硫黄の臭いが橋田の顔を歪める。
久しく感じたことのなかった、あの腹を壊した時の屁のような臭いが、ただえさえ腹が立っているのにもかかわらず容赦なく鼻の中に入ってくるものだから余計に頭に血が上る。
「てめぇ!俺をおちょくるのも大概にしろよ!」
橋田は目を真っ赤にしながら珍しく声を荒げ、目の前で薄ら笑いを浮かべている茶髪の少女を睨みつけた。
ここまで橋田を怒らせるのは何事か、そもそも今現在橋田がいるこのあばら屋温泉街は何処なのか、読者はそれを知る必要があるだろう。
休み無しの数ヶ月連チャンの仕事が終わり、寝たり食べ歩いたりなどして休暇を満喫していた橋田が、不意に温泉に入りたいと出かけた。
温泉を探してあっちをフラフラこっちをフラフラ、幻想郷中を歩き回り、ほぼ無意識的に、この温泉街へとたどり着いたのだ。道中の事は全く覚えていない。気がつけば異常な体の疲れに戸惑いながら、地霊殿と書かれた看板が上がっている御殿の前に立っていたのだった。
何をどうするか考えていると、北の方の民族衣装のような装いの耳が尖った茶髪の少女が橋田に声をかけてきたのである。
やけに橋田自身について聞いてくる少女だった。
格好からして妖怪然とした女性だったので、初めのうちは気味が悪いと感じながらも低姿勢で話していた。
話が続いているうちに、その少女は橋田のコンプレックスをつつくような物言いをするようになってきたのだ。
「妖怪なんてものは力が強いってだけで大変だ」とか「文屋のような要領の良い者になりたいわ、不出来な身からすると」などと、橋田の様子を観察しながら明らかに言葉を選んで橋田を遠回しに煽ってくる。
いい加減、橋田が頭にきたところで冒頭のそれであった。
「おちょくってないわ。あなたが変に反応しただけでしょ?」
少女はやたら楽しそうに笑いながら橋田を指さす。
「うるせぇ!もう我慢できねぇ。何が妖怪だクソッタレ!ぶっ殺してやる!」
「殴るの?へぇ。くだらない世間話で勝手に怒って、勝手に手をあげるだなんて。怒りっぽいのねあなた。もっと冷静に物事に対処したら?」
もう橋田は、目の前にいるものが橋田の腕力では到底勝ち目のない相手だというのも忘れ、右腕を思い切り振りかぶった。
しかし、右腕が橋田の顔の横を通り過ぎるかしないかするところで、背後から何者かが強烈な力で橋田の腕を掴んだ。
橋田が振り向くと、そこには紫の髪色をした背の小さな少女がいた。目を模した小さく真っ赤な丸型のポシェットを肩にかけている、少し疲れたような顔をした不思議な少女だった。
橋田が自分の腕を見ると、その少女の細くて可愛らしい手がしっかりと彼の腕にくっついていた。
橋田がどれだけ力をこめて振り解こうとしてもピクリとも動く事はなかった。
振り解こうとしばらく奮闘していた橋田だが、そのうち頭の熱も冷めてきて、今現状の自分がどのくらい危うい状態になっているのかをやがて理解し始め、顔を青くしながら力を抜いた。
その様子をぼやっと眺めながら見ていた紫髪の少女は、橋田が大人しくなったのを確認すると、茶髪の少女に声をかけた。
「困りますよパルスィさん。恐らくうちのお客さんの嫉妬を煽るのはよしてください」
紫髪の少女は、表情に合わせたような少し疲れたような話し方だった。
紫髪の少女にパルスィと呼ばれた少女は、一瞬恨みがましい顔を紫髪の少女に向けた後、今度は橋田をチラリと見て満足そうな顔に変えた後、ふわりと飛んで消えて行った。
「そのまま消え去っちまえクソアマ」
橋田は消えた後に暴言を吐き、掴まれていない方の手で中指を立てた。
しばらく肩を怒らせていた橋田であったが、紫髪の少女の手が解かれたときにハッと自分が拘束されていた事を思い出した。
正真正銘のアホである。
橋田は改めて紫髪の少女の方を見ると、彼女は2、3歩下がった位置で橋田をまじまじと見ていた。
「あの……ありがとう……ございました」
妖怪の持つ力に改めて思い知らされた事や、大人気なく吠えていた恥ずかしさや、不思議ちゃん系少女に直視される辛さなど、いろいろ面倒な感情がごちゃ混ぜになったお礼だった。
紫髪の少女は橋田の言葉には特に反応せず、一人納得したような様子を見せ、口を開いた。
「……なるほど。やっぱり。妹が失礼しました。……パルスィさんではありません。死なない程度に満喫していってください。ここは温泉もありますから」
妹がさっきの茶髪の少女かと橋田が思った瞬間に訂正された。
紫髪の少女はそれだけ言うと、橋田を置いて御殿の中へと入っていった。
彼女は何に納得したのか、そもそもどうすれば良いのか、
御殿の中へ入って良いのか。
橋田は何もかもわからないまま突っ立ったって途方に暮れていた。
ふと橋田が気がつくと、いつのまにか足元に毛並みの綺麗な黒猫がいた。
猫は橋田の足元に座り込んで、じっと彼を見上げている。
「猫ちゃんや。俺はどうしたら良いと思うかね?」
橋田は一瞬のうちに破顔してしゃがみ込み、気色の悪い猫撫で声で問いかけながら猫をなぶる。
猫は嫌がりもせず、橋田の手に甘えてくる。
2、3分ほど猫は橋田の手にじゃれついていたが、突然、何かを思い出したかのように橋田の手を離れ、トコトコと御殿へ歩いていった。
御殿に入る直前になって、猫は橋田の方を向き、また座り込みじっとしていた。
「着いてって良いんかな。まぁ、行くか」
考えてもしかたがないと思い、橋田は猫の案内に従う事にした。
正面から歩いてくる猫の性別を判断するにはどうしたら良いのか。簡単な話だ。誰でも良いからその猫の後ろにいる人に声をかけて、猫の金玉があるかないかを聞けば良い。すぐに答えが返ってくる。仕事でも同じだ。分からないこと、行き詰まった事があれば、誰でも良いので教えてもらう事が仕事ができる人間になるまでの近道だ。分からない事があればすぐに訊く事だ。
橋田が新社会人になったばかりの頃、そう教えられた時は「なるほどなぁ」と納得したものだが、今となっては穴だらけの馬鹿らしい理論だと考え方を変えている。
そもそも、猫が去勢していればオスかメスか知識がない人には分からないし、仕事も同じだ。わからない事を聞いても返ってくる言葉は大抵「知るか」だった。
猫だの金玉だのの下手くそなたとえ話を持ち出した先輩も「自分で考えろ」の考えさせられるご回答であった。馬鹿らしい話である。
橋田の歩行速度に合わせて大人しく彼の前を歩いている黒猫を見て思い出した話がそれである。
今思えば、先輩達に媚びへつらったり肩揉んだらして気持ち良くさせてから教えをこへと言う意味だったのかと考えを改める。
「まぁ、そうであったにせよ、アホらしくてやってられないな」
橋田は深くため息をついた。
案内された場所は、誰一人も居ない大浴場だった。
「温泉か。そういやぁさっきの紫の人も言っていたな」
橋田は案内してくれた猫にお礼を言おうと探すが、どこを見渡しても猫は居なかった。
「残念だ。餌でも買ってやろうかと思ったのに。しかし温泉か。家主かどうかは分からんが許可は降りたようだし、入ってやるか」
橋田は、結局この場所は何処なのだろうかだとか、危険ではないのかとか、体を拭う物がないだとか、深く考える事なくすっぽんぽんになり、身体をしっかり洗い、汚れを落としてからざぶんと湯船に浸かった。
「注文が無さすぎて不安になる風呂屋だな」
橋田は何故か宮沢賢治を思い出しながら、先ほどまで怒り狂っていた事も忘れ、気分良く満喫していった。
「いい湯だった。そろそろ帰らんと飯屋が閉まるかな」
風呂から上がり、何故か橋田の服のそばに置いてあった手拭いで体を綺麗に拭き、よしと服を着たところで外から誰かが来るような気配を感じた。
やってきたのは橋田を助けた(?)紫髪の少女であった。隣には何処かで見たような気がする大きな丸帽子を被った緑髪の少女もいる。
何処で見たっけ?紫の子と似ているし、多分あの子が妹だよなぁ。あの子がここに連れてきたのかなぁ。あんなインパクトがでかい見た目なんか忘れるはずないんだけどなぁ。などと思いながら少女たちに礼を言う。
「やぁ、すんません。勝手に入らせていただきました」
「そうですか」
紫髪の少女は橋田の言葉に被せるようなタイミングで返事をした。
怒っているよなぁ。やっぱり断りもなく風呂に入ったのは失礼だっただろうか。謝っとこうなどと呑気に橋田が考えていたら、別に怒っていないと紫髪の少女は答える。
また思っていたことを口に出していたかと頭をボリボリかいた。
丸帽子の少女がニコニコしながら姉の横で橋田を見ている。
そういえば姉妹で心を読む妖怪が居たなぁ。と橋田が名前を思い出しながら腕を組んでいると、古明地さとりは橋田に仕事の話を持ちかけてきた。
「私の事務作業を手伝ってください。貴方のある程度の能力はわかりました」
「あー……すんません」
「対価は仕事が終わり、貴方が里に戻るまでの期間、貴方の安全を担保しましょう。ついでに温泉も入りたい放題です」
「えっと」
「10日間を目処としてください。……私の能力が便利だんて思わないように……うっぷ……私の近くで二度とチーズバーガーフライなんて胸焼けするようなもの思い浮かべないように」
さとりは鳩尾あたりをさすりながら橋田の思い浮かべた内容に対して律儀に答えていった。
橋田が仕事を請けるかどうしようか迷っていると、古明地こいしに手を取られ、簡素なベッドが置いてある部屋に案内された。
「請けていただいて助かります。短い間ですがよろしくお願いします」
請けるなんて言った覚えは無いが、どうやら道すがら無意識に請けると橋田が答えてしまったようだ。
橋田は古明地こいしの能力に恐ろしさを感じた。
「言質を取られてしまったのでは仕方がないし、貴方がたが暮らす旧地獄から安全に帰れると言うのなら従うしかないでしょう。まぁ、よろしくお願いします」
橋田は頭を下げて挨拶をした。
久しぶりの机上業務は橋田にとって新鮮な物だった。
動物が沢山いる地霊殿は居心地も良く、気持ちの良い温泉もある。
年に一回程度ならあっても良いかなと思った瞬間に、姉妹から年次の契約をさせられてしまったのは橋田の御愛嬌だ。
仕事を終え、契約通り無事に里に戻った橋田は、荷物の中から丁寧に綴じられた封筒を見つけた。
中を開くと、さとりの字で、
『来年の冬ごろ、またお迎えにあがります』
とあった。
内心楽しみにしながら、橋田は封筒を大切にしまうのだった。
「橋田さぁん!あんた大丈夫だったか!?」
「何が?」
「ぼけらっとしながらふらふら里中歩き回ってて、こっちが声かけても上の空だったんだよ。そうしたらなんか消えちまったもんでよ。なんか悪いもんに取り憑かれたかもしれんと里のみんなで噂してたところなんだ」
「…」
「頭痛いのか?博麗の巫女さんを呼ぶか?」
「いや、自分で行くよ」