6月5日 火曜日 8:17 東京都千代田区有楽町2丁目 ルミネ有楽町地下一階
赤ん坊の泣く声で、うつらうつらとまどろんでいた倉嶋は目を覚ました。
しばしの間、自分が置かれた状況が把握できなかったが、ほとんど闇の店内と蒸し風呂のような淀んだ空気、そしてそこに身を固めてうずくまる50名ほどの人々を見て、昨日からの出来事を思い出した。
あれから、とにかく逃げ込めるだけの人々をルミネに詰め込み、店舗の地下一階、なるべく気密性の高そうなカフェに避難したのだ。
最初こそ優に100名はいたと思われる避難者も、フロアを替えたり隙を見計らって脱出を計るなどしてカフェを出て行った(外へ逃げ延びた者たちがどうなったかはわからない)。
どうやら外にのさばるカマキリたちは建物への侵入はいまのところ確認されず、あとは匂いや音などに反応するかもわからないため、非常扉をしめ、扉という扉にバリケードを敷いた。
カフェということである程度の食料やボトル詰めの飲料などは用意されており、当初は籠城戦も上手くいくものと思われていた。
だが空調の止まったビルの中はただでさえ猛烈な熱波に加え、人々の呼気や熱などで瞬く間にうだるような暑さとなり、飲料は予想より早く底を突きつつあった。また暑さと極度の緊張のため、体調を崩したり歯の痛みを訴える避難者が続出した。
数寄屋橋交番の班長・中村を始め、寺田巡査長、倉嶋の3名は、この状況下でも法の執行者、番人としての職務を果たしていた。
高齢者や女性、子どもを中心に飲食料を配布したり、体調不良の者を献身的に介抱した。やがてビルの警備員も加わり、少なくとも異常な環境下、秩序は辛うじて保たれていた。
だが、過酷な環境に耐えられないのか、赤ん坊は明け方頃からむずかるようになり、母親に対し辛らつに当たる避難者を諫めるのに難儀していた。
いつ、皆の不満や不安が暴発してもおかしくはない状態だった。
かくいう倉嶋自身も、ストレスのたまる暑さ、いつまでこのままなのかという先の見えない不安、何より、カマキリにやられた高田を始めとする人々の悲鳴が耳にこびりつき、理性が崩壊する懸念は大きかった。
願わくば、すぐにでも救援が来てくれないだろうか。無線も携帯電話も繋がり、照明も復旧し、人々が安心できないだろうか。警視庁のSATでも自衛隊でもなんでもいい、外にいるカマキリのお化けたちを退治してくれてはいないだろうか・・・。
「倉嶋」
班長の中村が、コップ半分の水を差し出した。
「班長、すみません。少しボーっとしてしまって」
「いいんだ。こういうときでも、交代して少し休もう。幸い、ここの警備員たちも協力してくれてる」
倉嶋自身も何度か経験あるが、警察官、または警備員の制服を着ている者は、こういうときとても頼られるのだ。
オレたちの仕事なのかな・・・そんな顔をしながらも、警備員たちは避難者の要望に何とか応えようとしてくれる。ありがたいが、なお率先して自分たち警察官が行動しようということになったのだ。
「班長、このままいつまで、こうしていますか?」
不安な気持ちを少しでも掃き出したかった。
「何ともわからんが・・・。さっき寺田と話してな、少し外に出て、状況が変わってないか、救援や避難の糸口がないか、探ってみようかって」
「危険、ではないですか?」
「まあな。だがもう一晩明けた。相変わらず電気も無線も使えないが、政府が動いて、カマキリ排除の方策を打ってるかもしれん」
そう言うと、中村は自身の拳銃、S&Wエアーウェイトの弾倉をたしかめた。
「昨日避難するとき、オレは2発、寺田は3発カマキリにお見舞いした。倉嶋は?」
「私は、まだ全弾残ってます。発砲してません」
「とはいえ3人合わせても10発、予備もない。築地か丸の内署まで行ければ、武器の補充ができるものだがな」
そのとき、避難者の男性が奥からやってきた。
「すみません、あっちの階段下から物音がします」
指さす先は、地下鉄有楽町駅の出口だった。
中村と倉嶋は様子をうかがいに向かう。
「わずかに、音がしますね」
「ああ。地下鉄も停止してるらしいんだが・・・」
中村は寺田を呼びにいった。
「様子を見てきます。なるべく階段から離れててください」
倉嶋は警備員にそう伝えると、中村の後に続いて少しずつ階段を降り始めた(寺田は避難者をなるべくフロア中央に集めている)。
中村に倣い、倉嶋も拳銃・S&WM37を抜いた。必要とあらばいつでも発砲できるように、右手で拳銃を掲げる。
とはいえ射撃訓練以外、拳銃を扱ったことはなかった。警察学校での射撃成績は中の上だったが、「現場での発砲はこうはいかないからな」という教官の言葉がいまさらながら理解できた。
この緊張下、まともに当てることなどできるだろうか。
中村は左手でペンライトを照らしつつ、地下鉄ホームを探索した。スマホや無線は使えないが、懐中電灯など簡易な電子機器は使用できた。どうやら、電波が出てるか否かで異なるようだ。
建物内に避難したとき、地下鉄ホームへの立ち入りは避けるようにした。都内を網の目の如く結ぶ地下鉄のほうが、例のカマキリが入り込みやすいと想定したためだ。
中村と倉嶋は足を止め、耳をすました。
なるほど、銀座一丁目駅方向からざわざわと音が聞こえる。中村はペンライトを消し、壁に背を当てて様子をうかがった。
聞こえてきたのは、線路を歩いているのだろうか。枕木を叩くような音だ。
「人かどうかわからない。オレがまず声あげるから、お前ここでバックアップしろ」
倉嶋は無言で頷いた。顔に汗が浮かび、口の中が乾くのがわかる。
(やだ、あとで口臭ケアしなきゃ)
こんなときでもそんなことを気にした自分が、妙に可笑しかった。
音はだいぶ近くなっている。漆黒の闇の向こう、少しの灯りが見えた。
「人か!」
思い切ったように中村が大声をあげた。「うをっ!?」という素っ頓狂な声が返事だった。
中村はペンライトをつけ、先に見える灯りに向けた。20メートルほど先だろうか、ズボンとベルトが見えた。
「おーい、人だ人!」
ライトを当てられた先頭の男が声を上げた。「あんまり大声出さないほうが」隣からやや年配らしき女性の声がした。
「警察だ、警視庁数寄屋橋交番の中村だあ!」
声を張り上げ、中村は近寄っていく。緊張によるだけでなかった。過酷な緊張状態の中、生存者と会えた喜びも含んだ声だった。
「警視庁数寄屋橋交番の倉嶋です」
近寄ってから倉嶋も名乗った。10名強だろうか、手にバールや鉄パイプなどを持った一団だった。
通常なら職務質問対象だが、なぜ武装しているのか、訊くまでもなかった。
「良かった、おまわりさんだ」
先頭の背後にいる青年が安心したように言った。高校生だろうか、制服に身を包んでいる。
「みんな、どこかから逃げてきたのか?」
そのころには、中村の声のトーンもいくらか落ち着いてきた。
「ええ。オレたち京橋辺りからきたんです」
先頭の男性が答えた。
「おっきいカマキリに追いかけまわされて、ビルの地下に逃げてたんです」
隣の中年女性も答える。
「明け方まで、ビルの地下にいたんだけど、信じられますか、カマキリが溢れ出してきて・・・」
先頭の男性は額に汗を浮かべていた。「と、とにかく線路から上がっていいか?」
どうにか全員がホームに上がり、その場にへたり込んだ。
「少し休ませてくれよ。もう、いつ電気復旧して線路に電気流れるかハラハラしながらきたんだよ。もう胃がこみ上げてきそうで」
大きく息を吐き、男性は苦笑いした。
「おまわりさんたちも、カマキリ見ましたか?」
高校生の少年が訊いてきた。
「ああ。我々も見たよ。同じように、ここの地下に避難してたところだ」
やっぱり、と少年は頷いた。
「警察なら、情報わかる?いったいどうなっているの?」
中年女性が立ち上がり、訊いてきた。
「すみません、我々も詳しいことはわからないんです。警察無線も、携帯電話も通じない」
安心から一転、嘆息が一団に立ち込めた。
「でも、オレたちだけじゃなくあっちこっちでカマキリ騒ぎになってるってことだよな」
先頭の男性が息を整え、立ち上がった。
「正確な範囲はわからんが、君ら、京橋と、こっち有楽町は、少なくともそういうことだね」
「おまわりさん、すまん。余裕があれば、オレたちも一緒にいさせてくれないか。みんな喉が渇いて干からびそうなんだ」
先頭の男性には十分な説得力があった。顔はもちろん、服も汗でビシャビシャだったからだ。
「ああ。なんとかなるだろう。とにかく上へ。ここじゃいつカマキリが来るかわからないからな。みんな、動けますか?」
だいぶ疲れてはいるが、一団は全員立ち上がった。
「おい、それはいったい?」
先頭の男性が手に持っているのを不審に思った中村が訊いた。
「殺虫剤。これでカマキリを何匹かやっつけたんだ」
「そんなものが効くのか?」
「それがけっこう効いたんだ。小さいのはもちろんだけど、昨日なんかオレの背丈くらいはあるヤツがくたばった」
感心したように頷く中村に、倉嶋は声をかけた。
「班長、1階にマツモトキヨシがあります。あそこに殺虫剤あると思いますけど」
「・・・そうだな。あとで行ってみるか。何本使ったか、きちんと把握しておこう」
こんなときでも、中村は律儀だ。
「まあ、みんなとにかく上へ」
中村が促す。ふと踵を返し、先頭の男性に声をかけた。
「殺虫剤のことを含めて、あとでいろいろ話を訊きたい。あなた、名前は?」
「近藤です。近藤悟」
「職務上訊くけど、身分を証明するものは?」
近藤と名乗る男性は頷くと、運転免許証と名刺を出してきた。名刺には何の肩書もなかった。
「これ、名前だけしか書かれてないけど、近藤さん、職業は?」
「フリーのジャーナリストで、まあ、警察の厄介になりかねない取材ばっかりだから後ろめたくてさ」
中村と倉嶋は顔を見合わせた。犯罪ジャーナリストでもしてるのだろうか。
だが、飄々としてつかみどころのない辺り、案外その通りかもしれない。