「飛騨さん、起きてますか?」
かけられた声で、しょうこは目を覚ました。いつの間にか朝になっていた。夜眠れなかったせいで、覚醒時間がズレこんでしまったようだ。
「あ、はい。起きています」
しょうこはベッドから降りた。入り口のドアを開けると、食事のワゴンを押している看護士がそこにいた。
「すみません、ちょっと昨夜は寝付けなくて」
そう口にして、朝食を受け取り、ベッド脇のテーブルに置く。病院の食事は味付けが薄い。あまり美味しくない、としょうこは思った。ついでに言うなら、食欲もそんなにない。でも食べなければ、体力が回復しないし、点滴のお世話にもなってしまう。
義務感で食事を口に詰め込み、食べ終えた食器を戻しに行く。看護士さんが来て、体温を測る。平熱だ。そのあとお医者さんが来て、傷の状態を見てくれた。回復は順調、らしい。この分だとじきに退院できますね、と言われる。
退院。それは、日常に戻るということだ。本来なら嬉しいはずなのに、しょうこは憂鬱な気持ちになってしまう。あの家に戻って、うまくいっていない家族と生活をして……学校にも、通わなくてはならない。事件の報道で自分の名前が被害者として出ているから、表向きは腫れ物に触るような扱いをされるだろう。それでいながら、きっと影ではあれこれと噂をされてしまうのだ。
その光景をつい鮮明に想像してしまい、しょうこの気分はさらに重くなった。しょうこが通っているのはエスカレーター式のお嬢様高校で、クラスメイトの中には幼稚園のころから見知っている人間もいるが、今まで「本当に仲の良い友達」というのは作れずにいた。自分のどこに問題があるのかはよくわからないが、何故かいつも、人との間に薄い膜が張っているかのような気持ちにさせられてしまう。
だから、さとうが初めてだったのだ。あそこまでいっしょにいたい、と思える人間に出会えたのは。
でも、彼女は人殺しで。いや、何か事情があったのかもしれないけど。でも、あの部屋にはずっと死体が。
思考が混乱してきた。しょうこは立ち上がり、窓辺へと向かって、空を見上げた。今日の空は半分くらい雲に覆われている。
少し他のことを考えた方がいいかもしれない。そう言えば、バイトはどうしよう。両親に確かバレていたはずだが、いくらなんでも店に怒鳴り込むまではしていないはずだ。……していないと思いたい。
とはいえ、バイトは続けられるのだろうか。仮に店の方から「やめてください」と言われなかったとしても、さとうとの思い出でいっぱいのあの店で、今までどおりに働けるのだろうか。
……やめよう。不毛だ。しょうこは病室にいる気にならず、ドアを開けて廊下へと出た。午前中の廊下は閑散としている。しょうこは廊下を歩き、休憩スペースへと向かった。理由は特にない。
休憩スペースで、しょうこは椅子のひとつに座り、置いてあった新聞を手に取った。日にちが経過しているせいか、マンションの放火事件についての記事は載っていない。今大きな見出しになっているのは、大物芸能人が麻薬で逮捕されたという記事だ。興味はなかったが、とにかくそれを読む。
集中できないながらもなんとか活字を追っていると、不意に、足に何かがぶつかった。見ると、六十代ぐらいの松葉杖の女性が立っている。どうやら、通り過ぎようとして、しょうこの足に松葉杖をぶつけてしまったようだ。
「ごめんなさい」
「あ、ええと……大丈夫です。痛くはなかったですし」
女性は静かな笑顔を浮かべた。穏やかな、優しい笑顔だった。対処がわからず、しょうこはぼうっとしてしまう。
気まずくなって、視線をさまよわせる。女性は足にギプスをはめていた。事故か、何かだろうか。
「ああ、これ? 道を歩いていたら、自転車にぶつかられてね。そのとき、倒れ具合が悪かったらしくて、こう、ぺきっと」
ギプスをみつめるしょうこに気づいたらしく、女性は自分からそう口にした。歩道を走る自転車って怖いわ、とおっとりと笑う。
「でもね、お医者さんに聞いたら、頭を打ったり、ひどいと亡くなったりすることもあるっていうの。これくらいなら、私はきっと運が良かったのね」
運。運とはなんだろう。殺されかけて助かった自分も、幸運だったと思われていたりするのだろうか。
「お嬢さんは?」
「……う、あ……えっと、その……」
さすがに、殺されかけたとは言えない。口ごもるしょうこに対し、女性は笑顔のままだった。
「ああ、ごめんなさい。言いたくないのなら無理に言わなくていいのよ。ダメねえ。年を取ると、つい詮索してしまって」
「い、いえ、それはまあ、いいんです。ただやっぱり、人に話すのは辛くて」
そう言うと、女性から笑顔が消えた。代わりに浮かんできたのは、こちらを案じる表情。
「お嬢さん、通りすがりの私が言うのもなんだけどね、辛いときは、無理をしてはダメよ」
「無理……ですか」
「ええ。もちろん、通りすがりの私のような人間に話せとは言わない。でも、お嬢さんの信頼できる誰かに、話を聞いてもらえるのなら、そうした方がいいと思うわ」
信頼できる相手……? そんなのいただろうか? 両親も学校の先生もクラスメイトも、誰も信頼などできはしない。
以前だったら、さとうがそうだった。なんでも聞いてくれた……といっても、せいぜいが家庭や学校に対する不満ぐらいだったが。そしてそのさとうが、今は自分の心を悩ませている主要因だ。
「私……友達に、ひどいことをしてしまったんです」
あれこれ頭を悩ませているうちに、しょうこの口から滑り出したのは、そんな言葉だった。言ってしまって思わずあわてる。
「ひどいことって?」
しょうこは腹をくくった。きっと、この女性とは病院を出たら二度と会うことはない。なら、当たり障りのない部分を聞いてもらおう。
「大事な人で、ずっと仲良くしたいと思っていたのに、肝心なときに彼女を助けてあげられず、見捨ててしまいました。それで、もう関係はおしまいって言われたんです。もう友達じゃないって」
「それで、お嬢さんはその子に謝ったの?」
「はい。ですが、受け入れてくれませんでした」
女性はしばらく神妙な表情で考えていたが、やがて口を開いた。
「お嬢さん、これはあくまで、私という一人の人間の意見でしかないけれど、人は誰しも間違うときがあるわ。いつも正解を選べるものではないの。みんな未熟で不完全なのよ。それは、この年齢になっても、そう。だから、お嬢さんがひどいことをしてしまったというのなら、そうなんでしょう。でも、きちんと謝ったのに、許してもらえないのなら、それはもう、向こうの問題。その経験を糧にして、あなたは、次のステップに進んだ方がいい」
「次のステップ……?」
「何でもいいから、やりたいことをおやりなさい。あなたの心を満たしてくれるようなものをね」
そう言われても、やりたいことがしょうこには思いつけなかった。もともと学業に興味はないし、打ち込めるような趣味を持っているわけでもない。
「あとね、それは、できたら、自分ひとりでできることの方がいい。誰か他の人を必要とするようになると、人は自分で生きられなくから」
女性の言うことが、しょうこはよくわからなかった。この人は何が言いたいのだろう? 人は一人では生きられないのではないだろうか?
「お嬢さんはいい人ね」
「はい?」
突然そう言われ、しょうこはあっけに取られた。
「通りすがりの人間の話を、そんなに真剣に聞いてくれるのだから、あなたはきっといい人なのだと思うわ」
「それは……私が今、ひどく悩んでいるからだと思います。普段はこうじゃないですよ」
別に自分は真面目な人間ではない。授業はどちらかというと適当に受けているし、難しい話を聞くのも苦手だ。
でも、褒められたのは少し嬉しかった。
「あなたが何を悩んでいるのかはわからないし、きっと、知らない方がいいでしょう。でも、ひとつだけ言えるのは、他の人の苦悩を背負ってはダメ。人間は神様ではないから、そんなものを背負ったら潰れてしまう。お友達のことが気がかりなのでしょうけれど、こういうときは、距離を置いた方がいいと思う。それで消えてしまう関係ならそれまでのこと」
それは、少し冷たいのではないかとしょうこは思った。
「自分を守ってもいいのよ」
やっぱりよくわからなかった。だが、彼女が通りすがりの自分のことを心配してくれているのだ、というのだけはわかった。だから、しょうこは「ありがとうございます」と言って、自分の病室に戻った。
新しいいけにえがみつかれば、そっちで大騒ぎ。それがマスコミというもの。