何事も当たり前のことに対して何か疑問を感じたり、嫌悪感を抱くことは稀だろう。
人が起きる意味は何なのか、何故食事をしなければならないのか、自分の話す言葉は何故日本語なのか、何も無いのに歩くのが非常に不愉快だ。などなど。
何も探求する事がなく、純粋にただ発生した疑問を疑問のままで置いておく事や、他者だけを頼りに回答を求める行為は愚者の発想である。
ただ、それら当たり前を大真面目に考え、偉大な学問としている事も事実だ。それはそれで学問としての形体を取っている以上、無駄なことではないのは明白だ。
その当たり前に疑問を抱いたり、その当たり前は正しいのか、他文化では忌み嫌われているものではなかろうかと意識する事は悪いことではない。
ただ、普通の発想かどうかと言われると、一般のサラリーマンなどには無いものだと言える。
いや、必要のない物である。
普通な物を普通ではない視点で捉え、探求する能力は、商社などの営業、経理、事務、製造には必要ない物だと言える。
社の方針に従い、利益の大きい売り方を考え、手間を減らす方法を発案する事が大切だ。
故に資本主義的な職種には必要がない。
では、サラリー(賃金)をもらわずに、旧文化的な生活する人間はどうだろうか。
まず賃金供給の大元となる会社が存在せず、利を得るには心許ない資源しか出回っておらず、減らせるリソースも技術も無い文化圏だ。
それが幻想郷である。
世の中のCEOや証券マンは絶対に入りたくない世界が幻想郷である。
さて、いよいよ幻想郷という名前が出てきたところで、ようやく現実を少しばかり忘れていただける時間ができた。
前述のサラリーマンという適性について、橋田は全く不向きな性格である。
なぜなにがそこそこ多い人間であった。
こだわりがそれなりに強いのも営業マンとしては失格である。
しかし、幻想郷に来たからというもの、その性格がようやく適合する事が出来るようになった。
特に妖怪相手だと、その発想が喜ばれる事がままある。
今日も今日とて妖怪の仕事を終え、帰宅しようとした所で、一人の少女から食事に誘われた。
女性と同じ席での食事という経験を久しくしていなかった橋田は、奢りだったというのもあり、相手が妖怪だというのも忘れかけてルンルンで着いてきたわけである。
「予算余ったし、いくらでも食って良いからね」
と案内された店は、いつぞやの縁日で出ていたヤツメウナギを出す少女がいる店だった。
「やっぱり妖怪の女将さんだったわけですか」
などと何かに納得した橋田は、なんの警戒心も無いまま、店の奥の席へ通された。
ヤツメウナギが売りの店かと思いきや、他の料理も悪くない。
大根やナスの漬物、ゼンマイの天ぷら、うどの酢味噌和え、沢蟹の唐揚げ。
米とオカズ間を橋田の箸が忙しなく動いている。
近いうちまた来よう。
そんな風に思いながら橋田は少女達との会話を聞きながら、せっせと食事を楽しんでいた。
「時々思うんだけどね」
首の妖怪(と橋田は思っている)こと、赤蛮鬼がそう切り出したタイミングが、ちょうど橋田が米を口に運ぶ寸前であった。
橋田は相槌を打つために仕方がなしに箸を器に戻した。
「食事処で同じ机に知らない人間が何人も座るじゃない?」
「はぁ」
「で、同じような食事が机の向こう側からポンポンと同じようなタイミングで出されるわけじゃない?」
「そうですね」
「そうなったら皆、一斉に出された食事の方に頭を向けて食べるわけ」
「まぁ、そうしますね」
「私、それで時々、なんかその人間たちの様子が、豚だとか鶏だとかの家畜に見えてきたりするわけ」
「そんな馬鹿な」
橋田は蛮鬼の話から、内容が知れてると思い、漬物に手を伸ばした。
この店の漬物はしっかり漬かっていて塩っけ抜群だ。
「よく考えてごらんよ、家畜どもは決められた場所で横並びに整列して、餌が来たら頭を餌箱に突っ込んで物を食うわけでしょ? それって食事処でも同じように人間は横並びに頭を突っ込んで飯を食ってるわけ。似てると思わないかしら?」
そう投げかけた蛮鬼は、体を橋田の方に向けて彼の様子を眺めていた。
橋田がムムムと考えている中、蛮鬼は少し小馬鹿にしたようなしたり顔をして、漬物を指でつまみ、お猪口に残っていた残りをあおった。
「まぁ、妖怪だからそう思えるのかもしれないけど……。影狼はどう?」
鳥の小骨を一心不乱にかじっていた今泉影狼は、突然話を振られたせいで小骨を飲んでしまい盛大にむせた。
「何? そんなの全く違うじゃない。家畜は骨肉や排出物を搾取される為に餌が与えられてるわけでしょ? 人間は自身の腹を満たす為に対価を払ってその食事を得てるんだから。まるきり違うわけ」
「いや、そうじゃないのよ。概念じゃない。分からない? そのように見えるってだけ。餌箱に頭を突っ込む姿が、丼の器に頭を向けて食い散らかす姿が似てるって言ってんのよ」
蛮鬼の説明になんとなく合点がいった橋田は影狼と一緒に何度も頷いた。
「ああ、それは思う。でも私たち妖怪より文化的だわ。家畜も人間も。だって私たちは地べたに横たわってる者を、よくそのまま食ってるわけだし。今は違うけど」
影狼のセリフにドキッとした橋田は、一瞬、キョドキョドと目を泳がせた。汗を少しかいている。
しかし箸は止めず。
恐怖で味なんか分からないのに、食う事で恐怖を飲み込んでしまおうと言う魂胆である。
勿論意味など無い。
急に恐怖で体を縮こませた橋田の反応を見た少女達は、ニタニタと意地の悪い笑みを浮かべた。
「満腹?」
蛮鬼は影狼に訊く。
「全然。やっぱり人間の肉が一番ね」
そう言うと影狼は席を立ち、ゆらりと橋田の背後に移動する。
あまりにも自然に橋田の後ろに立った。
小さく荒い呼吸をしている橋田の肩に手をそっと置き、少しずつ爪を立てていく。
爪が橋田の肌に食い込むほど、橋田の血の気は引いていく。
冷たい。空気もそうだ。握った湯呑みの熱さなどまるで感じない。
橋田の吐く息が震えはじめた。
「ここに脂の乗った良い肉があるらしいんだけど、貴方、知らないかしら?」
影狼が橋田の耳元でささやく。
顔の真横まで詰められた橋田は、今までの恐怖の他に、ある感覚が橋田を支配した。
それはそれは橋田にとって重要でないが、恐怖以上に逃れられない感性であった。
「ん……ケモ臭い……」
思わず言ってしまった。
橋田の小声が聞こえてしまった影狼は、橋田の頭をぺしんとはたいてしまった。
「失礼!」
おそらく謝罪と説教と両方の意味だろう。
3回橋田の頭をペシペシはたいた後、2、3歩下がり、自分の臭いを嗅いでいた。
存外自身の体臭はわからない物である。
しかし、影狼も女性である。化粧にはこだわるし、臭いも種族柄敏感だ。
そんな中で臭いなどと言われると非常に不愉快だ。
しかも、うだつの上がらない中年男からそんな事言われたのではショックもはなはだしい。
とはいえ、何故恐怖しているタイミングでそんな事が言えるのだろうか。
影狼は、あわあわと袖や胸元を嗅いだりして臭いを確認している。
横で眺めていた蛮鬼は、その展開を見てはじめは驚いていたが、今の今まで見たことのなかった影狼のうろたえ方に笑ってしまっていた。
「散々怖がっててそれは無い!!」
「狼女が狼狽してるアハハハハ!!」
「えっ、えっ、なんでその言葉が出るの!?」
「はぁ、なんかすんません」
空気が軽くなったのを感じた橋田は、頭をぼりぼりと掻きながら影狼に謝った。
とりあえず、危機的状況は脱したのだろうか。
笑いが少し引いた蛮鬼が、笑い涙を目尻に溜めながら橋田に言った。
「単に怖がらせようとしただけだよ。貴方、まるきり警戒心無かったからさ、妖怪舐められちゃ困るってね」
「そうよ! 怖がりなさいよ! なんなのよ臭いって!」
「い、いやあの、本当、女性に対して言うなと、狸の頭領から言われたばかりなのに、すんません。いや、本当に怖かったです。本当」
橋田も影狼に釣られてあわあわとしてきた。
「アハハハハ。いやいや、本気で怖がっていたのは分かるよ。私らは妖怪だからね。人間の恐怖心には敏感なのさ。でもね、気をつけなよ。私らみたいな、人間に対して食欲そんな湧かないのは稀だからさ」
「はぁ、気をつけます」
実際怖かった。まだ恐怖が手元に残っていて、箸先が少し震えている。
それを見た蛮鬼は、空になったお猪口に酒を足し、満足そうに飲み干したのだった。
「貴方は里の人間とはやっぱり考え方が違うね。私たちの感性で物を話しても、真面目に受け止めてちゃんと考える」
女将に勘定を渡し、蛮鬼は立ち上がった。
「今日は珍しい酒が飲めたよ。次も仕事頼む事あるから、その時はまたお願いね」
「あ、ああ、ご馳走様でした。またよろしくお願いします」
橋田が頭を下げると、蛮鬼は片手を挙げ、店を出て行った。
影狼も後を追うが、その前に軽く橋田をはたいてから、
「じゃあまたね」
と一言だけ言って出て行った。
数日の後、橋田が仕事をしていると、噂好きの大工の女房から里の中で『臭い女』の怪異が出ているとの話が出た。
「どんな物なんだい? それは」
「あら、橋田さん知らないの? 今すっごい襲われてるって話よ」
橋田が聞くに、里の人間が竹林を歩いていると、突然黒衣の女が現れ、
「私、臭い?」
と唐突に聞いてくるそうだ。
違うと言えば、鼻が物理的に潰れるまで臭いを嗅がせようとするし、そうだと言えばズタズタに切り裂かれるとのことだ。
「厄介な変質者だなぁ」
橋田は一瞬、口裂け女を連想した。本当に傍迷惑な人物である。
おちおち竹林を散歩できないではないか。
「博麗の巫女がそろそろ解決に行くかもって話よ。いっぺんそういう異変を解決してる所見てみたいわ」
「やめといた方がいいよ奥さん、危ないから」
「そうよねーホホホホ」
春の空気が次第に湿気を帯びてきた時期には、噂の怪異は語られなくなっていた。
今日も幻想郷は平和になっていた。
以前にも書きましたが、橋田は動物の臭いに敏感なだけです。