驚いてしまう。

 

『え、えっと、あの……もしよかったら、なんだけれど』

「うん」

 

 愛里寿の小さな呼吸が、携帯の向こう側から聞こえてくる。これまで以上の緊迫感に、黒沢は深く深く耳をすまし始める。

 沈黙の時間が、五秒、十秒と過ぎて、そして、

 

『今度、私と一緒に、ふたりで遊ぼうっ』

 

 その言葉を耳にして、音もなくまばたきをする。そうした後で、言葉の意味をちょっと考えて、

 

「マジ、で?」

『う、うん。だめ、かな?』

「マジで? いいの!? 俺ならいつでもいいぜ!」

『ほんとう!?』

「ほんとほんと! 今すぐにでも愛里寿と遊びたい!」

『黒沢……うん! 私も遊びた――ああ、でも色々と準備しないと』

「っあーそうか、だよね、うん。都合は愛里寿に任せるから」

『あ、ありがとう。――そ、それで、遊ぶのはいいんだけれど』

「うん」

 

 再び、沈黙。

 戸の向こうを見てみれば、何やら母が電話で話し合いをしている。バイクの走る音が、地上から轟いてきた。空から何かが飛んできたかと思えば、それは赤トンボ。

 

『そ、その』

「うん」

『……あなたに、あなたにね、絶対に伝えたいことがあるの』

「え? そうなの?」

『……うん。でも、ちょっと言うのが難しくて……でもぜったいに、あなたとふたりで遊ぶ日に、言うからっ』

 

 黒沢は確かに聞いた。あまりにも脆く、消えてしまいそうな愛里寿の声を。

 伝えたいことって、何。その疑問が、容赦なく膨らんでいく。口にまで出そうになる。

 それを何とかして、首ごと振り払う。無理矢理聞き出して、愛里寿を困らせたくはない。

 

「わかった。じゃあ、その時になったら、聞かせて欲しい」

『――うんっ! 絶対に伝えるね!』

「ああ。じゃあ、そろそろ、」

 

 ――思う。

 愛里寿は、島田流後継者としてとにかく頑張ってみせた。その頑張りは、ボコミュージアムすらも救ってみせた。

 そんな愛里寿のことを、黒沢はとにかく格好良いと思った。試合後にわざわざ電話をかけてくれて、一緒に遊ぶ約束まで取り付けてくれた愛里寿のことが、とても愛おしいと想う。

 愛里寿は、やるべき全てのことをやり終えた。この空白の時期ならば、デカいことを言ってしまっても、愛里寿には何の支障も出ないはず。

 ――言うべきか。恋する男として、絶対に口にしなければいけないことを。

 

『……黒沢?』

「……愛里寿。最後にひとつ、いいかな?」

『うん、なに?』

 

 覚悟を、決めよう。

 逃げ道を、ぶっ壊そう。

 

「俺も愛里寿に、絶対に伝えたいことがあるんだ」

『――え? そう、なの?』

「うん。ただこればかりは、面と向かって言いたくて……でも、絶対に伝えるよ。二人で遊ぶ日に、必ず」

 

 愛里寿は、

 

『わかった。楽しみにしてるね』

 

 心穏やかに、笑ってくれた。

 

「うん。……じゃ、そろそろ切るね」

『うん。黒沢、今日はほんとうにありがとう、さんきゅー』

「こっちこそ、電話をくれてありがとう。またね」

『またね』

 

 通話が切れる。

 そうして、大きく大きく息を吐く。

 それは安堵によるものか、達成感のせいか、或いは全部か。なんでもよかった。

 言葉にできない余韻に浸ったまま、椅子の背もたれに身を預ける。夕暮れのことを、ただただ見つめていく。ついこの先のことを考えてしまって、思わず鼻で笑ってしまう。

 たぶんこれが、最高にいい気分、というやつなのだろう。

 このまま眠ってしまうのも悪くはない。目が覚めたら、自宅に着いていないかな――

 

 その時、戸の開く音がした。

 黒沢は、「んあ?」と戸に目を向ける。そこには、片手に携帯を握りしめたままの母。

 

「どったの、母さん」

「……落ち着いて、落ち着いて聞いてね?」

 

 母の、あまりにも真剣な無表情を目の当たりにして、ぼんやりとした感覚が全て抜け落ちていく。

 

「……あのね、あのね」

 

 声にならない声が、黒沢の喉から漏れた。

 「何度も見た母の顔」を見て、「何度も聞いた母の声」を耳にして、決して遠い過去ではない思い出たちがフラッシュバックする。

 血が冷めていく、ひどいくらいに冷静さを覚える。

 

「――母さん」

「……うん」

「どうにか、ならないのかい?」

 

 それは、小学三年生以来から封じてきた言葉。

 それは、あまりにも意地の悪い質問。

 

「――ごめんなさい。この試合の処理が、どうしても大きなものになりそうで……」

「そっか」

 

 いつかやって来るものだと、今までは覚悟していたはずなのに。なのにどうして、いつの間にか「来るはずがない」などと思い込んでいたのか。

 原因なんて、考えなくともわかる。

 かけがえのない人と、出会えたから。

 

「……いつぐらいに、転勤するの?」

 

 母は、ほんとうに申し訳なさそうにうつむいて、両肩で大きく大きくため息をついて、おそるおそる黒沢と目を合わせて、

 

「8月、31日」

「……わかった」

 

 なんて、話が早いんだ。

 全身の力を抜かしながら、背もたれに寄りかかる。

 

「母さん」

「うん」

「ごめん、バカなことを言った」

「……ううん」

 

 父と母は、いつまでもいつまでも、俺のことを抱きしめてくれた。

 

 

 




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