九月も、半ばを過ぎた。
すっかり涼しくなったし、空はすぐに暗くなるし、虫の音も聞こえなくなったけれども、戦車道は今日も続いていく。そしてまた、メグミは島田愛里寿にコテンパンにされてしまうのだ。
ほんとう、愛里寿は強い。しかもやっつけるだけじゃなくて、良かった箇所とか、見直すべきところとか、そういったものもしっかり指摘してくれる。
さすが隊長だ、と思う。これが天才か、と思う。
何度も敗北して、そのたびに愛里寿の言葉を聞き入れ、そうやって悪かった点を潰していくうちに、自分も段々と強くなってきた。そう実感できるようになった。
戦車道における愛里寿の生き様は、以前と変わらない。
けれどもそれ以外は、何だか少しずつ変わっていっているような気がする。
まず気がついたのは、練習試合後の流れだ。
以前の愛里寿は、一時間後の休憩を宣言した後に、決まってどこかへ消えていってしまったのだ。それも全速力で。
もちろん、このことは選抜メンバーの話題の種になった。
そうして真っ先に出た「結論」はといえば、誰かとこっそり会っているということ。そして、その誰かとは愛里寿の友達――或いは、彼氏なんじゃないか、ということ。
愛里寿のいないところで、きゃーきゃーぐらいは言う。けれども、愛里寿の背を追ったりはしない。隊長のプライベートを覗き見しようものなら、家元からヤキが入るだろうし、他の選抜メンバーからも「反省会」を強いられるだろう。
みんな、隊長のことが好きなのだ。
みんな、隊長の楽しみを邪魔したくないのだ。
だから、噂程度に留めておくという暗黙の協定が仕上がっていた。
――けれど、
「よし。では一時間後に、反省会を行う。何か質問は?」
沈黙。
「それでは、時間まで体と心を休めるように」
はい!
「では、解散」
そうして愛里寿は、その場でタブレットを操作し始めた。いつもの真顔のまま、走ることもなく。
そんな愛里寿を数回ほど見て、メグミは何となく思うのだ。
――夏が過ぎ去って、愛里寿にとっての何かが終わってしまったのではないのかと。
淡々とタブレットを操作する愛里寿を見て、メグミは根拠もなく、寂しそうだなと感じる。
けれども、メグミには「何かありましたか」と聞く権利はない、そんな勇気もない。愛里寿の秘密を暴くなんて、隊員だからこそしてはいけない。
「メグミ」
聞き覚えのある声に、メグミは振り向く。
アズミがいた。
「どうしたの? 隊長に用事?」
「あ、う、ううん。そういうわけじゃないんだけれども」
「そ。じゃあ、隊長から少し離れましょう。邪魔しちゃ悪いわ」
「うん、そだね」
気のせい、だろうか。
アズミがどこか、陰りのある表情をしていたのは。
――その時、あたり一面に賑やかな音楽が響き出した。
トランスミュージックだ、サンダースでは馴染み深かったジャンル。
そしてこの曲は、「この大学で」何度か聴いたことがある。
「あっ」
その発信源は島田愛里寿、の携帯、の着信音だ。
それだけでも驚きだというのに、この着メロを受信した後の愛里寿ときたら、
「あ、もしもし? うん、うん、大丈夫。どうしたの?」
とても嬉しそうな顔をしながら、通話をし始めるのだ。
そしてそのまま、戦車の陰にまで駆け込んでいく。
それを見てしまって、もういない愛里寿へ釘付けとなる。誰なんだろう、そんな憶測が頭の中で湧いて出て、
「メグミ」
肩の上に、手を置かれた。
「行きましょう。邪魔しちゃ悪いわ」
アズミが、軽やかに笑った。
メグミも、「そだね」と頷く。
――愛里寿は、まちがいなく変わった。
音楽を聞くようになって、特定のメールや通話に対して顔を明るくするようになって、メグミは心の中で「いい人と出会えたのかな」と、そう推測している。口には出さないけれども。
もしも、この憶測が正しければ、自分は全面的に愛里寿の応援をするつもりだ。
心臓を、軽く抑える。
自分はいま、とても幸せだ。だから愛里寿にも、幸せになってほしい。
―――
秋になって、ずいぶんと寒くなった。
それでも戦車道は止まらない。そして、今日も今日とてルミは島田愛里寿に負けてしまった――以前よりは、割といいセンはいっていたのだけれども。
愛里寿の尊敬出来るところは、やはり惜しみなく「対処法」を教えてくれることだと思う。具体的なだけあって、次はこうしてみよう。こうすれば裏をかけるのではないのかと、そんな気にさせてくれるのだ。
やはり愛里寿は、天才にして最高の戦車隊隊長だ。いつか自分が愛里寿に勝とうとも、この価値観だけは不変のままであり続けるだろう。
けれど、そんな愛里寿にも変化したところがある。
その最もはといえば、やはり音楽に目覚めた点だろう。本当に突然だったものだから、選抜メンバーも少々動揺して「なぜ音楽を?」という疑問が乱立した。気まぐれによるものか、誰かの影響か、隊長のお眼鏡に叶う音楽と出会えたのか――答えは見つからなかったが、結論としては「趣味が増えるのはいいことだ」で落ち着いた。気分転換は重要なのだ。
そうして愛里寿は、暇さえあればヘッドホンを身につけ、音楽の世界に浸るようになった。
ノリのいい音楽を聴くことが多いのか、小さくヘッドバンキングをすることもしょっちゅう。それがめちゃくちゃ可愛いと、隊員の中では評判になっている。
時には嬉しそうな顔をして、時には両目をつぶって、時には小さく歌ってみせて、
ときどき、寂しそうな顔をすることがある。
――ほんとう、たまたまだったのだ。
大学内の渡り廊下を歩いていたところで、壁に背を預けていた愛里寿を見つけた。音楽を視聴中らしく、ヘッドホンを身に着けていて――ルミの眼鏡が、はっきりと捉えてしまった。愛里寿の、陰りのある横顔を。
声なんて、かけられなかった。身も心も、硬直してしまっていた。どうしたらいいのかと、無言で狼狽していたところで、
「あ、ルミ」
何事もなかったかのように、無表情で声をかけられた。ヘッドホンを取り外して、わざわざルミの方にまでやってきて。
「――こんにちは、隊長。音楽を、聞いていたのですか?」
取り繕うように、平然とした顔で質問する。
愛里寿は、こくりと頷いて、
「うん。お気に入りの曲」
「へえ、どんな?」
「激しくて、身も心も躍れるトランスミュージック」
「へえ」
その言葉に、ルミは強い違和感を覚えた。
身も心も躍れるのなら、あの時どうして、愛里寿はあんな顔をしてしまっていたのだろう。
わからなかった。
考えてみても、わからなかった。
だからルミは、平然と頷くことしかできない。
「トランスミュージック、ですか。そういえば、ここ最近の着信音もトランス系ですよね」
「――うん」
聞き逃がせなかった。
愛里寿の、重い返事を。
「あ……すみませんっ、何か無礼を、」
「ううん。ルミはなにも悪くない」
愛里寿は、申し訳なさそうに苦笑いする。
息が漏れた。そんな表情、いままで見たこともなかったから。
「ねえ」
「はい」
「ルミは、どんな音楽を聴くの?」
「私ですか。私は……あれですね、民族系を聴きます」
「民族系……いいね。どんな?」
「有名どころで、サッキヤルヴェンポルッカとか」
「そうなんだ」
愛里寿は、いいことを聞いたとばかりに微笑んで、
「後で、教えておこう」
ルミは、純粋に首を傾ける。
「――教える? 誰にですか?」
ルミの疑問に対して、愛里寿が「あ」と小声を漏らす。
そうして愛里寿は、焦ったように首を横に振るい、
「……いや、なんでもない。気にしないで」
「は、はい」
なにも見なかったかのように、ルミは返事をした。
「ルミ」
「はい」
「いい音楽があったら、何でもいいから教えて」
「はい、もちろんです。今度、色々とチェックしてみますね」
それじゃあ――そうして、愛里寿とはそのまま別れていった。
愛里寿の意外性から解放された瞬間に、大学内から音が生き返った。そこかしこからの他愛のないお喋り、階段の上り下り、理由がわからない笑い声、外から響く無限軌道。
緊張感が抜けて、一人で深呼吸する。いなくなってしまった愛里寿のことを、ようやく冷静になって思い返す。
――誰に、おすすめの音楽を教えようとしたんだろう。
――誰。そう聞いて、どうして隊長は焦ったんだろう。
わからなかった。
わからなかったけれども、なんとなく推測は出来る。その「誰か」も、忘れられない隊長の横顔も、すべて音楽が関係していた。いまの愛里寿にとって、音楽には何らかの思い出があるのかも、
――指を鳴らす。
連鎖的に発想した。ここ最近の、愛里寿の着信音について。
例のトランスミュージックが流れると、愛里寿は「必ず」嬉しそうな顔になる。そしてそのまま、携帯を耳に当てながらでどこかへ歩み去ってしまうのだ。
もしかしたら、その「誰か」とは、愛里寿に音楽を教えた人で、愛里寿にとっての大切なひとなのかもしれない。
口元が、緩む。
そうだ、そうに決まっている。大切な――好きな人という存在は、いつでもどこでも笑顔をもたらしてくれる。その人の話をされると、つい感情的になってしまう。
だから愛里寿は、「誰に」という質問に対して、つい焦ってしまったのだ。
なるほど、そういうことか。
ならば、自分はこう誓おう。
「――見守ろっと」
もしも愛里寿が、相談なりを持ちかけてきたら、自分はそれに是非とも応えよう。
それでいい、それで。
腕時計を見る。こんな時間かと呟きながら、ルミは花壇へと向かっていった。
―――
11月が訪れて、雪が降ってきた頃。
今日も今日とて、家元が処理するべき仕事は沢山ある。選抜チームの評価、世界大会への意見、無限軌道杯に関しての手続きと、量は決して少なくはない。
ただ、前の状況よりはだいぶ落ち着いた。相変わらず大変ではあるが、忙しくはない、ということだ。
――だから、
「お母さん」
「何? 愛里寿」
「ちょっと、ミュージアムへ行ってくるね」
「ええ、わかったわ。……ああ、愛里寿」
「なに?」
「あと少しすれば、冬休みがやってくるわよね」
「そうですね」
「……だから、旅行の一つでもしてみたらどうかしら。大丈夫、時間はあるから」
だから、愛里寿の願いを聞く時間はある。なかったとしても、無理矢理作るつもりではあるけれど。
――でも、愛里寿はあくまでも、ほんとうの真顔のままで、
「いえ。私には、大学のみんなを育てるという役目がありますから」
「でも」
「お母さ、お母様には、ボコミュージアムのスポンサーになってもらうというお願いを聞いてもらいました。私はそれに応えるまで、島田流に心身を尽くします」
愛里寿は、「正論」を口にしてしまえた。
愛里寿は、真面目に自覚しているのだろう。ボコミュージアムという、島田流とは何の関係もない施設を援助してもらうというのは、単なる私情でしかないということに。
「……それは、愛里寿が頑張ったから」
「お母様が気遣ってくれていることは、よくわかります。ですが私は、彼に誓ったんです」
食卓で、愛里寿が語ってくれたこと。
「大学のみんなが、私をも越える島田流を体現できるようになったら……その時こそ、黒沢に会うと」
「――そう」
「その日が来るまで、私は戦車道とともにあります」
「わかったわ」
愛里寿は、無表情で、
「話は、以上です」
「うん。……じゃあ、ミュージアムでたくさん遊んでね。遅くなりそうだったら、連絡をちょうだい」
「はい」
「車と戦車には、気をつけるのよ」
「はい。では、行ってきます」
愛里寿は一礼して、そのまま事務室から出ていく。間もなくして、玄関のドアが開かれる音が響いた。
椅子ごと振り向き、窓越しから愛里寿の後ろ姿を確認する。その足取りはとてもゆっくりで、どこか無機質に思えて、仕事へ行く大人のようだった。
椅子を、デスクの前に向ける。
――ほんとうに、背が伸びてしまっていた。
あの時の愛里寿の表情は、まちがいなく大人で、戦車隊隊長そのものだった。
前からも、今も、愛里寿は本当に頑張りすぎていると思う。十三歳にして戦車道の、島田流の繁栄を背負いながら、決して少なくない大学選抜チームの育成を担っている。
愛里寿はまだ、十三歳だ。恋する女の子だ。
それなのに愛里寿は、彼に会いたいとは決して言わない。島田流に心身を尽くすと、そう言えてしまった。
愛里寿はまちがいなく――天才少女だ。
ため息をつく。
もしも、愛里寿が「当然」の権利を口にする日が来たら――自分は、それに何としてでも応えるつもりだ。戦車を使ってでも、いざとなれば空だって飛んでみせる。
それが、母というものだ。
―――
黒沢の顔を見なくなって、数週間も経った。
ここ最近の大学選抜チームは、かなりレベルが上がっていっている。一両に三両は当たり前、いざとなれば四両を相手取ったりと、目覚ましい進歩を遂げているのだ。
ある隊員は言う、「隊長のお陰です」。ある隊員は言う、「一生ついていきます」。ルミは言う、「教えた通りにしつつ、自分なりにアレンジしてみました。上手くいきました」。メグミは言う、「今なら西住流に勝てそうな気がします」。アズミは言う、「いつもありがとうございます。お疲れ様です」。
――うん。
歩き慣れた道路を歩み、渡り慣れた通学路を進んでいく。
母は、自分に気遣ってくれている。大学のみんなは、着実に腕を上げていっている。やる気も十分で、脱落者なんて一人もいない。このまま世界へ進出しても、特に問題は無いと思う。
けれどまだ、私は負けたことがない。
戦車乗りとしては十分だが、島田流としては「これから」だ。だからこそ、戦車隊隊長としては「その域に達していない」と思うし、誓いを果たしていないと自覚もできる。
――誰かが否定しようとも、自由になることを許してくれようとも、自分は役目を全うし続けるだろう。
なぜなら、
その時、ヘッドホンごしからトランスミュージックが流れ出した。
愛里寿はすぐさま携帯を取り出し、それを口元に近づける。
「もしもし?」
『あ、愛里寿? いま、大丈夫?』
「うん、大丈夫大丈夫。どうしたの?」
『あー、いやー、その、愛里寿と話がしたくなって』
愛里寿の顔が、冬空の下で明るくなる。
「そ、そう。ありがとう」
『いやあ……あ、そうそう。この間さ、友人達と雪合戦したんだよ。その中に野球好きな奴がいて、実にクレイジーな豪速球を投げつけられちまった』
「ええ……大丈夫だった?」
『すげー痛かった。あそこまで速いと、逆にもう笑っちまうね』
「あ、それはわかる。すごすぎると、こう、呆然としちゃうっていうのかな」
『そうそうそんな感じ。まあこっちもやり返したし、超楽しかったけどね』
「……そっか。よかったね」
歩道は雪に染まっていて、踏みしめるたびに鈍い音がする。
『愛里寿はどう? 調子とか』
「あ、うん。すごくいい、みんな成長してる」
『そっかー。もう少しで武勇伝が聞けるのかな?』
「そうかも、しれない」
『わかった。……俺はずっと、愛里寿のことを待ってるから。絶対に忘れないから』
「ありがとう……サンキュー!」
『いやいや。じゃあ、そろそろ切るけれど、他に何かあったりする?』
「ううん、ないよ」
『わかった』
愛里寿から電話をかけても、電話がかかってきても、いつだって最後の言葉は、
『大好きだよ、愛里寿』
「私も大好きだよ、黒沢」
通話が切れた。
立ち止まって、安堵したように微笑む。名残惜しそうに携帯を胸に抱いて、しばらくはそのまま。
やがて愛里寿は、携帯を操作し始める。黒沢が勧めてくれた、ご機嫌なナンバーを流しながらで――愛里寿は、前に歩み始めた。
黒沢はきっと、このまま会いに行ったとしても失望したりはしないだろう。思いつく限りの言葉を、ありったけ投げかけてくれるだろう。
これは自惚れなんかじゃない、確信だ。だって黒沢とは、何日もの付き合いがあるのだから。
――それでも自分は、使命を全うし続ける。
なぜなら、
「着いた」
愛里寿の目の前には、
そこは自分にとっての居場所で、心の癒やしで、黒沢と出会えた世界だ。ここがなくなってしまうなんて、心の底から嫌だった。
母には、スポンサーになってくれた島田流には、感謝してもしきれない。
それに報いるためにも、自分は島田流に尽くさなければならないのだ。
きっと黒沢も、それを望んでくれている。はやく、武勇伝を聞かせてあげたい。
胸をなでおろす。ヘッドホンを首にかける。
愛里寿は、ボコミュージアムへ続く門を潜り抜けていく。
□
新生ボコミュージアムには、今日も数人の客が、選抜メンバーがそこかしこに居た。
家族連れはともかく、選抜メンバーが何故ここにいるかというと、はっきり言ってしまえば「他でもない島田流がスポンサーをやっているから」である。島田流公式サイトにも、ボコミュージアムが大々的に宣伝されているし。
そんな情報が流れれば、島田流を汲んでいる隊員の中にも、興味を持ち始める者が現れる。いわゆる取っ掛かりというやつだ。
そんな中で、「わからん」と離脱する者はいた。そんな中で、
「よく来たなお前ら! 今日こそ生意気なあいつらをボコボコにしてやっから、楽しみにしてくれよなーッ!」
「ボコ! 今日もイカしたアクション見せてくれよなーッ!」
「うーん、かわいいやつ」
「今日こそ勝って! ヒーローになって!」
こんな風に、盛り上がれる者もいる。
ある隊員は豪快に叫んで、ある隊員はボコを愛でて、ある隊員は前のめりになる。そんな中で、愛里寿は一人で席につく。
「――おいお前! ぶつかったぞ気をつけろ!」
「んあー?」
ボコとペンギンの肩がぶつかりあって、真っ先にボコがケンカを売る。それを気に入らなさそうに、ペンギンが振り向いた。
「なんだてめえ、俺のことを誰だと思ってんだ?」
「知るか! なんだなんだぁ? やんのかぁ?」
「おーやってやるよ。へ、こいつは面白そうだ」
愛里寿が拳を作る。ボコとペンギンが、タイマンでにらみ合う。
「――おらぁぁぁッ!」
「なんだそのヘナチョコパンチ!」
ペンギンが姿勢を低くし、足払いを食らわせてボコを転倒させる。観客から次々と悲鳴が上がった。
「ボコ―――ッ!」
「んー、倒れてもかわいいやつ」
「なんで先に攻撃しちゃうの! 先手を取るのはフラグなのよ!」
「ボコッ! がんばれっ、がんばれっ」
家族連れからも、悲観の声が漏れ始める。それでもペンギンは追い打ちをやめず、ボコはただただ倒れているだけ。
「み、みんな……!」
「お?」
「お」
「あ」
「うんっ」
「オイラに、力を……!」
隊員達の目が、ぎらりと光ったと思う。
「オイラに、力をくれーッ!」
「っしゃ―――ッ! いくらでもくれてやらぁッ! 頑張れボコ! 負けんな――ッ!」
「後でぬいぐるみ買うから、立ってー!」
「ハザードオン! ハザードオン! ボコーッ!」
「頑張れボコ! がんばれがんばれっ、スタンダ――――ップ!!!」
ボコが、びくりと体を震わせ、
「っしゃ――――ッ!!」
獣のように立ち上がり、観客全員が歓喜の声を叫び始める。
「みんなのお陰だぜ! よーし、何か技のリクエストをしてくれよ。絶対にあいつをボコボコにしてやるからよ!」
観客全員が、その言葉を耳にした瞬間――愛里寿に、期待の眼差しが重なった。たぶん、一番声がでかかった子供だからだろう。
慣れたシチュエーションだったし、芯から火照っていたから、愛里寿は決して怯まない。好戦的な笑みすらも生じてくる。
みんな、期待してくれているのは分かっている。けれど、技のセレクトが一番上手いのは、
「くろさ、」
、
「――ボコ! かかと落としを決めてッ!」
「わかったぜ―――ッ!!」
そうしてボコは、いい感じに足を振り上げてみせて、当然のように後ろへすっ転んだ。かかと落としは難易度の高い技だから、実現できる時点で「いいところポイント」が加算されてしまう。
ダウンしたボコの腹めがけ、ペンギンが正拳突きをお見舞いする。隊員達は負けるな負けるなと叫び、家族連れも「終わった」と諦め、肝心のボコはいいトコ無しで完敗する。
普通なら、ここで心が折れるだろう。
――けれども、ボコは言う。
「ぐ……次は必ず勝つぞーッ!」
ボコショーが完結し、幕が閉じられる。
「ああー……よし、いいモン見た。明日も戦車道、がんばっか!」
「あーかわいかった。買お買お」
「がんばれボコ、私もいつかヒーローになるからっ」
それでも、隊員たちの興奮は冷めない。その熱意を引きずったままで、次々と会場を後にしていく。
一人取り残された愛里寿は、そっと呼吸をする。
そうだ。ボコは、何度負けてもくじけたりいじけたりしない。私も、ぜったいに諦めない。
―――
冬はまだ続く。
愛里寿は今日も、無傷で勝利した。相手は上手いところを突いてきたのだが、「なるほど」と対処できてしまった。
―――
今日は、雪が降っていない。それでも寒い。
メグミとルミとアズミがバミューダアタックを仕掛けてきたが、先頭車両を真っ先に撃破し、戦法を潰した。
もちろん全滅させた。
―――
今日は休日。
家の中で、愛里寿はずっと音楽を聴いている。それをBGMにしながら、ボコのぬいぐるみで遊んでいたのだが――音楽がふっと暗転すると同時に、愛里寿は反射的に携帯を手にとった。
着信音のイントロが流れ出すと同時に、画面を確認する。通話してきた相手はもちろん、
「もしもし?」
『あ、愛里寿? 今、大丈夫?』
「うん、大丈夫だよ。どうしたの?」
『ああいや、丁度暇でさ。愛里寿とこうして、話がしたくなって』
「あ――うんうん、いいよ。あのね、今ね、あなたにすすめられた音楽を聴いてて――」
「大好きだよ、黒沢」
『大好きだよ、愛里寿』
―――
雪が激しく降り注ぐ中でも、戦車道は続いていく。
五両同時に一斉に飛びかかられたが、相打ちを誘い、これを対処。勝ててしまった。
―――
日差しが暖かい一日、絶好の戦車道日和。
今日も今日とて、愛里寿は試合で勝ってみせた。敵チームはありとあらゆる手で愛里寿に攻めてきたのだが、愛里寿は、これを見切れてしまったのだ。
隊員からは「前に利いた戦法が通じないとは」と驚愕され、「隊長はほんとうに天才ですね」と評価された。
天才、か。
たしかに自分は、天才なのだろう。どんな状況の中だろうと、いやでも勝ち筋を分析できるのだから。
そのお陰で、一番の実力を維持し続けられている。
そのお陰で、一番たいせつな人が遠ざかっていく。
ヘッドホンを身につける。音楽を流しながら、彼になんでもないメールを送り始める。
―――
大学も、あと少しで冬休みに入る。
今日は敵チームからのラッシュが激しかったが、これを撃退。決して簡単なことではなかったが、愛里寿は確かに迎撃してみせた。
成長、してしまっているのだろう。だからこそ、未だに愛里寿は負けていない。
――わがままを聞いてくれた島田流に、恩返しがしたいのに。
けれど、でも、できてしまうのだ。困難を、越えてしまえるのだ。
タブレットで今日の試合をまとめている最中に、ポケットの中の携帯が震えた。いったいなんだろうと見てみれば、スケートを行ったらしい黒沢から、記念写真が送られてきた。
黒沢の隣には、友達であろう女の子が元気よくピースしている――それは良いことであるはずなのに、実に微笑ましいはずなのに、試合以上の不安と胸の痛みが、同時に降り掛かってきた。
「――隊長?」
「あ、アズミ。なに?」
「あ、いえ。その……お疲れですか?」
「いや、なんでもない。気にしないでくれ」
黒沢に電話をしてみて、黒沢からはからっと『友達の梅沢、いい奴だよ』と紹介された。
心の底から安堵しながら、スケートのこと、試合についておしゃべりして、再会を誓っては、いつもの言葉とともに通話を切った。
黒沢の声が聞こえなくなってから、冷たい不安が胸の内に芽生えてくる。それを振り払う為に、黒沢との思い出に浸り始める。
だめだ、
会いたい、会いたいよ。
けれどわたしは、恩返しをしないとだめなんだ。
みんなを、グレートなチームにする義務があるんだ。
―――
今日も無事平穏に、一日が過ぎていく。
―――
黒沢と最後の電話をして、三日ほどが経過した。
試合を終えて、やっぱり勝って、昼食もとり終えた後に、愛里寿はふらふらと外に出かけた。
一人に、なりたかったのだ。
ヘッドホンをかけ、音楽をシャッフルしつつ、愛里寿はただただ外を歩き回る。花壇を横切り、見覚えのある老夫婦をちらりと見て、カップルらしい二人組を少しだけ注目し、上の空で三羽の小鳥が横切っていく。そうして気づけば、戦車の格納庫を一瞥できる白いベンチの前にいた。
――意識したつもりは、ないんだけれど。
そのまま愛里寿は、ベンチへ腰かける。視界に入るのは、格納庫の中のパーシング、センチュリオン、T-28――
何も考えないでいるつもりだったのに、つい選抜チームのことを考察してしまう。
みんなよく頑張っているし、これまで以上に成長を遂げていると思う。実際のところ、何度か危ない目にも遭った。
けれどやっぱり、愛里寿は危険を乗り越えてしまう。大抵は無傷で、悪くても一つ二つだけの傷を負いながら、五両の敵戦車を撃退してしまえるのだ。
手心を加える気など、一切ない。
戦車道に関しては、常に誠心誠意を込めて歩み続ける。
そんな当たり前をこなしているからこそ、愛里寿も常日頃から成長を遂げる。だから、未だに愛里寿を越える隊員が現れない。
――みんな、悪くない。
大きくうつむく、ため息がこぼれる。これでは島田流の繁栄に繋げられない、わがままへの恩返しをすることができない、黒沢との誓いを果たせない。
妥協なんて、とても出来そうにない。そんなことをしたら、自分が絶対に許せなくなる――黒沢にも、きっと嫌われてしまう。
天才って、めんどくさいな。
大きく、大きく息を吐く。
――そのとき、前方から人気のようなものが伝わってきた。
黒沢、
「あ」
とっさに、ヘッドホンを外す。
「隊長。……どうしました? 何か、ありましたか」
心配そうな顔をしたアズミが、愛里寿の目の前で立っていた。
愛里寿はただただ、何も考えずに息を吐いてしまう。
「いや、その、」
なんでもない。その一言を、口にすることができない。
「……あ、アズミはどうして、ここに?」
「あ、私ですか? えっと、外の空気でも吸おうかなって思って、ついでに散歩でもしようかなと。そのときに小鳥が横切っていって、それをなんとなく追ってたら……うつむいていた隊長を、見つけました」
「そう、なんだ」
「はい」
そうして、ただただアズミと見つめ合う時間だけが過ぎていく。
なんでもない、それじゃあ。その一言さえ言えてしまえば、この場なんて切り抜けられるのに。
――けれど、理性が止めるのだ。
「隊長」
「なに?」
「その……差し出がましいようですが、話し相手ぐらいにはなれますよ」
お前はもう限界だ。
「……やっぱり、普通じゃないように見える?」
「……時折、隊長のつらそうな顔を目にすることがあります」
「そっか、そうなんだ。……そうだよね……よく、見てるね」
だから、誰かに、
「隣、いいですか?」
一人ではどうしようもない、この苦しみを打ち明けろ。
――隊長としての我慢なんて、
そうだ。アズミはいつだって、どんな相談にも乗ってくれた。アズミのお陰で、山でふたりきりの写真を撮ることができた。
アズミとこうして出会えたのも、れっきとした縁なのだろう。
だから愛里寿は、アズミの申し出に対して、精一杯に頷く。
「わかりました。では、失礼します」
アズミが、音もなく腰掛ける。
「言える範囲で構いません。もちろん、秘密にしますから」
愛里寿は、首を横に振るう。
「ぜんぶ言う。――ううん、聞いて欲しい」
「はい」
「……あのね」
「はい」
「私には、私には」
「はい」
深呼吸する。体が、上下に揺れる。
「好きな人が、できたの」
「――はい」
「でも、その人は遠くに引っ越してしまって。でもいつか、絶対に、再会するって誓いあったの」
「そうですか。いいですね」
そこで、言葉が行き詰まる。
それでもアズミは、ずっとずっと自分のことを見守り続けてくれた。不安にさせないように、口元を柔らかくしながら。
ほんとう、大人って凄いと思う。
だから愛里寿は、じっくりと勇気を構築できた。
「……あの」
「はい」
「ボコミュージアムって、行ったことはあるよね」
「はい。隊長におすすめされて、行ってみたのですが……すみません、よくわかりませんでした」
アズミが、苦笑いする。愛里寿は、「ううん」と首を振るう。
「あそこね、あと少しで閉館する予定だったんだ。でも、私のわがままで、お母さんにスポンサーになってもらったの」
「まあ、よかったですね」
「うん。あそこで、好きな人……黒沢と会えたから。だから絶対に、あの場所を失いたくなかった」
アズミが「黒沢?」と呟き、顎に手を当てて「黒沢、黒沢」と何度か口にして、
「黒沢君って、もしかして」
「うん。アズミが会場まで連れて行った、あの人のこと。あなたのファンだって言ってた」
「そう、そうですか」
「うん。格好良くて、優しいって」
「あらら、嬉しいな」
アズミが、にこりと笑う。
それを見て、愛里寿の息の根が少しだけ止まった。あまりにも眩しかったから、やさしいお姉さんという顔をしていたから。
アズミは間違いなく、月刊戦車道の看板娘だ。
小さく、咳をつく。
「そ、それでね」
「あ、はい」
「私は、スポンサーになってくれたお母さんに、島田流に尽くすことにしたの。わがままを聞いてもらったから」
「はい」
「それで、何をどうすれば、島田流へ尽くしたことになるのか……私なりに考えて、戦車隊隊長として結論を出した」
「それは?」
「――私を越える隊員を、生み出すこと」
アズミから、沈黙の返事が返ってきた。
「そうすればきっと、お母さんへの恩返しができる。いつか就くであろう家元の器にもなれる。島田流の繁栄にだって繋がる」
アズミが、黙って頷く。
「黒沢にも誓った。選抜のみんなを、西住流に負けないような、グレートなチームに仕上げるって」
「そうでしたか」
「うん。だから、黒沢とはまだ会えない。お母さんとの、黒沢との約束を果たしてから、私は黒沢のところへ行くつもり」
「……隊長はやっぱり、素晴らしい人ですね」
「ありがとう。……みんな、みんなよく頑張ってくれてるよね、成長だってしてる。この調子でいけば、いつかは私を負かす人も現れる。いつかは」
言葉にするたびに、焦りめいた感情が生じる。黒沢に対する欲求が、痛みとして肥大化していく。
抑えつけるために、胸を掴む。けれども激痛は、少しも収まらない。目頭が、熱を帯びる。
そのとき、体に暖かさが芽生えた。
突然過ぎて、最初は何が起こったのか、わからなかった。
「あ――」
「隊長」
雪が、降ってきた。
アズミが、肩を抱き寄せてくれていた。
「会いたいですか? 黒沢君に」
「え――?」
「言ってください。隊長としてではなく、
心の底から、思う。
わたしは今、天使のような人から慈しみを受けている。大げさでもなんでもなく、ほんとうにそう想う。
アズミは、どこまでも静かに微笑んでいる。雪が体にかかろうとも、ずっとわたしのことを見守り続けている。
まるで、黒沢だ。
西住みほと向き合った時に、どこまでも一緒にいてくれた黒沢だ。
その連想とともに、黒沢との思い出が溢れ出てくる。涙まで、こぼれ落ちてくる。本心が、もうとまらない。
「……会いたい」
「……はい」
「会いたい、会いたいよ。黒沢に会いたい!」
「はい」
「黒沢と一緒に遊びたい、抱きしめたい!」
「わかります、わかりますよ、隊長」
とても寂しいから、もう待てそうにない。
これからも黒沢と、新しい思い出を積み重ねていきたかった。顔と顔を合わせて、好きと、大好きと言いあいたかった。心地よい恥ずかしさを、体験していきたかった。
――アズミが、私の背中を撫でる。
「隊長。黒沢君と会いに行きましょう」
え。
目を腫らしたまま、アズミの顔を見る。
「協力します」
「え――で、でも、遠くにいて」
「大丈夫、免許ならありますから」
アズミが、人差し指をぴんと立てる。
――可能性が生じた途端に、唐突な義務感にとらわれて、
「で、でも、私のわがままで、周りに迷惑はかけられ、」
「隊長」
はじめて、私の言葉が遮られた。
「好きな人に会いたいという気持ちは、わがままでもなんでもありませんよ」
わたしがいくら考えたところで、きっと、この結論は導き出せなかったと思う。
疑いなんてしなかった。だってアズミは、年上のお姉さんだから。
「隊長」
頷く。
「いままで本当に、ありがとうございました」
アズミが、一礼する。
「私達を育てる為に、ここまで頑張ってくださって……感謝してもしきれません。お疲れ様です、隊長」
頷く。
「しばらく、お休みになってください。隊長がいない間に、私達なりに頑張ってみせますから」
「――いい、の?」
「はい」
もっとも欲しかった言葉に対して、ひびの入った責務が力なく抵抗する。
けれどアズミは、いつまでも微笑みながら、
「だって隊長は、まだ十三歳の女の子じゃないですか」
わたしは、泣きじゃくっていた。
だって嬉しかったから、許されたから、認めてくれたから、また会えるから、隊員が大きく見えたから。
――アズミが、わたしを抱きしめてくれる。
「隊長は、まだまだお若いんです。せっかく見つけられた恋に、無我夢中になっても、誰も咎めはしません」
アズミの髪の匂いが、ふわりと伝わってくる。アズミの胸に顔がうずまり、暖かさが染み込んでくる。体と体があまりにも近くて、鼓動すらも聞き取れる。
アズミが、頭を撫でてくれた。
「とやかく言う人がいたら、私が――ルミもメグミも、バミューダアタックでやっつけますよ」
「……そっか、そうだね」
「はい」
信じられる。だってルミもメグミも、アズミも、恋する乙女だから。
「アズミ」
「はい」
止まらない涙を抑えないまま、わたしはアズミと目を合わせる。
「――冬休みになったらでいい。黒沢に会いたい、会わせて」
アズミは嬉しそうな顔で、「はい」と返事をして、
「喜んで」
―――
『はい、もしもし?』
「あ、黒沢? いま、大丈夫?」
『ああ、大丈夫大丈夫。どしたの?』
「ああ、えっとね……その、冬休みになったら、黒沢に会いに行くことにしたの」
『ま、マジで? 本当に!?』
「うん。あ、でも……伝えなければいけないことがあるの」
『なに?』
「その……まだ、あなたとの誓いを果たせていないの」
『誓い……ああ、愛里寿を越えられるような隊員を育てるっていう?』
「ああ……うん。覚えていて、くれてたんだね」
『当たり前だよ。どんな凄い人が、大学から出てくるのかなって、けっこうワクワクしてた』
「そうなんだ。……それで、その、それについてなんだけどね」
『うん』
「……まだ、私を打ち負かしたメンバーは現れていないの」
『……そうなの?』
「うん。だから、その、約束を、破っちゃう」
「黒沢?」
『すげえ』
「え?」
『愛里寿はまだ、大学のナンバー1なんだね。すげえよ愛里寿、かっけえよ!』
「黒沢、」
『愛里寿……ぜひ武勇伝を、聞かせてくれよ! ああ、楽しみだなあ!』
「黒沢……」
「――大好き!」
―――
――お母さんが、あなたの家族と顔を合わせたいって言ってた。だから、一緒にいてくれると嬉しいな。
雪が降りしきる河川敷で、黒沢一家は三人並んで立ち尽くしていた。
愛里寿曰く、ここが「集合地点」らしい。
父は何となく左右を見渡し、母は黒沢の手を繋いだままでいる。黒沢も無言のままで、愛里寿の到着を待ち続けていた。
――長かったな、と思う。
転勤先でも、黒沢は決して少なくない思い出を積み重ねてきた。転校初日から質問攻めを食らったり、そうして友達が出来上がったり、沢山のバカ話をしたり、時には口論に発展してしまったり、何やかんやで仲良くなったりして、ほんとうに充実した毎日を送ってきた。
ヘリの音が聞こえてくる。
だからこそ、愛里寿と別れてずいぶんと長く経ったような気がする。
これまでの黒沢は、意味もなくメールを送った。声が聞きたくなって、通話を始めたりもした。暇があれば、愛里寿がすすめてくれたナンバーを耳にしていた。
――枕元に置いてある、ファイティングポーズをとったボコのことを、毎日見つめていた。
愛里寿のことは、一日たりとも忘れたことはない。だからこそ、恋しいという気持ちが容赦なく膨れ上がっていく。前よりも、愛里寿のことが好きになっていた。
ヘリの音が、大きく聞こえてくる。
息を吐いてみれば、白いもやが口から出てくる。すっかり冬なんだなと、夏は過ぎ去ってしまったんだなと、つくづく思う。
なんとなく、母の顔を見つめてみる。それに気づいたのか、母がにこりと笑い返してくれた。
父に、声をかけてみる。父も嬉しそうな顔で、いまかいまかと愛里寿を待ち続けているようだった。
ヘリの音が、耳をつんざく。
さっきからいったいなんだと、家族総出で空を見上げてみせて、
ヘリが、黒沢の真上でホバリングしていた。よく見ると、ヘリの姿がだんだんと鮮明になってきて――つまるところ、下降していた。
これには黒沢も父も母もビビって、全力でその場から逃げ出した。母に至っては「ムーブ! ムーブ!」と大声で警告している。母に腕を引っ張られているせいで、正直関節が痛い。コケそうにもなった。
十分に距離をとった後で、黒沢はヘリを睨む。父が前に出て、余波から黒沢と母を守ってくれている。母から、しっかりと抱きしめられる。
ひどい突風の中で――「あ」が漏れた。
だってヘリには、日本戦車道連盟という言葉が刻まれていたから。
「ど、どういうことだ?」
日本戦車道委員の父が、狼狽する。母も「ホワイ?」と首をかしげている。
ヘリが、いよいよ着陸する。回転しているプロペラに触ったらどうなるのかなと、なんとなく思う。
数秒、或いは数分が経っただろうか。ヘリは河川敷の一部に足をつかせ、プロペラも力なく止まっていって――ヘリの胴体部分に備え付けられたドアが、ゆっくりと開く。
「あ!」
家族総出で、そう叫んだ。
――だって、ヘリからは、
「黒沢!」
愛里寿が、
「こんにちは。どうも、はじめまして」
見知らぬ女性が、
「こんにちは。ご迷惑をおかけしました」
アズミが、出てきたから。
驚きはした、足なんて呆然と立ち尽くしている。けれど、自分の目の前にいるのは、他でもない島田愛里寿だ。ただ一人の恋人、愛里寿だ。
「――愛里寿!」
衝動のまま、愛里寿へ駆け寄る。愛里寿も黒沢へ走ってきて、求め合うようにして抱きしめあい、勢いのままぐるぐる回る。
「……会いたかった、会いたかったよ、愛里寿」
「うん! わたしも、黒沢に会いたかった、抱きしめたかった!」
「俺もだよ! 俺も愛里寿を抱きしめたかった! デートしたかった!」
「私も、私もだよ! 黒沢!」
言いたいことを全部言い終える。しばらくは、愛里寿の鼓動を感じるままでいた。
愛里寿の頭を撫でる、愛里寿が背中をさすってくれる。すきとささやく、すきとつぶやいてくれる。もっと抱きしめた、もっともっと抱きしめてくれた。
「よかったわね、愛里寿」
「……はい」
声をかけられて、黒沢は反射的にその人のことを見上げる。
大人の、赤い服を着た女性だった。
けれども、どこか他人という気がしない。
「はじめまして、黒沢君。愛里寿の母である、島田千代といいます」
母と聞いて、びくりと体が震える。
――愛里寿と、そっと身を離していく。
「は、初めまして! えっと、黒沢といいます! 愛里寿の恋人してます!」
千代が、くすりと笑う。
「黒沢君のことは、愛里寿から全て聞かせていただきました。……あなたのおかげで、愛里寿はよく笑うようになりました」
愛里寿が、恥ずかしげにうつむく。
「母として、これ以上の喜びはありません。ほんとうに、ありがとう」
千代が、頭を下げた。
黒沢も、一礼する。
「これからもどうか、愛里寿のことを、末永く幸せにしてください」
「はいッ!」
はっきりと返事をした。命を賭けてでも、千代の言葉を守り通すと心に誓う。
――千代の目線が、黒沢から両親へと移る。
「……あなたがたが、黒沢君のお父様と、お母様ですね?」
父と母が、一斉に気をつけをする。
「はい! はるばる遠くから、本日はようこそおいでくださいました!」
「待ってください」
千代が、首を左右に振るう。
「そんな、堅苦しくしないでください。今の私は家元としてではなく、島田愛里寿の母として……ただのおばさんとして、ここにいます」
父と母の表情が、硬直する。
「それに島田流とは、目的があればどこへでも駆けつけるものです。これくらいは、お手の物ですよ」
千代が、おどけるようにして「にんにん」と指を立てる。
それを見て、母はぷっと吹き出してしまった。
「――さすがです、島田さん」
「いえいえ」
千代も、母も、そして父も、好きなように笑い合う。
「……よろしければ、これからも親睦を深めていただければと。私は全面的に、愛里寿と黒沢君の関係を応援するつもりです」
「こちらこそ、願ってもないことです。私達も、息子と愛里寿さんの仲を支え続けます」
大人三人が、深々と頭を下げあった。
――よかった。
気持ちに余裕が生まれる。再び、愛里寿の方へ視線を向けてみて――後ろにいたアズミが、視界に入った。目と目があって、アズミがにこりと笑い返す。
「どうも。また会えて嬉しいわ、黒沢君」
「あ……は、はい! いつも、アズミさんを応援してました! バミューダアタックはいつ見てもグレートです!」
アズミが、くすぐったそうに微笑み、
「ありがとう、嬉しいなあ……。うん、これはもっと頑張らないとね」
「はい! 期待してます!」
この人がいなかったら、自分は一生、試合を観戦することなんてできなかったと思う。
アズミがいたからこそ、愛里寿の生き様を見届けられた。戦車道とは、こうやって縁が回り続けているんだなと実感する。
「あ、そうだ」
「はい、なんでしょう?」
アズミが、黒沢へ近づいて、
「君を送り届けたあの日……社会人チームとの試合の時ね。私、いつもより上手くやれたんだ」
「そうなんですか?」
アズミが、こくりと頷く。
「君に応援されてるって思うと、こう、張り切っちゃって」
愛里寿が、含み笑いをこぼした。
黒沢は、恥ずかしげに頭を掻く。
――アズミが、姿勢を低くしてきて、
「――ありがとう、黒沢君」
笑顔で、そう言われた。
息の根が、止まったかと思う。だって、あまりにもきれいだったから。
「隊長のこと、よろしくお願いします」
「――はい!」
はっきりと頷き、アズミも「うん」と首を縦に振る。
アズミがそっと立ち上がり、ヘリへ戻っていく。
アズミが、ヘリから見覚えのあるバックパックを持ち出してくる。そしてそれを、愛里寿へ手渡した。
登山――ではない。今日は、愛里寿とお泊まり会をする予定だ。バックパックの中には、その為の荷物が詰まっている。
もちろん父と母は、笑顔で承諾済み。
「――それでは、私達はそろそろ戻ります」
「わかりました、航空機にお気をつけて。……愛里寿さんのことは、責任を持ってお預かりします」
「はい、よろしくお願いいたします」
千代が、愛里寿にちらりと目を向けて、
「なに? お母さん」
「帰ろうかなと思ったら、連絡をちょうだい。迎えに行くから」
「うん、わかった」
「迷惑をかけないようにね」
「うん」
千代の隣にいたアズミが、一歩前に出る。
「隊長がいない間に、私達なりに切磋琢磨しあいます。帰った時は、ぜひ相手をしてください」
「うん、期待してる」
アズミが一礼する。
そうして千代とアズミは、ヘリに乗っていって、コクピットごしから「ばいばい」と手を振るって――あっという間に、空の彼方へ消えてしまった。
黒沢も、愛里寿も、父も、母も、しばらくは空を見上げたままでいる。プロペラの音が遠くになっても、誰一人として言葉を発しない。
それからしばらくして、誰かが「はあ」と息をした。
雪が、顔にぴたりとくっついた。
夢から醒めたように、空から地上へ目を落とし、愛里寿と向き合う。
「愛里寿」
「うん」
「えっと、すこしタイミングに迷っちゃったけど、これ」
ジャンバーのポケットから、ファイティングポーズをとったボコのぬいぐるみを取り出す。かけがえのない勇気の印を、愛里寿へそっと差し出した。
驚いているらしい愛里寿は、両手で口元を覆っている。
「このボコのおかげで、愛里寿とはずっと繋がれてるんだって、そう思えてた。もちろん、愛里寿のことは一瞬たりとも忘れていなかったけどね」
大真面目に言う。大袈裟に聞こえるかもしれないが、嘘を口にしているつもりはない。
愛里寿の目が赤くなっていく、目頭から雫が溢れそうになって――愛里寿は、首を振るった。
「黒沢」
「うん」
愛里寿は、太陽のような笑顔を見せながら、
「――愛してる」
愛里寿は、ボコを受け取ってくれた。
そうして、お互いに息を吐く。ここで、やるべきことは全てやり終えた。
――あとは、
「父さん、母さん」
「ああ。……それじゃあ、そろそろ帰ろうか」
「はい。よろしく、お願いします」
「こちらこそよろしくね、愛里寿さん」
家に、戻るだけだ。
愛里寿と手を繋ぎ、駐車場まで「家族」一同で歩んでいく。最初こそ無言だったものの、母が「あ」と声を出して、
「そういえば、今日の夕飯を決めてなかったわね。……何にする? 好きなのを、決めていいわよ」
「え? んー、そっだなー」
自然と、愛里寿に目が寄る。愛里寿もどうしようかなと考え込んでいて、「好きなのねえ」と黒沢が何気なく呟き、
「あ」
愛里寿の目と口が、丸く開かれる。
「何? どしたの?」
「えっと。大洗との試合前に、黒沢の家で食べたいものがあるっていう話をしてたよね」
「試合前?」
「うん。黒沢の家でお泊まり会を計画してた時に、一緒に決めてた」
思い起こす。
お泊り会をする時は、愛里寿と何を食べようとしてたんだっけ――
あ。
「母さん」
「なに?」
「決まったよ、今晩の夕飯」
「それは?」
愛里寿と黒沢が、顔を見合わせる。何だか笑ってしまってしまいながら、二人同時に、
「すき焼き!」
「すき焼き!」
―――
――それじゃあ、すき焼きの準備をするから。それまで一緒に遊んでてね
俺は、自分の部屋に通じるドアを開けようとして、そこで少しばかり決意がつまづく。振り向いてみれば、はやくはやくと目を輝かせる愛里寿がいた。
えー? と苦笑しようとも、愛里寿はちっとも意に介さない。仕方がないなあと思いながら、覚悟を飲み込んで、俺の部屋を愛里寿へさらけ出す。
――特に、何の特徴もない部屋だ。マンションらしく、少しばかり狭い感じの。
けれども愛里寿は、珍しいものでも見ているかのように、部屋中を歩き回っている。CDが詰まった棚を、冬休みの宿題が置かれっぱなしのテーブルを、テレビを、DVDレコーダーを覗き見て、愛里寿が「うん」と頷く。
「これなら、ボコのDVDが見られるね」
「お、持ってきたの?」
「うん。全部」
愛里寿が、バックパックをどすんと置く。
俺も愛里寿も、一緒になって床に座った。
「へー、何巻?」
「八巻、それぞれ五話収録」
ということは、四十話くらいか。けっこう息が長かったんだなと、今更になって思う。
「黒沢と、一緒に見たかったんだ」
「そっか……うん、一緒に見よう、愛里寿」
「うん」
「全部見たら、CDショップへ行って、甘いものでも食べて、友達と一緒に雪合戦でもして……色々やろう!」
「うん!」
そうして、愛里寿がボコのDVDを一つずつ取り出していく。勇ましいポーズをとったボコのジャケットを目にしながら、「ほお」と手にとって、
「愛里寿」
「なに?」
「これ、四十話くらいあるんだよな」
「うん」
「ってことは、けっこう長いよね」
「うん」
「……でも、それでも?」
前フリに気づいたのだろう。DVDを回収し終えた愛里寿は、そっと黒沢に振り向く。
「うん。これから長い戦いが始まるけれど……それでもボコは、ボコはね」
俺は、苦笑いをしてしまう。愛里寿も、同じようにくすりと微笑む。
「ああー……やっぱり?」
「うん」
やっぱりだ。ボコは、いつまでたってもボコられグマなのだ。
「……でもさ」
「うん?」
――だからこそ、ボコには人に勇気を与える力がある。人と人とを、繋げることができる能力もある。
「あいつはさ、ボコはさ」
「うん」
テーブルの上に置かれた、激レアの、ファイティングポーズをとったボコのぬいぐるみを見る。
「あいつは、やれるクマなんだよな」
「うん。何度も負けちゃうけど、ぜったいにまけないの」
「な。すげえ根性、してるよな」
「うん。……ボコのおかげで、私は何度も立ち上がることができた」
愛里寿の手が、黒沢の手と重なる。
「そして、あなたとめぐり会えた」
ボコは、人を幸せにすることもできる。
俺は、愛里寿の手を握り返す。
「……ボコは、これからも戦い続けるんだな。俺たちのような人を、増やすために」
「うん。この先もずっとボコボコにされるし、絶対に勝てない。でも、ボコは絶対に諦めない、何度でも立ち上がってくれる」
そんな偉大なクマなのに、やはりどうしても良いところを見せつけることができない。ケンカっ早いくせに、いつまで経ってもライバルに勝てやしない。
それでもボコは、戦い続ける。絶対に、くじけたりなんかしない。
――だって、
「それが、ボコだから?」
「それが、ボコだから」
言い終えた後で、俺と愛里寿は静かに笑いあう。ボコ仲間としてわかりあえたのが、なんだか嬉しかったからかもしれない。
そうして俺と愛里寿は、ただただ見つめあう。まちがいなく目の前にいる愛里寿のことが、だんだん愛おしくなって、終えることのない想いを伝えたくなって――
そっと、愛里寿の両肩を掴む。震える愛里寿は、ふっと両目を閉じて、そのまま――
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。
天才少女と転勤少年の、メタルな恋愛を書くことが出来ました。
この話をもって、大学選抜チームは全て書き終えました。
ガルパンSSを執筆し始めて二年ほどが経過しますが、これで一区切りがついた気がします。
こう、文字で表現すると、冷静に見えるかもしれませんが……逆です、一人で凄く盛り上がっています。
よくここまで書けたなと、やっぱり俺はガルパンおじさんだなと、アルフィーのエルドラドをEDにしながら、このあとがきを書いています。
ここまでSSを書けたのも、全ては応援してくれる読者様のお陰です。
最後までお付き合いくださり、本当にほんとうにありがとうございました。
ご指摘、ご感想などがあれば、お気軽に送信してくださると嬉しいです。
それでは、最後に、
ガルパンはいいぞ、
愛里寿は、凄く可愛いぞ。