心を磨くというのはどういう事なのだろうか。
幻想郷に来てからだいぶ落ち着いてきて、食うものに困らなくはなっている橋田はまたこの事を考えていた。最早癖である。
橋田が外の世界であくせく働いていた時は、1日に何度も考えていた。
やれお前が成績低いのは精神が腐っているからだの、成績の良い後輩は人間が出来ているだの、心が汚いから客から好かれないだのなんだの。
もちろん橋田は、そんな
好成績を収めていた後輩は、客を完全に騙す詐欺一歩手前の商売を仕掛けていたし、私生活では女を取っ替え引っ替えした挙句いざ女が孕んだら逃げていた事が何度もあった。
上司は客を馬鹿にして笑うクズだった。パワハラで何人もの社員を鬱にさせている。
だから心が汚いだの何だのという事を言われたところで、お前が言うなと思ってしまうのだ。
何度か口に出してしまい殴られたこともある。
しかし何度も言われると若干は気にしてしまうようになるのだ。
橋田は本当に売り上げが悪かった。月末になると何時間も説教を食らうのが毎月の恒例行事だった。
それでもへこたれる事なく、時間が無いなりに営業の勉強をしたり、客から好かれるように努力はしていた。
足の悪い客の為に無償で引越しの手伝いなんかもしていたし、担当地域でゴミ拾いのボランティアなどもやっていたのだ。
その結果、売れた客は橋田を何度も褒め感謝していた。
だがそうやっても橋田の売り上げは最下位で、ノルマなんてものは本当に運が良かった月以外達成する事が無かった。
こうなってくると自分はもしかすると本当に心が汚い奴で、世間様はそれを見抜いているから売れないのだろうか。
もしかすると上司や後輩は善人で、自分は悪い部分しか見ていないだけで、世間様はそれを信頼しているから売れるのだろうか。
そう思ってしまう事が少なからずあった。
ただ、ずっとそれを思ってしまうと自分自身が保てなくなるのは知っていたので、それにかすった事を考えるようにしていた。
心を磨くとは何なのだろうか。と。
「涅槃会なんてもんが命蓮寺で開催されるんだ。お前さんも来てみると良いよ」
橋田の今日の仕事は、商店街の清掃だった。2週間ほどかけて行う(人間の里にしては)大プロジェクトだ。出資者は商店街の店全部だ。
かなり割りの良い仕事であるが、流石に橋田1人ではなく何十人と雇われている。
側溝の掃除をしていた橋田は、そんな話を一輪車にヘドロを乗せている者から聞いた。
「ねはんえ?何だいそれ」
「釈尊が入滅された日の事だとさ。その日は小さくお祝いをするのさ」
「ああ。ガウタマシッダールタが北枕で横向きに寝てるあれか。へぇ、熱心な仏教徒はお祝いするんだねぇ」
橋田は側溝のヘドロをどんどん地上に出しながら彼の話を聞いている。
「ふふふ。今年の涅槃会は一味違うぞ?我々が聖様にお願いしてだな、ようやく叶ったんだ。何がとは言わんが楽しみにしておくようにな。飛び上がるほど凄い物が見られるぞぅ?」
ちなみに一輪車を持っている彼は、命蓮寺の檀家である。
もちろん橋田にしていた話は他の人間にも宣伝している。
「へぇ。面白そうだなぁ。まぁ、宣伝も良いけどよ。早くこいつを持ってってくんねぇか?臭くてかなわん」
シャベルを脇に立てかけて一息ついた橋田は、仕事を忘れて宣伝をしていた男に注意したのだった。
ようやく清掃プロジェクトが終わり、流石の橋田も休息が欲しくなった日である。
「う…おおお。お?」
普段より遅めに起きたからか体が鈍いので伸びをしていたところに外からガヤガヤと人の声が聞こえてくる。いつになく騒がしい。
「おー…?ん?」
戸を開けて顔を出すとまだ息も白い二月だというのに朝っぱらからワラワラと大勢の人間が歩いていた。それも同じ方向に。
「やぁ、おはようさん。みんなしてどこに行くんだい?」
ちょうど顔見知りの男が来たので橋田は聞いてみることにした。
「ああ、橋田くんかい。おはよう。今日はね、命蓮寺で涅槃会やってるのさ」
「ねはんえ?何だいそれ?」
と言いながら橋田はデジャビュを感じていた。
こんなこと前にも聞いた気がする。
「あれ?命蓮寺の檀家から聞いてなかったっけ?散々宣伝してたからてっきり橋田くんも聞いてるもんだと思ってたよ」
「ああ!涅槃会ね。涅槃会。聞いた聞いた。あまりにも興味が無かったもんですっかり忘れてたよ」
話を聞いた橋田は頭をボリボリかきながら思い出す。
ブッダの入滅の日より目の前の仕事の方が大事なのもあって、スコンとその話を忘れていたのである。
興味の無い事は数歩どころか一歩足踏みする前に忘れてしまう。橋田の記憶力は鳥頭も鼻で笑うレベルである。
「今年の涅槃会はなかなか凄いみたいだよ?大仏」
「大仏!?」
思わず聞き返してしまった。そんなものが幻想郷にあるのかと。
「ほぉ…!これはすごい」
門前に出ていた河童の屋台でしこたま食べ物を買い込んで列に並んでいた橋田は、口の中にあった最後の大判焼きを飲み込んでからそう言った。
正直な話、そんな大層なもんでもないだろうとたかをくくっていた橋田は見事に圧倒されていた。
奈良や仙台などにある大仏を何回か見ていたが、あれらは座している姿のものだった。
だが、横になっているものは生まれて初めて見た。
「横に長いと、座っているものとは違う迫力があるな…」
もちろん橋田だけでなく、他の人間なんかも同じく驚いており、中には手を合わせて般若心経なんかを読んでいる者もいる。
そして何故か大仏の隣に、博麗の巫女と守谷神社の巫女が屋台を出して菓子を売っていた。
「神仏分離令とは一体…」
どうやら幻想郷は明治政府の声が届かなかったようである。
こないだまで宗教戦争と言いながら弾幕ごっこを毎日やっていたので、わりと仲が良いのかもしれない。
ぼけらっと大仏を眺めていると、橋田はある事を思いついた。
「そうか、相談か」
よく寺の坊主が法話や相談会などをやって、信者から話を聞いたり話をしたりすると聞く。
「んー。命蓮寺もそういった事をやってないだろうか。とりあえず聞くか」
思い立ったらすぐ行動するのが橋田の数少ない良いところである。
キョロキョロと見渡して、命蓮寺の関係者を探す。
目当ての人物はすぐに見つかった。
大仏の側に尼さんが立っているのを橋田は目視できたのである。
「なんか今、大仏に話しかけているように見えたが…すんません、そこのお方」
早速橋田は尼さんに声をかけた。
涅槃会が終わった翌日。
橋田は命蓮寺の客間に通されていた。
客間は独特の静寂が支配していた。
里の喧騒から離れ、シンとする空気が橋田の聴覚を抑える。
世俗から離れたこの部屋は、ただ座っているだけで橋田自身も静寂に溶け込んでいるような気になる。
空気が重たいわけではない。むしろ座っているだけで心が穏やかになり、内へ内へと思考が中に入っていく。自然と己を省みる事ができるのだ。
小鳥がさえずっている。
「失礼します。お待たせしました」
住職の聖白蓮が客間に現れた。
「あら、瞑想のお邪魔でしたね」
あぐらをかいてジッとしている橋田を見た白蓮は、少々驚いた風であった。まさか客が客間で瞑想してるもんだとは思うまい。しかも座禅ではなくあぐらだ。
普通の人間なら何やってるんだと不快感を口に出すのだろうが、白蓮は憤慨することもなく、ただただ感心していた。
「あ、いえ、すんません。えらく静かな部屋だもんで飲み込まれてしまいました」
「いえいえ、心を落ち着かせる事は良い事です。待たせてしまったのはこちらですし」
「ありがとうございます。ああ、すんません。橋田と申します」
「これはこれはご丁寧に。聖白蓮です」
名前を聞いて橋田は少し驚いた。
涅槃会の時に声をかけたのは、雲居一輪という尼僧であったが、まさか寺の住職が直々に話を聞きにくるとは思わなかった。ましてや橋田は檀家でもなんでもない。
「こちらのお寺は托鉢しないので?とても尼僧とは思えない髪色ですが」
「…噂通り歯に衣着せない物言いをする方ですね。髪が気になりますか?」
少しだけ白蓮はムッとして自分の髪を触った。橋田はまた怒らせてしまったようである。
「ああすんません!あまりにも見事な髪だったのでつい…!すんません。こないだも怒られたばかりなんですが…」
「かまいませんよ。これも修行です…」
白蓮は、ふぅ。と吐き出してから座り直した。
「今日はお悩み事があるのだとか?」
「ええ。しかしよろしいのですか?私は檀家でもなんでもないのに住職様が…」
「大丈夫です。今日は何も予定が入っていないので」
「そうですか?では、その…。私、ある事をずっと考えていてですね、それの答えが見つからないというので悩んでおりまして…」
「ほうほう…」
橋田は思い悩んでいる事を素直に話した。
心を磨くという事。それについて考えるに至った経緯。外の世界での行動。幻想入りしてからの行動。そして帰結のない思考。
白蓮は相槌を打ちながら橋田の話を興味深そうに聞いていた。
「なるほど…つまり貴方は自分の心は汚いものなのではないのか、綺麗な心とはどういうものなのか、心を磨いた先の到達点は何なのか…。これらを知りたいというわけですね?」
「概ね間違っておりません」
「ふぅむ…難しい話ですね…。おそらくですが、これは人によって答えが変わってくるものだと思います」
「というと、住職様でも答えが分からないという事ですか?」
「橋田さんの言う磨かれきった心と、私の言うそれはまた違うとは思いますが、私の場合は簡単に言えます。涅槃に入る事ですね」
「ハハハ。私には到底できそうもありませんね」
「そうですね。これは僧侶である私だから言い切れる事です」
橋田は思わず笑ってしまった。それもそうだ。僧侶と一般人では目指すものが違うのだ。
僧侶の場合は己の欲を捨て切って、無の状態で死ぬ事…つまり
「ですが、これに関してですが…一つお話しできることがあります」
「なんでしょうか?」
答えがありすぎて答えが無いとした上で、解答の一つの話を始めた。
「浦島太郎のお話を知っていますか?」
「えっ。玉手箱を開けたら爺さんになったというやつですか。知ってますよ」
「では、あの話に出てくる玉手箱は、中に何が入っていたのかはご存知ですか?」
「…さぁ?考えたことありませんなぁ…。老化する薬…あるいは毒とか?」
「おそらく、それは正解の中の一つなのでしょう。なにせおとぎ話ですから」
「はぁ…」
白蓮の言葉に困惑しながら、橋田はボリボリと頭をかきながら白蓮の次の言葉を待っている。
「私の知っているもので、大昔に知人から聞いた話です。玉手箱の中身は、何でもないただの鏡だった。そういう説があるそうです」
「鏡…」
「ええ。とても宗教家らしい説ですよね?」
そう言うと白蓮はくすりと小さく笑った。
「そう…ですかね?そうなんですね」
橋田はあまり理解していない。
「ええ。因果応報と言えば分かりますか?」
「浦島太郎が老人になったという結果がですか?」
「それも含めて…ですね。浦島太郎が善行を積んだ結果、竜宮城で幸せな時間を過ごせた事。竜宮城から帰った後、自身の家も、家族も、友人も消えて無くなった事。その二つどちらも因果応報。そういうことです」
そこまで白蓮の話を聞いた橋田は咄嗟に答えが出てきた。
「鏡とは、経過した時間の証明ですか?」
橋田の質問は、どうやら彼女が言いたいことだったらしい。白蓮は微笑から満足そうな笑顔になって話を続けた。
「面白いでしょう?玉手箱が鏡ということは、浦島太郎自身が竜宮城から戻った時には既に老人であったという事になるのです。あまりの楽しさに一瞬に思えた竜宮城でのひと時が、実は浦島太郎が老人になってしまうほど時間が経っていた。現実社会から離れていた浦島太郎が、何十年と経った後にいざ戻ってみれば…当たり前ですが何も残ってはいませんよね?」
白蓮は湯呑みに手をつけた。
「善行も怠慢も、巡り巡ってそれ相応の結果が返ってくる。つまり因果応報。そういう解釈ですね」
白蓮は手に持った湯呑みを口につけて少しだけ飲んだ。
少しだけお茶を飲んでから湯呑みを置くと、橋田へ顔を向けて話を続けた。
「だから努力家や善人は報われるのです。だから誰も見ていないところでも努力をしたり善行を積んだり出来る者が
やんわりとしていた白蓮の顔が一気に引き締まったものになっていた。
どうやら大切な話らしい。
そう思った橋田は崩れかかっていた姿勢をきちっと直し、白蓮の言葉を待つ。
「努力は報われない。恩は仇で返される。などと努力家や善人を否定し、屁理屈こいて諦める者にはそれ相応の結果しか返ってきません。なので余計にその者の理屈が拗れるのです」
「なるほど…」
そう言われると、橋田は自分がどういう人間なのかを振り返りはじめた。
そうなってくると、一番先に出てきたのは己の逃げる精神だ。
宇佐美
苦手な人間ではあるのだが、彼女に会う事でメリットがあるのは大きいかもしれない。
もし頑張って、仮に良い結果であればそれで良いし、彼女と上手く意思疎通が取れないなどの悪い結果になったとしても、それはそれで縁を切れば良い。
まずは結果を出してみないと何も始まらないのだ。
因果応報…。
やらなければ何も返ってはこまい。
橋田が考え込んでいるのを白蓮はしばらく黙って見ていた。そして頃合いというところで彼女は口を開く。
「これは単なる慰めの言葉ではありません。努力したものは己の自信となり、善行は人徳となり、結局後々になって役立ったり助けられたりして報われるものなのです。なので我々のような者は皆『善行を積みなさい』と言うのです。己の自尊心を満たす為ではなく、助言をした相手が幸せになるように心の底からそう言っているのです」
「なるほど」
「これが解答となるのかどうなのかは甚だ疑問ですが、考え方の一つとして捉えてみてはいかがでしょうか?とはいえ、善行を積めとは言っても、貴方は商売人ですから人を騙すような事もするのでしょう?生きるという事は必然的に手を汚す事になります。必要悪という言葉も覚えておいてくださいね」
「ええ覚えておきます。まぁ、騙す商売人もいますが私はどうも苦手なようで…。人に害を与えない程度に嘘をついて、納得してもらってようやく買ってもらうというスタンスでやってます」
「そうですか」
橋田の答えを聞いた白蓮は、少しだけ頰を緩めていた。橋田の言葉が嘘ではないと見抜いたのだろうか。
「もしそれが本当であれば、いつか報われる日が来るのかもしれませんね」
「そうですねぇ。それまで精進するとします」
橋田はゆっくり立ち上がろうとして、まだお茶が残っていることに気がついた。
すぐに座り直し、ずずっと一気に飲んでから静かに立ち上がった。
「どうも、ありがとうございました。また、迷った時には法話を聞きにきてもよろしいでしょうか?」
「是非いらしてください。命蓮寺はいつでもウェルカムですよ?」
橋田の言葉を聞くと、白蓮は嬉しそうに答えてくれた。
入信者はカモンカモンらしい。
橋田は白蓮へ丁寧に挨拶すると、テクテクと帰って行った。心なしか足取りは軽い。
「まぁ、彼の場合…」
橋田を見送った後、残っているお茶を片付けようと、白蓮は客間に戻った。
「幻想郷に来た時点で報われているのかもしれないけれども」
白蓮は残っているお茶を飲み干した。もう冷たいので一気に飲める。
白蓮は檀家や居候などからいろんな妖怪や人間から噂話をよく聞くのだが、その中に橋田の情報もあった。
そして今日の橋田の相談である。
橋田の話を聞いていた中で白蓮が連想した言葉は、『因果応報』。まさしくそれだった。
辛く苦しい仕事をしながらも努力し、善行を積んだ事で、幻想郷という心を平穏に保てる程度には落ち着いた居場所を見つける事ができた。…のかもしれない。
「彼は浦島太郎になるかしら?あの様子だと…それもなさそうね」
空になった二つの湯呑みをお盆に乗せ、音もなく静かに歩いていった。
鏡の話は、以前私が法話を聞く機会があって、その中でとても面白いと思った話でした。
実際に浦島太郎にそんな話のバージョンがあるのかは分かりませんが。