どこからか、花の匂いがした。
鼻に突き刺してくるような、少しきつい匂いだった。何の花なのか、俺には分からない。ただ、この花の匂いは好きになれない。それだけは確かだった。
この匂いのある場所から離れたい。離れたくても、身体全体が何かにのしかかられたかのように重かった。
これは夢か?現実か?
どっちでもいい。いっそこのまま寝てしまおう。そうすれば花の匂いは入ってこない。また別のところで目が覚めるかもしれない。
そう思い、俺は再び目を閉じた。
────どうやら、神様は俺を寝させる気はないらしい。
身体が重いということは、自分はそれだけ疲れているということだ。現に俺は今、とてつもなくだるい。こんな状態でなくとも、いつもだったら、寝転がれば三秒くらいで夢の世界なのに。
寝たいときに寝られないほど、腹が立つことはない。
「ったく……何なんだよ……」
あまりの寝られなさに、無意識に俺はそう呟いていた。
場所が悪いのかもしれない。そもそも、こんな花の匂いが充満している所で寝られるはずがない。寝る場所を変えれば、少しは安眠できるだろう。
移動するために、重たい身体を持ち上げた。瞼を開けると、目の前に真っ赤な百合の花が大量に植えられていた。尋常じゃない量の深紅は、俺の視界を赤に染めている。
「なんだ……ここ」
俺はうつ伏せに倒れていたのだろう。ふらつきながら立ち上がってみると、俺の倒れていた場所の百合は呆気なく潰されていた。 当然ながら、犯人は俺だ。
そして、目を地面から離して周りの景色に向けてみると。
「……花畑?」
俺が倒れていたのは、真っ赤な百合の花畑であった。遠くの方には森があって、この花畑は森に囲まれているのだと分かった。
そよ風が、百合と俺の髪を撫でた。妙に肌寒くて、身体がぶるっと震える。知らない風に、知らない匂い。灰色に覆われた広い空。
────俺の知っている世界じゃない。今確信できるのは、それだけだ。
「……あれ」
身体よりも頭の方が寒くて、俺は頭に手を伸ばす。あったはずのものがなくなっている。被っていたものがなくて、もう片手で探しても何も掴めない。
「兜がない……」
俺は真っ赤な花畑の中に手を突っ込んで、兜の固い感触を探す。兜の色は白と青だから、赤の中から探すことは容易いだろう。
百合の花畑に顔を近づける度、鼻にきつい匂いが突き刺さる。さっきまで意識が朦朧としていた時の匂いは、百合の花から出ていたものだったのだ。やはり、ずっと嗅いでいると気分が悪くなってくる。百合に毒があるなんて話は聞いたことがないから、毒ではないのだろうけど。
早くこの百合畑から逃れたいと思いながら兜を探していると、目線の先に、薄い青が見えた。深紅の中で、僅かに浮き上がっているように見える。
慌ててその青を手に取ると、それは紛れもなく俺の被っていた兜であった。
「こんなところに……?」
兜を被って、俺は何か違和感を感じた。頭の寒さが引いたとか、そういうことではない。むしろ頭から肌寒さが消えてすっきりした。
────サクッ、と物音がした。
「……誰だ?」
俺は立ち止まって、後ろを振り返る。今の音は、俺が出した音ではない。俺とは違う別の誰かが、百合を踏んだのだ。
俺が振り返った先には、白い少女がいた。背中まで伸びている白髪に、滑らかな純白のドレス。その細い腕には、何か抱きかかえられていた。人の形をしているということは、恐らく人形だろう。
「あなたこそ誰なの……?」
少女は人形を強く抱きしめて、震える声で問い返してきた。彼女の金目は恐怖の色に染まっている。警戒されているのだろう。
変に怖がられては、得られる情報も得られない。とりあえず俺は、口元を緩める。
「俺はカツオブシってんだ。嬢ちゃん、こんなところで何やってんだ?」
そう尋ねてみるが、少女は黙りこんだ。表情も、恐怖の色は消えたが、逆にそれ以外の感情が現れたようには見えなかった。要は無表情になったということだ。
しばらくの沈黙の後、少女は小さく口を開いた。
「……あなたには、多分分からない」
「へぇ……?ま、無理に教えろとは言わんさ」
無理やり情報を聞き出したところで、彼女から正確な情報が得られるかどうかなんて分かったもんじゃない。むしろ、変に怖がらせて誤った事実を聞かされる方が無駄なことだ。ここは彼女を敵に回さぬように、冷静に対話をすべきだろう。
「ちょっと聞きたいんだけどさ。ここってどこなんだ?」
普通の初対面の人間からしたら馴れ馴れしいと思われるような口調で、俺は少女に尋ねた。彼女からすれば、こうして親しみを持ってもらった方が安心できるだろう。それに、彼女を敵にせずに済む。
「……私が作った世界だよ」
「…へぇ?お前が作ったのか」
少しどころか、結構驚いた。こんな小さい娘が、この世界を作っただと?にわかには信じられない話だ。だとすれば、この嬢ちゃんはただの人間ではなさそうだ。ちょっとばかし危険な能力者か、あるいは神か────。
もう少し何か聞いてみよう。これだけでは、情報があまりにも不足している。
「お前の他に、誰か住んでる奴とかいないのか?」
少女の顔が、一瞬こわばった。
本当に一瞬で、また元の無表情に戻ってしまったが。確かに彼女は今、知られたくない秘密を悟られたような目つきをしたのだ。
「……それを知って、あなたはどうするの?ここから逃げるの?」
「何を、バカなことを────」
言いかけて、俺はとある現象に気が付いた。
身体が、勝手に震えている。俺の顔には、何か雫のようなものが伝っている。きっとこれは冷や汗だ。目の前にいるのは、見た目だけは何の変哲もないであろう少女だ。なのに、身体が不自然に震えているのだ。
(なんなんだ…こいつ)
俺は何かを怖がることなど滅多にない。だから、こんな少女にここまで恐怖心を抱くことなど異常でしかないであろう。
人形を抱える目の前の少女は、薄笑いを浮かべた。
「……あなたも、あの人たちと同じようにしてあげる」
はっと息を飲み込んだ。これ以上はもうだめだと、一瞬で悟る。
(むてきバリア!)
俺は自身の能力で、透明なドーム状のシールドを張る。その直後に、巨大な氷の槍が俺に向かって突撃してきた。バリアのおかげで槍は防げたが、これが破られればたちまち俺は槍の的にされてしまうことだろう。
(くそっ……なんなんだよ、あいつは……
!)
氷の槍の向こうにいる少女は、先程とほぼ変わらぬ様子であった。何の心の色も見えぬ無感情の目付きをして、なんとも子供らしからぬ雰囲気を纏っていた。
「……トイフェル……」
少女が何かを口にした。だが、俺には当然その言葉の意味は分からない。
────何故か威力を増した氷の槍は、そんな俺の疑問と共にバリアを打ち壊した。
「かはっ……!?」
バリアが壊れた衝撃で、俺の身体は百合の花畑の上に乱暴に投げ出された。バリアもろとも砕けた氷の槍の欠片達は、容赦なく俺の身体中にざくざくと突き刺さってくる。鋭い氷の欠片によって小さく引き裂かれた肉からは鮮血が噴き出してくる。
現実とは到底思えなかった。このバリアは今まで、破られることはそうそうなかった。ほとんどの攻撃や能力はいとも簡単に打ち消せていたし、俺が今日この日まで生き残れたのはこのバリアのおかげと言っても過言ではないからだ。
サクッ、と百合の花が踏まれる音が再び。知らなかったはずの殺される恐怖が、心の底から滲み出てくる。
仰向けに倒れた俺のことを、少女が上から見下ろしていた。黄金の双眸が、ひどく冷徹であった。
「ここで……俺を殺すのか?」
自分は当然、こんな化け物じみた子供に殺されたくなどない。死ぬならもう少しまともな死に方をしたいものだ。「子供に追い詰められて死にました」なんて、いくらなんでも情けなさすぎる。
少女は人形を抱きかかえたまま、俺の元に歩み寄ってきた。俺は身をよじってこの場から離れようとする。動くたびに鮮血が溢れ、複数の小さな痛みはやがて激痛へと変わる。
この場から退かなければ死ぬのみだ。なのに、起き上がろうとすると何度も身体が崩れ落ちかける。俺の身体には、もう逃げる体力すら残っていないらしい。
「抵抗しなければ……楽になれるのに」
少女の言葉はあまりにも残酷なものだった。楽になる、とは要は「死」だ。俺にとって、死ぬことは「楽」ではない。命を失うのに、何故それが安息とされるのだろう。それではただの逃げだ。
彼女に俺の言葉は届かないだろう。だが、それでも構わない。聞こえるか否か、そんなものは些細なことだ。
「嫌だね……俺を殺したところで、いずれお前も死ぬんじゃないか?」
「……あなたはもう動けない。でも、私はまだ動ける。結果なんて、とうに見えてるはずだよ」
「そんなの単なる未来予測だろ……やらずに後悔するのは、もう沢山なだけだ」
何の感情もなかった少女の唇が、強く引き結ばれた。金目が淡く光を放っている。
「……あなたは、何も知らない。私を知らないから、そんなことが言えるの」
腕の中の人形を強く抱きしめて、少女は俺が苦痛にもがく様をただ見下ろしていた。先程の氷の槍以外に、何か危害を加えるつもりはないようだ。
だが、それが逆に腹立たしかった。殺せる相手にさっさととどめを刺せばいいものを、彼女は何も手を出さない。
「……殺らないのかよ」
「死にたいの?」
「そうじゃねぇよ。俺が失血死するのを待ってんのか?」
「……別に。そういうの、私にはよく分からないし……まあいいよ。死にたいなら、今この場で楽にしてあげるから」
違う、と俺は無言で拳を握りしめた。
身体に刺さった氷の欠片はじきに溶けてなくなるだろう。だが欠片が消えたところで、体が受けたダメージは尋常ではない。逃げ切れたとて、きっと再び追い回される。
どうすれば生き残れる?
どうすれば────
「じゃあね」
少女の言葉が放たれる。あまりにも残酷で、無慈悲な一言。一分一秒早く俺を殺そうと向けてくる冷たい形相。
ここで殺されるのを覚悟して、俺は静かに拳を握った。
────ガキィン────
「……?」
手が下されると思いきや、俺には何の痛みもなかった。むしろ、身体に刺さっていた氷の槍が溶けて消えていた。
不思議に思って、俺は少女の方に目を向けた────だが、そこにいたのは少女ではない。
黒髪の青年が俺に背を向けて、少女の攻撃を防ぎ掻き消していたのだ。
「全く……知り合いにひどいことしてくれるね」
青年の声には聞き覚えがあった。それどころか、よく知っている人物のものだ。
目の前で俺を守った青年は────ハルだった。
「お前……もしかして、ハルか?」
「もしかしなくともそうだよ。カツオブシさん」
俺の方に振り向いて、ハルは微笑みを見せた。
前髪の所々は紫と白銀に染まっていて、俺が知っている人物の中でも珍しい奴だ。その目は、さっきまで俺に危害を加えてきた少女のものと同じ黄金である。
「……あなた、誰なの」
少女が人形を強く抱きしめて、新たに参戦してきたハルのことを威嚇した。自分の攻撃が防がれたからだろうか。俺に何者かを問うた時よりも、緊迫した空気が漂っていた。
ハルも真剣な顔つきになって、少女の方に向き直る。
「君には名乗る必要もない。それより、君は一体何者だ?ここは君が作った世界だろう?」
知り合いの中でも、ハルは上位の力を持つ者だ。一対一で戦ったことがないから分からないが、敵にその力の矛先が向けられた際には必ずと言っていいほど相手はやられる。恐らく彼にとって、誰が作った世界なのかを判断することくらいなら容易いことなのだろう。
はぁ、と少女はため息をついた。
「……すごいね、お兄ちゃん達。ここに『呼び寄せて』正解だった」
「……は?」
思わず間抜けな声を出してしまった。呼び寄せて?どういうことだ?
「私が永遠の自由を手に入れるために、お兄ちゃん達の存在は邪魔なの。強い人がいる世界に、私の求めるものはないの」
「……これまた、現実味のないものを欲しがるんだね」
ハルはやれやれとした口調で呟く。
永遠の自由。まるで頭の中が花畑の奴が言うような言葉だった。自由ならまだ分かる。ほんの少しだけならば、何にも縛られぬ時を過ごすことはできるだろう。
だけど、それが長く続くなんて現実では有り得ないだろう。ましてや、永遠なんてあるようでないものだ。この少女の言うことは、一種の夢物語だ。
ハルは黙って俺に手を差し出した。その手を掴むと、俺の身体を引き起こしてくれた。……まだ身体に痛みはあるが、先程より幾分かマシになった。
「悪いけど。……君のその甘ったれた夢に巻き込まれる筋合いはないね。僕も、彼も」
「…………甘ったれた夢……」
相も変わらず無表情な少女は、相も変わらず人形を強く抱き締める。ずっと抱き締められているのを見ていると、なんだか人形の方が可哀想に感じてきた。
そんな彼女の様子を眺めていたら、ハルが俺に目配せをしてきた。
(今のうちに逃げるよ、カツオブシさん。こいつからなんとか逃げないと)
脳内にハルの声が響いてきたが、恐らくこれはテレパシーの類だ。俺もどうにか、彼に思念を送ろうと試みる。
(分かった。テレポート、任せられるか?お前に頼んだ方が、長い距離飛べるだろうし)
(うん……構わないけど……っ!)
息をのむ音は脳内にではなく、直に聞こえてきたものだった。
何かが爆裂する音と共にぎゅっと目をつぶった。次の瞬間、俺とハルの身体は空中にあった。ハルは右腕で俺の左腕を掴んで飛んでいるが、彼の左腕からは血が滲み出ていた。彼に傷を与えられるなど、感心している場合ではないが大したものだ。
「ハル……!その傷は」
「あいつにやられた……というよりは、あの人形の力かもしれない」
人形が?そんな馬鹿なと思いつつ、俺は少女の方に目を向けた。────人形が、少女の腕の中で煌めいている。目を疑いたくなるような光景だった。
少女は俺たちの目の前に飛んできて、その大きく丸い目を見開いた。
「私の夢を……バカにしないで」
「うるさいな。僕は……本当のことを言ったまでだ!」
鮮血に染まった左腕を少女に突き出したハルの顔つきは、珍しく焦りが垣間見えていた。彼に傷をつける人間などそうそういない。そう考えると、少女と人形の力はとてつもなく強大なものだと確信できた。
「創世の業《転送》!」
少女が再び何か攻撃を仕掛けようとしていたが、俺達は瞬く間に彼女から幾分か遠い場所に転移した。