…この世界は、かつて私が生きてきた日本より文化的には遅れている(今いるここは比較的都会なのでまだましだが、私の生まれた村などは、前世の一、二世紀前の中国くらいの生活レベルだったはず)が、何故か防災や避難に関する意識だけは、あちらに比べてずっと高かった。
だから小さな村でも最低ひとつは避難シェルターが設置されており、この街には調べたら東西南北合わせて12基ものシェルターがあった。
だからこそこの世界の人類は、核戦争後も生き延びる事ができたのだろう。
もっとも、全てが同じ規格で作られているわけではないらしくその規模はまちまちであり、修練場から一番近い場所にあるそれは、規模的には比較的大きいものだが学校や孤児院も近くにある為、近隣住民や施設の職員、そして子供たちが一斉にそこに集まってしまえば、すぐに一杯になる事が事前の調査で分かっていた。
恐らく物語の中で、トキがケンシロウとユリアを導いて連れてきたのはここだったに違いない。
子供、やたらとたくさんいた筈だし。
3人はシェルターへたどり着いたものの、どう詰めても2人までしか入れないと言われてしまう。
そこから他に移動する時間的余裕もなく、トキは突き飛ばすようにして2人を中に入れると、自身は外からシェルターの扉を閉め、死の灰をその身に受ける事となるのだ。
なので、世界情勢がキナ臭い事になり始めた頃から、私とユリアちゃんは災害時の避難経路について何度もシミュレーションをしており、その必要が生じた場合には西地区側にあるそこではなく、幾らか遠いが収容人数が更に多い北地区側のシェルターで落ち合おうと、事前に話し合いがなされていた。
時々ケンシロウくんもそれに混じって聞いていたから、2人が実際のその時に忘れていなければ、たとえトキさんと一緒に避難してきたとしても、トキさん1人が弾き出される事態にはならない筈だった。
街にアラートが鳴り響き、人々が家族や恋人の手を取って、避難シェルターを目指して走る。
打ち合わせておいた北地区の方角に向かって走り出そうとした私は、程なく誰かに肩を掴んで止められた。
「おい!」
…振り返ると、私より頭一つ半も高い視点から、金髪のイケメンが見下ろしている。
「シンちゃん!?」
「…この非常時においてすら、まともに名前も呼べんのか貴様は。
まあいい、どこへ行くつもりだ」
ここ数年でコイツは随分身長が伸びたが、私はそういう体質なのか成長しても小柄で痩せっぽちのままほとんど変わらなかった。
ちなみに清楚可憐な美少女だったユリアちゃんは安定の聖女系美女になり、身長もスタイルも追い越されてしまっている。
【影】として、体格差があまり出ないように同じものを食べさせられていた筈なのに、どうしてこんなに差がつくんだ。
まあ、そんな事は今はいい。
「…いや避難するに決まってるでしょ!!
立ち止まってる暇なんかないから!
アンタも早く……」
「そっちは北側だ!
貴様の短い足で全速力で向かっても間に合うわけがなかろう!おれと一緒に来い!!」
「失礼過ぎるわ!……って、えっ!?」
シンは私を荷物のように抱え上げると、そのまま何事もなく走り出した……西側へ。
ちょっと待て、まずい。
トキさんがユリアちゃん達と一緒ならいいが、そうでなく1人だった場合、やはりこっちに向かっている可能性が高い。
そうなると私たちが行けば、どうしたって1人あぶれる計算になり、あのひとの性格上、私たちを中に入れてやはり自分が出て行く事になりかねないのだ。
「ちょっと待って!そっちは駄…」
「舌を噛みたくなければ黙っていろ!!」
説得を試みたもののシンの足は止まらず。
私たちは西地区のシェルターに無事避難を終えた。
…トキさんは来なかったようで、それだけは安心したが、ひと1人抱えて全力疾走しゼーゼーと息を乱したシンに、
「なんであんなに北側に固執した」
と鋭い目つきで問い詰められる事になった。
仕方なくユリアちゃんとの約束だったのだと正直に説明したら、
「…貴様が心配せずとも、ユリアはケンシロウが守るだろう」
と、少し苦しげな表情で言われた。
そりゃそうだろうけど。
その後、『肩を貸せ』と私に凭れて目を閉じたシンが少し震えていたのを、私だけが知っていた。
……2週間後にようやくシェルターから出ることができ、その間食べる時も眠る時も何故か私を傍から離さなかったシンが止める手を振り切って、北側のシェルターを目指した私は、大切な友人達と再会できたのと同時に、物語の強制力をひしひしと感じる事になる。
あれほど綿密に打ち合わせをした私が、いつまで待ってもあちらのシェルターに現れない事を心配したユリアちゃんのかわりに、トキさんが私を探しにシェルターを出て、死の灰を浴びてしまったのだという。
「気に病むことはない。これも運命だったのだ。
あなたが無事で本当に良かった」
そう言って粗末な寝台の上で咳き込みながら言うトキさんの、こんな時にも変わらない穏やかな優しい微笑みに、私は涙を禁じ得なかった。
そうして、南斗の上層部と北斗の師父様の間で、満場一致で内定していたトキさんが伝承者決定レースから姿を消し、残り3人の候補者の中から、ほぼ消去法でケンシロウくんが、北斗神拳伝承者として正式に決定した。
予定調和の如くこうなった事を思えば、やはりここはケンシロウくんを主人公とする世界という事なのかもしれない。
彼が伝承者にならなければ、物語が始まらないのだから。
その直後、北斗の師父様が病で急死されたとの報が伝えられ(実際にはラオウが手を下したと私は知っているが、それを誰かに伝える手段も、必要も私にはない)、ケンシロウくんとユリアちゃんは婚姻を正式に結ぶ為、ユリアちゃんの故郷の街へと旅立つ事になった。
その事を私に伝えに来た2人の表情には、そこに至るまでの経緯を思わせる翳は確かにあったものの、それでもようやく結ばれる喜びもちゃんと現れていた。
「あなた達の幸せを守る為に、たくさんの想いが動いています。
どこに行っても、それを忘れないで。
そしてケンシロウくん。
何があっても、ユリアちゃんを守り抜いてください」
「判っている。この命に代えても」
「命には代えないでください!
あなたが生きてくれなければ、ユリアちゃんは幸せにはなれません!!」
「……マツリさんには敵わないな」
そんな会話があって、別れを済ませたその夜。
一度寝床に入ったものの、眠れずに外の空気を吸いに出ると、修練場の屋上に、2人の人影が佇んでいるのが見えた。
1人は、長い髪を風に靡かせた若い男。
もう1人は、仮面を被った男。
間違いない。
ケンシロウくんの3人の兄の1人、ジャギだ。
そうだ、こいつの存在があったんだった。
…末弟と侮っていたケンシロウに伝承者の座を奪われて、それを返上してこいと暴力をもって脅したところ、返り討ちにあった事でその憎しみを深めたジャギは、ケンシロウの恋人であるユリアに懸想するシンを唆して、そのユリアを奪わせる。
今はまさしくそのシーンなのだろう。
このままいけば明日の朝早く旅立つ予定の2人の前にシンが現れ、ケンシロウくんに瀕死の重傷を負わせた挙句、ユリアちゃんを攫って逃げる展開が待っている。
けど、ユリアちゃんの最終的な幸せの為には、たとえひと時ラオウには奪われても、シンにだけは渡すわけにいかない。
私はユリアちゃんを守る為に生きてきた。
その最後の仕事として、この略奪劇は、なんとしてでも阻止しなければ。
とはいえトキさんの例がある。
物語の強制力が、どこまで及ぶのかは判らない。
私が動いたところで無駄なのかもしれないが、気付いたからには動かねばならない。
…考えがまとまるまでの間、どれだけ呆けていたものか、気がつけば屋上の人影は居なくなっており、既に塔から出てきていたシンの背中が遠ざかろうとしている。
───止めなきゃ。
そう思ってその背に駆け寄り、声をかけ……ようとしたところで、後ろから伸びてきた誰かの手に、私は捕らえられ、口を塞がれた。
「よう、マツリ。
夜の散歩とは、なかなか洒落てるな。
ここで会えたのも何かの縁だ。
せっかくだから、おれに付き合えよ」
くぐもった声は腹の立つ事に、前を歩くシンには届かない音量で、私の耳元に囁かれる。
故にその背中は止まる事なく遠ざかり、角を曲がって見えなくなった。
駄目、行かないで…こぼれ出ようとした言葉が、口を塞いだ手の中に消える。
「……よし、行ったな」
そう言って背後の人物が、ようやく私の口を覆う手を離す。
自由になった顔だけ上げて背後の男を見上げれば、不気味な仮面の下でぎょろりと動く目と、視線が絡んだ。
「…ジャギさんね。なんのつもりなの?」
「声で判ったか?
…シンは、ケンシロウからユリアを奪いに行ったぞ?おまえを捨ててな。
ユリアに懸想してるのは知ってたが、ちょっと焚きつけただけで、こうも容易く動いてくれるとは」
仮面の下で、ジャギは揶揄うように喉の奥で笑う。
自分の策がハマった事に、ご満悦なのだろう。
そんな、自分の手を汚さずにケンシロウくんへの意趣を返そうとする彼のやり口に、私は、嫌悪を覚えずにはいられなかった。
…しかも、その手段にシンを使うなんて。
「アンタがけしかけたんでしょう、卑怯者!
絶対にそんな事させないから!!」
「健気だねえ…そういう女も嫌いじゃねえ。
どうだ、シンのことは忘れて、おれの女になるってのは?
大人しくいうこと聞いてりゃ、ちょっとくらいなら贅沢させてやるぜ?」
言いながら、ジャギの手が私の薄い胸を弄ぐる。
その動きだけで吐き気がするくらい気持ち悪い。
「お断りです!
どうせ大人しくいうこと聞いてたって、いいだけ弄んで飽きたら売っ払う
その手から逃れようと身をよじらせながら、私はジャギの仮面の下の目を睨みつけた。
だが私のそんな小さな抵抗を、ジャギは鼻で笑う。
「女は、少しくらい馬鹿の方が幸せになれるもんだぜ?
…まあ、しかし残念だ。
黙って頷いてさえいれば、おれに飽きられるまでの間は、いい思いをさせてやったのにな」
「え?」
…次の瞬間、ジャギは声を張り上げて叫んだ。
「……この女は、お前らにくれてやる!」
言葉と同時に、突き飛ばされた私の身体が地面に転がる。
そして。
「ヒャッハ─────ッ!!!!」
どこに隠れていたものか、唐突に数人の男が現れて、倒れた私を取り囲んだ。
「せいぜいそいつらに可愛がってもらうんだな。
あばよ、マツリ」
言いながら背を向け、めんどくさそうに手を振りながら、ジャギはシンが去ったのと反対側の方へと歩いていった。
数人の男達に押さえつけられ、身体を弄ぐられながら、バイクのエグゾーストが遠ざかっていくのを、漠然と耳にとらえていた。
…今、私はこの世界に自分を落とした何かの存在を、初めて恨んでいた。
…こんな思いをするくらいなら、生まれて来なければ良かった。
……会わなければ良かった。
………好きに、ならなければ、良かったのに。
この期に及んで、ようやく理解した。
ユリアちゃんの幸せの為、なんてとんだ詭弁だ。
確かにシンの狂愛は誰一人として幸せにしない。
それを望んだシン本人ですら。
だから阻止したかった。
けど、それだけじゃなかった。
私が、嫌だった。我慢できなかったのだ。
…シンが、ユリアちゃんを選ぶことが。
だって、私が一番近くにいた。
私が一番、彼を理解していた。
私が一番、彼のことを好きだったのだから。
一番卑怯なのは、私。
だとすれば、これは罰なのだろうか。
自分勝手な恋心だけで、物語を変えようとした、その罪の。
押さえつけられた手脚の痛みと、屈辱に涙が滲む。
そして私は無意識に、脳裏に浮かんだその男の名を呼んでいた。
「……………シン…ッ…!!!」
刹那。
「ぐふっ……!?」
私にのしかかろうとしていた男の胸元から、4本の突起が突き出ていた。
一瞬の間があって、そこから赤い血が吹き出し、私の服と顔を汚す。
その突起が引っ込んだかと思うと、男の身体が傾いで倒れ、その背後に、ここにいる筈のない男が右手を血に塗れさせて、鬼のような形相で立っていた。
「てっ、てめえ!?」
私を押さえつけていた男が、何が起きたのか信じられないといった様子でそれに対峙し…
……そこから、地獄が展開された。
・
・
・
呆然としたまま、次に我に返った時には、自分の身体の周辺に血だまりと肉塊が散乱しており、目の前に立つ、返り血に身を染めた金色の長髪の男が、私を見下ろしながら、酷薄な笑みを浮かべていた。
「酷い顔だぞ。
こんなもんしか無いが、せめて顔を拭け」
ぱさり、と胸元に何かが落とされ、それが薄手のマフラーかストールのようなものだと気付く。
これで顔を拭けと言われて躊躇っていると、シンの手がそれを私の手から奪って、やや乱暴に顔を拭った。
「まったく、世話の焼けることだ」
「……顔が汚れたのは誰のせいだと」
「…そうだな。だが、間に合っただろう?」
言われて、自分の身体を見下ろす。
押さえつけられていた手脚に若干の擦り傷と、服の胸元にやや乱れがあるものの、それ以上の被害はないようだ。
それでも思い出すと身が震え、涙が溢れそうになる。
それをぐっと堪えて目の前の男を見上げ、一言、口にした。
「……助けてくれて、ありがとう」
「なんだ、言えるんじゃないか。
おまえの辞書に『ありがとう』と『ごめんなさい』は無いんだと思っていたぞ」
「どんな暴君よそれは」
…いつも通りのノリに安心した次の瞬間頭を掴まれ、顔が無理矢理、硬いものに押し付けられた。
それがシンの胸板だという事に、一瞬遅れて気がつく。
なんだこれ、どういう状況。
「……シンちゃん?あの…服、汚れるよ?」
顔は拭われたものの、髪や服にはまだ奴らの血が付いている筈だ。
だがそう訴えても、シンの腕は緩まなかった。
「このまま黙って聞け。
…おれは、確かにユリアが好きだった。
ジャギに言われるまでもなく、ケンシロウがユリアを守れないのならば、おれが奪ってやろうと、本当についさっきまで思っていた。
…だが、おまえが奪われると思った時、それに耐えられないと思うおれも、確かにいた。
……マツリ。
恐らくおれは長く、おまえと共に居すぎたのだ。
今更離れる事が、想像できなくなるほどに。
そしてそれは、おまえも同様なんじゃないか?」
そう言ってシンはようやく、胸から私を離した。
と言っても、その手は私の両肩に置かれ、青い瞳は真っ直ぐに私を見据えている。
「シン…ちゃん……それは」
「おれは、おまえの事も好きなのだと思う。
ユリアの事は『欲しい』と思うが、おまえの事は『必要』だと思う。
おまえが居なければ、きっとおれは駄目になる」
……それはちょっとだけ私も思う。だけど。
「……勝手な事を言っているのは判っている。
だが、おれの我儘なんぞ、おまえにとってはいつもの事だろう?
これからも、おれの側にいろ、マツリ。
おまえの事は、おれが守ってやる」
……心臓が、震えた。
初めて見る熱のこもった瞳と、じわじわと詰められる互いの距離。だけど。
「……卑怯者」
「なに!?」
その目を睨みつけながら私が放った言葉に、シンの形のいい眉が寄せられる。
「今、私が怖いめにあってたのは知ってるよね?
吊り橋効果って知ってる?
怖いめにあって助けられた直後に、その相手にそんな事言われて、冷静な判断が下せるわけないじゃん。
惚れてなくても、惚れたと勘違いしちゃう状況じゃん…そんなの、卑怯だよ…!」
それは本気にして縋り付いて、全てを受け入れたくなるくらい魅力的な言葉。
けど、私はユリアちゃんの身代わりだ。
誰にとっても、きっと彼にとっても。
そう思うと、胸が潰れそうなほど苦しくなるのを、確かに感じた。
だから、この気持ちは偽りだ。
きっと吊り橋効果なのだ。
…そう思えなければ、彼がそれに気がついた瞬間に私は壊れてしまう。
自分が一番卑怯なのは判っていて、八つ当たりのように言い放った言葉を、だが、シンは鼻で笑った。
「構わん。
勘違いしてるうちに、本当に惚れさせてやる」
グダグダな私の気持ちなどお構いなしにシンはそう言って、私の頬に手を触れる。
幼い頃は繋いだ事もある筈の、その手の大きさに、今更驚く。
そして、ある程度大きくなってからは許されなかった近い距離に、心臓が先ほどよりもうるさく跳ねた。
「…とはいえ、その必要もないかな。
おまえは元々、おれに惚れている筈だ」
「何を根拠に!!?」
だが続いた言葉にムカついて、またその青い目を睨みつける。
シンは今度はそれに動じる事なく、かつて見た事もないくらい優しく、私に微笑んでみせた。
「…名を、呼んだろう?
一番、助けが必要な時に…他の誰でもなく、おれの名を」
…かあっ、と頬に血が集まるのを感じた。
確かにあの状況下なら、助けてくれるなら誰でも良かった筈だ。
けど、あの瞬間の私の脳裏には、シンの顔しか浮かばなかった。
そして、本当にシンが助けに来てくれたと判った時、その瞬間に死んでもいいとすら思ったのだ。
動揺のあまり動きの止まった私は、シンの次の行動を止められなかった。
シンの指先が私の前髪を払い、額に温かい感触が落ちてきて…それが彼の唇であると、理解した時に既にそれは離れていた。
気がつけば私の身体は、シンの細く見える腕に、軽々と抱き上げられていた。
「マツリ、おれを愛していると言ってみろ」
「むり」
反射的にそう答えるも、シンの余裕の表情は揺らがない。
「…おれはこう見えて、惚れた相手には尽くすタイプだぞ?」
「いや謝れ。これまでの行動をすべて振り返った上で、ユリアちゃんに土下座して謝れ」
「あれはあいつがあまりにも、おれに関心がなかったからだ。
途中から泣かれて罵倒されるのも快感になってきたし、今思えばおまえに後から、心底呆れたような顔で小言を言われるのも割と…」
「へんたあぁい!!止まれえぇぇ!!!!!」
…半泣きになって叫ぶ私に、
そうだった、今更だよ!
よく考えたらコイツ、嫌がられれば嫌がられるほどその方向に固執する上、はては好きな女の精巧な人形作っちゃう程度には変態だった───っ!!
「…冗談だ、馬鹿」
…笑いながら、じたばた抵抗する手足をやんわり拘束され、さっき額に落ちていた温もりに唇を塞がれた時…私はこの若き荒鷲の爪に、完全に捕らえられたことを悟った。
その捕獲はあまりに甘美で、全て貪り尽くされるまで、私はその甘さに溺れきった。
・・・
「…考えたんだけど」
自室の狭い寝台の上でシンの胸板に頬を埋め、その体温を全身に直接感じながら、私は言葉を発する。
その私の癖のある髪の毛を、くるくると絡ませ、弄んでいたシンの指の動きが止まった。
「………うん?」
「今から、私の名前はユリア」
「…何を言っている?」
あまりに唐突に言われたせいで、意味がわからなかったのだろう。
シンは明らかに怪訝な顔をして、私を抱く腕に力を込めた。
…心配しなくとも、どこにも行きませんて。
「いい?キミはジャギの目論見通り、ケンシロウくんからユリア
そして、ユリア
その中で、最も恐ろしいひとが誰か、キミもわかってる筈」
私が言うと、シンはごくりと喉を鳴らし、その名を躊躇いつつ口にした。
「……………ラオウ」
「正解。
ユリア
けれどラオウが動けば、今の彼らの力では絶対に勝てない」
…少し前までの私なら、いっそユリアちゃんはラオウに捕らえられた方がその身が安全だと思っていた。
今でもそれは変わらないが…それでも今の私にできる、最低限の抵抗はすべきだと思う。
ケンシロウがラオウと対等に戦える力をつけるまで、彼らには潜伏していてもらわなければならない。
それまでできる限り長く、ラオウの目をこちらに引きつけておきたいのだ。
今度こそ本当に、ユリアちゃんの幸せの為に。
「野生のヒャッハーの意味は判らんが……つまり、おまえがユリアの影武者になろうというのか!?」
「……私は、元々ユリア
ユリア
これは、私が、真の私を取り戻すための戦い。
それが終わったら、本当の私自身で、あなたの胸に飛び込むつもり。
だから、シン。
今は【ユリア】を連れて、どこまでも逃げて。
一生どこへでも、ついていくから」
私がそう言って、シンの青い瞳を見つめると、彼は心底『しょうのないやつだ』とでも言いたげな、けど明らかに愛おしげな目を私に向けて、言った。
「………勿論だ。【ユリア】」
☆☆☆
数年後。
シンと私が作り上げたサザンクロスという街で、攻め込んできた拳王軍の前に、私とシンは立ちはだかった。
私をユリアと呼ぶシンに、怪訝な表情を隠さずに、ラオウが予想した通りの質問をする。
「ユリアはどこにいる」と。
私は自分を抱きしめるシンに『任せて』と触れるだけの口づけをしてから、馬上のラオウを見上げて、彼にだけ聞こえるトーンで言った。
「…御覧の通り、私はユリア様ではありません。
ユリア様は、シンに連れられての旅の途中で、病を得て儚くなられました。
シンはその事実を受け入れられず、私をユリア様と思い込んでいるのです。
……夢は、いつの日にか醒めましょう。
けれど出来るだけ長く、彼のそばで、夢を見続けさせてあげたいのです。
どうかこのままお引きになり、私と彼が共に静かに暮らすことを、お許しいただけないでしょうか?」
と。
…ユリアちゃんが亡くなったと聞いて、さすがのラオウもショックを受けたらしい。
だからこそ、涙まで浮かべた私のその嘘八百でも、恐怖の世紀末覇王に届いたのだと思う。
「…ユリアでなくば、奪う意味もない。
おれの覇業の邪魔にならぬならば、勝手にするがよい」
…そう言って、自軍を率いて去っていく拳王の背を見送った時、急に膝の力が抜け、シンに支えられて顔を見合わせると、途端に渇いた笑いがこみ上げた。
私の【影】としての仕事はここで終わった。
これからはシンのそばで、本当の私として生きていく。
……救世主は、多分現れない。
故に未来がどうなるかは、誰にもわからない。
けど、愛する人の隣で生きていける私は、今はこれ以上なく幸せだ。
「ユリアも、おれの野望のひとつ!」
「チッチッチッ、そいつは野望なんかじゃなく……(ここでタメ)
トキさんが人差し指を立ててそう言った瞬間、ラオウはその指を手ごと鷲掴んで、曲げてはいけない方向へグキリと曲げた。
トキさん、キャラに合わないことするから…!
……ていうシーンを実は前編のどこかに入れたかったのですが、挟み込む隙がなくて諦めました。
けどどうしても書きたかったのでこんなところに入れてみます。
失礼しました。
そして前回の『愁』のオチが若干不評だったので今回はシリアスなまま終わらせてみましたが…もしもこれが繋がるのが『哀離&真実哉』時空の方だったらと考えたら、何故かまったく別なものに見えてくる罠(爆