疲れた。
いや、それとは違うのかもしれない。途方にくれているというか、無気力に陥っているというか。とにかく、動くことも考えることもしたくはなかった。
北海道から帰って早々、黒沢はベッドで横になる。イヤホンすらも耳にかけないまま、目をつぶることもせず、死んだように動かない。
自分の心境を察してか、親からは何の声もかかってこない。それがひどく、ありがたい。
現在は十五時ほど。空は未だに青くて、虫たちは他人事のように鳴き続けている。夏は、これからも続く。
――そう、続くはずだったのだ。
愛里寿と出会えた夏は、もう少しで終わりを迎えようとしている。これからという時に限って、転勤というやつがやってきたせいだ。
覚悟は、していたはずだったのだ。
しかし自分は、出会ってしまった。そして、恋してしまえた。戦車道の達人で、けれども少し照れ屋さんで、ボコのことになると無我夢中になれて、自分のことを前に正してくれた、十三歳の天才少女に。
そんなかけがえのない人と出会えてしまえば、転勤なんて他人事だと思いたくもなるだろう。
初めてだった。ここまで、離れたくないと思うなんて。
――ため息。
携帯を、前にする。
一刻も早く、このことを愛里寿に伝えなければ。正直に「転勤します」と告げなければ、愛里寿を傷つけてしまう。自分が、どうにかなってしまいそうになる。
こんなこと、慣れているじゃないか。自分は何度も、友達とお別れ宣言をしたじゃないか。
アドレス帳をタップして、愛里寿の電話番号を引っ張り出す。通話ボタンを押そうとして、
気持ちを、落ち着かせる。
愛里寿は友達じゃない、初恋の人だ。そんな人にお別れを告げるなんて、つらすぎる。
愛里寿と沢山遊びたいのに。
愛里寿に告白してもいないのに。
愛里寿のことが、好きなのに。
愛里寿のことが好きだと思うたびに、もっと好きになってしまうのに。
――だからこそ、伝えないと。
通話ボタンを、押す。おそるおそる、携帯を耳に当てる。呼び出しコールが一巡し、二巡し、三、
『もしもし?』
かかって、しまった。
「……ああ、愛里寿。いま、時間ある? 忙しかったら、後でも、」
『大丈夫、ノープロブレム。どうしたの?』
愛里寿の明るい声が、耳に突き刺さる。
それがとても愛おしくて、悔しさめいた感情を覚える。
「あ、えっと……その」
『うん』
「その、」
『うん』
待ってくれている。愛里寿は、自分の言葉をいつまでも待ち続けてくれている。
なんて優しいんだ。
なんて、情けないんだ。
横になったままで、首を横に振るう。
愛里寿には、すべてを話さないと。いきなりお別れなんて、ひどすぎるから。
「愛里寿。その、落ち着いて、聞いて欲しいんだ」
『うん』
「俺さ、俺さ」
両目を、思い切りつぶる。
「8月31日に、転勤することになった」
言えてしまった。当たり前のように、沈黙が生じた。
愛里寿はいま、どんな顔をしてしまっているのだろう。驚いた顔か、真顔か、それ以外か。笑顔などありえないという事実が、ひどく悲しい。
『――そう、なんだ』
「……ごめん」
『ううん、いいの。黒沢の親が、頼られている証拠だよ』
「そう、だね」
『うん』
大きく、息を吸う。
近い内に、愛里寿とは二人きりで遊ぶ予定だ。そうすることで自分の、愛里寿の思い出は積み重なっていく。
自分はいい、よくないけどいい。けれど愛里寿はどうだ、このまま出会いを増やしたところで傷つけるだけじゃないか。
――だから、
「愛里寿」
『なに?』
「その、近い内に遊ぶ約束だけど……どうする? 俺は、どっちでもいい」
『する』
即答だった。
即答すぎて、思わず身を起き上がらせてしまった。
『私は、あなたと二人で遊びたい。ちゃんと、大切なことを伝えたい』
「……俺が、いなくなるのに?」
『あなたとの思い出は、消えたりなんかしない』
「あ、」
『黒沢は、私の友……ううん。私にとっての黒沢は、とても大切な人で、かけがえのないボコ仲間だよ。これは、ずっとずっと続いていくから。だから、そんなことを言わないで』
――実感する。
この子はまちがいなく、島田流後継者という使命を背負える人だ。
こんな状況になっても、愛里寿は泣き言の一つも漏らさない。ただただ、正しいことを貫き通していく。
「……愛里寿」
『うん』
「君と出会えて、俺は本当によかった」
『……私も、黒沢と出会えて、ほんとうに嬉しかった』
そうだ。
自分には、愛里寿に対して絶対に伝えなければならないことがある。それを言わないなんて、野郎失格だ。
笑みが漏れる。
心が、すっとする。
8月31日なんて、まだ遠い未来だ。そんなものに、どうして怯えなければならない。
それよりも、目先のことを考えよう。愛里寿と遊び倒すことだけを、目標にしよう。
「愛里寿」
『黒沢』
精一杯、笑ってみせる。
「ありがとう」
『ありがとう』
―――
久々の休日日和ということで、アズミは未だにベッドで横になっていた。
時刻は朝の七時だが、生き返る気はさらさら無い。ほんとうは昼ぐらいに覚醒したかったのだが、戦車道履修者の習慣かな、このように早起きしてしまったのである。
もう少しだけ、眠らせてちょうだい。
ここ最近は、本当に忙しかったのだ。試合もそうだが、その後の反省会ミーティングとか、猛暑の中での特訓だとかで、休む暇なんて一時もありはしなかった。
――それでも、逃げる隊員なんて一人もいなかった。みんな、後輩に負けた事による危機感を抱いていたのだろう。
かくいう自分もそうだ。ルミもメグミも、ひーこら言いながら愛里寿についていってみせた。
だから、この時ばかりは。
遠い虫の音を耳にしながら、アズミはふたたび眠りに落ちて、
携帯が、けたたましく震えだした。
あー? そんな声が漏れる。実に面倒臭そうに身を起こし、実に緩慢そうに足を動かして、充電器に繋ぎっぱなしの携帯にまで何とかありつく。寝ぼけ眼で「誰よもー」とベシャり、画面を見てみて、
アズミの眠気が、ぶっ飛んだ。
「はいっ、もしもし」
『あ、アズミ? いま、大丈夫?』
「はい、大丈夫ですっ。どうしました?」
思わず、その場で正座してしまう。
『えっと。アズミは、服を買うのが趣味だったりする? よく、色々な服を着こなしているから』
「そう、ですね。好きですね、はい」
珍しい質問だな、と思う。よく見ているんだな、と感心する。
アズミは子供の頃から、ファッションに興味があった。テレビの芸能人を見てみて、「あれを着てみたい!」と指さしたのが全ての始まりだ。
幸い、実家は割とお金持ちだったものだから、アズミはありとあらゆる服を着こなすチャンスに恵まれた。ある一種の変身願望も満たされたし、周囲の反応も悪くなかったりして、いよいよファッション趣味への熱が深まっていったものだ。
その趣味はBC自由学園で更に洗練されていって、気づけば月刊戦車道の表紙まで飾ることになった。このことは己が自慢と思っているし、胸を張って誇りとすら言える。
『そうなんだ……じゃあ、お願いがあるんだけれど』
「はい、なんでしょう?」
『――アズミの都合に合わせるから、服の買い物に付き合って欲しい』
瞬間、アズミの体内が蒸血したと思う。
「いつでも構いません。何なら、今日でも」
『ほんとう?』
「はい。今日は休日ですから、時間なんていくらでもあります」
『そっか……うん、わかった』
「隊長に似合う服を、必ずや選んでみせます」
『あ、それなんだけれど』
「はい?」
その時、愛里寿の言葉に躊躇らしきものが生じた。
アズミの首が傾く。携帯を、深々と耳に当てる、
『動きやすくて、それでいて魅力的な服……なんてあるかな?』
「え」
思わず、生の声が漏れた。
動きやすい、これはいい。効率を求めるのは、島田流らしいともいえる。
ただ、隊長の口から「魅力的」――なんて言葉が、出てくるとは思いもしなかった。
「た、隊長は魅力的ですから、何を着てもばっちりですよ」
本音のままを口にする。
隊長としての魅力はもちろんのこと、愛里寿は女の子としても一級品の可愛さを秘めていると思う。
もちろんこんなこと、本人の前で言えるはずがないのだが。
『ありがとう、アズミ。でも私は、しっかりと服を選びたいの』
「さすが隊長。わかりました、ぜひ協力させてください」
『感謝する』
「はい。……それで、動きやすいとはどういう意図で? 走り込みでもするのですか?」
間。
あれ。
何か、聞いてはいけないことでも聞いてしまったのだろうか。よりにもよって、愛里寿相手にポカをやらかしてしまったのか。
冷や汗が流れる。蒸し暑いはずなのに、心の底から冷えてきた。けれど出した言葉は引っ込められない、愛里寿からの返答を待つしかなかった。
『――それは』
「それは?」
『……山、山に登ろうと思って』
「――まあ、山、ですか?」
『うん。気分転換をしようと』
「なるほど。それはいいアイデアだと思います」
『うん』
「ですが、一人で山登りは危ないと思います。同行でもしましょうか?」
間。
あれ。
何か、聞いてはいけないことで、
『その気遣いには感謝する。けれど、登山仲間がいるから大丈夫だ』
うんうん。
アズミはすかさず、
「仲間ですか。登山好きの選抜メンバーとか?」
『…………うん、まあ』
あ、これ嘘だ。
副官アズミは、否応なくそう察せてしまう。
明らかな躊躇いといい、くぐもった「うん、まあ」といい、愛里寿は間違いなく、とっさに嘘をついた。副官の座を賭けてもいい。
そもそも愛里寿は、これまで「一度も」嘘をついたことがない。やれることは「やれる」と言うし、できないことは「できない」と口にするタイプだ。根が真面目だからこそ、といえる。
だからこそ、愛里寿はぎこちない嘘しかつけない。けれどアズミからしてみれば、それはそれで美点だとは思う。
――話を戻す。
愛里寿はいま、「選抜メンバーと山へ登りに行く」という嘘をついた。ということは、アズミの預かり知らぬ「誰かさん」と、愛里寿は休日を満喫する気でいるのだろう。
是非問いたい。その誰かさんって、誰。
めちゃくちゃ心配だからこそ、ストレートにそう質問したいが――愛里寿のプライベートに、数少ない休息に口を挟めるほど、自分は愚かでも若くもない。
だから、せめて、これだけは確認しようと思う。
「あの」
『なに?』
「そのメンバーは、とても信頼できますか?」
『できるっ』
即答だった。
正座が崩れた。
『あ……すまない』
「い、いえ、いいんです。……そうですか、それはよかった」
愛里寿は戦車隊隊長だ。大きな間違いはしないし、人を見る目もある。即答レベルということは、安心しても良いのだろう。
ひと息吹く。
「わかりました。不肖アズミ、隊長を魅力的にコーディネイトしてみせます」
『さんきゅ、』
?
『……感謝する、アズミ』
「あ、はい」
『では十二時、大学の入口前で』
「はい。では、後ほど」
『ああ。それじゃあ、また』
通話が切れる。
しばらくは携帯を耳に当てたままで、両肩で深く息をついて、携帯をそっと床に置く。
――誰なんだろう。隊長の登山仲間って。
少なくとも、自分たちには絶対にバレたくない誰か。その上で、隊長が絶対に信頼している誰か。
――彼氏かな?
アズミ二十一歳は、真っ先に思う。思ってみて、「えー?」と声に出す。
愛里寿はいつだって戦車道一筋の、特に異性とは何ら接点がない女の子だ。この範囲から、逸脱したことなんて、
「――あ」
気づいた。
ここ最近の愛里寿は、よくよく変わってきているじゃないか。
練習試合後の全力ダッシュ、ヘドバン混じりの音楽視聴、笑顔込みのメール受信、試合前に見せてくれた幸せそうな笑顔――
つまりは、そういうことなのかもしれない。
よし。
年上として、愛里寿をばっちり可愛くしなくては。
うん、と立ち上がる。その場で背筋を伸ばし、両手でカーテンを広げ、真正面から日光を浴びる。なんだか清々しい気分になってしまって、思わず窓も開けてみせた。
あ、
ヘリが、遠い向こう側の空でゆっくり飛んでいる。
最近乗ってないなあと、なんとなく思う。
―――
日曜日になろうとも、家元の忙しさはやっぱり変わらない。
例の試合のインタビューは受けたし、若干「厳しめ」の評論文も書いた。かといって山積みの仕事が軽くなるなんてことはなく、今日も今日とてバリバリ仕事をこなすのだ。
これも全ては、戦車道の繁栄の為。ひいては、島田流のため。
凝った肩を自分で揉みながら、なんとなく腕時計を見る。時刻は十一時ほど、愛しい夕飯まであと五時間以上もある。
思わず、口元がへの字に曲がった。
しょうがないなと、腕をぐるぐる回して、
ノックが鳴った。
特に動揺することもなく、千代は「どうぞ」と声を掛ける。事務室に入ってきたのは、予想通り、
「失礼します」
愛里寿、だった。
帽子をかぶり、白色でまとめた軽装を着こなし、大きめのバックパックを背負った、明らかに山へ登る気満々の愛娘が、いた。
「これから、すこし出かけてきます。夕方までには戻ります」
「待って愛里寿」
母の問いかけは早い。愛里寿は、平然とした顔で「なんですか?」と聞き返す。
「……その、山へ登る気、なの?」
「はい。何か問題でも?」
「いえ、特には。ただその、一人で登るの? 山に?」
その時、愛里寿は目を逸らした。千代は、それを見逃しはしなかった。
「――友達、とです」
「友達。それは、大学の?」
「はい」
嘘だ。今の愛里寿は、少しだけうつむいてしまっているから。
千代は、大急ぎで推測する。これまでの過程から察して、おそらくはボコミュージアムで出会った「誰かさん」と山へ登るつもりでいるのだろう。
どんな人かは分からない、性別すらも不明だ。かといって、それを追求するのは親としてはばかれる。
愛里寿の上目遣いと、目が合う。
――この際、誰かさんの正体なんてどうでもいい。重要なのは、愛里寿との信頼関係だ。
「……愛里寿」
深々と、息をつく。
「ひとつ、聞かせて」
「はい」
愛里寿は真顔のまま、焦りきっていた。
対して、千代は、
「その友達のことは、どう思ってるの?」
にこりと、微笑む。
そんな千代の質問に対して、愛里寿は無表情のままでいて、
けれども、あっという間に、
「――大好きです」
愛里寿は、これまで見たことのない微笑みを浮かばせていた。頬を赤く染め、それに手を添えて、どこかくすぐったそうに目をそらしながら。
それで、もう十分だった。
「じゃあ、心配いらないわね。それじゃあいってらっしゃい、友達と楽しんでいってね」
「はい」
「車と戦車には気をつけるのよ」
「うん。それでは、いってきます」
愛里寿は一礼して、そのまま事務室から出ていく。間もなくして、玄関のドアが開かれる音が響いた。
椅子ごと振り向き、窓越しから愛里寿の後ろ姿を確認する。その足取りはほんとうに速くて、とても嬉しそうで、まるで遊園地へ向かう子供のようだった。
椅子を、デスクの前に向ける。
――けれど、でも、子供の背はいつか伸びてしまうものだ。
あの時の愛里寿の笑顔は、どこか大人っぽくて、恋する乙女そのものだった。
口元が緩む。
わかるわよ、愛里寿。私にも、そういう時期があったもの。
今日は、ハンバーグを作ろう。それがいい、うん。
―――
今日はデートだ。集合場所はいつもの中央公園前、集合時間は十二時ちょうど。
だから黒沢は、イヤホンを耳にかけつつ、十一時に家を出た。ここで一番乗りをしておかないと、何だかこう「悔しい」気がしたからだ。
だから黒沢は、登山用の荷物を背負いながらで一生懸命に走った。暑いし、正直重いしで、けっこうキツかったが――俺は言いたい、「今きたところ」を。
多少息切れしながらも、黒沢は走り続ける。そうして見慣れた曲がり角にまで差し掛かり、遂に、
「あ、黒沢」
ヘッドホンをつけた愛里寿が、手をひらひらさせながらで挨拶をした。
現在は十一時十分ほど、だのに愛里寿は集合場所にいる。いくらなんでも早すぎると思ったが、愛里寿はあの島田流後継者で、ニンジャなのだ。迅速な動きくらいは、朝飯前なのかもしれない。
互いに、耳につけているものを取り外す。
「お、おはよう。早いね」
「待ちきれなくて、つい」
「そっかー……何かこう、うれしーな」
「私も嬉しい。こんなにも早く、きてくれたから」
どうやら、考えることは同じだったらしい。思わず笑みがこぼれあう。
――それにしても、
「愛里寿」
「なに?」
「その登山服、なんだけど」
「う、うん。どう、かな?」
愛里寿が上目遣いで、けれども微笑みを隠さないままで聞いてくる。
――答えなんて、愛里寿が見えた瞬間から決まりきっていた。
「グレートに可愛い」
「えっ」
「かわいい、すごい良いよ。いい、すごくいい」
「あ、ありがとう、黒沢」
白でまとめられた登山服は、実に愛里寿「らしい」と思う。まずそこがいい。
そして自分なんかと違って、上から下まで実用的なウェアを着こなしている。これもいい。
しっかりと帽子をかぶり、大きめなバックパックを背負っているあたりに、愛里寿の生真面目さが感じられる。最高だ。
「それに比べて俺は、とりあえずまあ、動きやすくしましたって感じの服だしなあ」
「そんなことないよ、それで十分だと思う。それに黒沢は、一度山を攻略できたんだよね? ならオッケーだよ」
「っかー、そかー」
何だか気恥ずかしくなって、頭を適当に掻いてしまう。愛里寿の方も、にこりと笑ってくれる。
――うん。
「じゃあ、そろそろ行こうか。近隣山へ」
「うん、行こう」
そして、愛里寿が黒沢の隣に立つ。もしかしてと思ったが、やっぱり愛里寿は手を差し伸べてくれた。
「うん」
だから黒沢は、その手を軽く握る。いよいよもって、体が熱くなっていく。
そうして黒沢と愛里寿は、近隣山までゆっくり、ゆっくりと歩いていく。最初は沈黙気味だったけれども、黒沢の「ねえ」で雑談が始まる。
□
近隣山までたどり着いた後は、一旦手を離し、同時に「ゴー!」と叫んでは山道めがけ足を踏み入れた。その姿はまるで、戦地へ向かう戦士だ。
といえども、近隣山はそこまでヤバい山ではない。コースは整っているし、数十分ほど歩けば山頂にはたどり着ける。しかもこの前は、半ば思いつきで近隣山を攻略してしまった。
この本格装備ならば、確実にてっぺんまで歩けるだろう。
――ただ、
「あー、あちー……愛里寿、大丈夫ー?」
「うん。黒沢は……あ、少し休む?」
「い、いや、俺はヘーキ」
「無理しないで。ほら、丁度いいところに座れそうな木があるから、そこで座って何か飲もう?」
それでも、疲れるものは疲れる。今日は暑いし、もちろん斜面を歩きっぱなしでいるから、やはりどうしても息が荒んでしまうのだ。
対して愛里寿は、無傷だった。息は整っているし、表情だって崩れていない。重たそうなバックパックを背負っているだろうに、愛里寿はぜんぜん堪えていないのだった。
「……わり、気を使わせて」
「だいじょうぶ。さ、座ろう?」
愛里寿が黒沢の手を掴み、そのまま倒木まで連れていってくれる。
そうして腰掛けた途端、黒沢の口から「あー」が出た。
「お疲れ様、黒沢」
「愛里寿こそ。いやしかし、凄いね。ぜんぜん疲れてないように見える」
「一応、鍛えてるから」
愛里寿が力強く微笑みながら、腕をL字に曲げた。余分な筋肉なんて、ぜんぜんついていないように見える。
「スゲー」
「ふふ。あ、何か飲む?」
「ああ、飲み物なら持ってきてるよ」
そうして黒沢は、水筒を取り出す。ちなみに中身は緑茶だ。
――その時、黒沢は確かに見た。残念そうに眉をへこませている、愛里寿の顔を。
「……愛里寿?」
「あ、ううん、なんでもないよ、なんでも」
考えろ。愛里寿がどうして、あんな顔をしたのか。
――意外なことに、答えはすぐにでも出せた。たぶん、愛里寿のことを喜ばせたい一心だったからかもしれない。
「あ、あー、あーっしまった」
「え?」
下ろしたバックパックを、わざとらしく漁りながら、
「俺としたことが、食べ物を忘れてきちまった」
わざとらしい苦笑いをする。こんな下手な嘘、愛里寿なら一発で見抜いてしまうはずだ。
「あ――うん。じゃあ、よかったら、私の持ってきた食料、食べてみる?」
けれども、愛里寿はとても嬉しそうに微笑んでくれた。
黒沢はもちろん「うん」と答えて、愛里寿は鼻歌交じりで――聞き覚えのあるメロディを奏でながら――バックパックに、手を入れて、
「これ、お気に入りのレーション」
「れーしょん?」
英語が書かれたパッケージを手にとりながら、愛里寿がこくこくと頷く。
「うん。保存食みたいなものなんだけれど、すごくおいしいよ」
「保存食……食ったことねえな、そういうの」
「じゃあ、食べてたべてっ」
愛里寿が、ぐいぐいとレーションを前に出す。それはもう嬉しそうな顔をしながら。
けっこうプッシュしてくるなあと思い、改めてレーションのパッケージを見てみる。メインを飾るTOMATO SAUCEの文字、賞味期限らしい数字の羅列、右下に書かれたSHIMADAの、
脳ミソが震えた、
スイッチ入った。
「これはうまそう!」
「うんっ」
「ありがとう。しっかり、味の感想も言うからね」
「え? ――あ」
愛里寿は、少し驚いたような顔を浮かばせて――とても恥ずかしそうに目を逸らして、
けれども、嬉しそうに微笑んでくれた。
「エクセレント!」
「サンキュー!」
□
休憩をし終えてみれば、山頂まではほぼ一直線だった。それほど険しい山でもないから、一旦インターバルをとってしまえば案外いけるものだ。
その途中で奇妙な色をしたキノコを見つけたが、黒沢は「あの時のか!」と声を上げた。話を覚えていたらしい愛里寿も、「これが」と距離をとる。
よく見てみると、キノコの色が赤から紫に変色しているような――だから黒沢は、興味本位でキノコに接近しようとしたが、愛里寿が「だめー!」と腕を引っ張ったので調査は打ち切りに。それでよかったのかもしれない。
そうして黒沢と愛里寿は、何事もなく山頂にまで辿り着いた。
ほぼ同時に、ふたりで深呼吸する。
無言のままで、街を見下ろしてみる。
見覚えの無い家、背の高いマンション、自分が通っている小学校、
「あ、あれかな? 愛里寿の家」
思わず指をさす。愛里寿も気づいたらしく、「見える見える!」と大はしゃぎ。
「すげえでけえ……やっぱ城みてえだ」
「目立つね……」
「写真とっとこ」
「私も」
携帯を取り出し、風景をメモリに焼き付ける。
「うし。じゃあ、少し休んだら降りるかい?」
「うん。……あ、待って、黒沢」
「うん?」
隣にいた愛里寿が、自分めがけもっと近づいてきた。一歩の隙間もない距離感に、胸の内が急に痛みだす。
「あ、愛里寿」
「記念写真、撮ろう?」
ああ、そういうことか。
愛里寿の意図を把握できたことによって、少しばかりの冷静さを取り戻す。刺激は止まらないけれど。
「じゃあ、撮るね」
小さな街を背景に、愛里寿が携帯を空高く掲げる。黒沢は黒沢なりに笑ってみせて、愛里寿も微笑んで――愛里寿に、思い出ができた。
「うん」
一緒に携帯を確認してみれば、画面には文句なしのベストショットが写り込んでいた。
愛里寿と顔を見合わせる。思わず嬉しくなって、「えへへ」と笑い合ってしまった。
――それにしても、ほんとうにいい写真だな。
――俺も、欲しくなってきたな。
「ねえ、愛里寿」
「うん?」
「俺も、撮ってもいいかな? 愛里寿と一緒に」
そして、愛里寿は当たり前のように微笑んでくれるのだ。
黒沢は、そっと愛里寿に寄り添う。目が合って、愛里寿は「こくり」と小さく頷く。その顔は、どこか赤い。
そうして携帯を掲げて、黒沢は精一杯に笑う。愛里寿とここまで通いあえたことが、とてもとても幸せだから。
弾けるようなシャッター音とともに、愛里寿との思い出が携帯の中に刻まれる。
とてもいい一枚が、撮れた。
「……じゃ、少し休むか」
「うん」
草むらの上に、腰を下ろしながら、
「あ。喉、乾いたなー……何かない?」
「あっ――うん、あるよ。よかったら飲んで」
夏空の下で、愛里寿は静かに微笑んでくれた。
□
無事に下山した後でも、黒沢と愛里寿のテンションは留まることを知らない。
まずはハイタッチを交わし合い、愛里寿が「次はどこへ行こう?」と聞いてきて、黒沢は「じゃあ、CD屋へ行こう」と提案する。それを聞いた愛里寿は、とても嬉しそうな顔をして「うん! レッツゴー!」とはりきってくれた。
そうして、CD屋「Music World」までゆっくり歩んでいく。手と手を繋ぎ合いながら。
――店内。
「それにしてもさ」
「うん?」
トランスミュージックの棚から、適当にCDを引っ張り出しつつ、
「愛里寿って、すげーセンスいいよね。時折おすすめを教えてくれるけど、どれも俺の好みにベストマッチしてるもん」
「え。そ、そうかな? く、黒沢のセンスもいいよ」
「そ、そお? ……まあ、なんていうのかな。愛里寿ってけっこう色々なジャンルを教えてくれるけど、どれもこれも良い感じに聴けるんだよね。ポップスからトランス、インストゥルメンタルまで」
「いまは、ネットで試聴できるから」
「それでも、色々なジャンルに手を出せるっていうのは、立派な能力だよ。俺なんて、曲調が早いやつばっかり」
隣でCDを引っ張り出しながら、愛里寿がくすりと微笑む。
「一つの音楽を極められるのも、立派な才能だよ」
「そうかな。……そうだね」
ここ最近になって、愛里寿はメールで「わたしのおすすめ」を教えてくれるようになった。トランスミュージックはもちろん、ポップスからロック、民族系まで。
初めて耳にするジャンルも含まれていたのだが、いざ試聴してみると、イントロから「!」となることが多かった。そうしてフルが聴きたくて聴きたくて仕方がなくなり、そのままダウンロード購入することもしょっちゅう。
そのたびに『愛里寿の紹介してくれた曲、すげえ良かった!』と送信するのだが、愛里寿もきまって『良かった。音楽っていいよね』と返信してくれるのだ。
だからここ最近は、「聴ける」曲が多くなった。人生というやつが、ますます豊かになったと思う。
「俺でよかったら、いくらでもオススメを紹介するよ。ただやっぱり、似たようなのが多くなるかも」
「そんなことないよ。黒沢が教えてくれる激しい音楽たちには、様々な熱があった。明るいものから激しいもの、クールなものまで。だから、まったく同じなんてことはない」
「――だね、うん」
「あなたが教えてくれた音楽のおかげで、私の空白に色が生まれた。だから、戦車道ももっと楽しくなった」
「……そっか」
「だから、」
愛里寿の声色が変わった。
半ば反射的に、愛里寿の方に顔を向ける。
「私はこれからも聴いていきたい、あなたの好きな音楽を」
愛里寿もこっちを見て、にこりと笑ってくれた。
「だから、ずっとずっと、あなたのおすすめを教えてほしい」
そんなことを、そんな表情で言われてしまったら、
「――わかった。これからも一緒に、曲を聴いていこう」
「うんっ」
――数十分後、黒沢と愛里寿は満足げに店から出た。
二人が手にしたレジ袋には、もちろん同じCDが入っている。
□
――次は、あそこに行きたい。
愛里寿の指差しで、次は見覚えのあるスイーツ店へ足を運ぶことにした。黒沢の「ここのパフェは絶品だぜ」の一言で、愛里寿の顔が明るくなる。
店内にはいくらか人がいたが、座れる箇所はいくつかある。そのまま窓際の席にまで案内されて、バックパックを足元に置いてはそのまま着席。メニューを取り出しては「何を食べる? 俺はチョコパフェ」と言い、愛里寿が「じゃあわたしも」。
注文を確認した店員は、「しばらくお待ち下さい」の一言ともに、場から去っていった。
数十分ぶりに足を休めたお陰で、思わず息が漏れる。
とりあえずは水を一杯飲んで、気分を整える。
そして愛里寿はといえば、店内を興味深そうな目で観察していた。
「こういう店は、初めて?」
「うん。外食は、あまりしたことがなくて」
「そっか……うん。ここのパフェは本当にエクセレントだから、ゆっくり食べていこうぜ」
「うんっ」
戦車道をひたむきに歩む愛里寿のことは、もちろん大好きだ。
だからこそ、ちょっとの遊びをして欲しいと、黒沢は切実に思う。
――今日の愛里寿は、やりたいことをやり続けている。それがとてつもなく嬉しい。
しばらくして、二人分のチョコパフェが運ばれてくる。途端に食欲が刺激され、愛里寿なんて両目がキンキラキンに輝いている。
ごとり。
パフェがテーブルの上に置かれる、互いに言葉が止まる。店員の「ごゆっくりお召し上がりください」が、どこか遠く聞こえた。
「では、」
手を合わせ、
「いただきます」
「いただきます」
スプーンを手に取り、そっと、チョコ混じりのクリームをすくい取る。それをゆっくり口元にまで運んでいって、愛里寿とほぼ同じタイミングで口に含んで、
「うまいっ」
「あまいっ」
その後は、もう喜色満面の笑みでパフェを味わっていった。黒沢は無我夢中でクリームの甘みを堪能し、愛里寿は始終笑顔でパフェを味わっていく。
今だけは、言葉はいらない。愛里寿と一緒に食べるパフェの味は、いつもよりも舌に染み込み続けた。
「――ふー食べた食べた」
「うん。ほんとうに、おいしかった」
甘い物と、楽しい時間というものは、あっという間に溶けて消えてしまう。
――と思いきや、時計を見てみれば、食べ終えるまでそれほど時間がかかっていなかった。すっかり虜にされていたんだなあと、頷いてしまう。
「ふう、ごちそうさま」
「ごちそうさま。……どうだった? パフェ」
「グレート、オールイェイっ」
愛里寿が、実にいい笑みで親指を立ててみせる。だよなあと、黒沢も同意した。
「また、ここに行きたいな」
「いいんじゃないかな。今度は、大学のみんなと一緒に行ってみるのはどうかな?」
「うん。それもいいんだけれど、」
愛里寿が、ちらりと床に目をそらす。
「黒沢と、またふたりで行きたいな」
愛里寿は、黒沢の目を見て、真正面からこう言った。
体が痛い。
思考が走る。
愛里寿は、どういう意味で今の言葉を言ったのだろう。
友達として、一緒にパフェを食べたいのか。黒沢という男と、ふたりきりでパフェを味わいたいのか――前者はいい、すこし残念だけれど。けれどもし、後者だとしたら、
知りたいという気持ちが、容赦なく溢れ出てくる。恋する男として、気になって仕方がなくなる。転勤という迫りくる影が、脳裏を横切っていく。
――絶対に、気持ちを伝えなきゃ。
ぐっと、口元を噛み締める。
「あ、黒沢」
「なに?」
「口にクリーム、ついてるよ」
そうして愛里寿は、ナプキンを手にして、黒沢の口元を柔らかく撫でてくれた。
「あ――ありがとう」
「うん」
愛里寿は微笑んでいる。どこか、嬉しそうに。
スイーツ店から出て、なんとなく空を見上げる。
青い。ちぎれた雲がまばらに浮いているからこそ、より一層とそう見える。
愛里寿と歩いてだいぶ経った気がするが、空はまだ明るい。つまりは、もっと遊んでもいいということだ。
愛里寿へ、視線を向ける。愛里寿がにこりとして、「次はどこへ行く?」と聞いてきた。
そうだなあと考え込み、二人して遊べる場所を脳内で検索して――
あ、
「じゃあ、あそこへ行こうか」
「どこ?」
この時の自分は、きっとうまく笑えていたと思う。
「愛里寿が救ってくれた、あの場所へ」
それを聞いた愛里寿は――明るく元気よく、「うん!」と頷いた。
□
「よく来てくれたな、お前ら! ここも綺麗になって、オイラはますます絶好調だぜ!」
ボコが、勢いよく腕を振り回す。左側の席で、黒沢と愛里寿が「ホッホー!」と歓喜した。数人の観客も、「おー」と声を上げる。
――ボコの言う通り、ミュージアムは見違えるほど綺麗になった。
よく目立っていた建物の欠損も、見慣れた壁のヒビも、散らかり放題だったパンフレットも、今となってはどこにもない。
「おうお前ら! よく来たな! ビビって来ないものかと思ってたぜ!」
「まだ凝りねえのか!」
「オイラは今日、絶好調なんだよ! 負ける気がしねえッ!」
通りがかったグッズショップには、一組の家族連れがいた。
「でけえ口叩くじゃねえか! お前ら、やっちまえ!」
アトラクションは、新品同様にピカピカだった。
「んだこのっこらー! ぐあああ! やめろーッ!」
勇ましいボコのテーマも、いつもよりクリアに聴こえた。
――ボコミュージアムがそうなれたのも、ぜんぶ、
「ああっ……ボコ、がんばれっがんばれっ、すたんだ―――っぷッ!」
島田愛里寿という女の子が、頑張ってくれたからだ。
ボコが三人組にボコられる中、数人の観客が、控え目に「がんばれ」と口にする。愛里寿は、応援を決して止めない。
「ぐあーッ! ……み、みんな……」
「ああっ」
「オイラに力を、力をくれッ」
「ぼ、ボコッ。がんばれ、がんばれっ」
愛里寿が声を上げる。観客にも熱が入り始めたのか、がんばれ、がんばれ、立ってくれと、数々のエールが静かに発せられていく。
「もっと、オイラに力を!」
「! ボコッ! 頑張れッ! 立って――――ッ!」
「立ってくれボコ――ッ! お前はやれるクマだろ―――ッ!!」
黒沢が、愛里寿が、立ち上がってまで絶叫する。エンジンがかった観客達も、立ってくれと一斉に咆哮した。
「っしゃ―――ッ!」
ボコが立ち上がる。三人組が怯む。
「お前らありがとな! これで負ける気がしねえぜ!」
「やったぜ!」
「かっこいいよ! ボコッ!」
「すごいぜボコ!」
「がんばってーッ!」
――寂しさを覚える。
だってボコはもう、自分と愛里寿がいなくてもやっていけるだろうから。
「よーし、あいつらに一発カマしてやっから、何かいい技を教えてくれ!」
そして、黒沢と愛里寿はあえて何も言わない。
ボコが腕を回し続ける中、ほんのすこしだけの間が生じて、
「――ボコ! 真空回し蹴りだ!」
「わかったぜ―――ッ!!」
父と母に連れられた、名前も知らない子供がボコに助言する。
ボコはその場で二度ほどジャンプ、ネズミめがけ飛びかかり――
「あ」
うまく一回転できず、そのまま墜落した。
床でヘバっているボコに対して、三人組は容赦なく蹴りを食らわす。ボコは抵抗を続けるものの、やはり数の差には勝てず、もともとポテンシャルも低く、あっけなく完敗してしまうのだ。
満足した三人組は、会場から立ち去っていく。あとに残されたのは、地に伏せるボコだけ。
一発も食らわせることができず、何のいいところを見せることも出来ず、ふつうなら心が折れてしまいそうなシチュエーションの中でも、
「――次は必ず勝つぞッ!」
それでもボコは、次に賭けるのだ。
――ショーが閉幕して、会場内に明かりが点き、冷えた空気が一斉に漂い始める。親からは苦笑い、子供は不満そうに「えー?」の声。
「……なんだよ。ボコ、負けちまうのー?」
その言葉を聞いて、強烈な懐かしさを覚える。
後ろ向きだった頃に、たまたまボコミュージアムを見つけたあの日。ボコショーを見て、力が抜けたあの感覚。思わず、「勝てねえの?」と口にしたあの瞬間。ぜんぶ思い出せる。
愛里寿と目が合う、何だか笑い合ってしまう。
そしてそのまま、至極真っ当な感想を言った子供に対して、二人で言うのだ。
「それがボコだから!」
「それがボコだから!」
ボコミュージアムから出てみれば、空はすっかり夕暮れ模様だった。
まあ、そりゃそうかと思う。グッズショップを漁って、アトラクションも遊び倒して、ボコショーでめちゃくちゃ叫んで、最新愛里寿無双動画に盛り上がっていれば、それはもう時間なんて過ぎていくだろう。
ボコミュージアムの入り口で、深呼吸する。
手と手を繋ぎあったままで、愛里寿の横顔を覗う。
愛里寿は無表情で、真正面を見つめている。その先にあるのは、現実世界へ戻してくれる大きな門だ。
あそこをくぐり抜ければ、今日という日が終わりへ向かっていくのだろう。空も徐々に暗くなっていって、親もほんの少し心配しだすはず。
――そう、
良い子は、帰る時間だ。
「愛里寿」
「うん」
「……帰ろうか」
「うん」
「家まで、送っていくよ」
迫る明日に対しての、ほんのささやかな抗いを行い始める。
その間に自分は、愛里寿にすべてのことを伝えなければならない。
「……黒沢」
「うん?」
愛里寿が、黒沢の方へ顔を向ける。
「今日は、あなたの家の前まで連れて行って欲しい」
「え? ……ふつうのアパートだよ? いいの?」
「いい」
愛里寿は、音もなく微笑んで、
「あなたの家を、見てみたいの」
□
帰路についている間、愛里寿とはこれまでの事で振り返り合っていた。
山でへばったこと、島田お手製の保存食が美味かったこと、一緒になって記念撮影をしたこと。立ち止まり、その画像を一緒に見る黒沢と愛里寿。
音楽についても語り合った。次は新しいジャンルを開拓してみようかな、私も探してみる、最近はフリー音楽も凄いクオリティだよな、見つけたらすぐ教えるね。足を止めて、CDを見せあいっこする黒沢と愛里寿。
パフェの話もした。やっぱり甘い物は良いと黒沢が力説して、愛里寿もうんうんと同調する。次は何を食べようかなと黒沢が聞いて、愛里寿はホットケーキを所望する。そうしているうちに先ほどのスイーツ店が目に入って、黒沢と愛里寿がウィンドウ越しで店内を見つめる。
そして、ボコミュージアムについて語り合おうとして、
「あ」
家に、見慣れたアパートの前に着いてしまった。
まだ、話したいことがたくさんあるのに。これからについて、語り合いたかったのに。
「……着いちゃった、ね」
「うん」
それでも、手と手は離れない。愛里寿が、憂いを帯びているような顔をにじませている。
夕日に照らされた愛里寿が、どこか儚く見える。このまま手を離してしまったら、音もなく消えてしまうような気がする。
目と目が、じっと合い続ける。そのままの時間が、少しずつ刻まれていく。手と手が、段々と熱くなっていく気がした。
「愛里寿」
「うん」
「今日は、その、ありがとう。楽しかったよ」
「私の方こそ、本当に楽しかった。今日という日は、ぜったいに忘れない」
「俺も忘れない」
けれど、手と手は離れない。
愛里寿が握りしめて――ちがう、俺が力を入れているせいだ。伝えなければいけないことを口にしていないから、俺は未練がましいことをしている。
あと少しで、空は暗くなってしまう。そんな世界に、女の子を一人にするわけにはいかない。はやく、お姫様を城に返さないといけない。
両思いか、それとも友達か。それは未だに、わからなかった。
けれども愛里寿は、自分のことだけを見つめている。まばたきをしながら、上目遣いぎみになりながら。
そんな、夕日に溶け込んでいる愛里寿を見て、じっと見つめて、
なんて、なんて可愛らしい人なんだろう。
そんな人と、自分は結ばれたい。
勇気の補充なんて、それで十分だった。
想いが、もう止まらなかった。
だから黒沢は、手をそっと離す。
「あ――」
「愛里寿」
黒沢は、愛里寿の前に立つ。
「君に、伝えたいことがあるんだ」
「あ――うん。なに?」
右手を、ぎゅっと握りしめる。
「俺、俺、」
恐れるな、屈するな、言いたいことを言え。
「彼」は、それを教えてくれただろう。
――頷く。
「俺は、愛里寿のことが好きだ」
愛里寿の両目が、見開かれる。
「きっと、前から好きだった。愛里寿の笑顔を見ていると、胸が苦しくなって。でも、それが嬉しくて」
愛里寿は、驚いていた。
けれども言う、言える。
「それが恋だって気づいた時に、決めたんだ。ぜったいに、愛里寿に告白しようって」
風が、愛里寿の髪を揺らす。
「強くて、優しい愛里寿のことが、愛里寿のことが、大好きだ」
ぜんぶ、言えた。
だから、何を言われてもいい。
このまま、死んでしまってもいい。よくないけれど。
――そんなことを思いながら、黒沢はずっと愛里寿から目を離さなかった。
「あ」
なのに、見逃してしまった、
「わたしも、わたしもねっ、同じだった。あなたのことを考えると、胸が苦しくなった」
愛里寿から、抱きしめられたことに。
「最初はわからなかった、わからなかったの。でも、ようやくわかった。私は、あなたに恋をしていることに」
感じる。
愛里寿の髪の匂いが、仄かに伝わってくる。肩に愛里寿の顔が添えられて、呼吸すらも感じ取れる。体と体があまりにも近くて、鼓動すらも聞き取れる。
「ありがとう、ありがとう。私のこと、好きになってくれて。……嬉しいよ、黒沢ぁっ」
実感する。
島田愛里寿という少女は、俺よりも少しだけ小さい。
天才と呼ばれようとも、後継者と謳われようとも、戦車隊隊長として生き抜いていようとも、愛里寿はやっぱり、普通の女の子だ。
だから、傷つけないようにそっと抱きしめる。
手に、愛里寿の髪が交わっていく。愛里寿から、もっともっと力がこめられる。
「黒沢」
「うん」
「好き、好きだよ、大好きだよ。黒沢のおかげで、わたしはたくさん笑えた、楽しい音楽も聴けた」
服が、ぎゅっと握り締められる。
「ありがとう、たくさんのものをくれて」
愛里寿の髪を、撫でる。
「俺の方こそ、本当に楽しかった。ありがとう愛里寿、俺を明るくしてくれて」
「よかった、ほんとうによかった。――黒沢」
「うん」
「これからもずっと、二人で道を歩んでいこうね。いつか、いつか、一緒に暮らそうね」
「うん!」
言葉は、それで終わった。
肌で感じたいものを感じあって、結ばれたことに喜びあって、頭を無であって、胸の苦しみを分かち合って、
そっと、名残惜しそうに体を離す。
目と目が合う。
黒沢は、愛里寿は、そっと、互いの瞳に吸い込まれていって、
やっぱり恥ずかしくなって、またねとお別れした。
□
十八時。腕時計で現時刻を確認しては、大丈夫かなと千代は呟く。
最初は電話をしようと思ったのだが、愛里寿はいま「デート」中だ。親からの電話ほど、興ざめするものはない。
ならばメールを――これもある意味、現実に引き戻してしまうような行為だ。だから、未だに出来ずじまい。
もちろん、心配はしている。親として、焦らなくてはいけないこともわかってはいる。
――けれど、今日ぐらいは自由でいさせたい。
愛里寿は、日頃から頑張り続けている。戦車道の繁栄の為に、ひいては島田流のために。
だからこそ、親としては何とかしてあげたかった。
けれど自分は、常日頃から忙しい家元の身だ。そんな自分に出来ることはといえば、愛里寿の好きな食べ物を作り、食卓で話し相手になる事ぐらい。
そう、これだけだ。
だからこそ、愛里寿を笑わせているらしい「誰か」については、支援するつもりでいる。
そして願わくば、愛里寿のことを末永く幸せにして欲しいと、母として願っている。
ちらりと、腕時計を見る。
十八時十分。さすがに遅い、空も薄暗くなってきた。
はやる動揺を抱えながらも、千代は携帯を取り出して、アドレス帳を展開し、通、
「ただいま」
獣のような速さで椅子から立ち上がり、駆け込んだままで事務室のドアを開ける。そのままリビングまで足を踏み入れ、愛里寿の姿を目にした途端、
「愛里寿っ、大丈夫だった?」
「あ……うん、大丈夫。……ごめんなさい、遅くなってしまいました」
「ううん、いいのよ。あなたが無事なら、それで」
愛里寿が、ほっと胸をなでおろす。どうやら、怒られないものかと心配していたらしい。
ちょっとだけ、空気が気まずくなる。
だから千代は、にこりと笑う。
「愛里寿」
「はい」
「今日は、どうだった? 楽しかった?」
「はい、とても」
「そう、それは良かったわ。うん、今日はハンバーグにするわね」
どんなデートになったのか、母としては是非とも聞いてみたい。
けれども、デートだ。そう簡単に話したくない話題であることも、母として分かっているつもりだ。
少なくとも、真顔の娘はとても機嫌が良さそうだ。それが見られただけでもいいかなと、キッチンへ振り向こうとして、
「お母さん」
ぴたりと、体が止まった。
「なに?」
「……あ、あの、その」
察する。愛里寿が、何らかの決意を掘り起こそうとしていることを。
だから千代は、待った。
「その……っ、」
そのとき、愛里寿は左手だけを握りしめた。
うつむきがちだった愛里寿が、私の目を見据えた。
「私ね、好きな人ができた」
「……まあ」
そして、
「――結婚したいひとが、できたよ」
愛里寿は、笑ってくれた。心の底から
「そう」
千代は、そっと、愛里寿の頭を撫でる。
「よかったわね、愛里寿」
「うんっ」
食卓で、愛里寿はこれまでのことを全て話してくれた。黒沢という恋人が、近いうちに転勤してしまうことも、ぜんぶ。
それでも愛里寿は、黒沢のことが大好きだと言った。
私はもちろん、心の底から喜んだ。
―――
愛里寿と遊んで、数日が過ぎていった。
夏休みが終わる日、8月31日まであと数日。その間にも黒沢は、着々と宿題を片付けていったり、種村の家でお別れお泊まり会を決行したりした。
友人がこぞって参加してくれたのだが、桜井は「また会おうな」と言ってくれたし、菊池は「元気でな」と笑ってくれて、松本に至っては「なんでだよー!」と大声で泣かれた。あまりにもガン泣きするものだから、全員で「まあまあ落ち着いて」となだめたのは記憶に新しい。
そうして種村の家で飲み食いしたり、一緒に花火大会で盛り上がったり、夜中になって皆で散歩したりもした。その時に聞いた虫の音は、とても印象的だった。
種村の家に戻って、一緒に眠る際に、
「お前とは、これからもずっと友達だからな。楽しかったぜ」
種村が、こんなことを言ってくれた。
そのときに、胸が苦しくなったのをよく覚えている。きっとこれは、かけがえのない痛みだったのだろう。
「俺も、楽しかった。また会おう」
黒沢と種村は、拳をぶつけあった。
そうやって夏休みを堪能していれば、いつの間にか8月30日に、転勤前夜まで日にちが経過していた。
風呂から上がり、夕飯を済ませた後で、黒沢は自分の部屋にあるベッドで横になる。
濡れた髪に扇風機の風があたって、とても気持ちが良い。上機嫌もあいまって、特にそう思う。
その時、ベッドの上にある携帯が震えた。
のんびりとした手付きで携帯を拾い上げ、画面を見てみる――やっぱり、愛里寿からだ。
内容は、『いま、何してるの?』だ。黒沢は口元を曲げながら、『夕飯食べてのんびりしてた』と打ち込む。
今日は、朝から晩まで家にこもりつつ、愛里寿とメールを交わしあっていた。愛里寿も同じように暮らしていたらしく、『あついね』とか『何聴いてるの?』とか、他愛のないメッセージを送り合うばかり。
スキあらば、『好き』とか『大好き』とか語尾につけたりしているのだけれど。
いい気になって、ベッドの上で大の字になる。
今日は8月30日、転勤の前日だ。
だからといって、特別なことは何もしていない。やるべきことは、もう全部やり終えてしまったから。
愛里寿と遊ぶことも、告白することも、種村達にお別れを告げることも、愛里寿の親と自分の親に関係を祝福してもらうことも、ぜんぶ。
――そう。愛里寿との仲は、無事に親からも認められた。
というのも、愛里寿が電話で『お母さんがね、とっても喜んでた。こんど会ってみたいって』と伝えてくれたからだ。
もちろん黒沢も、『俺の親なんて大はしゃぎでさ』と返事をした。あまりに嬉しかったものだから、二人して「やった」を連呼したものだ。
携帯の時計を見る。
気づけばもう二十時だった。あと少し経過すれば、自分はこの土地から旅立つ。
これまで何度かの転勤を経験してきたが、これほど悔いなんてなくて、清々しい気持ちのままでいられたのは、これが初めてだった。
これもぜんぶ、愛里寿と出会えたからだ。
そうに決まっている。そう確信できる。
その時、部屋じゅうにトランスミュージックが鳴り響いた。
本能的に携帯を手にして、もしかしてと思って、画面を見てみればやはり予想通り。
着信を押して、携帯を耳に当てる。
「――はい」
『あ、もしもし? 今、大丈夫?』
愛里寿の声を聞いただけで、顔が柔らかくなっていくのを感じる。
黒沢は、答える前に頷いて、
「うん、大丈夫だよ。どうしたの?」
『えっと、明日は何時くらいに引っ越すのかなって』
「ああ、十五時くらいだって聞いた」
『そうなんだ。……邪魔じゃなかったら、見送りに行きたいなって思って』
聞いた瞬間、頭の中で返答が飛び出る。
「いいよ、ノープロブレム。ああ、やったー、やったなーおい」
『良かった』
「親も喜んでくれると思う」
『うん。……ねえ、黒沢』
「うん?」
愛里寿が、少しだけ間を置いて、
『あなたは私の為に、北海道へ来てくれたことがあったよね?』
「うん」
『すごく、嬉しかった。その時にもらった応援メールは、今もときどき見てる』
「そっかぁ」
『ほんとうに嬉しかった、ほんとうに』
「そっか、そっか」
愛里寿は、小さく咳をして、
『だから、西住さんに負けちゃった時は……正直、悔しかった。あなたに晴れ姿を見せたかった』
「……そっか」
慰めの言葉を口にしようとして、ぎりぎりのところで踏みとどまる。
悔しさだって、大切な感情だから。
『私だけじゃない。みんなが、選抜のみんなが負けちゃったことも、ほんとうに悔しかったんだ』
「うん」
『だから、私は誓ったの。必ずみんなを、私を越えられるように育てるって』
「さすが」
『時間はかかるかもしれない。けれど、あの人達は強いから、いつかはそうなれる』
「だね。――やっぱり愛里寿は、世界で一番優しい戦車乗りだ」
愛里寿が、くすぐったそうに笑う。
『もし、それが出来たら、それを成し得たら』
愛里寿が、小さく息を吸う。
『今度は私から、あなたに会いにいく』
その声は、あまりにもまっすぐだった。
電話ごしから、強い意思のようなものが伝わってきた。
ほんとうに、実現させる気なのだろう。島田流後継者である島田愛里寿は、そういう女の子だ。
――だから、
「わかった」
だから、待てる。
「楽しみにしてるよ、愛里寿」
『うん。選抜のみんなが島田流を体現出来るようになったら、お母さんもわがままを聞いてくれると思う』
「だね、俺もそう思う。もしこっちに来たら、武勇伝を聞かせてくれよ」
『うん。――それまでは、あなたを待たせてしまうと思う。でも、でも、待っててほしい』
「待つよ」
即答に決まっていた。
「大学のみんなも好きだし、愛里寿のことも大好きだから。だから、ずっと待つよ」
『黒沢』
携帯を、ぎゅっと握りしめる。
「がんばれっ」
笑う。
「がんばれ愛里寿! できるよ! 愛里寿ならできるよ! ファイト、ファイト!」
あまりにも嬉しくて、あまりにも待ち遠しいから、大声を上げる。
『サンキュー黒沢ッ! ぜったいにグレートなチームを作るよッ!』
愛里寿からも、でかい声が飛び出した。
それが愛おしいとすら思う、みんなが幸せになって欲しいと願う。
その後は、音楽の話とか、友人の話題をして、そのまま眠りについた。
―――
何事もなく、8月31日がやってきた。
引越し業者が荷物を整理して、自宅の中はすっかりもぬけの殻だ。なにもなくなったお陰で、窓から差す日光がいつもより眩しく見える。
部屋から出る前に、最後に一度だけ部屋を見る。
寂しい、と思う。
楽しかった、と呟く。
いつもなら気まずそうにする父と母も、今は静かに笑っている。
ドアノブをしっかり掴み、自宅への扉をしっかり閉じた。
アパートを降りていって、父が車のエンジンをかける。トラックに積む荷物も、そろそろ少なくなってきた。
腕時計を見る。時刻は十四時ちょっと。
思った以上に早い。荷物が少ない分、スムーズに事が運んでいってしまったらしい。
かといって、十五時まで待って欲しいというのも、それはそれで――
「黒沢―――ッ!」
考える前に、振り向いたと思う。
黒沢からほんの離れた場所に、会いたかった人が駆け寄ってくる。それから間もなく、ヘッドホンを首にかけた島田愛里寿が、黒沢の近くで危なげに立ち止まった。
愛里寿と、無言で向き合う。
愛里寿の両肩が、ゆっくりと上下に動いている。小さく、呼吸が聴こえてきた。
父も母も、引越し業者も、誰もが沈黙する中で、愛里寿は、「はあっ」と息を漏らす。
「黒沢。よかった、間に合った」
「愛里寿」
「早く来てみたんだけれど、今日はそれが良かったみたいだね」
「……うん」
少し気まずそうに、笑ってしまう。
「――あ」
愛里寿が、父と母に首を向けて、
「初めまして。私は黒沢の友達……いえ、恋人の、島田愛里寿です」
「これは、これは」
母が、一歩前に出る。
「こうして、顔を合わせるのは初めてですね。はじめまして、息子がいつもお世話になっています。ご令嬢の活躍は、息子からいつも、」
「待ってください」
愛里寿が、首を左右に振るう。
「そんな堅苦しく、しないでください。いまの私は、黒沢の恋人です。それだけです」
「――そうですか」
母が、嬉しそうに声を出す。
「島田さんのことは、息子からいつも聞かせてもらっています。あなたのおかげで、息子はよく笑うようになりました」
「そう、ですか」
「母として、これ以上の喜びはありません。ほんとうに、ありがとう」
ちらりと、母の方を見る。
母も、そして父も、頭を下げていた。
「――私も、黒沢のおかげでたくさん笑えるようになりました。楽しいことも、教えてくれました」
ヘッドホンが、太陽に照らされている。
「こんなにも、誰かを好きになったのは、はじめてです」
「……そうですか。それは、良かった」
愛里寿が、はっきりと頷く。
――よかった。
ほんとうに、そう思う。
「黒沢」
「うん」
「そろそろ、行っちゃうんだね」
「うん。……向こうに行っても、俺は楽しくやるよ」
「そう」
愛里寿が、安心するように微笑んでくれた。
引越し先では、どんな出会いが待っているのだろう。転校初日は、どんな風に揉まれるのだろう。
それが今から、楽しみで仕方がない。
「黒沢。その」
「うん?」
愛里寿が、ポケットに手を入れて、
「――これ」
「うん。これを、黒沢に渡そうと思って」
愛里寿の手のひらの上には、激レアの、ファイティングポーズをとった小さなボコのぬいぐるみがあった。
「これは、愛里寿の、」
「ううん」
愛里寿が、そっと首を振るう。
「これは私と、あなたのものだよ」
「え」
「このボコのお陰で、私は、あなたにめぐり会えたから。だからこれは、二人だけのものだよ」
鮮明に思い出す。
お金を落とすつもりで、グッズショップに入って、
そこで、愛里寿と会って、
そして、ファイティングポーズをとったボコを見つけて、
一つしかないというシチュエーションと、激レアという言葉に引かれて、
愛里寿と、はじめて触れ合ったあの日のことを。
「本当に、いいのかい?」
「うん」
愛里寿が、小さく頷いて、
「これがあったら、黒沢は私のことを忘れないはずだから」
その言葉を口にした愛里寿の瞳は、海のように揺れている。不安そうに、けれども不安にさせないように笑っている。
――そうか。
黒沢は、両肩で息をした。
「愛里寿」
「うん」
「絶対に忘れない、毎日君のことを想い続ける。信じてくれ」
「――うん!」
「ありがとう。大切にするよ」
手と手が触れ合った。
顔を見合わせた。
愛里寿の目が、これまで以上に大きく輝いていた。
「愛里寿」
「なに?」
「俺、向こうで待ち続けるよ。その間に、たくさん友達を作って、エンジョイするよ」
「うんっ」
「また、こうして会うのに、時間はかかるかもしれない。でも、でもね」
「うん」
この場には父と母が、引越し業者の人がいる。
でも、何を恐れることもなく、自分はこう言える。
「俺はこれからも、君だけしか好きにならない」
愛里寿の目が、口が、大きく見開かれる。
「大好きだ、大好きだよ!」
そして俺は、愛里寿から抱きしめられた。
今度は、見逃さなかった。
「私も黒沢が好き! 大好き! これからもずっと、黒沢のことだけを好きでい続ける!」
「待ってる、ずっと待ってる! 命を賭けてもいい!」
「死んじゃだめだよ黒沢! だって黒沢は、私とずっと、これからも一緒にいるんだから!」
「ああ、ありがとう、ありがとう!」
考えることなんて、もうやめていた。
いまはただ、好きな人と、好きなように抱きしめ合いたかった。髪を撫でたかった。大好きと叫びたかった。
愛里寿も、ただただ俺のことを求め続けてくれる。
嬉しい、大好き、愛してる、結婚したい――
□
息子と一緒に、夫の車に乗り込む。いつもなら助手席に腰かけるのだが、今日は後部座席で息子と共にいる。
転勤の際は、いつもこうしていた。
「良かったわね。うん、ほんとうに良かったわね」
「うん」
「私達は、心の底から応援するから。何かあったら、いつでも声をかけてね」
「うん」
引越し業者のトラックが、ゆっくりと走り出していく。それを追う形で、夫の車も動き出す。
一区切りがついて、胸をなでおろす。
あの時の息子は、ほんとうに幸せそうだった。目の前で愛し愛されて、母として――夫も、これ以上の幸福はないだろう。
ここに来て良かったと、心の底から思う。
あのあと、島田さんから「母が、あなたがたと会いたがっていました」と告げてくれた。
つまりは、二人の関係は心から祝福されている、ということだ。
良かった。土下座する必要はないらしい。
――私は、隣で座っている、息子を見て、
「あ、」
「うん?」
声が出た。
だって息子が、我慢強い息子が、数年ぶりに、
「あ、ああ、だいじょうぶだよ、だいじょうぶ」
そっと、息子を抱き寄せた。
嫌なことがあっても、転勤を告げられても、息子は強くあり続けた。当然の文句すら言わなくなった。
だからこそ、今の息子の顔を見て――私はどうしようもないまま、息子にすがった。
「……ごめんね」
「……ううん。いい、いいんだ」
「ごめんなさい」
「あやまらないで」
「う、うん」
「……とうさん、かあさん」
「うん」
くまの、小さなぬいぐるみを手にしながら、息子は、
「ありがとう。ここに、つれてきてくれて」
―――
机の上には、目を通すべき書類が山ほど積まれている。嫌でもやらなければいけないことは、家元として分かっているつもりだ。
けれど、仕事に手がつかない。
だって今日は、愛里寿の恋人が、黒沢が遠いところへ行ってしまうらしいから。
聞くところによると、黒沢の親は日本戦車道の委員を務めているらしい。少し調べてみたが、確かに黒沢夫婦の名前があった。
ということは――愛里寿と黒沢は、戦車道のせいで離れ離れになってしまうのか。
まるで自分と同じだ、と思う。家元という立場に就いているせいで、愛里寿とはロクに遊べなかったのだから。
そういえば
ため息。
戦車道とは、善き道であるはずなんだけどなあ。
頬杖をつかせながら、千代はそう思う。そのままの時間が、数分ほど経つ。
脈絡もなく、千代は腕時計を見る。時刻は十四時四十分、今頃愛里寿は、黒沢は何をしているのだろう。
愛里寿には、これからも末永く幸せでいて欲しい。黒沢にはどうか、この先も愛里寿を笑わせてほしかった。
そのとき、玄関のドアの開く音がした。
目がさめたように、椅子から立ち上がる。
「ただいま」
半ば走り込んだまま、事務室のドアを開ける。
リビングには、愛里寿が、
「愛里寿、」
「なに?」
気がついた時には、私は愛里寿へ駆け寄っていた。
だって、愛里寿の顔が、
「なに、何かあったのっ?」
「あ――ちがう、ちがうの、ちがうのっ」
愛里寿は、必死に首を横に振るう。
「うれしいだけ、うれしいだけだから。だからしんぱい、しないで」
その言葉を、私はすぐに信じた。
だって愛里寿は、島田流の重荷を背負おうとも、失敗をしてしまっても、あの時の試合に負けてしまっても、決してこんなふうにはならなかったから。
だから、どうしようもないまま、強く抱きしめた。
「――愛里寿」
「はい」
「今日は、今日は、あなたの好きなハンバーグにするからね」
「はい」
「あなたはたくさん、がんばってきたんだから。だから、なんでも私に言ってね」
「はい」
久しぶりだった、こんなふうに触れ合うのは。
なのに愛里寿は、まだ、こんなにも小さかった。
娘の頭を撫でながら、わたしは、心の底から言う。
「お母さんはいつでも、あなたの味方だからね」
「――うんっ」
愛里寿は、すべてを話してくれた。
わたしはもちろん、祝福した。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。
次で、最終回です。
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