あさひの父が亡くなったあと、あさひが再会したゆうなは魂が抜け落ちたかのような虚脱状態で、まともに会話も通じない様子で部屋で座り込んでいた。なんとかしおがいなくなったことを聞き出したあさひは、そのまましおを探しに飛び出して行き、ゆうなの許には戻らなかった。だから、ゆうながそのあと、どうなったのかもわからずにいた。
マンションの火事が起きたあと、しょうこを助けたあさひは警察で事情を訊かれ、住所に困って母のそれを答えた。すると、母は精神病院に入院していると言われたのだ。あさひが飛び出していったあと、明らかにおかしい様子で近所を徘徊するようになり、通報を受けてそのまま病院で保護されたのだと言う。
保護者不在ということであさひは施設に送られ、そこを脱走し、さらにそのあと、事件の捜査をしていた五島刑事の配慮のおかげで、住む場所と働く場所が手に入った。五島はそれだけでなく、弁護士のもとにあさひを連れて行き、今まではっきりしていなかった法律関係のあれこれもまとめてくれた。例えば、あさひは知らなかったのだが、亡くなった父は生命保険に入っていた。父方の祖父が契約させたもので、保険料は一括ですでに払い終わっており、受取人はあさひになっていた。
「どうして……?」
「お前の祖父は、お前が心配だったんだろう。このやり方なら、直接金銭を遺すより、安全に金を渡せると踏んだんだろうな」
「俺だけが受け取るわけにはいかない。半分はしおのものだ。しおが生まれる前の契約だから、俺だけが受取人になってるけど、しおも生まれていたら、違っていただろうし」
「通帳を作って、半額を入れてお前が預かっておけばいい。とはいえ、失踪宣告も出しておいた方がいいぞ」
とはいえ、あさひは未成年なので直接受け取ることはできない。ゆうなはまともに会話ができないため、母の親権を停止してもらい、未成年後見人を立ててもらう。そのために、裁判所などあちこちに行って説明をしたり書類を書いたりせねばならず、あさひはお役所仕事というのはどうしてこう面倒なのだろうと思わずにはいられなかった。
「なんでこんなに複雑なんだ……」
「それは、世の中にたくさんの人がいて、いっしょに生活をしているからだ」
まさかまともな返答がかえってくるとは思っていなかったので、あさひは思わず五島の顔をまじまじと見てしまった。
「どうした?」
「いや、それ……どういう意味?」
五島は、道路の信号を指差した。
「あれがなくなったら、どうなると思う?」
「どうって……」
あさひは信号を見た。目の前の信号は青で、人が渡っている。横断歩道の脇では、車が信号が変わるのを待っていた。
車が待っているのは車の側の信号が赤だからだ。信号が赤で、車が止まっているから、人は安心して道を渡れる。だが、信号がなければ……。
「怖くて……道を渡れない」
「ああ。下手をしたら、道を渡れないどころか、あちこちで事故が多発するだろう。そういうことが起きないように、世の中には『ルール』というものがある。交通ルールがあるから、人は一応安心して道を歩ける。とはいえ……世の中にはイレギュラーなことが多々あるから、用心にこしたことはないがな」
説明はもっともだったが、あさひは交通ルールについて知りたいわけではなかった。さすがに、それが必要で大事なものであるぐらいはわかる。
「交通ルールが必要なのはわかったけど、役所の手続きが面倒なことの説明にはなってない」
「交通ルールと言ったが、これは『決まり』だ。多くの人が生きていくにおいて、様々な要望が発生する。場合によってはそれが衝突する。だから、多くの人が生きていきやすくなるように、ということで定められたのが『社会の決まり』つまり『法律』だ。もし世の中に五人しか人がいなかったら、問題が起きる度に話し合ってもなんとかなる。だが、数多くの人が生きている社会においては、問題が起きるたびに話し合うわけにはいかない。だから、そういう部分を円滑にし、やりやすくするために『法律』がある」
「…………」
「どうした?」
「む、難しすぎてついていけない……」
頭を抱えるあさひを見て、五島は困ったな、といった表情になった。
「これでも噛み砕いて説明しているつもりなんだが……とりあえず、お前を縛るためにあるものじゃないってのだけは憶えておけ。役所の手続きは確かに面倒だが、今回は人が死んでいるからな。人の生死というのは重要なものだから、ミスが起きると厄介なんだ。それを防ぐために、どうしても手続きは厳しくしないといけないところがある」
あとはまあ、知りたかったら落ち着いたら勉強しろ、と言われてしまう。そう言えば以前にも、高校ぐらいは出ておけ、とも言われていた。気が進まなかったが、夜学でも通信制でもいいから、出ておいた方がいいのかもしれない。
精神病院の休憩室で、あさひは母のゆうなと向かい合っていた。母のゆうなは治療が効を奏しているのか、以前よりは落ち着いた様子だった。
「母さん、元気そうだね」
ゆうなは静かに微笑んだ。
「あさひも元気そうね」
少なくとも、母はあさひが誰かということはわかってはいる。そこから説明しなくて済んだことに、あさひはほっとしていた。
「うん。俺、なんとか住むところと働くところを見つけたから、俺のことは心配しなくていいよ。だから、母さんはまず、病気を治して」
心の病気が治るのかどうかはよくわからなかったが、あさひは治ってほしいと思っていた。
「今、元刑事さんって人のところに下宿させてもらってるんだ。刑事さんっていうと怖そうだけど、全然そうじゃなくて、普通のおじいさんだよ。バイト先の食堂もみんないい人だから……母さんは、本当に心配しなくていいから」
「良かったわね」
ゆうなは窓の外を見て、それから周囲を見た。そして、首を傾げる。
「ところでここは、どこだったかしら?」
「母さん、ここは……病院だよ」
「病院? なんで?」
「母さんは病気なんだ。だから、治るまで入院しているんだよ。大丈夫、きっと良くなるから」
「ありがとう、あさひは優しい子ね」
笑顔のままで、ゆうながそう言ったので、あさひは胸をなでおろした。だが、そのあとに続く言葉に、表情を失って硬直してしまう。
「子供はあさひだけで良かったのよ」
「母さん……今、なんて言った?」
かすれた声で尋ね返すあさひの強張った表情に気づかぬまま、ゆうなは穏やかな声で、言葉を続けた。
「だから、あさひだけで良かったのよ。二人目はいらない」
はっきりとゆうなはそう口にした。瞬間、あさひの中で怒りが爆発する。
「母さんっ! なんでそんなことを言うんだよっ! しおをいらないだなんてっ!」
信じられなかった。母の言葉が。妹をいらないと言い切ってしまった言葉が。反射的につかみかかりそうになる。瞬間、ゆうなが悲鳴をあげた。
「いやあああああっ!」
あっという間に病院の職員が飛んできて、あさひはゆうなと引き離された。だがあさひの気持ちは治まらない。
「母さんっ! どういうことなんだよ! しおはいらないって! しおだって母さんの大事な娘じゃないかっ!」
「あの子はいらないの! あの子がいたから、あさひを置いて出て行かなくちゃならなくなったの!」
ゆうなは泣きながらそう叫び、思わずあさひは立ち尽くした。そんなつもりはなかった。あのとき、まだ幼児だったしお。父に全力で殴られたら即死しかねない。幼い子供がひとりでは生きられないし、日に日に憔悴していく母も心配だった。自分が残るのがベストだと思ったのに。
「でも、それはしおのせいじゃない……」
ゆうなは壊れたかのように、あの子はいらないと繰り返すだけだ。そのまま病院の職員に連れて行かれてしまう。
「神戸さん、お母様の前で声を荒げられるのは……」
ぼんやりとその場に立っていたあさひは、病院の医師から注意を受けた。DV被害者であるゆうなは、怒鳴り声や暴力の前触れを感じさせる動きで、パニックになってしまうのだという。そういう行動は謹んでくださいときつめに言われ、あさひはうなだれた。
「すみませんでした……妹をいらない子みたいに言われて、つい……」
ああ、と医師はうなずき、あさひを気の毒そうな表情で見た。
「おそらく、あなただけを残して家を出たことを、妹さんのせいだと責任転嫁することで、自分を守ろうとしているのでしょう。悪いのは病気です。あなたのせいでもお母様のせいでもありません」
悪いのは病気だと言われても、あさひは釈然としなかった。被害者である母に対して怒鳴ってしまったことへの罪悪感と、どうして妹をいらないと言ったのかと母を責める気持ちが、胸の中でせめぎあっている。ぐちゃぐちゃになった気持ちを抱えたまま、あさひは病院を出た。
あさひの境遇があまりにもどんづまりなのでちょっと捏造しました。
この作品だとあさひが壮絶ものを知らない子になってますが、虐待家庭で育つと、どうしても「物知らず」になる可能性が高いんですよねえ……。
ゆうながなんだか認知症患者みたいになってますが、イッちゃってる人を上手に書けなかったのです……。頭に浮かぶのは、映画『チャーリー』冒頭の、チャーリーが母親と精神病院で会ってるシーン。いつの時代だよおい。
あとは何度も書いてますが、十一歳の子供を暴力亭主のサンドバッグにして逃げるのはどうかと思いますよ。