・6月4 月曜日 12:22 東京都中央区銀座4丁目
警視庁築地警察署 数寄屋橋交番
「倉嶋ァ、お前なんだこの日報は!?」
つい机でウトウトしていると、交番班長の中村が雷を落としてきた。
「昼食う前に書き直せ」
叩きつけるように日報を渡され、倉嶋 千夏は寝ぼけ声で謝罪した。
改めて見返すと、我ながらひどすぎる。昨夜の臨場案件の途中で『焼き鳥 食べたい 背中かゆい うまい』などと意味不明なことが書かれてる上、書道2段の腕前も泣いて悲しむ、ひどく汚い字だ。
16時から翌日13時までの第二当番(夜勤)ともなると、疲労と睡魔によって日報を書き直しさせられるのが新人警官の常だ。交番の立地にもよるが、首都中枢に位置する数寄屋橋交番では、ホッとひと息つけて日報書ける時間が明け方だったということも多い。したがってこのような事態に至る。
とはいえ昨日はいつになく臨場、交通事故取扱案件が多かったこともたしかだ。
それも『走行中、車が急停止してしまい、後続車が衝突』『信号機が消える』など、よくわからない事故案件が7件あった。
極めつけは、昨日18時ころに『エアコン室外機に不審人物がいる』という近所のオフィスから受けた通報の臨場だ。
中村班長と駆け付けたところ、室外機群にへばりつくようにしている男性がいたので職務質問の上、不審者ということで交番へ連行。本人曰く『珍しい生態のカマキリがいたので現地調査にきた』らしく、本人の身分証明を照会したところ、京都大学の准教授で間違いなく、厳重注意後解放した。
当該案件の解決だけで3時間以上要してしまった上、夜になっても下がらない気温のため普段以上に泥酔者の保護に振り回されてしまったのだ。
(あたしのしたかった仕事って、こんなものなのかなあ・・・)
泣きたい気分で日報を書き直しながら、倉嶋はため息をついた。
中学校の頃、学校の夏休み課外体験で老人ホームのボランティア活動にのめり込み、高校のとき、オーストラリアへ短期留学したことで、自分の人生に指針ができた。
『英語を勉強して、人の役に立ちたい』
いま思えばあまりにも漠然とした夢だが、高校卒業後、地元和歌山の短期大学にある外国語学科へ進学、1年生のときに『日々国際化する東京では、警察官も英語が必須になる』というドキュメンタリー番組を観て、『人の役に立てて、英語も活かせる』と考え進路を決めた。
だが両親と進路について話し合ったところ、「約束が違う!」と叱られた。
ひとり娘ということもあり、両親は実家から通える地元の信用金庫か公務員になるものだと考えていたという(そもそも地元に残るなどという約束はしていない)。
半ば喧嘩別れのような形で2年生からキャンパス近くにアパートを借り、コールセンターのアルバイトで資金を貯めて警視庁採用試験を受けた。
英検2級、TOEIC880点という大学時代の努力が報われたのか、晴れて警視庁警察官として採用された。だが両親とは最後まで意見が分かれたまま、上京することになったのだった。
警察官として勤め、2年が経過した。
初任は万世橋警察署の内勤だったが、やはり英語力がモノを言わせたか、本年4月より晴れて築地警察署勤務、数寄屋橋交番配属となった。
だが実際のところ、庁内で云われる『数寄屋橋は公用語が英語』などという噂とは、まるでかけ離れていた。
たしかに土地柄、外国人の姿は多いが、思ったほど交番に立ち寄らないのだ。中村いわく「彼らは警官は恐ろしい連中だと思ってるから近寄らない」のだそうだ(どうやらそれは事実らしく、短期留学していたホストファミリーのパパに訊いたところ、警官はとてもフレンドリーに話しかけられる存在ではないと断言した)。
加えて最近はGoogleマップという文明の利器があるため、倉嶋が期待するほど英語力を活かせるチャンスはなかったのだ。
来る日も来る日も日本語を話す日本人を相手にし(日本人なのになぜか日本語が通じない場合も多いのだ)、週2回の夜勤をこなすごとに班長からどやされ、挙句趣味のメイクもがんじがらめの服務規程と、尋常でない暑さで約に立たない始末・・・。
(進路、間違えたかなあ・・・)。
気が付くと、完全に筆が止まっていた。早く仕上げないと、また班長からカミナリを落とされてしまう。
「ほれ」
脇から、中村がポカリスエットを差し出した。
「疲れたときは糖分取れ」
倉嶋がポカンとしていると、「さっきは怒鳴って悪かったな。どうもこの暑さで、オレも脳髄が溶けてきたらしい」
「ありがとうございます」少し嬉しかったが、それ以上に倉嶋は警戒を強めた。
なんだかんだ言って中村は優しいのだが、こういうときは決まって無理難題をふっかけてくるのだ。
「倉嶋、それ書いたらメシ食って少し休め。オレとお前、今日も夜勤だ」
疲れも嬉しさも一撃で吹き飛ばされ、絶望が彼女の視界を覆った。
「すまんな、本署からの交代が来ないんだ」
「あの、なんで・・・・」
「よくわからんが、あっちこっちで車の衝突起きて人手が足らんらしい。それに昼になってから、無線も電話も本署につながりにくいんだよ」
暑さでアンテナ焼けたかな~、と言いながら、中村はいつも懇意にしている近所の蕎麦屋に電話をかけた。
「やっぱり、立会軒も通じない。交代くるまで頑張るぞ」
せっかく出てきたやる気が萎えてしまった。