━━たった一輪の薔薇の水晶。とある国の小さな街の物語。
其れは、純粋で無垢な少女の物語。叶うはずのない恋に胸を踊らせ、棘があることにも気付かずに薔薇を握って踊り続けた、哀れで愛おしい敗北者の物語。
……くだらない、と嗤うことが出来るのは、貴方がそれを体験したことがないからよ。
━━人を愛するのはこんなにも簡単なのに、結ばれるのはどうしてこんなにも難しいのでしょうか。
とある酒場の看板娘、ローズの恋文とも取れる手記に書かれた一言である。
私は満たされています。
父の手伝いとして酒場を手伝う日々に。騒がしいけれど、優しくも温かいお客様達の喧騒に。特別な味付けや高級な材料は使用していないけど、とても美味しい母の料理に。無骨であまり笑わないけれど、とても広い心を持っている父に。
「早く良い男を見つけろ」なんて言われたりもしますし、「そろそろ結婚して女の幸せを」なんて言われたりもします。けれど、私は今、とても満たされているのです。これ以上の幸せを願うなんて、強欲だと思いませんか?
お客様から冗談半分に言い寄られたりもします。父の酒場に来るお客様は皆、とても温かく、良い人ばかりです。けれど、私は今、とても満たされているから。この生活に、とても満たされているから。
……彼のことを想うだけで、とても満たされているから。それで良いのです。
叶わぬ恋だと、解っているのです。然れど、叶わないから仕方が無いと、諦められる恋でも無いのです。
いいえ、もう諦めているのです。諦めているけれど、それでも想わざるを得ないのです。
きっと、彼は私のこと等、気にも留めていない。私のことを知らない。何故なら、彼はこの地の領主のご子息で、私はその地に住まうただの町娘なのですから。酒場に来るお客様達が汚い、とは言いません。父の酒場が汚い、とも言いません。しかし、こんな酒場に、領主様のご子息様がいらっしゃる筈もありません。身の程は、弁えているのです。
だから、想うだけで良いのです。それだけで、私は今、満たされているのです。
━━たった一つだけ、余分に貰った愛情。それが欠けても元通りの筈なのに、心は渇き、十の愛情を求めるようになるのです。
それは、とてもとても偶然の出来事だったのかもしれません。領主様と、彼が街の視察に繰り出してきた時のことでした。嗚呼、なんという奇跡だったのでしょう。彼が、私のことを見てくれたのです。そして、私の姿を見た途端に、領主様に声を掛け、視察と称して父の酒場に足を踏み入れたのです。
この酒場に、領主様とそのご子息様のような、貴族の方々を満足させるようなものが用意出来るようには見えなかったと思います。実際、満足出来たのかどうか、それは解りませんでした。しかし、彼は、私にこう聞いてくれました。
「宜しければ、名前をお聞かせ願いたい」
この日私は、母に天上の感謝を伝えたくなりました。産んでくれて、この瞬間まで育ててくれて、本当にありがとうと。
この日私は、母を地獄の底まで恨みたくなりました。ローズでは無く、もっと美しい名前があったのでは?彼はこのローズという名前にどんな思いを抱いたのだろう?もっと、もっと素敵な名前が良かった!
それでも、彼は少しはにかみながら、私の名前を呼んでくれました。その時の、嗚呼その時の胸の高鳴りはどう表現すればよろしいのでしょうか?今まで、ただ一方的に存在を知り、一方的に想っていた彼に、名前を呼ばれたのです。これ以上の喜びがあるのでしょうか?
その日から、私は仕事により精を出すようになりました。また、いつ彼が視察に来てもいいように。彼に怠けた姿など、見せたくはありませんもの。お客様達に口説かれることも多くなりましたが、断り続けました。また、名前を呼んでもらう時に、私の側に男の人が居たらどう思われてしまうか!
彼は、時々酒場にお客様として現れるようになりました。私は彼のことを見ると心臓が高鳴り、仕事に精を出したくとも失敗をしてしまうこともしばしば有り、それでも、それでも彼はにこやかに笑っていました。
酒場に来て、酒も飲まず、特別な味付けや高級な材料を使用していない、一般的な料理を口にして、私に目配せをして帰っていく彼。「酒場に来て酒を飲まないなんてどうかしてる」と他のお客様は笑いますが、そんな所も誠実に見え、素敵なのです。そう言うとまたお客様達は笑いました。
彼が一人で酒場に現れるようになってから、私は毎日が怖くなりました。今日は来てくれるのだろうか?前に来た時はいつだっただろうか?明日こそは会えるのだろうか?
「きっと忙しいんだよ」
母にそう言われました。領主様のご子息なのです、勉強しなくてはならないことも沢山あるでしょう。夜、蝋燭の灯りに照らされて物憂げにペンを走らせる彼の姿を想像するだけで、心は紅く染まっていきました。
けれど。私は、この瞳で、彼を見たいのです。
また、名前を呼んで欲しい。
目配せをして欲しい。
出来ることならば、
私はいつしか、満たされなくなりました。
━━彼が「僕と共に死んでくれ」と言うならば、喜んで剣を私の胸に突き立てましょう。でも、彼は「僕と共に生きてくれ」と私に言ってくれたのです。
彼が……デューイが、酒場に来るようになってしばらくが経ちました。
一度だけ。デューイに、「何故この酒場に来るのですか?」と聞いたことがあります。その時の、彼の少し照れた顔と、その後の言葉は、私はきっと一生忘れることは無いでしょう。
「……ローズ。君に、会いに来ているのです」
死んでもいい、とさえ思えました。いいえ、もう死んでいたのかもしれません。その言葉だけで、その表情だけで、私はきっと一生分の幸せを手に入れることが出来た。もう、一生分の幸せを手に入れることが出来たのです、死んだっていいでしょう?もう、死んだのと同じでしょう?
然れど、死ぬ訳にはいかないのです。死んでしまえば、もうデューイに会うことが出来なくなってしまうのですから。私が死んでしまえば、デューイが悲しんでしまうのですから。
いつしか、私とデューイは酒場だけではなく、夜更けの河辺でも逢うようになりました。いつしか私の一方的な
けれど、デューイには私の最も綺麗な文字を見て欲しい。返事を書く時間を取る為に、眠る時間を削ったりもしました。
それ程時間を掛けた返事の手紙は、中々渡せませんでした。デューイが、中々来てくれなかったのです。
何か風邪でも引いたのでしょうか?いいえ、そのような噂は聞いたことがありません。ではやはり忙しいのでしょうか?
まさか、私は嫌われてしまったのだろうか?ふと、そんな想像が脳裏を過ぎりました。視界が真っ白になるような感覚を覚えました。嫌だ、嫌われたくない。会いたい。逢いたい。話したい。離したくない。私の
きっと、忙しいのでしょう。いつしか、母に言われた言葉で自分を安心させようとしていました。それよりも、仕事をしなければ。
そんな時でした。とある噂を酒場で聞いたのは。
「おい、聞いたか!領主様の跡継ぎのデューイ殿、とうとう結婚が決まったらしい!」
「ああ、知ってる!お相手もかなり位の高い貴族の人らしいじゃねえか!」
目の前が、真っ白になる。
それどころではありませんでした。世界から、色が消えました。真っ黒な
当然のことなのかもしれません。
政略結婚、という言葉位、学の浅い私でも知っている言葉です。
精々町娘でしかない私が、貴族であり、領主様のご子息であるデューイと結ばれるなんて、有り得はしなかったのです。
この日ほど、母親を憎んだ日はありません。世界を憎んだ日は在りません。何故私を町娘に産んでしまったのか。このような思いをするならば、何故今日まで私を生かしたのか。何故私は産まれてしまったのか。
産まれてきたその時点で、名も知らぬ貴族の女性に、世界に、町娘の私は敗北していたのです。
その日の夜、私は眠る事も出来ずに、只管に泣きました。嗚咽を漏らしながら家を抜け出し、デューイと密かに逢っていた河辺に向かいました。
其処には、色がありました。
其処には、デューイがいました。
涙が止まりませんでした。やっと逢えた。どうして結婚のことを黙っていたの?何故愛に来てくれなかったの?ねえ、どうして?会えて嬉しい。私、寂しかったの。
デューイは、私にこう言いました。
「僕は君を愛している。……僕と共に、逃げてはくれないだろうか?」
心臓が止まるかと思いました。
彼は、政略結婚に、貴族という名の世界に抗おうとしていたのです。私との、愛の為に。
私は嗚咽を漏らしながら頷きました。デューイはあの笑顔で微笑んでくれました。
「明日、また此処で待っている。荷物を持って、またこの時刻に。来てくれるね?」
頷きました。
世界に色が戻りました。
胸が踊って仕方がありませんでした。そうと決まれば直ぐに家に戻りました。もし、私とデューイが会っていることが知られたら、この
家に戻るまでの道が、短く感じられました。
夜は、とても長く感じられました。
胸の中は、紅で満たされていました。
━━薔薇の花弁は散り際が最も美しい。
「……気の毒だよな、デューイ様の結婚が決まって沈んでた時に、更に刺されて死んだなんてよ。犯人の手掛かりも無いとはなぁ」
「……噂なんだが、デューイ様の結婚相手が嫉妬してローズちゃんを殺すように仕向けたらしいぜ」
「ホントかよ?……いや、有り得るな。あの二人、仲睦まじかったもんな」
━━人を愛するのはこんなにも簡単なのに、結ばれるのはどうしてこんなにも難しいのでしょうか。
━━ただ、彼を愛したかった。結ばれたかっただけなのに。産まれたその時から、結ばれることは出来なかったのでしょうか。敗北者には、望んだ恋は実らないのでしょうか。
━━もし、生まれ変わることが出来たら。
━━最期に、何かを願って死んでいく敗北者って、沢山いるのね。満たされて死ぬことが出来れば、それはきっと「勝者」だから、かしら?
……此れを見ても、貴方は彼女をくだらない、と嗤うかしら?唯、彼女に取って、その愛情こそが全てだった。それだけよ。世界に抗おうとしたのだもの、素晴らしいと思わない?
貴方と同じなのよ。貴方と同じ、敗北者。