・7月5日 金曜日 11:17 東京都千代田区大手町1丁目 気象庁3階 予報部
週末に行われる、気象庁各部局の上級職員級会議の途中で呼び出され、予報課長横山新二はエレベーターを降りると、3階にある予報課の部屋へ急いだ。
通常、マグニチュード4以上の地震、もしくはいわゆる突発的なゲリラ豪雨などの緊急事態発生でもない限り、会議を抜け出すなどということはない。
始めに部下からもたらされた情報には、驚くというより首をかしげるばかりだった。
『今朝フィリピン沖に発生した台風7号が、速度を増して日本に接近している』
ここまでは、特段何の違和感もなかったが、続けて書かれたメモには『台風の中心点が観測できない、極めて特異な現象』というのは、理解に苦しんだ、。
予報課へ戻ると、大型のモニターにはフィリピンから台湾南部に近づきつつある台風が映し出され、その下で部下である職員たちがパソコンや電話に向けて口泡を飛ばしていた。
「おつかれさまです。会議中にもうしわけありません」
主任予報士の島崎が寄ってきた。
「うん。状況は?」
「はい。台風7号、通称‛シェンロン’は、10時現在で台湾島沖合350キロ地点を北西へ時速50キロで移動中。中心気圧の観測不能、なお周囲の気圧のみでー」
「ちょっとまて」と、横山は島崎の報告を遮った。
「さきほどのメモも気になったが、中心気圧の観測ができないなどということがあるのか?」
「はい・・・気象情報課に何度もたしかめましたが、気象衛星からはっきりとその姿が確認できているにも関わらず、中心の特定が困難であるため、中心気圧の測定ができかねる状態だと・・・」
「はて・・・?」と首をかしげる横山に、島崎は報告の続きを読み上げた。
「続けます、周囲の気圧のみで897hPa(ヘクトパスカル)、勢力を保ったまま日本への上陸が考えられます」
「おい、897hPaだって?」
「僕も間違いだと思いましたが、事実なのです。日本近海に発生した台風では、少なくとも21世紀に入り最大、記録が残る上での比較でも歴代最大級の台風です」
「バカな。この経度で900を下回る勢力など考えられない」
黙った島崎の目は、同意するが理由がわからないと訴えていた。
「課長、30分前に、米海軍の気象観測機が、フィリピンのドゥテルテ基地を発進しています。間もなく連絡があると思いますが、より詳細が判明するものと思われます」
デスクを立った島田が、メモを読み上げながら勢いよく寄ってきた。
「岩田、国交省と官邸に連絡だ。それから相笠、急いで予想進路をはじき出せ」
部下たちに指示をして、横山は顎に手をやった。この勢力では、最大瞬間風速は60メートルにも達し、1時間当たりの雨量も300を上回ることは必至だ。5月末に長崎を襲った観測史上最大の豪雨すら軽く飛び越えてしまう。その場合の被害は如何ばかりとなるか・・・。
「米軍ドゥテルテ基地からです!」
席に戻った島田が声高らかに言った。
「観測機、台湾沖470キロの海上で消息を絶ちました!」
横山を始めとする全職員が色めきだった。
「まさか、暴風域に巻き込まれたのか・・・?」
「それは考えられません。暴風域から200キロ近く離れた地点からの観測です、いくらなんでも・・・」
口々に、職員たちが意見を言い出した。突発的なダウンバースト、あるいは単に機器の故障では・・・喧騒の中、横山は大画面のモニターに注目した。
「おい、誰だ?こんなときに過去の台風の動きなんか表示させた奴は」
台風が渦を激しく巻き込みながら、台湾沖から一気に本州はるか南方へと移動する様子が映し出された。
「・・・課長、これは過去の映像ではありません」
言葉を発せず、横山は顔を向けた。
「現実、リアルタイムの様子です」
「台風7号、速度を急速に上げて本州へ接近・・・ありえない、時速800キロを上回ってます」
冷たい汗が背筋を流れていくのを、横山は感じた。
・同日 11:24 愛知県常滑市セントレア1丁目 中部国際空港
浜名湖の旅館を出て、1時間ほどで空港へ到着した。
またの再会を近藤と誓い、ジョージはパジェロを降りた。
ここからデルタ航空のデトロイト行きへ搭乗、デトロイトで乗り継ぎ、自宅のあるニューヨークへ戻るのだ。
実に3カ月ぶりの帰宅だった。これまでもシベリアの取材は短くとも1カ月はかかるものだが、今回はシベリアから国後へ渡った上、ひと悶着の末伊豆に身を隠していたこともあり、余計に長引いてしまったのだ。
ロシア、特にシベリアには愛着があったが、今回の件で、再入国は不可能になったことだろう。そもそも、非合法的に出国したため、入国記録のみしかデータにないはずだ。次回入国時に身柄拘束は免れまい。
こうなると、またゴーゴリじいさんの筋を使って『静かに』お邪魔する以外にないかもしれない。
ジャガイモのコンテナの底、もしくはシベリア鉄道の機関室に閉じこもって入国・・・まあ、悪くないかとひとり笑い、ジョージはデルタ航空のカウンターへ向かった。
浜名湖を出た際はよく晴れていたが、何やら雲が湧き出てきた。灰色の空はいまにも泣き出しそうだ。離陸の際、いつも以上に耳を傷めてしまうだろう。
出発まで時間はあったが、早めに出国し、搭乗制限区域内にあるデルタ航空のラウンジで過ごすことにした。ここのラウンジのうどんは、なかなかイケると近藤の太鼓判が押されているのだ。
搭乗手続きを済ませて外をうかがうと、雨粒がガラスにへばりつき始めた。どうやら降り出したらしい。それも横殴りの雨だ。
さっきまでよく見えていた滑走路もかすみがかり、熱い湿気がガラスを曇らせた。
『ご案内いたします。ただいま、上空の天候が不安定なため、すべての発着便の運航を一時停止させていただきます。お客様のご理解とご協力を・・・』
日本語に続いて、英語、中国語、韓国語のガイダンスが流れる。
やれやれ、とジョージはかぶりを振った。どうやら日本は自分を帰したくないらしい。
まあ、いざ欠航となれば、また今夜近藤と飲みに行けば良いだけだ。
だがそんな楽観的観測は即座に打ち砕かれた。雨脚が一層激しくなり、おまけに小石大の雹が雨に混じって降ってきた。ものすごい音がフロア内に響き、皆ガラスの向こうを凝視した。
雹はガラスを割らんとするような勢いで、横から叩きつけられる。
一瞬フロア内に閃光が走った。ざわめきが上がり、空港内の誰もが足を止めた。
雷だろうか、豪雨と雹が降る先に、まぶしい光が走る。
風が強くなってきた。これは、今日中の出発はもう無理だが、連絡しても近藤は来てくれるだろうか、いまのうちに空港内のホテルを押さえてしまうべきか・・・などと考えていると、4階でガラスが割れた。
風の勢いでフロアにガラスが散らばり、猛烈な風が吹き込んできた。
悲鳴を上げ、強風から逃れる人たちが階段の下へ駆け出していた。
滑走路では地吹雪のように水が巻き上げられ、雷がより激しく雲から放たれてきた。
そのとき、ジョージは異変に気が付いた。激しい稲妻が天から落ちてくるものと思ったが、どこかから放たれた稲妻は横、斜めにも突き刺すように走るのだ。
はるか上空の雷雲でならわかるが、こんな地表近くでこれほどの現象がみられるのは考えられない。しかも稲妻が落ちた海面は、まるで水が吸い上がるように天へと飛沫を上げている。
再び閃光が空港を包み、まぶしさに皆目を覆った。
直後に轟音が響いた。ガラスの向こう、滑走路上で停止していた機体が爆発したのだ。しかもその破片が、空に落下するように天へと昇っていく。
稲妻が滑走路を舐め、路面が爆発的に引き剥がされた。
やがて雲の中から、何かが姿を現した。絶え間なく稲妻を発し、そのうちの一筋が空港ターミナルビルへと這ってきた。
ジョージは全身が、そして周囲が黄金に包まれたように感じた。神々しさと恐怖が綯い交ぜになった。
稲妻ばかりではなかった。それを発する存在が、黄金に輝いていた。まぶしく美しい輝きはしかし、死神や悪魔の光に思えた。
甲高い咆哮が空港を震わせた。全身像が露わになり、一気に近づいてきた。
「神様・・・」
無意識にジョージはつぶやいた。足場と共に、身体が浮き上がるのがわかった。
・同時刻 愛知県名古屋市中区三の丸3丁目 愛知県庁舎7階 知事室
午後の県議会に関して秘書から説明を受けると、少し休憩させろと、小林は皆を部屋から出した。
ついさきほど、東京から戻ったばかりだった。
大澤に首都機能移転を持ち掛けたところトントン拍子に話が進み、愛知県選出の議員連盟と懇談の時間を急遽設けられた。
議員連盟にも反対者はいなかった。
「一度は都市機能が半身不随になった東京でも大阪でもない、愛知にこそ首都機能を移すべきだ」
「地元への経済波及効果、雇用創出の観点からも、誘致に向けて議論を深めよう」
まあ、大澤の名前を出した刹那の議員連中の乗り出し具合は見事であった。
これで首都機能の愛知移転が現実化すれば、今後も知事職に就こうが就くまいが小林の名声は100年先まで残ることだろう。
増してや知事から国政進出ともなれば、表裏ともに小林へ流れつく利権は莫大なものになること請け合いだ。
そのときを想像して含み笑うと、小林はテレビをつけ、メーテレにチャンネルを合わせた。ちょうどローカルの情報番組が天気予報を伝えていた。
『それでは、お天気コーナーです。須田さーん!』
『はーい松井さん!こちらメーテレ屋上ライブカメラでーす!』
元気のよい女子アナウンサーから、天気図に映り替わった。
『まずは台風情報からです。昨夜発生した台風7号は、勢力を強めながら北西へ移動しています。気象庁からの情報によれば―』
相変わらず、元気よく呑気に深刻なニュースを読むものだ、小林は天井をあおぎ、目を閉じた。
『えっ・・と、ここで新たな情報です。台風7号が急速に発達し、日本へ向かうとの情報が寄せられました』
屋上の女子アナに原稿が手渡され、口元から笑顔が失せた。
『この台風は、つい先ほど猛烈な速さで北上を開始、このコースを辿った場合、日本の本州を直撃する可能性があります。進路予想上の地域では、厳重な警戒を―』
読み上げる脇が何やらやかましくなり、突如テロップが切り替わった。
【国民保護に関する情報】
小林がテロップに釘付けになったと同時に、スタジオのアナウンサーが強張った声でしゃべり出した。
『えーここで、国民保護に関する情報が政府より発令されました。愛知県、三重県、静岡県にお住いの方は、身の安全を最優先に、落ち着いて行動してください!』
併せて、【正体不明の飛翔体接近】というテロップがかぶさった。
ふと、空が暗くなり、小林は外を仰ぎ見た。空に墨を垂らしたように一気に黒雲が広がり、南の方角では激しく雷が四方に走っていた。
部屋が小刻みに揺れ出した。
『えー、ここメーテレのスタジオも揺れています。地震でしょうか、ただいまスタジオが揺れています』
アナウンサーの声が上ずり出した。南の方角では、地面から何かが舞い上がっている。そして波のように、こちらへ向かいつつあるのがわかった。
『松井さーん、こちら屋上の須田です!たったいまこちらから、南区に爆発的火災が広がっていくのが見えます!火災・・・火災が空に昇っていきます!』
カメラが切り替わり、メーテレの屋上から様子を映した。無秩序に稲妻が走り、直撃した部分が砕け、舞い上がっていく。そしてその絶え間ない稲妻が、猛烈な速度でカメラに迫ってきている。
『稲妻が!稲妻が名古屋を!』
アナウンサーがカメラを向いたとき、画面いっぱい黄金にかがやき、画面がブレた。悲鳴が上がり、カメラが回転しながらも、一瞬はるか遠くの地表と、黄金の光の中を吹き飛ばされていくアナウンサーを捉えた後、画面が切り替わった。
『えー、スタジオも揺れています!ただいまメーテレは』
直後、一瞬で中継が途絶え、『停波中』のメッセージが流れた。
小林は慌てて外を見た。数秒でバケツをひっくり返したような雨が降り、その向こうで炎と瓦礫が吹き飛ばされるのが見えた。黄金の光に照らされ、名古屋テレビ塔が根元から空に巻き上がり、空中分解していく。
恐怖と不可解さで小林は大口を開けたままその様子を見つめていた。横殴りの雨が県庁舎に叩きつけられ、その向こうの空に何かが見えた。
天を覆わんばかりの巨大な翼、二本の足に、二本の尻尾。腕がなく、首が三本。その三本の首、もとい口から続けざまに稲妻が吐き出されている。
周囲が黄金に照らされ、県庁通りの車両も街灯も樹木も人も、地面から引き剥がされている。
小林の眼前に、稲妻が飛び込んできた。
・同時刻 静岡県浜松市南区江の島町 サーファーショップ「M-SURF」
「お前ら気をつけていけよー!」
今日は休講だからとやってきた地元の大学生たちを送り出すと、店長の槙島は淹れたてのコーヒーをカップに注いだ。
今日は朝から快晴で波も穏やかなためか、平日にも関わらず客足が多かった。8時開店は名ばかり、たいていこういうときは顔見知りのサーファーに6時頃から電話でたたき起こされ、店を開けてしまうことはしばしばだった。
それでも昼前には客足がようやく落ち着いた。おそらく12時頃に食事を摂りに戻る最初の波乗りたちのボード回収があるだろう。その間の貴重な休憩時間だ。
槙島はカップに口をつけ、雑誌を手にした。どの媒体も、猫も杓子も1カ月前のゴジラ、ガイガン騒ぎの記事ばかりだ。
来月には、ここ浜松でサーファーの競技大会が開催される。市の商工会の一員としても、こちらの方を大々的に報じてほしかったのだが、いい加減うんざりだ。
地元紙である静岡新聞のスポーツ部に同級生がいる。そろそろ電話して、こっちの話題を取り扱ってくれるように頼んでみるか―。
「すみませーん」
女子二人組が入ってきた。
「あのう、ここの常連で、圭大くんてコの紹介で来たんですけど」
休憩時間がなくなったのは惜しいが、なかなかかわいいコたちだ。槙島は顔がほころんだ。
「いらっしゃい!サーフィンは初めて?」
「はい」
早速二人に合いそうなボードを手に取ろうとしたとき、ボードが小刻みに揺れた。同時にスマホが妙な音を出した。
気のせいかと思ったが、再び揺れた。今度はボードだけではない。店全体が揺れたのがわかった。
「ちょっとこれ」
「台風?」
女子二人の会話にピンときた。
「なに台風?」
「なんか、こっち来てるって」
槙島は舌打ちした。あわよくば、このカワイ子ちゃんたちに午後は特別レッスンしようかと思っていたのに・・・。
ここから見える沖合も、波が高くなりつつあった。何人か海から上がって来るのが見える。
また地面が揺れた。続いて、地面が何かを引きずるような音がした。
「なんか、さっきから変じゃない?」
女子の片割れがつぶやいた。揺れが強まり、遠くの海面が割れるように揺れるのが見えた。
「ねえ、国民保護情報ってなに?」
そんな女子の声も、槙島には聞こえなかった。大きな横揺れの後、海面が盛り上がった。
怒号が響いた。動物の鳴き声だろうか。槙島が耳にしたどの鳴き声よりも大きかった。
大きな波が四方に立ち、ゆっくりと盛り上がる何かが見えた。
槙島も、女子も、完全に固まっていた。
波打ち際で、何人かのサーファーが波に呑まれたのが見えても、身体が動かなかった。
「・・・ゴジラ?」
女子がつぶやいた。大きな黒い獣が、再び咆哮を上げて、こちらへ向かい始めた。
波から逃れたサーファーが、絶叫しながら走ってきた。
「あれ、ゴジラって、神様だよね?」
「はあ?」
「救世主?だっけ?Twitterで言ってたよ」
女子の会話が耳に入ってきた。言葉こそ出なかったが、槙島はとてもそうは思えなかった。
閉じた口から、剥き出しの歯が見える。そして憤怒に燃えるような、猛り狂う目。
背中が青く光り、ゴジラの目と口が青く輝いた。脳の奥に寒気が走った。
11:30 1カ月ぶりに姿を現したゴジラは浜松市・中田島砂丘に上陸した。