さて、アタシ達はどうするナナエ?」
喧騒に感づいて足早に一歩距離を置いたトモカは、クラスメートを他所に隣でストレッチをするナナエを見た。
「うーん。やっぱりランニングからかな。まだ全力疾走は怖いし」
「アタシはもう慣れたけどなぁ」
「トモちゃんは運動神経が良いからね。私に構わないでもいいよ?」
「ううん。アタシもまずは準備体操がてらランニングから始めるよ。ハルっちは……」
そこでトモカは言葉を失う。どうしたのかと同じ方向を見たナナエも、その先に立つハルの姿に息を止めた。
「ふぅ……」
ハルは周囲の喧騒から切り離されたような静寂の中に居た。目を閉じ、呼吸を整え、静かに構えると、ゆっくりと足を持ち上げた。
伸びていく足は、そのまま地面に付いた足とほぼ百八十度の高さまで上がる。まるで一本の大樹の如くその状態を維持したハルは、続いて逆の足でも同じことを繰り返した。
そしてそれらを終えた後、ハルの動きは徐々に激しくなっていく。初めは軽い正拳突きから、次第に足技を織り交ぜた動きは、離れていても感じられる風圧と、腹に響く轟音を伴った打撃の連打へとなる。
その時にはトモカとナナエだけではなく、周囲の美少女達もハルの動きに目を奪われていた。玉のような汗を幾つも滲ませながら動くハルはそんな彼女達の視線等気にも留めない。激烈の打ち込みは終わりを見せず、速く、重く、鋭く、雄々しく。
相手が男、しかも初心者であることは既に脳裏から消えていた。
あの姿こそが絢爛美姫のあるべき姿。対峙する怪物を容赦なく蹴散らす美麗の輝き。
「凄いわよね」
「ササミ先生」
「私のことは気にしないで見てなさい。闇雲に動くのもいいけど、あれを見るのもいい勉強になるわ」
そう軽い口調で呟くが、ササミの内心も見た目程穏やかではなかった。I組の少女達の大多数がEランク前後で、初着装より数度の訓練を経て、ようやく動きに慣れてきた程度。
対して、A+ランクという最高の適性を誇るハルは、まるで熟練の絢爛美姫の如く自由自在に拳打の演舞を続けていた。
最高位の美貌だけではない。増大した身体能力を容易く乗りこなす天賦の才すらこの少年は持っているのだ。
生徒とは違って、一人の戦士として見るササミは僅かに嫉妬の念すら抱き、すぐに自分の愚かさに苦笑する。
だがそれでも思わずにはいられない。
「天才、か」
自分があそこまで動けるようになるのにどの程度の鍛錬が必要だっただろうかと。
「せいっ!」
数分後、最後に気合いの込めた正拳突きを放ったところでハルの動きが止まった。ゆっくりと残心を経て、呼気を整える。普段の荒々しい口調や乱暴な仕草に反して、そこまでの動きはどこまでも洗練されていた。
「流石ねハル。私も思わず見惚れちゃったわ」
「オセジがうまいなササミ。まっ、これくらいはトーゼンってヤツよ。アンタらにはムリだろうがな」
「謙遜もしないとこが清々しいわね。でも驚いたわ。随分と綺麗な動きが出来るのね。もっとガサツな感じだと思ってたけど」
「アニキのおかげさ。拳だけで拳を気取るな、テメェの全部を叩き込むから拳なんだってよ」
「……良いお兄さんだったのね。着装してすぐに動けたのは長年の稽古の賜物ってところかしら」
幼少の頃から武術を学んでいたからこそ、ハルは急激な能力の変化にも短期間で対応できたのだろう。機密事項なのでこの場では聞けなかったが、着装直後に月光獣を撃破したのは、長年の鍛錬のおかげだったのだとササミは納得しようとして――絢爛美姫の使用に耐えうる武術を扱う男という事実に首を傾げる。
とりあえず今は気にしなくてもいいか。
出来ればどんな師匠だったのか聞きたいところだが、今は授業中で、自分は教師である。ササミは自分達のやり取りを見ている少女達に振り返ると、軽く手を叩いて呆けたその表情を覚ましてやった。
「はいはいいつまでも呆けてないの! 確かにハルは凄いけど、貴女達もトレーニングを重ねれば似たようなことは出来るのよ。……勿論、彼の動きを超えることだってね」
最後の呟きに背後でハルの気配が動いたのを感じたが、あえてササミはその気配を無視すると、事前に運び込ませて壁際に置いていた大型のコンテナへと近づいた。
そしてコンテナの扉をロックする暗証番号付きの錠を手慣れた手つきで解除して、中に入り、その中にあった武器を一つ掴んだ。
「それを可能にするのがこれ……絢爛美姫専用の武装よ」
そう言ってササミが取り出したのは、長大で肉厚の両手剣だった。刀身の長さと厚さだけでササミの全身を隠せる程の質量の塊は、常人ならば持ち上げることすら不可能だろう。
「これは乙女装甲を展開出来ない絢爛美姫達に向けて作られた武装の一つ。他にも色々な種類があるけど、総称として『仮装乙女(アインヘリア)』と呼ばれているわ。この訓練場と同じく『呼吸する鉄』製の武器で、乙女力を纏うことで硬度や威力を上げることが出来るの」
他の特徴として今ササミが持っている大剣と同じく、いずれも常人では扱えない程に巨大かつ、絢爛美姫の剛力でも重さを感じられる質量が挙げられる。これは基本的に月光獣が群れであること、そしてハルが戦ったモデル・リオンのように巨大な姿であるためだ。
「この大剣だけでも重量は百キロを優に超えるわ。でも、絢爛美姫の力ならこの通り」
言って、ササミは細い枝でも操るように勢いよく大剣を振り回す。その圧倒的な質量が生み出す暴風は、離れて見ている少女達が思わず一歩距離を離してしまうほどだ。
「ちなみに今ここにあるのは、成りたての絢爛美姫用に作られた訓練用の仮装乙女よ。見た目に反して絢爛美姫として扱うと嘘みたいに軽いから試してみなさい。それと、仮装乙女は美麗装飾にストックすることも出来るから、今日使う仮装乙女は私からのプレゼントよ。……それじゃ、名前順に好きな武器を取ってねー。あ、ちゃんと美麗装飾に登録するのを忘れないでよ?」
ササミがそう告げると、少女達が一列になって一人ずつ仮装乙女を手にしていく。好きな物をと言ったが、あるのはササミが使った大剣と大きさでは大剣より一回りもさらに大きな戦斧である。特に迷うと言った様子も見せずに次々と仮装乙女を少女達が手にしていく中、ハルだけは見向きもせずに、演舞を再開した。
「ハルちゃんは使わないの?」
どちらも大剣の仮装乙女を手にしたナナエとトモカがハルに声をかける。それにハルは動きを止めることなく「キョーミねぇ」と返した。
「俺ぁそもそもこいつしか使えねぇからな。足りないオツムをヨソに使うヨユーはねぇのさ」
こいつとはつまり、己の五体そのものだろう。確かに、ササミが先程巻き起こした暴風以上の風を四肢の動きだけで発生させたハルだ。その発言が決して驕りではないことは証明されている。
「なら、ちょっとばかり試させてもらってもいいかしら?」
その時、ササミが大剣を肩に担いでハルの真正面に立った。
「……へぇ? そいつぁ、つまり……俺とヤろうってことでいいのか?」
「そこまで大層なものじゃないわ。ただね、このクラスで貴方の鍛錬に付き合える子がいない以上、担任の私が付き合うのが当然ってものじゃない?」
「そりゃオキヅカイどーも」
気楽な口調でありながら、漲る戦意はまるで得物を前にした獣の如く、静かながら、ササミを見据える眼光の鋭さは、訓練と知りながらササミの背中に冷や汗を流させる。
だがそんな様子など一切見せず、ササミは不敵な笑みを浮かべて大剣を両手で構えた。
「じゃあ、軽く手合わせ、しちゃいましょう?」
直後、数メートルの距離を隔てていたはずのハルが一瞬にしてササミの懐に現れた。
時間を切り飛ばしたような踏み込みと既に放たれた拳。しかしササミは振り抜かれる拳の前に大剣の腹を合わせることで防ぐ。
「ッ……⁉」
だがまるで小型の爆弾がさく裂したようなハルの一撃に、ササミは大剣ごと後方に飛ばされた。
「これで着装後の戦闘訓練が無いのか……!」
絢爛美姫同士の試合は初めてでありながら気後れせずに奇襲の一撃。しかも遠慮のない一撃にだまし討ちへの苛立ちより賞賛の念がこみ上げる。
度胸に武術に美貌、これでまだまだ初心者絢爛美姫なのだから、末恐ろしい才能だ。
「己の未熟と今の一撃は甘んじた……」
かつての低く固い口調に戻っていることにも気づかず、ササミはたった一撃で体感したハルの力に戦慄と歓喜を混ぜた笑みを浮かべた。
「だが一日の長はこちらにあるぞ!」
追撃してきたハルの拳がササミを攻める。軽い手合わせと言ったはずなのに、狙われる箇所はいずれも人体の急所。その明確な殺意にむしろ好意すら沸くが、いつまでも甘んじるササミではない。
「狙いが単調だぞハル! 猪走りで潰せる愚鈍と侮ったか⁉」
正中線を狙った拳を、大剣の腹を滑らせる巧みな技で受け流す。幾ら重く、速い拳でも選択肢が絞られていれば対処は容易い。そして、勢いごと流されたハルの体は前のめりに崩れる。
好機を逃す愚かはしない。相手が生徒だからと手心を加える優しさは見せず、前に崩れたことで晒されたハルの背中目掛けて渾身の振り下ろしをしようとして――殺気に感づく。
「なっ⁉」
前に崩れた勢いを逆に利用して、勢いよく半回転したハルの右足が、大剣よりも早くササミの顔面へと迫る。
胴回し回転蹴り。
その技の名が脳裏を過るのと、辛うじて間に合った大剣が激突するのは同時だった。
「うるぁぁ!」
激烈に負けぬ咆哮が大気を揺らす。急所に的を絞らせるという狡猾な手口。そこから一手間違えれば己が窮地に陥る大技へと繋げる胆力。何よりもそれらを可能とした技の粋。いずれが欠けても成功しなかっただろう一撃は、受けに回った大剣をガラスのように砕き、そのままササミの大剣の腹に添えていた掌ごとその胸部へと炸裂した。
悲鳴すらあげられず、ササミが床をバウンドししながら試合場の端の壁まで吹き飛ばされる。
誰もがその一連の動きに言葉を失い、壁に激突してそのまま崩れ落ちたササミへと視線を向ける。
早森ハルが、佐々野ササミに勝利した。明白な事実がそこにはあった。
「凄い……って先生⁉ 大丈夫ですか先生ぃぃぃ⁉」
「先生死んだ⁉」
「死んでないから救出してぇぇ! 後、あそこでまだ暴れてるコムギ(バカ)も早く止めて!」
誰もが茫然とする中、倒れたササミにトモカが、続く形でナナエと他の少女達が駆けよる。
「流石と言うべきだなハル。君は……あー、貴方はいつだって私を驚かせるんだから」
だがそんな生徒達の心配を他所に、立ち上がったササミは痛みに悶える素振りすらなかった。
「チッ……やっぱりか」
当然とばかりに舌打ちするハルに周囲が驚く。唯一ササミだけが嬉しそうに笑みを返した。
「分かっちゃった?」
「カましたカンカクが足りなかったんだ。これで分からなかったらクソ以下だろ? それよりもササミ、俺の拳はまだ楽しめるぜ? シッポリとキメねぇかい?」
挑発的に笑いながら、隙を一切見せずに構え直すハルに対して、ササミは軽く肩を竦めると砕け放った大剣の柄をくるくる回した。
「この通り獲物が砕けたしね。私の負けよ、ハル。貴方の強さは充分堪能させてもらった」
「……なんつーかムカつくな。ショーカフリョーだぜ」
「でも一人で修練するよりは、多少絢爛美姫というものが分かったでしょ?」
そう言われて、ハルは顔を顰めながらも否定は出来ずに舌打ちを返した。
実際、軽くとはいえ手合わせした感覚で分かったが、やはり絢爛美姫は生身とは基礎となる身体能力が圧倒的に違う。そしてそれは自分だけではなく相手にも言えることだった。
確実に決まったはずの胴回し蹴りだった。大剣もろとも砕いた一撃は、冗談ではなくササミの体も砕くつもりで放っていた。
だが現実は、砕くどころかササミの美貌には苦悶の表情すら浮かんでいない。
「あぁ、イヤってほどによくわかったよ」
これが絢爛美姫としての経験を積んだ者の余裕。そして、敵の攻撃に対して後方に自ら飛ぶという荒業をこなせるのも、絢爛美姫という超人が為せる技。
つまり、これまでの常識で――人と人との当たり前の喧嘩で考えてはいけないということだ。
「分かってくれたなら充分よ……それじゃ残りの時間は各自好きなように運動するように。見ていて分かったと思うけど、戦闘訓練はしないようにすること。いいわね?」
一応ササミは釘を刺したが、「はい!」といういつもと違って真剣な返事に杞憂だったと内心で思うと、再度ハルの不満げな顔に微笑みを向けた。
「特にハル。ここに居る娘は貴方の訓練に付き合える地力はないから無理に付き合わせないこと、いいわね?」
「ナメるなよササミ。俺ぁテメェより弱いヤツにケンカ吹っかける程クソじゃねぇよ」
「知ってるわ。だけど性分なのよ、ごめんなさいね」
「だからそのゴメンナサイってやつ止めろっての」
「ふふふ、謝られるのは苦手なのね。それじゃ、私はもう行くわ。面倒事はお早目にってね」
「さっさと消えろ!」
顔を逸らしてまるで虫を払うように片手を振るうハルだが、照れ隠しなのはバレバレだ。
だからこそササミは軽く会釈をすると颯爽とその場を後にした。
「……しかし、私も鈍ったかしら? 仮装乙女を壊されちゃうなんてねぇ……」
あるいは、ハルの能力が想像以上だったためか。
訓練場の喧騒を背中に、周囲に人が居ないのを確認したナナエは先程ハルの胴回し蹴りを受けた胸の部分を軽く抑えた。
「ッ……騙し合いは私の勝ちと誇らせてもらおう」
抑えた胸の部分は酷い青痣になっている。骨までは影響はないが、響く鈍痛は決して軽いダメージなどではない。
あの時、後方に飛んで威力を軽減させたが、それでも完全に受け止めることは出来なかった。ハルの一撃はそれほど強く、鋭く、何よりも重かった。
もしも着装を解除すれば痛みでまともに動くことも出来ないだろう。そんな姿を生徒達に魅せるわけにもいかなったからこそ、着装を解かずにそのまま訓練場を後にしたのだ。
勿論、砕けた仮装乙女の報告も嘘ではない。一先ず治療のために保健室に行くのが先だが。
「ふふ、忙しくなりそうね」
荒削りに見えて、自分よりも精錬された一面すら見せるダイヤの原石。その輝きが示す先を思い浮かべれば、この程度の痛みなど蚊に刺された程度にしか感じなかった。