「ところでお二人さん、そろそろいい?」
あれからどれだけ時間が経ったのかはわからないが、しょうこの涙が止まり、やや名残おしい気持ちながらあさひが彼女の身体から離れたとき、タイミングを見計らったかのように、葉山が声をかけてきた。
「あ……す、すいません。私、つい……」
「…………」
あさひは思わず半歩後ずさった。しょうこもわずかに身をひき、下を向いている。その両頬は赤くなっていた。
「あはは、別に照れなくていいよ。青春だね~」
あっけらかんと言う葉山に、しょうこの頬がさらに赤くなる。この刑事絶対に性格悪いな、とあさひは思った。
「まあそれはともかく、お花は生き物だから、そろそろ花瓶に生けた方がいい」
いつの間に用意したのか、葉山は水を入れた花瓶を持っていた。しょうこの手から花束を取り、花瓶にと生けていく。
「で、しょうこちゃん。元気は出た?」
「は、はい……」
しょうこはまた顔を赤らめてうつむいてしまった。
「それはよかった」
「あの……刑事さん。どうして、その……」
「あさひ君を連れてきたかってこと?」
「……はい。刑事さんのお仕事とは思えませんから」
「あ、これは仕事じゃないよ。今日は私、非番だから。これはまあ、なんだろうね~」
のほほんと笑う様子は何も考えてないように見えるが、そうではないのだろう。とはいえしょうこはその言葉を素直に受け止めたようで、ありがとうございます、とお礼を言っている。
「だけどまあ、時間はあるから、ちょっと話はしたいな。いい?」
しょうこははい、とうなずいた。
「その前に確認したいんだけど、君たち、事件の全貌についてどれだけ知ってる? 報道番組の類は見た?」
「見てません……その、見るのが辛くて」
「俺も見てない。理由はわかるだろ」
テレビなど見れる環境ではないのだ。わかっているようで、葉山もうなずいた。
「じゃあ、事件の概要から話すね。あ、長い話になるからあさひ君も座った方がいいよ」
言われたので、付き添いようとおぼしき丸椅子に座る。
「えーとまず、ディアホメーズが火事になった事件ね。幸い、通報が早かったから、この火災による死人はいなかったし、重傷者もただひとり、しょうこちゃんだけ。とはいえ、これはあくまで『通報が早かったから』であって、これが遅かったり、あるいは別の部屋に燃焼を促進する何かが大量にあったり、という不運に見舞われていたりしたら、被害が甚大なものになっていた可能性もある。
火元はしょうこちゃんがいた1208号室。この部屋は大量の軽油が撒かれていて、ほぼ黒焦げだった。あさひ君がいなかったら、しょうこちゃんは確実に焼け死んでいたね」
しょうこが身震いした。あさひは手を伸ばして、しょうこの手をそっと握った。
「で、さっき『この火災による死人はいなかった』って言ったし、実際、火事で死んだ人はいなかったけど、死人自体は出ているの。しょうこちゃんがいた1208号室からは、切断された男性の遺体の一部が発見された」
しょうこが息を呑み、目を見開いた。あさひの手をつかむ彼女の手に力が入る。
「この男性の名前は、深谷そら。職業は画家。画家といっても、依頼を受けてコピー品を作るのが仕事だったようね。この人について聞いたことは?」
しょうこは首を横に振った。葉山はひとつうなずいて、話を続ける。
「やっぱり知らないか。で、火事の次の日、『全部私がやりました』って、出頭してきた人間がいるの。それが、松坂みつ。しょうこちゃんの友達、松坂さとうの叔母だよ」
「えっ?」
しょうこが驚きの声をあげた。声こそ出さなかったものの、あさひも驚いた。犯人はさとうではなかったのか?
「署まで出向いて、放火も殺人も全部私がやりました~って、満面の笑顔でね。しょうこちゃんに怪我をさせたのも? って訊いたら『それも』って。あまりにもヘラヘラしてるもんだから、イタズラかとも思ったんだけど、彼女、軽油のレシートを持っててね。ガソリンスタンドを調べたら、防犯カメラには彼女が軽油を買い込んでる映像が記録されてるし、本人が着てた服からも軽油が検出されるしで、そのまま逮捕されて、現在は拘留されて取り調べ中」
「あ、あの……さとうの叔母さん、確かに変、というかおかしな人ですけど、あの、その……」
しょうこの言葉に、葉山はうなずいて天井を見上げた。
「ああ、大丈夫、どんなふうにおかしいかはわかってるわ。取調べの最中にイヤってほど実感したから」
葉山の口調は心底嫌そうであった。みつに会ったことのないあさひはよくわからなかったが、さとうの叔母なのでたぶんまともではないだろうという結論を出した。
「それで、さとうは? さとうはどこでどうしているんですか?」
尋ねるしょうこの声は震えていた。
「松坂みつの姪の松坂さとうは、現在行方不明。と、ここまでが、現在、報道機関にも発表されている情報なんだけど、君たちは関係者だから、もう少し突っ込んだ話をするね。
松坂みつは1208号室の住人、深谷とトラブルになり、彼を殺害。数日かけて遺体を切断して捨てようとしてたところを、姪に会いに来たしょうこちゃんに見られてしまい、口封じのためにしょうこちゃんを殺害して、証拠隠滅のために火をかけたって言ってるんだけど……」
「え、それ、おかしいです。私、あの日は叔母さんに、さとうは1208号室にいるって言われて、私が向かおうとしたら、叔母さんはドアを閉めて鍵をかける音が聞こえました。叔母さんが1208号室で私に……えーっと、その……」
言葉を探しているのか、しょうこは口ごもった。ちらちらと視線をあさひに向ける。とはいえ、あさひも器用な方ではないので、うまい言葉が出てこない。
「しょうこちゃん、記憶は戻ってない?」
「はい……すみません……」
嘘だ、とあさひは反射的に思った。しょうこは、自分を殴ったのが誰なのか憶えている。だが、しょうこがそれを話せずにいる理由に、充分すぎるほど思い当たりがあった。なので、あさひは何も口にせず、ただしょうこの手を握っていた。あさひより一回り小さい手は汗ばんでいて、緊張が伝わってくる。
「まあ、そういうわけで、私も五島さんも、放火はともかく、しょうこちゃんを殴ったのは松坂みつとは考えていないの。たぶん、やったのは松坂さとうでしょう。……深谷を殺したのもね」
しょうこは下を向いてしまった。その肩が小さく震えている。
「喋ってたら喉渇いちゃった。お茶を買ってくるからちょっと待っててね」
葉山は病室を出て行った。彼女がいなくなった瞬間、しょうこはあさひにしがみついた。
「……ごめん、ごめんね……」
「あなたのせいじゃない」
あさひは、前と同じ言葉を繰り返した。実際、しょうこのせいではないし、彼女がいなければ、さとうに騙されて違う街を捜索していたのだから。
「むしろ、謝るのは俺の方だ。もう関わっちゃダメって、言うべきだった」
「でも、私がいなければ、しおちゃん、もしかしたら」
その名を聞いたとき、あさひの胸に痛みが走った。自分を拒絶して、さとうと行ってしまったしお。自分は、あのとき……。
「何があったか、本当は憶えているんだよな?」
しょうこの身体をそっと離し、確認のためにそう尋ねる。しょうこは頷いた。
「やったのはさとう。私、警察には言わないって言ったけど、もう信じてもらえなかった。でも本当に、警察に言うつもりはなかったの。しおちゃんと、あんたを会わせてあげたかっただけで」
「……なあ。もう、あんな奴をかばわなくてもいいんじゃないか?」
声がやや冷たくなってしまったのは、仕方のないことだろう。あさひからすれば、さとうはしおをかどわかして連れ去り、親友であったはずのしょうこを本気で殺そうとした相手だ。いい感情など、抱けはしない。
しょうこはまた下を向いてしまった。やや苛立ちをおぼえる。本能的に目の前のしょうこの両肩をつかんでしまいそうになり、あさひは必死で自分の衝動を押し込んだ。しょうこは怪我人だし、仮にそうでなかったとしても、手荒に扱っていい存在ではない。
「だって、あんたのこと、勝手に警察に話せない」
あさひははっとなった。静かに手を伸ばして、しょうこの額に触れ、髪をかきあげる。しょうこは今にも泣き出しそうな表情をしていた。
「ごめん……あなたの気持ちも知らずに、きついことを言って」
しおのことはまったく警察に話していない。しょうこはその可能性を考えて、何も言わずにいたのだろう。
自分でもよくわからない、でも決して嫌ではない感情にかられ、あさひはしょうこを抱きしめた。初めて自分からかき抱いた彼女の身体は暖かく柔らかく、そして、ひどく頼りなかった。
ちょうどそのとき、ドアの開く音がした。あさひは思わずしょうこから身体を離した。それとほぼ同時に、ビニール袋をぶら下げた葉山が病室へと入ってくる。
「好み訊くの忘れちゃったんだけど、君たち、緑茶で大丈夫?」
その口元にニヤニヤとした笑みが浮かんでいるのが見えたが、突っ込むと墓穴を掘りそうなので、あさひは黙ってうなずくだけにした。隣ではしょうこが「はい、大丈夫です」と答えている。
葉山はビニール袋から緑茶入った大きなペットボトルと紙コップを取り出し、紙コップにお茶を注いであさひとしょうこにひとつずつ渡した。そのあとで、自分用の紙コップにお茶を注いで、一気にあおる。
「それで、どこまで話したっけ?」
「深谷って人を殺したのはさとうかもしれないってところまでです」
「そうだった。状況を考えると、1208号室にいたのは松坂さとうで、しょうこちゃんに遺体なり凶器なり、見られたら困るものを見られて、口封じに走った。みつがしょうこちゃんにさとうの所在を教えたのは、1208号室で何が起きているのか知らなかったから。その方が自然じゃない?」
自然じゃないかと問われれば、自然だろう。実際のところ、しょうこが目撃したのは、しおといっしょにいるさとうなのだが、それ意外は概ねそのとおりだ。
「でも、なんでさとうは深谷って人を殺したんでしょう?」
「可能性がありそうなのは痴情のもつれ? 五島さんは援助交際かもねって言ってる」
しょうこがなんとも言えない表情になった。あさひは、それも違うのではないかと思ったが、やはり口にはしなかった。
それよりも、遺体の一部がみつかったということは、遺体のある部屋でさとうとしおは寝起きをしていたのか。その事実に、あさひは気分が悪くなるものを感じた。どうやら、しょうこも同じらしい。
「と、まあ、私たちは考えているんだけど……残念ながらこの事実を立証はできないのよ」
「え?」
しょうこが驚いた声をあげた。
「どういうことですか?」
「えーとね、君たち、裁判の仕組みについては学校で習ったかな? 刑事裁判というものは、その人の犯行だと立証できる可能性がないと、起訴できないのよ。で、立証のためには確実な証拠とか証言とか、いろいろなものを使うんだけど、この中で、『自供』というのは非常に有効なものだし、今回は自発的にやってるから、さらに有効性が高くなるのね」
まともに学校に通っていないあさひには、裁判の仕組みと言われてもよくわからないし、葉山の主張の中身もやはりよくわからない。しょうこの方はなんとか理解できているようで、表情が強張っている。
「今回のケースは、松坂みつがすでに自供をしているし、証拠も揃っている――少なくとも、放火についてはね――一方で、松坂さとうの犯行を証明するものは何もない。実際のとこ、署内でさとうがやったと思ってるのは私と五島さんぐらいなの。この分だと、検察は松坂みつを起訴しちゃうでしょうね」
「そんなっ!」
しょうこが声をあげた。葉山がやや困ったような表情になる。
「といっても、放火は確実だし、現住建造物等放火ってのは重罪で、死刑もありうるんだよね。放火は他所の家に飛び火したり、そこに人が住んでる場合は、中の人が焼け死んだり重傷を追ったりする可能性があるから、そんな危険な行為は、当然重い罪になる。しょうこちゃんのことにしても、殴ったのはさとうでも、あの部屋にしょうこちゃんを置いて火をつけたんだから、松坂みつの方も充分殺人未遂に問えるし。このまま起訴したとしても、事実からかけ離れてるわけでもない」
「さとうの叔母さん、死刑になるんですか?」
「ん~、検察の求刑次第かな。弁護側は精神鑑定を受けさせる気みたいね。でも、あの様子だと、イカれてはいても責任能力は問えるって鑑定になりそう。といっても、火事の被害が甚大なものになったわけじゃないから、死刑まではいかないでしょう。殺人と放火のあわせ技で……無期懲役?」
無期ということは、ずっと出てこないのだろうかとあさひは思った。さとうの叔母さんとやらのことはわからないし、法律や裁判といった話はもっとわからない。
……ただ、さとうがおとがめを受けないというのだけはずるいと思ってしまった。
「理解できないのはさ~、あの人こういう話をしてもずーっとヘラヘラ笑ってるんだよね。見てると背筋が寒くなってきちゃって……」
そこまで葉山が話したときだった。不意に葉山のハンドバッグから電子音が響いた。
「あ、ちょっとごめんね」
葉山はバッグから携帯を取り出すと、通話に出た。病室の隅の方に行って、何やら話し始める。
「え? なんなんですかそれ。そんなんありえるんですか。あーもう、わけわかんない!」
何かが起きたらしい。あさひとしょうこは顔をみあわせるしかできなかった。葉山はしばらく携帯で話していたが、やがて通話を終え、携帯をバッグに戻すと、困ったような表情でこちらを向いた。
「ごめん、署でトラブルが起きちゃった。もう少し事件の詳細話したいけど、私、向こうへ行かないと」
「あ、はい。どうぞ、行ってください」
葉山はバッグに手をつっこむと、皮のケースを取り出した。それを開けて、中から名刺を二枚取り出し、二人に一枚ずつ手渡してくる。
「これ、私の名刺。連絡先書いてあるから、なんか思い出したことあったらここに連絡ちょうだい。それじゃ。あ、緑茶の残りは好きに飲んでいいよ。それとあさひ君、ここ、面会時間は午後六時までだからね。あと、しょうこちゃんに変なことしちゃダメだよ」
「そんなことするか!」
思わず、怒鳴ってしまったあさひだった。この刑事は、自分をいったいなんだと思っているのだろうか。
もちろん、傍から見ればあさひはホームレス同然の生活をしている怪しい少年で、相手によっては確実につまみ出されかねないのだが、そういう事実には、悲しいかな、あさひは思い当たっていなかった。
一方、葉山は図太いのかズレているのか、「それじゃあね、二人とも」と手を振って、病室を出て行った。
「なんなんだ、あの刑事……」
葉山が出て行ったあと、脱力しながらあさひは呟いた。
「でも悪い人じゃなさそう」
「そうか?」
「悪い人だったら、わざわざあんたを連れてきたりしないって」
そう言われても、イマイチ納得できないあさひだった。正直、彼女といっしょにいて思ったのは「疲れる」「精神力をガリガリ削られる」という感情なのだ。もちろん、しょうこに会わせてくれたのは嬉しかったが。
「ねえ」
そんなことを考えていると、しょうこが声をかけてきた。思いつめた表情をしている。
「刑事さん、さとうはみつかっていないって言ったよね」
「ああ」
「しおちゃんもみつかってないんだよね」
「…………」
言葉が出ない。しょうこが悲しそうな表情で下を向いた。
「どこにいるのかな」
それはあさひも気にかかっていた。……とはいえ。
「しおは……俺を知らないって言った」
「えっと、それは……ほ、ほら。別れたとき、しおちゃんまだ小さかったんでしょ? 人の顔って成長すると変わるっていうから、それでわからなかったのよ、きっと」
しょうこの言うことはもっともだ。だが、あさひにはどうしても納得できなかった。それに、家族よりもさとうのような人間を選んだのもショックだった。
「あいつは、人を殺した。親友のあなたも殺そうとした」
しょうこが辛そうな表情になる。それでも、言わずにいられなかった。
「刑事さんに話した方がいいと思う?」
「しおのことをか?」
「それもだけど、さとうが私を殴ったんだってこと。体調が戻って思い出せたって言えば、刑事さんも特に変だとは思わないだろうし。でも、詳細をつめられたら、きっとごまかしきれないから、しおちゃんのことも話さなくちゃならなくなると思う」
葉山はつかみどころがないが、鋭いところもある。しょうこが嘘を突き通すのは難しいだろう。
だがあさひは葉山のことが信用できなかった。葉山のことだけではなく、世の中の人のほぼすべてが信用できない。例外はしょうこぐらいなものだ。
あさひが考え込んでいると、しょうこがあさひの手を握った。思わずそちらに目を向ける。
「ありがとう」
「え?」
「助けてもらったお礼、まだちゃんと言えてなかった。私を助けてくれて、ありがとう」
そう言った言葉にも瞳にも迷いはなく、ただ純粋な感謝の気持ちが溢れていて。
それが何故か、苦しかった。
しょうこちゃんは目上の人には丁寧な喋り方になります。
あさひ君はそれができません。