・6月5日 火曜日 12:07 東京都千代田区永田町 首相官邸
4階廊下にある液晶温度計は、36℃を示していた。
うだるような空気の中、どうにか熱中症の症状が緩和されたSPを起こし、瀬戸と望月、3人のSPは4階の閣議室、執務室を探索して回った。
だが、通常職員の詰めているはずの執務室はおろか、どこにも職員の姿は見受けられなかった。
異様なのは、慌ててどこかへ逃げ出したような形跡があることだ。床には書類が散乱し、呑みかけの湯飲み茶わんがそのままにされている。
「どうだろう、他の階を探索してみては」
瀬戸の提案に「そうですな・・・」と浮かない顔で応える望月。
実は、SPを安静にさせつつ、自分たちも休息を取っていたとき、下の3階から何やら物音がしていた。そのときに確認しに行っても良かったのだが、SPの容態が不安定だったことに加え、状況が皆を尻込みさせた。官邸に何者かが侵入したことが充分想定されたからだ。
ふと、閣議室から物音がした。何かを削るような、ガリ、ガリという音が不気味にこだまする。
3人のSPは瀬戸と望月を囲み、三角形の陣形を組んだ。ホルスターから拳銃、H&KP2000を引き抜き、様子をうかがった。
先頭のSPが手で瀬戸たちを制し、ゆっくりと閣議室に近づいた。ドアをノックし、「誰か、いますか」と声をかけた。
返事はない。相変わらず奇妙な音が聞こえてくるばかりだ。
意を決したようにドアノブを回し、銃口を部屋の中へ向けた。それと同時に、派手にガラスが割れる音がして、突入せんと身構えていたSPは「はひゃ!」と甲高い悲鳴を上げた。
「どうした?」
瀬戸が訊くまでもなかった。腰を抜かして尻餅をついたSPを仰ぐように、中からカマキリが姿を現した。だがその大きさは、大柄なSPを上回っていた。廊下に頭を突き出したその大きさは、2メートルは優にあるだろうか・・・。
「ああああ!」
どうにか態勢を立て直して背を向けたSPに、カマキリは右手の鎌を降るった。黒のジャケットが切り裂かれ、鮮血がワイシャツを染め上げる。
瀬戸を塞ぐように若いSPが立ち、躊躇なく拳銃を放った。一発目は腹部をかすめただけだったが、二発目は腹部の真ん中を撃ち抜いた。
苦しみのけ反るカマキリに、もう一人のSPも引き金を引いた。腹部に頭に銃弾を撃ち込まれ、やがてカマキリは動かなくなった。透明な液体があふれ出て、床にじわりと広がる。
「大丈夫ですか?」
負傷したSPに駆け寄った若いSPは、開け放たれた閣議室の中を見て目を見張った。割れた窓ガラスから、先ほどより小さいカマキリがわらわらと侵入してきている。
「しっかり!」
瀬戸は負傷したSPを起こし、肩に手を回した。閣議室のドアを乱暴に閉め、「とにかく、離れよう」と階段へ向かった。
2人のSPが両側に立ち、周囲を見渡しながら階段を目指す。背後からバタン、という音がする。先ほど倒したカマキリと同じくらいの大きさの個体がドアをなぎ倒し、廊下に侵入してきたのだ。続くように、小さいカマキリの群れがあふれ出した。
「下へ!」
望月が叫んだ。地下1階の危機管理センターなら、扉も頑丈なことを思い出したからだ。
幸いカマキリの群れは、動かなくなっている個体に群がり始め、瀬戸たちに興味は示していないようだった。
「うわっ!」
先導していた若いSPが、3階廊下に達したときに叫んだ。何事かとSPの視線を追った瀬戸と望月もわが目を疑った。
3階の廊下が文字通り血で染め上げられ、官邸の職員が何人か倒れていた。だがその姿、およそ人間の姿を保っておらず、剥き出しの筋組織から、血に染まった骨が飛び出している。
その職員たちに、子犬ほどのカマキリが数匹群がり、残った肉体を貪っていた。
先ほど3階から聞こえていた物音の正体に戦慄しつつ、断腸の思いで瀬戸は先を進むべく皆をうながした。
「あ、あれを」
今度は望月が、階段から見える窓の外を指さした。
ガラスの向こうにそびえる国会議事堂の尖塔に、カマキリが2匹、張り付いていた。
だが問題はその大きさだ。国会議事堂の尖塔はおよそ10メートルと聞いている。ということは、あのカマキリは10メートルはあるということに・・・。
瀬戸は自衛隊の行動要件を頭の中で思い起こしていた。だが即座に、どことも連絡が取れない状態なのを思い出した。
度重なるショッキングな光景に心折られそうになるが、とにかく地下一階を目指した。
危機管理センターの自動ドアは完全に停止していた。鉄製のため、中の様子はうかがえない。
それでもSPがドアを叩いた。誰か出てきてほしい、ここにいるのが我々だけだなんてごめんだ―彼だけでなく、5人全員が願っていることだった。
ガチャリ。壁際のドアが開いた。官邸の職員が驚いたようにこちらを見ている。やがて「総理です!総理です!」と中に駆け込んだ。
ややあって、ドアから菊池内閣危機管理監が顔をのぞかせた。
「総理、よくぞご無事で!」
「菊池君、とにかく中へいいかな?彼が負傷している」
大きく頷くと、瀬戸たちは中へ通された。照明が機能せず薄暗いが、乾電池使用の非常灯で確認できる人員は20名ほどだろうか、各省庁から出向している職員を中心とした面々は瀬戸と望月を見るなり、全員が起立して頭を下げた。
背中を切り裂かれたSPに、何人かが駆け寄った。
「みんな、よく無事でいてくれた」
全員に聞き渡る声で瀬戸が言った。
「菊池さん、状況はいかがですかな?」
望月が訊いた。
「はあ。現在に至るまで、官邸のあらゆる通信機能は断絶状態です。残念ながら、状況把握すらできていません」
「警視庁、防衛省は、どうかね?」
今度は瀬戸が訊いた。状況が可能なら、そのまま自衛隊の出動を命じるためだ。
「防衛省とも連絡がつきません。今朝7時、警視庁から出向している職員が直接連絡を取るべく出ていき、先ほど戻って参りました。ですが・・・警視庁でも、我々と似た状況で、都内の情報収集すらままならないようです」
「・・・3階で職員が犠牲になっていましたが・・・」
沈痛な面持ちで望月が口を開くと、菊池は目を伏せた。
「昨日の夕方です、官邸の全電力が落ちてしまい、確認のため奔走していたときに飛び込んできたのです、私は直接目撃しておりませんが、数十匹はいたそうです。総理、まったく信じられないかもしれませんが・・・」
「いや、私も同じだ。カマキリに襲われた」
瀬戸は応急手当てを受けているSPを見やった。タオルで止血すべく背中を圧迫され、顔をしかめている。
「慌てて地下への避難を呼びかけましたが、時すでに遅く、確認できただけで10数名の職員がやられました」
菊池はうなだれたまま、しぼり出すように言った。
「国会は?閣僚や議員との連絡は?」
「議事堂とも、連絡がつきません。やはり午前のうちに人員を派遣しようとしましたが、国会前に大型のカマキリが数匹、確認されたため・・・」
「いや、それでいい。無理に動くことはない」
情報が乏しすぎるのは歯がゆいが、なお瀬戸はそう言って菊池の肩に手を置いた。
「総理」
望月が近寄り、ややトーンを落とした声で説明を始めた。
「状況から、我々は消息不明、安否不明、ということになっていると考えられます。まあいわば、権力の空白が日本に生じている状態ですな」
瀬戸も密かに考えていたことだった。
「都内のどこまでこの状態が広がっているかは不明ですが、日本政府としての意思が存在しない以上、我が国は・・・・」
望月は静かに口をつぐみ、目をつむった。
・同時刻 大阪府 大阪府庁舎
「わかりました、よろしくお願いします」
電話を切ると、町田は知事の面々に向き直った。
「練馬の東部方面隊とコンセンサスが取れました。ただちに作戦内容を立案、遅くとも本日中に実行に移すとのことです」
知事の面々は神妙に頷いた。
「確認するが、そこまでは知事による“要請による出動”の範囲なのですね?」
原田が念を押すように訊いた。
「正直申し上げて、解釈次第です。現状では、越権行為スレスレです」
町田は頭を下げた。まるで自衛隊代表だな、という小林のぼやきが聞こえた。
「さておき、諸外国へはどうやって説明すれば良いのやら・・・」
原田は顔をしかめた。先ほど、大阪にある在日本米国総領事館より、「国連安保理による東京への核攻撃実行」に関する説明の電話があったばかりなのだ。
「あのう、やはり、大阪の総領事に伝えるのが一番では・・・」
相変わらず遠慮がちに侭田が口を開いた。
「でしょうなあ。事実上、あそこがアメリカとの外交的窓口だ」
小林が腕組みをしたまま、天井を仰いで言った。
「とにかく、いまは自衛隊に頼る他ありません。危険な作戦になると思いますが・・・」
原田は町田を仰ぎ見た。
「やるほかないんです。状況が見えない中で、正確な判断は下せません」
町田が言い切る姿は、知事というより自衛隊員のようだった。
FAXが届きました、と府の職員が入ってきた。陸上自衛隊東部方面総監部からだった。知事たちに渡されたコピーには『都内停電に対する状況把握及び情報収集の為の第一空挺団による東京降下作戦』と銘打たれていた。