何も見えない。
失明したわけでもなく、私は黒だけを視界に入れていた。
身体が言うことを聞かない。四肢は愚か、指一本さえ動かすことができない。
骨折でもしたのかな、と私は思う。動かそうとすると、激しい痛みが身体を突き抜けるのだ。こんな状態では、まともに動くこともできない。
誰か助けてくれたらいいのに。
どうせ誰も助けてはくれない。
相反する二つの思いが、私の中で火花を散らす。
無駄なことだ。助けを呼ぶこと自体間違っている。私がこうなったのは私のせいだ。他の誰のせいでもない。
だけど、いつまでもこうしてはいられない。そう思い、私は鋭くなった痛覚に耐えながら身体を起こす。
────私が目を覚ましたのは、薄暗い森の中だった。私は、図太い木の根の上にうつ伏せになっていた。腹に木の根が当たって、臓器が圧迫されているような感じがした。
「あれ……ここ、どこだっけ」
根の上から身体を起こして、辺りを見回してみる。だが、ここは私の知っているところじゃない。
年老いて背の高い木々が、鬱蒼とした森の雰囲気を作り出している。空気もどこか淀んでいるし、吸っていていい気分にはならない。空も、分厚い雲に覆われて薄暗い。
ここは、この世界は、一体どこ?
(私が知らない場所ってことは……そんな前にできた世界ではない、ってことか…)
今となっては半分ほどの力を失っているとはいえど、私は『創世の光の戦女神』だ。何万年も生きている私は、様々な世界を知っている。古代から存在する世界から、ついこの間できたような新しい世界まで。
だが、この世界は知らない。こんな暗い雰囲気の世界に来るのは久しぶりだ。それに。
「なんか、変な気配がする……」
誰の気配なのかということまでは分からない。ただ、今まで感じたことのなかった妙な気配だ。そう、例えるならば。
────生命のエネルギーが、少しずつ失われていくような恐怖感。
「とりあえず、安全なところに行かなきゃ……」
私は痛みに耐えながらゆっくりと立ち上がり、ふらつく身体を木の幹に寄りかからせる。
視線を下ろすと、自分の身なりはひどいものになっていた。
ジャケットや服は土や砂で汚れているし、黒タイツはあちこち伝線を起こして大きく穴が空いている。
こんな格好じゃ誰にも会いたくないや、と私は笑みを零す。笑えない状況なのに、何故か笑ってしまう。きっと私は、自分が意識している以上に心を病んでいるのだろう。
痛みのせいで言うことを聞かない身体を無理やり動かし、戦女神の神剣を召喚する。普段持つときは軽々と扱える剣も、満身創痍である今の私にはとても重く感じた。ダンベルを引きずるのと同じくらい辛い。
だが、こうでもしなければ応戦できない。魔法だけでは限界がある。相手が万能属性で耐性を持っていたら終わりだ。よく分からない世界では、剣を使って戦った方がいくらかマシだ。
歩く前に、自分を回復させる呪文を言い放つ。
「『ルクス・ヒーリングシールド』」
温かな光が私を包む。それと同時に、痛みが少しずつ引いてきた。私は息をふうと吐いて、回復しきるのを待つ。
といっても、この魔法は回復効果のついているバリアを自身に張るものだ。戦っている際でも、ダメージを受ければ自動的に回復してくれるし、バリアが持続さえしていれば死ぬことは少ない。
大方回復すると、痛みはほとんどなくなった。剣を普通に持ってもいつも通り軽く感じるし、剣を引きずる必要もない。
剣を構えつつ、私は薄暗い森の中に足を踏み入れる。
────どのくらいの時間、私は森の中を歩き続けているのだろうか。
辺りは暗くなってきている。恐らく夜が訪れようとしているのだろう。天気が曇りだから、余計に暗くなるのが早くなっているのかもしれない。
私は戦女神とはいえ、今は人間の姿だ。歩き続けていれば疲れてくるし、脚も棒のように動かなくなってくる。だから、宛もなくいつまでも歩き続けていては効率が悪い。
「……誰もいないな」
暗くなるまで歩いていたのに、この世界に来てから私は誰にも会っていない。敵は愚か、鳥や狼といった動物でさえもいない。まるで、私以外の生命が存在していないかのようだ。
ふと、私は思った。
どこまで独りで歩き続ければ、この静寂は終わるのだろう、と。
風もほとんど吹いておらず、木々の枝や葉は揺れていない。だから、何の音もしない。自分が歩けば足音がしたりはするが、それとは違う自然が紡ぐ安らかな音が、耳にすんなり入ってこない。
そして何より、人の話し声といった人が紡ぐ音が何もない。
それはあまりに寂しいことだ。
「……ちょっと、休もうかな」
脚の痛みが酷くなってきたので、私は一本の木の下に座り込む。持っていた戦女神の神剣を隣に置いて、痛みがあるままの両足を抱えた。
……ただ単純に、寂しいとだけ思った。
「……どうして、誰もいないの?」
相手もなしに、私は尋ねる。当然ながら、誰も答えない。
身体を丸めて、私は込み上げる寂しさに耐えようとした。
「……嫌だよ」
そう呟いてから、私は過去に言われたことを思い出した。確か相手は、機械神のデウス・エクス・マキナだ。
“ユキアは独りだった時間が短いからそんなことが言えるんだよ”
その通りだった。私は初めて生まれてからしばらくした後で、たくさんの仲間ができた。独りだった時間は、数年単位だ。
けれど、あの子は違う。ずっと独りだった。誰よりも、誰かの傍にいることを望んだのに、彼女に限って独りだった。
独りになってしまった今なら、マキナの気持ちはよく分かる。
それがどれだけ苦しくて、残酷なものなのか。
「……なんで…」
独りには慣れていると思っていた。そう思って自分を誤魔化していた。だけど誤魔化しに過ぎない。私はいつの間にか、自分の心を誤魔化すことに慣れてしまっていたみたいだ。
「なんでだろ……急に…」
涙が溢れてきた。両足を抱えていた手で涙を拭うが、いくら拭っても溢れ出てくる。
私、どうしちゃったの?
「…馬鹿みたいだ……独りになったぐらいで」
涙を抑えようと、私は自分の心を抑えつける。泣いたって、誰かが来るわけがない。そんな都合よくことは進まない。
ずっと誰かと共にいたせいだろうか。多少の孤独は慣れていたはずなのに、孤独への耐性がなくなっていたようだ。
……脚の痛みがある程度消えていた。いつまでもここにいても仕方がない。私は涙を止められぬまま、戦女神の神剣を手にして歩き始める。
しばらく歩いていると、涙も止まってきた。目はきっと赤く腫れていることだろうけど、そんなことを気にしていられる余裕がなさそうだ。
────何か、生命の気配を感じる。
「……味方じゃないな」
とは言ってみたものの、私には気配だけで相手が敵か味方かなどといった招待は判断できない。透視魔法でも使えばできるだろうが、相手の姿が分からなければ、使ったところで相手を把握することができない。
私は戦女神の神剣を力強く握りしめる。緊張によって滲み出た冷や汗で、手から滑り落ちてしまいそうだった。
……気配が、殺気を帯びて近付いてくる。やはり、この気配は敵か。
「お願い……トイフェル!」
聞き覚えのある声と共に、私の頬を鋭い何かが切りつけた。
「っ、『光神斬』!」
戦女神の神剣を振りかざし、襲い来た何かを追い払う。剣は手応えがない。恐らく逃がしたのだろう。
小さく舌打ちをして、切られた頬に指を這わす。その指には、鮮血の雫が乗っかっている。受けた傷も、熱を帯びている。
「……誰なのかはもう分かってる。出てきなさい」
私はトイフェル、という言葉に聞き覚えがあった。この世界に来る前に、ある少女が持ち出した、危険物に認定されている人形の名前だった。
私に呼びかけに応えたのか、先程の声の主は姿を現した。
やはり、私の予想通りだ。
「やっぱり……あんたが私をこの世界に送り込んだのね……」
目の前に現れた声の主を、私は静かに睨みつけた。
白髪と金目の白い少女……そうだ。彼女が、人形────トイフェルを持ち去ったのだ。
「……アイユキアリス」
少女は私を目にすると、虚ろな瞳で私の本当の名を呼んだ。この名を知っているということは、彼女は私の世界の者だ。そして同時に、ただの能力持ちの人間ではないことも分かった。
「あんたは何者なの?その名を知っているということは、あんたも神か何か?」
「……あなたなら、知っていると思ってたけど……私、ついこの間生まれたばかりだからね。知らないのも無理はないかもしれない」
「…質問に答えたらどうなの?」
戦女神の神剣を向けて、私は少女を威嚇する。トイフェルを抱きしめたまま、彼女は動かずに、ただ私だけを見つめていた。自分を見つめてくる大きな目が、綺麗どころか気持ち悪いと思えてくる。あまりにも目が大きくて、まるで監視されているようだった。
少女は宙に浮き、一本の大木の枝の上に乗る。地面から剣を構える私を、上から見下ろす。私は無性に腹が立った。
「……私はシュルス。終焉を司る女神」
「シュルス……?それがあんたの名前?」
「……そうだよ。あなたは知らないだろうけど」
彼女────シュルスの言う通りであった。終焉の女神などという二つ名は聞いたことがない。彼女がつい最近生まれたということは、どうやら本当のことのようだ。今更気付いたが、彼女の言動や振る舞いがどこか幼い。神にしては珍しいケースであった。
神というのは、最初からある程度知識を与えられているものだ。神には、普通の人間齢で十五歳程度の知識が生まれたときに頭に入っている。そこから色々なことを学び、徐々に知識を身に着けていくのだ。
だが、シュルスは恐らく、通常とは異なったケースで誕生している。彼女はまるで幼い子供のようだ。物静かだから分かりにくいかもしれないが。
「……あんたの目的は何?私をこんな世界に落として、どうするつもり────」
尋ねている途中で、私ははっと息をのんでその場を飛び退く。
────私が立っていた場所から、鋭くとがった岩が飛び出てきたのだ。
(あれに当たったら、ひとたまりもないだろうな……)
岩は地面を食い破って、容赦なく突き出ている。自然に起こるとは到底思えない。間違いなくシュルスの仕業だろう。
彼女は、私を殺す気でいるのかもしれない。
「……答える気はないんだね」
シュルスは黙るままだ。否定する気もないのだろう。
彼女が私を殺しにかかるのなら、私も応戦しなければ当然殺される。殺されるといっても、私の元の身体は神だ。人間化している状態でも、死んでも生き返るし、ある意味不死身といってもいい。
だが、だからといって殺されてもいい理由にはならない。
「まあ、よかったよ。鬱憤晴らしができる相手が現れてくれて」
わざとシュルスを挑発するが、彼女は何も反応を示さない。ただ強く、トイフェルを抱きしめているだけだ。これ以上何か言っても、彼女に精神的な攻撃は無駄だろう。
ならば、直接手を下すまでだ。
「『ルクス・ブラストブレイク』!」
戦女神の神剣から、眩しいほどの光がほとばしる。爆風に近い衝撃が、剣から放出される。正直ここのような森の中で使う魔法ではないのだが、もし木が燃えたら魔法で消せばいい。このぐらいやらなければ、神は倒せない。
爆風によって土と砂が舞い上がる。おかげで視界がかなり悪くなった。私は剣を持っていない方の腕で砂煙を払うが、あまり効果は見られない。
私は魔法で宙に浮く。砂煙が薄れるところまで上に上がる。森を見下ろすと、砂煙が派手に舞っているのが見えた。
(ここまでやって無傷だったら……勘弁してほしいもんだよ)
『ルクス・ブラストブレイク』は私がよく使う攻撃魔法だ。誰か敵に出会ったときは、私は迷わずこれを使う。光属性だから邪気も払えるし、威力も結構上位の方だ。
これを食らって無傷だというなら、相当な手練れだ。
(まあ、あんな人形に頼っているようじゃ、私には敵わないだろうけどね…)
トイフェルも完全じゃない。あの人形ができるのは、惨い虐殺だけだ。さっきの私のように、ちょっと傷をつけられる程度で済む場合もあるが、大抵はあの程度じゃ終わらない。私は運が良かっただけだ。どのくらいの惨状にされるか、何度も目にした私はよく知っている。大国が一夜で滅ぼされるところを、一度目撃したことがある。トイフェルが危険物に認定されて捕らえられたのは、その直後のことだった記憶がある。
どこの誰に作られたのか、何故あんな強力な能力を持っているのか、私もよく知らない。だが、危険物であることに変わりはない。だから、一刻も早くトイフェルを捕まえて、シュルスのことも止めなければならない。
そう思い、砂煙が収まってきたところに降りようとすると。
────トイフェルを抱きしめたシュルスが、一直線に私の元へ突撃してきたのだ。
しかも、彼女もトイフェルも無傷だ。
「っ!?あれを受けて……!」
戦女神の神剣を咄嗟に構え、空中で防御の姿勢をとるが。
「私のことを馬鹿にしたら、そのうち死んじゃうよ?」
いつの間にか、シュルスの顔が目の前にあった。大きく丸い金目が、また私を見つめる。金縛りにあったかのように、私の身体が硬直する。
これもまた、彼女の持つトイフェルの仕業?どうにかしないと。距離を詰められれば、ゼロ距離で攻撃される。
「まずっ────」
目の前が、真っ白になった。
最後まで言葉を口にする暇も与えられず、腹のあたりに強い衝撃が襲い掛かる。私は耐えられず絶叫し、地上に叩き落とされる。
視界が回る。吐き気がこみ上げる。重力に身体が耐え兼ねて、壊れてしまいそうだ。
勢いよく墜落し、私の身体は強く地面に叩きつけられる。頭がぐらんぐらんと揺れて、意識が朦朧とする。脳震とうでも起こしただろうか。うつ伏せに地面に転がって、私は痛みに耐えながら拳を握り締める。そのとき気が付いたが、持っていた剣がない。恐らく墜落した途中に落としたのだろう。
さすがに人間の身体では限界がある。神と人間の身体は全く同じ構造ではあるが、衝撃や能力に対する耐性が異なる。神ならこの程度の衝撃に耐えることなどたやすいが、人間であれば下手すれば死んでしまう。人間化していたのが仇であった。
起き上がることもできず、ただ奥歯を噛みしめる。じゃり、と感触に違和感を覚える。口の中に砂が入っているのかもしれない。それに鉄の味もする。
「……私の…バカ…」
こうなることが分かっていたなら、初めから戦女神化していればよかった。いくら何度でも生き返ることができるとはいえ、死ぬときの痛みは何度経験しても耐えきれない。静かに死ぬことのできる病気とは違う。外傷的な原因の死は、人間も神も苦しいと感じるものだ。
いつも肝心な時にこうなる。あの時だってそうだ。数年前、別世界でとある賢者によって受けた呪いのせいで、私は一度膿を吐き続けて死んだ。あれは正常な臓器を無限的に回復されたことによって起こったことだが、戦女神化していればまだマシな結果になっただろう。人間化していた故に、あんな目に遭った。
「……どう、して…!」
痛みによる苦しみと悔しさが混じった声で、私は地面を睨みつけた。
かつん、と靴音が聞こえた。まずい。きっとシュルスだ。私を身体を引きずってでも逃げようとする。だが、あまりの痛みに身体が動かない。もしかしたら、今度こそどこか骨を折ったのかもしれない。
逃げたくても逃げられない無様な私の頭上に声が降ってきた。
「……早く、死んじゃった方がいいんじゃない?」
声は、確かにシュルスのものだった。彼女は今、私のことを見下しているのだろう。
いやだ、と私は声を絞り出す。
「死にたくなんか、ない…死んで、たまるもん、か……私には、まだ……!」
やるべきことがあるんだよ。
魔法を発動しようにも、声がうまく出せなくて失敗するかもしれなかった。魔力は無尽蔵に近いほどあるが、無闇に放出したところで吸収されでもしたら終わりだ。
こんなところで終わってたまるもんか。死んでも記憶は引き継がれるが、死ぬ痛みはもうたくさんだ。願わくば、もう死にたくない。
(こんなところで、終わるもんか────)
やけくそになって、魔法を発動させようとした瞬間。
────ただならぬ冷気を放つ氷塊が、私の傷付いて動かなくなった身体を真上に吹っ飛ばした。
(へ……?)
吹っ飛ばされるまで、気配も何も感じなかった。冷気に思わず身が震えたが、助かったのだと安堵した。
そして次の瞬間、私の腹のあたりに銀色の鎖がぐるぐると巻き付いてきた。その鎖は、森の奥の方から伸びているようだ。
一体誰の仕業だろうと思わぬうちに、ある程度巻き付くと、鎖が森の奥へ引き込まれる。当然、鎖が巻き付いた私の身体も自動的に引き込まれていく。
「きゃあああぁぁぁ!?」
さっき、地面に叩き落されたときと同じくらいのスピードで、今度は横に引っ張られている。息ができなくなりそうだ。気分が悪くなって、目をぎゅっとつぶる。唇や舌を噛まないように口を固く閉じて、重力に逆らえない手足をなんとか引っ込めようとする。
そうこうしているうちに、私の身体は急にスピードを失う。同時に、背中と脚あたりに温かい温度があるのが分かった。
目を開けようと、重い瞼を持ち上げる。
私の身体が、浮いている。そして、目の前には誰かの顔。
(あれ、誰だろう……?私、助かったの……?)
ずっと目を開けていられず、顔が誰のものかも分からずに、私は意識をふっと手放した。