食事を終えたしょうこたちを外まで見送ったあと、あさひは店の中に戻った。三時を過ぎた店内は閑散としている。厨房で積み重なった皿の汚れを落としていると、店主の近江が声をかけてきた。
「あんな可愛い彼女がいたとはなあ。性格も良さそうだし、大事にしてやりな」
彼女じゃないんです、とあさひは訂正しようかと思ったが、面倒なのでやめにした。説明の下手なあさひには、二人の関係を一から上手に説明できる自信などない。彼女だと思われたとしても、しょうこが誰か他に彼氏を作りでもしないかぎり、特にデメリットもないのだし。
そう思ったとき、不意に胸の奥が苦しくなった。しょうこが誰か他の男性と並んでいるところを想像しただけで、辛くて苦しくなる。
何故こんな気持ちがするのだろう。それは、きっと……しょうこの隣に、他の人に立ってほしくないからだ。
でも、崩壊家庭の出身で、高校も通っていなくて、不安定なバイトの身分の自分では、しょうことは不釣合いではないだろうか。
そういったことを考え始め、あさひの思考は暗く重い方向へと沈んでいった。なるべく周囲を見ないようにして、必死で手だけを動かす。
やがて五時になり、シフトが終了した。「お先に失礼します」と声をかけ、調理服を脱いで帰途につく。
「ただいま戻りました」
「お帰り、あさひ君」
五島の母が出迎えてくれた。
「お父さん、今日は用事で出かけていて、帰宅はもうちょっと遅くなるの。ご飯はもう少し待っててね」
五島の両親は、互いを「お父さん」「お母さん」と呼び合う。あさひからすると不思議な情景なのだが、子育てを経験した夫婦とはこのようなものだと説明を受けた。
「いつもありがとうございます」
下宿する際、あさひは食事などは面倒をかけたくないし無くていい、洗濯も自分でする、と断ったのだが「一人増えてもたいした手間じゃないし、別々だと台所がいつまでも片付かない。洗濯はいっしょの方が水道代と電気代がかからない」と言われてしまった。あまりに申し訳ないので、食後の洗い物はあさひが行い、それ以外にもできる家事は引き受けるようにしている。
「ところで、何かあったの?」
「いえ、大丈夫です」
「そう? 何か相談したいことがあったら、遠慮なく言ってね」
また、ありがとうございます、と答えて、あさひは貸してもらっている部屋へと向かった。六畳間で、家を出るまで五島が使っていた部屋だと説明を受けている。今のところカラーボックスとミニテーブルぐらいしか家具がなく、絶賛殺風景だが、あさひはあまり気にしていなかった。屋根があって壁があって布団があって、急に怒鳴られたり殴られたりせずに安眠できる幸せ、というのを初めて実感できたのだから。
あさひは部屋の中央に座って、しょうこのことをもう一度考えた。信頼していて、大切にしたい人で、できれば笑っていてほしくて……。
帰宅したしょうこは自分の部屋で、今日あったことを思い返していた。裁判のことやあさひのこと、そして、自分の将来のこと、だ。
しょうこはあまり、自分の将来について考えたことがなかった。しょうこにとって将来というものは、漠然とした靄に包まれたもので、できれば直視したくないものであり、できれば「誰かがそこから連れ出してくれないかなあ」と思ってしまうものだった。
だけど、今、葉山の言葉を受けて、しょうこはその靄を頭に思い浮かべた。先の見えない灰色の靄。それを見ていると、不意にそれが晴れ、幾筋もの道が浮かび上がる。そのうちのひとつが、不意に眼前に迫ってきて……。
その先に、さとうがいた。でも、しょうこが知っている姿よりもずっと幼い。怯えた表情で、泣きじゃくっている。
助けなきゃ。
でも、どうやって? どうやったら、助けられる? 何があればいい?
そのとき、携帯が鳴り響いて、しょうこは我に返った。携帯をカバンから取り出し、確認する。あさひからだった。
「はい、もしもし」
「あ、しょうこ? ちょっと話せるか?」
「うん、いいよ。というか、そっちは大丈夫なの?」
「バイトは九時から五時までなんだ」
「そっか。で、どうしたの?」
尋ねると、あさひは黙ってしまった。しょうこは電話口で、もう一度話し始めるのを待つ。すると……。
「今日、しょうこが店に来たとき、近江さんが『あんな可愛い彼女がいるんだから、大事にしろよ』って言ったんだけど……」
「わわわわわっ! そ、それ、言ったのは私じゃない! なんか葉山さんが勘違いしてて!」
しょうこは恥ずかしさのあまり、ベッドの上にうずくまった。
「やっぱりあいつか……」
「あ、でも、悪気があるわけじゃなくて! あさひが必死で私を助けようとしたの見て、そう誤解しちゃっただけみたいで!」
なんだろう。自分が何を言っているのかもよくわからない。あせればあせるほど、妙な言葉が出てくる。
「もちろんあさひの彼女になれたら嬉しいけどっ! でもあさひ今それどころじゃないしっ! って、こういうことを言いたいんじゃなくてっ!」
「あ、あの……しょうこ、一度落ち着こう?」
電話の向こうから聞こえるあさひの声も上ずっている。しょうこは息を深く吸って吐き出し、なんとか気持ちを落ち着けた。
「う……ごめんなさい」
赤面するのは本日これで何度目だろうか。こんなに赤くなったら、もう顔が元に戻らなくなるのではないだろうか。恥ずかしさのあまり、思考が明後日の方向に行ってしまったしょうこは、そんなことを考えた。
「あ……うん。で、俺は、バイト始めたばっかりだし、いろいろ考えないといけないこともあるし、恋愛とかつきあうとかもよくわからないし、けど……しょうこのことはものすごく大事に思ってる」
「え……」
あさひの言葉が、その意味が、胸の中に染みわたっていく。
「俺は、しょうこのことが好きだ。でも、今の状態じゃ、ダメなんだ。だから……俺がもっとちゃんとできるようになるまで……その、待ってもらっても、いい?」
そのときの気持ちを、どう言い表したらいいのだろう。恥ずかしくて、嬉しくて、胸の奥が熱くて、泣きたくて、笑いたくて。とにかく、無茶苦茶だった。
だから、答えは決まっている。
「うんっ! 待ってる!」
あさひとの通話を終えたしょうこは、携帯をぎゅっと握り締めた。そして、ひとつの決意を胸に抱き、両親と話し合いをするために、部屋を出た。やりたいこと、やらなくてはならないこと、自分の生きていくために必要なそれを、手に入れるために。
次で最終話の予定です。