Fate/Apocrypha Revival in the Interstice 作:梨央
――誰かが、ピアノを弾いている。
ここは……。
コンサートホールのような場所の座席の最前列に、私は座っていた。
立とうとしたが、動けない。脚が地面に縛り付けられているかのようだ。
ああ、そうだった。私は戻ってきたヴラドに叱られて、夢へ……。
これが、彼の言う悪夢の中なのだろうか?
私の席から少し離れた舞台の上で、黒髪の少女がピアノを弾いていた。
「あら、先生。お目覚め?」
演奏の手を止めないまま、少女は私に声をかけてきた。
見覚えのない横顔だ。
一瞬、妹のエリザかと思ったが、見間違えるはずもなかった。知らない子だ。
「あなたは、誰?」
私を"先生"と呼んだ少女に、名前を訊ねた。
「わたし?わたしは、そうねえ……」
少女は私の質問には答えず、ピアノを弾き続けた。
それにしてもこの曲……。聴き覚えがある。
リッヒの書斎で、楽譜を見た。彼がそれを何と評していたのか、だんだんと思い出してきた。
「……ええ、そうよ。『
フライゲダンクにこき下ろされた、
ゴーレムおじさんが、あなたの悲劇を演出するには彼の文豪の作品を元にした戯曲が一番だって。
"夏の夜の夢"。今が夏だと思ってる、愚かな先生にぴったりだと思わない?」
リッヒの、
「わたしはアンネ。アンネ・フランク。あなたの夢の案内人に選ばれた一人。
ニーツシェ。
ち、ちがう……違う!わたしは……私は……!
「さあ、最初の場面に移りましょう。第一幕、
舞台の上のスクリーンに映像が映し出される。
映っているのは私と、妹のエリザ。背景は故郷ヴァイマールの我が家。
懐かしくも、恥ずべきものとして封じこめていた日々の記録。
夢として再演されるなら、きっとあの日だろう。
私の人生における、最大の過ちの日。
見たくない。見たくないのに。アンネの演奏と共に、映像が流れていく。
「私がナポレオンだった頃の話をするわね。
私は
遺跡には大きな獅子の像があって、その鼻を大砲でへし折ってやったのよ!」
「まあ、それは凄いですね、お姉様」
いつからかはわからない。この頃か、そもそも生まれたときからかもしれない。
とにかく私は、
恋人ルイーズにフラれ、親友ワーグナーと訣別し、母が死に、自分の死期も悟った絶望の底。
自分をナポレオンやイスカンダル、あるいは覚者の化身だと思っていた。
誰かれ構わず恥ずかしい手紙を送り付けた。怖がった母は私を死ぬ前に精神病院に押し込めた。
唯一の弟子と呼べたガスト君でさえ、私のことを野犬を見るような目で見始めた。
当然エリザも、私の状態を良く知っていた。
私がもう長くないことを。私の話に耳を傾ける必要がないことを。
だがエリザは、姉の私から見てもしたたかな女だった。
「ところでお姉様。原稿は順調ですか?例のお姉様の新作、そろそろ出したいって出版社の方が」
「本?本なら昔、
「そうそう、ショーペンハウアー先生も早く読みたいとおっしゃっていましたよ」
エリザはそう言う人なのだ。私の扱い方を、ずっと昔から妹は心得ていた。
大哲学者ショーペンハウアーが今さら私の本に興味を示すはずはない。
こうして傍観者の立場から見ている今なら、妹の話は嘘だと三秒で看破できる。
当時、私の本が全く売れなくても。妹は私の書くものには価値があると理解していた。
そう、理解していたのだ。
私本人をではなく、私の理想の内容をでもなく、私の原稿そのものの資産的価値を。
「……
私の書斎の机。カギのかかった引き出しの中。カギはペン立ての中」
「ありがとうございます、お姉様。私はしばらく出かけてきますので、ごゆっくり」
もう用は無いとばかりにさっさと部屋を出て、私の原稿を手に出かけていくエリザ。
病床の私は窓から眺めているだけだった。愚かだが、賢く、まさに
我が最愛の妹よ。エリザベート・ニーチェ。
差別主義者フェルスターと結婚し、新ゲルマニアだとか言うくだらない
経営に失敗し破産した夫は自殺し、日々の生活費や私の治療費に困ったエリザは新たなパトロンを探していた。
そして私の原稿を手に出かけた先で、大金を払うと持ち掛けた支持者を見つけたのだ……。
「先生。あなたの犯した間違いとは何でしょうか?」
映像と演奏が止まり、アンネが私に話しかけてくる。
「私の間違いとは、妹がどう言う人物なのか知っていながら、私の原稿を渡したことです」
私は、私の言葉で、ゆっくりと単語を選びながら。
私の罪を述べた。
「では、その結果。わたしたちはどうなったでしょうか?」
「それ……は……」
口ごもる。知らないわけじゃない。無論、知っている。
私は死んでから、英霊になった。なってしまった。
"座"は時間の概念は無い。その後の世界で、何が起きたかも知っている。
「先生が言いたくないなら、わたしが直接お見せしましょう。
第二幕、
どこかの国の大使館か、領事館だろうか。そこまではわからない。
空襲によって所々が破壊された、石造りの建物が見える。
周囲に集まった大勢の人々が、皆疲れ切った顔をして黙々と列に並んでいた。
「リトアニアのカウナスと言う街にあった日本総領事館です。
もちろんこの頃、先生はとっくに死んでいます」
場面が建物内部に移った。
列は領事室まで続き、並んだ人々は出国ビザをもらえるのを待っていた。
彼らの多くはユダヤ人だ。一家族につき一枚。それが数千人。
ナチスドイツによって占領されたポーランドと、ソビエト連邦に挟まれた東欧の国リトアニア。
この国にも開戦の足音が近づいていた。事態は一刻を争っていたのだ。
迫害を受ける側の彼らにとって、逃げる先の選択肢はそう多くはなかった。
「君か!この地獄を作り上げたのは!何てことを、何てことをしてくれたんだ!」
映像の中にいた領事が、私の椅子の隣に現れた。
名札にはスギハラ、と書かれている。
私は彼に腕を掴まれ、ホールの座席から立たされた。
殴られる、と思った。
それで私の罪が赦されるなら。殴られた方が良いと思った。
だが領事は私から手を放し、静かに語りかけてきた。
「君は、自分の行ないを悔いているかな?」
「贖罪の機会を求めるなら、聖杯に願えばいい」
別の外交官が続けて私に言った。名札にはメンデス、と書かれている。
無理だ。大聖杯の力でも、過去の改ざんはできない。
霊子記録固定帯は過ぎ去った。私では、彼らを助けられない。
「聖杯に頼らず自力での救済を願うなら、武器を取れ。
さらに別の外交官が私に言った。名札には
私の近くにいるのは、彼ら三人だけじゃなかった。
何十人もの人が、私の近くに集まり、ホールの上を指差した。
総統、ゲッベルス、ヒムラー。名前も知らないナチの高官たちが十人ほど。それと――
「さあ、お姉様。今度こそ、私を殺してください。
お姉様、いえ、アヴェンジャー。あなたの復讐は、それで終わります。
お姉様の
外交官の一人から、私に拳銃が渡される。宝具の
ディオゲネスの問答で渡されたのと同じ、ドイツの回転式拳銃。
これで、私は殺せばいいのか。ナチの高官だけでなく、愛する妹を。
殺せば、私は赦されるのか。それで私の旅は、終わるのか。
「ああ、あああ、ああああーーー!」
私は声にならない叫び声を上げて、舞台へ向けて発砲した。
今度は空砲じゃない。一人、また一人と高官たちは倒れて、消えた。
返り血を浴びる距離じゃないのに、私の手は赤黒く汚れ、自らの身体にも穴が空いたようだった。
「あらあ、フリーダ。まだ獲物が残ってるじゃない。
さあ、最後の一人を
それとも、いつもみたいに。私がムチで命令してあげないとダメかしら?」
蠱惑的な声に振り返る。外交官たちはいなくなっていて、代わりに二人の女性がいた。
私をフった愛しの
私を理解したフリが最も上手かった女。
私と同じ作家とは思えない悪魔のような女。ルイーズ……。
「
なぜ中途半端に
彼女を殺さなければ、歴史の結末は変わらないのに。どうしてあなたはいつも
ワーグナーの妻、コージマが畳みかける。
親友の妻なのに、私を生涯に渡って悩ませ追い詰めた女。
……いや。なのに、じゃなくて、
三人の女の、殺せと言う声がホールに響いた。
私は書庫での問答と同じように、銃を自らのこめかみに押し当てる。
もう啄木の詩集はない。空砲じゃないのはさっき確かめた。これで私は夢から覚める。
もしかしたら本当に死ねるかもしれない。それでもいい。私のすべきことは終わってるんだから。
躊躇いなく、引き金を引いた。
ポン、と言う音がして、顔に柔らかいものが当たって落ちた。
足元に目を遣って、驚きに震えた。
「――がっかり。ニーツシェ。あなたはまだ、自分のことを嫌いになれない。
なぜならその銃は、あなたの愛する人は殺せないから。傷付けることさえできないみたい。
それが英霊ニーチェの能力か、あなたに力を与えた人物によるものかはわからないけど。
でもね、先生。銃は本来、ただの武器。何かを効率よく殺し傷つけるためのもの。
どうやら先生を真に追い詰めるには、まだ一手足りないみたいだから。
次はわたしたちが死んだ場所を見てもらう。第三幕、
よく観察したら、アンネはピアノを弾いていなかった。
ただピアノの前に座って、話しかけているだけだ。
もっともそんなことは、映し出された地獄の前には、些細な違和感に過ぎなかった。
間が空きましたが、目途がついたので年末までには完結させたいですね
次話投稿予定:24日6時