パート1 魚心と水心 ☆
「ひーめーちゃーん、あーそーぼー!!」
三軒隣の家に行って、届かないインターホンの代わりに、精一杯声を張り上げる。
家の中でばたばたと物音がしたと思うと、同い年の女の子が、一生懸命玄関の扉を開けて顔を出す。
「いさなちゃん」
「えへへ、あそぼっ!」
「うんっ!」
こんな毎日がいつ始まったのか、二人とも確かな記憶はない。
物心ついた時にはもう、勇魚と姫水は一緒にいた。
「ひめちゃん」と呼び始めた経緯もよく覚えていない。
姫水の姫がおひめさまの姫であると、たぶん誰かに聞いたのだろうけど。
この日も二人で手をつないで、仲良く話しながら遊び場へ向かう。
住宅地の狭間にある小さな公園で、近所の子供たちが三人ばかり、ブランコを揺らしていた。
「みんな、あっそぼー!」
「いさなちゃん!」
大声で呼びかける勇魚に、三人とも目を輝かせて駆け寄ってくる。
「ね、ね、ひすいちゃんは?」
「おるでー」
勇魚が笑顔で、背中の人影に促した。
後ろに隠れていた姫水が、おずおずと顔を出す。
「こ、こんにちは……」
「ひすいちゃん! いっしょにブランコやろ!」
「それよりおにごっこしよ!」
大人しくて引っ込み思案にも関わらず、姫水はいつも人気者だった。
その整った顔立ちによるものか、優しい性格によるものか。
幼い勇魚には分からなかったが、この子が皆に好かれていることが嬉しかったし、自慢でもあった。
「いさなちゃんも、はよー!」
「うん、いまいくー!」
結局間を取ってかくれんぼをすることになり、勇魚が率先して鬼に志願する。
「うちがオニでええよっ」
「ほんま? いつもありがとー」
「いさなちゃん……」
いつもお人好しな幼なじみに何か言いたげな姫水だったが、勇魚が目を閉じて数え始めたので、慌てて公園を飛び出し隠れ場所を探す。
もっとも、この二人の間でなら、どちらが鬼でもさして変わらなかったのだ。
どこへ隠れようと、お互いすぐに見つけてしまうのだから。
「ひめちゃん、みーつけた!」
「……みつかっちゃった」
電柱の陰から、照れくさそうに出てきた姫水と、勇魚は嬉しそうに手をつなぐ。
そのまま大阪の下町を、二人の小鬼が友達を探しながら駆けていった。
* * *
ターニングポイントになったのは、幼稚園のお遊戯会だった。
白雪姫の劇をやることになり、主人公役として姫水が選ばれたのだ。
先生も子供たちも当然のように推してきて、姫水も断れなかった。
「は、はい、やります……」
そのくせ家に帰ると、弱気になって勇魚に泣きついてしまう。
「わたしにはムリやぁ~」
「イヤならイヤってゆうたらよかったのに……」
「だってぇ……。いさなちゃん、かわってよぉ~!」
「う、うちがしらゆきひめなんて、もっとムリ!」
慌てて断るが、半べそになっている姫水に仕方なく歩み寄る。
「どーしてもイヤなら、うちがやりたいってゆうてみるけど」
「ほんまっ!?」
「でもうち、ひめちゃんのしらゆきひめが見たい!」
「そ……そう?」
「ぜーったいにピッタリやもん!」
断言した勇魚はぴょんと立ち上がると、部屋の端にある鏡台へ行って話しかけた。
「かがみよかがみよかがみさん、せかいでいちばんきれいなのはだあれ?
それはぜったいひめちゃんや! きれいでやさしくて、せかいいちのおともだち!」
それは芝居でも何でもなくて単なる勇魚の本音だったが、あまりに元気で堂々としていたので、姫水はつい吹き出してしまう。
幼なじみの行動に少しの憧れを宿した瞳で、彼女は小さくうなずいた。
「うん……いさなちゃんがそう言うんやったら、やってみる」
「やったー!」
「そのかわり、おうじさまはいさなちゃんがやって?」
「そ、それはユキヒロくんがやるゆうてたやん。よろこんでたし、よこどりはあかんよ」
「ならわたしもやらへん!」
「もう~、こまったひめちゃんやな~。こびとさんやるから、それでかんにんして!」
「……まあ、それなら」
翌日に何とか先生に頼み込んで、七人の小人のうち一人をさせてもらえた。
そして始まる劇の練習。
姫水の出番になった途端、園内の空気は一変した。
「私の名前はしらゆきひめ」
「おきさきさまに嫌われて、森におきざりにされてしまいました」
「お願いします! 小人さんたちの家に、しばらくいさせてもらえませんか?」
子供も先生も勇魚ですら、あんぐりと口を開けている。
普段おとなしい姫水が、まるで別人と化したように、堂々と役をこなしていたのだから。
わっと歓声が上がり、白雪姫の周りにたちまち人垣ができる。
「ひすいちゃん、すごーい!」
「ほんまもんののしらゆきひめや!」
「そ、そう?」
人が多すぎて勇魚は近づけなかったが、少し離れた場所から満足して眺めていた。
(やっぱり、ひめちゃんはすごいんや!)
気の毒なのは王子様役のユキヒロ君で、すっかり姫水の演技に呑まれてしまった。
おずおずと練習をしていたところで、ませた子の一人が大声で尋ねる。
「キスシーンはやらへんのー?」
「ちょっ、ボクはムリやで!」
「なんやねん、ユキヒロくんのいくじなし」
「チューがないしらゆきひめなんてつまらへーん!」
騒ぎ出す園児たちに、先生たちは顔を見合わせ、ひそひそと相談し始めた。
「このご時世に男の子と女の子でキスシーンはねえ」
「また姫水ちゃんのママにクレーム入れられそうですし……」
そんな様子を、勇魚はきょろきょろと首を動かし見渡していた。
姫水は割とどうでもいいと思っているようだが、先生とユキヒロ君が困っている。
一方で盛り上がりたい子供たちの気持ちも分かる。
とっさに手を挙げ、大声で叫んでいた。
「はいっ! それならうちが、ひめちゃんにチューします!」
「えええ!?」
周囲が驚く中、一番驚いていたのは姫水だった。
「い、いさなちゃんが?」
「ひめちゃんはイヤ?」
「う、ううん! いさなちゃんならええよ!」
ぶんぶんと首を振り、嬉しそうに勇魚の手を握る姫水に、周囲もこの二人ならと納得する。
ユキヒロ君は安堵し、園児たちも満足して、場は丸く収まったのだった。
お遊戯会当日。
幼稚園児とは思えない姫水の演技力に、カメラを構えた親たちが舌を巻く中、劇は終盤に差し掛かる。
王子様から謎のパワーを受け取った小人の女の子が、白雪姫に顔を近づけた。
『ひーめちゃん♪』
『いさなちゃん、よろしくね♪』
お互い笑い出してしまいそうな顔を必死で押さえて、唇と頬が近づいていく。
チュッ
柔らかくて暖かい、姫水のほっぺたを唇越しに感じる。ずっとこうしていたかったけど、そういうわけにもいかない。
密かに動いた姫水の手で毒りんごが放り出され、白雪姫は優雅に目覚める。
王子様と小人たちが万歳して、劇は拍手の中終わった。
「勇魚~、大活躍やないか!」
見に来ていた父の手が、勇魚の頭をわしゃわしゃと撫でる。
「そ、そんなんちゃうで。ひめちゃんのおかげやねん」
「そうか? まあお父ちゃんの知ってる白雪姫の話とは、なんかちゃうかったな」
「うちらはこれでええの!」
と、園長先生の方から大きな声がする。
見ると姫水の母が、何やら園長に詰め寄っていた。
「うちの子、才能あるんとちゃいますかね! 園長先生から見てどうですか!」
「そ、そうですね。ここまで見事な白雪姫は、長い園長生活で初めてやねえ」
「やっぱり!」
隣の姫水は困ったような顔だが、勇魚の姿を見て、一緒に帰ろうと駆け寄ろうとする。
が、その腕が母に掴まれ引き戻された。
「ほら姫水、ファミレス行くで。ご褒美に何でも頼んでええからねー」
「う、うん……でも、いさなちゃんと……」
「早よ!」
「は、はい……」
勇魚は何も言えず見送るしかない。
楽しかったお遊戯会だが、最後に少しもやもやが残ってしまった。
「ひめちゃんのママ、うちのことキライなんやろか……」
父と一緒の帰り道で、ついそんなことを言ってしまう。
「んー? 別にそんなことはないやろ」
「でもこのまえ、ひめちゃんちであそんでたらイヤなかおされてん」
「まあ旦那さんが浮気して、あの家も色々大変なんやろ。勇魚も広い心で接しないとあかんで」
「ひろいこころ?」
「細かいことは気にせんと、明るく元気にってことや! 大阪はそういうとこやで!」
「う、うんっ! わかった!」
どんな人であれ、大事な幼なじみのお母さんなのだ。
もし疎まれていたとしても、勇魚だけは笑顔でいないと。
それが姫水の笑顔にも繋がるはずだから。
「ところでお父ちゃん、うわきってなあに?」
「うぐっ。あ、後でお母ちゃんに聞いて」
* * *
「ランドセルや!」
「わたしもランドセル!」
いよいよ小学校に上がることになった。
赤い物体を背負って、お互いに見せ合って笑い合う。
「小学校でもいっしょやで!」
「うんっ!」
同じクラスになれることを、二人は少しも疑っていない。
そして実際に、運命のように同じクラスになった。
席こそ離れてしまったが、姫水の机に顔を乗せて勇魚はにこやかに言った。
「これからもまいにちあそぼうね!」
が、その言葉に、姫水の顔が少し曇る。
「おかあさんがね、げきだんでレッスンうけろって……」
「げきだん?」
「げきをするところ」
「おゆうぎかいのときみたいな? すごーい!」
「かようびともくようびはそれいくから、いさなちゃんとあそべへんねん……」
え、と絶句する勇魚に、周囲の子供たちが話しかける。
「ひすいちゃんもかー。わたしもおしゅうじはじめんねんー」
「うちはバレエ……」
小学校から習い事を始める子は何人かいるようだ。
そういうものなのかと、勇魚も納得するしかない。
年齢が上がるにつれて、徐々に環境も変わっていくのだ。
その分、遊べる日は目いっぱい遊ぶことにした。
小学生になって行動範囲も広がる。
北へ1km歩けば、大阪市で三番目に大きい長居公園。
西へ1km歩けば、日本最古の観音寺院であるあびこ観音。
特に後者に住む猫は姫水のお気に入りで、観音様が見守る中、よく撫でては満足していた。
「おいでおいで、にゃーにゃー」
「ひめちゃん、どうぶつさんだいすきやね!」
「どうぶつえんもまたいきたいなぁ」
「ぞうさんにもキリンさんにもまたあいたいねえ」
天王寺動物園へは地下鉄で一本なのだが、小学一年生にはハードルが高い。
今のところは親にせがんで連れて行ってもらうしかなかった。
「もっと大きなったら、きっとふたりでいけるで!」
「うんっ、たのしみやー」
そんな姫水が歓喜に打ち震える出来事があった。
天高く馬肥ゆる秋、遠足で神戸にある六甲山牧場へ行ったのだ。
そこには馬もヤギもいたが、圧巻なのは羊だった。
「はわわわわわ」
放し飼いになっている羊たちが、そのあたりを歩き回っている。
この世の楽園のような光景に、姫水は真っ赤になって言葉を失っている。
「い、いさなちゃんっ、ひ、ひひひ」
「うんうん、ひつじさんやねえ」
「ほ、ほんまにさわってええんやろか!」
「ええって先生ゆうてたやん」
「そ、それじゃ……」
白い羊毛に恐る恐る手を伸ばす。
もふっとした感触に、姫水の魂はそのまま天国へ行ったようだった。
「ひ、ひめちゃん!? しっかりして!」
「しあわせやー……」
「はーい、みんな前に進んでー。奥の方で牧羊犬のショーがあんねんでー」
先生の大声に、小学生たちはぞろぞろと歩きはじめる。
「ぼくようけんってなんやろ」
近くの友達が漏らした疑問に、ようやく姫水が現世に戻ってきた。
「ひつじさんをおせわする犬さんやで。オオカミさんから守ったりもすんねん」
「へええ、ひすいちゃんものしりやねぇ」
「そ、それほどでも……」
「さすがひめちゃん!」
山にある牧場なのでアップダウンが激しい。
細い道を上って降りて、ようやく広い場所に出た時だった。
「ひすいちゃん、あぶない!」
いきなり前方から声がする。
一頭の羊が、猛然と姫水に突っ込んできたのだ。
「ええええ!?」
猛然と、とは子供視点の話であって、大人が見れば少し早足程度の速度ではあったが……
とにかく恐怖と愛らしさの板挟みで、避ければいいのか抱き止めればいいのか、姫水はパニックになって固まった。
「はわわわわわ」
「ひ、ひつじさん、ひめちゃんをいじめちゃダメ!」
勇魚が慌てて、親友をかばうように立ち塞がる。
自分がどうなろうと、姫水だけは守らないと!
「いさなちゃん!」
背後に姫水の悲鳴が響く。
激突の瞬間、勇魚の目がぎゅっと閉じられる中――
羊は何食わぬ顔で、二人の横を通り抜けていった。
「び、びっくりしたぁ~」
人騒がせな羊を見送りながら、周りの友達は勇魚の勇気に称賛を送る。
「いさなちゃんは、ナイトさまみたいやな!」
童話に詳しい子が、感激した目でそんなことを言った。
「ナイトさま?」
「おひめさまをまもる人!」
「そうなんや! おひめさまのともだちなの?」
「え? えーと、ちゃうんやないかな。けらいやろ」
後ろにいる姫水が、きゅっと勇魚の袖を握った。
その意味を理解したわけではないが、勇魚は級友相手に断言する。
「それやったらうちは、ナイトさまにはなれへんわ」
「え、ほなら何なの?」
「おひめさまのおともだち!」
周りの子供たちがほうと息を吐く一方、童話好きの子は渋い顔をしている。
『お姫様の友達』なんてキャラクター、どんな絵本にも出てこない。
「そんなん本でみたことないで~」
「ええの! うちはそうなの!」
「本にかいてへんだけで、ほんまはいたんとちゃうかな」
幼なじみの袖を握ったまま、姫水は優しい声で言った。
そうあってほしいと願うように。
「おひめさまも、一人もおともだちがいないなんて、きっとさびしいもの」
「なるほど! ひすいちゃんかしこい!」
渋い顔の子も笑顔になり、皆が姫水の暖かな空想に納得する。
そして勇魚は、子供心に自分の立場を自覚した。
それは騎士様でも王子様でもなく、いつまでも王女の友達なのだ。
たとえ絵本に何の出番もなかったとしても。
『間もなくシープドッグショーが始まります』
「あ、はよ行かな!」
二人で手を繋ぎ、そこここにいる羊に目が泳ぎつつも、柵の方へと走っていく。
気分としては牧場を駆ける牧羊犬であったけど……
この時既に、大人の都合に追われる子羊になりつつあることを、幼い二人は知らなかった。
* * *
初詣はあびこ観音へ。
その翌年も同じく。
小学二年生が残り少なくなった一月、学校帰りに勇魚は親友を誘った。
「ひめちゃん、すみよっさん行ってみいひん?」
「え、今から?」
「そろそろすいてると思うねん。おそなったけど初もうで!」
小学二年生になって、二人は自転車を手に入れた。
行動できる範囲はどんどん広がっていく。
家にランドセルを置いて、五円玉をポケットに入れて、自転車にまたがり出発する。
「うう、さむいねぇ……」
「ファイトや、ひめちゃん!」
大阪市最大の神社、住吉大社。
三が日は死ぬほど混んでいるこの場所も、一月も中旬の平日となれば、参拝客はそこそこいる程度だった。
参道脇の広場に自転車を止め、半円状の反橋を恐る恐る渡り、第四から第二本宮を通り過ぎる。小学生の身ではとにかく広い。
ようやく着いた第一本宮、その賽銭箱に五円玉を投げ入れ、姫水が教えてくれた通りに二礼二拍手した。
『ひめちゃんと、ずっといっしょにいられますように!』
勇魚が神様に願うことは、いつだって同じだ。
最後に一礼して隣を見ると、姫水がまだ手を合わせてお祈りしている。
何か、必死なように見えた。
「いさなちゃん、今日はどないしたん?」
五所御前の玉垣で小石探しをしながら、姫水は怪訝な顔で尋ねた。
参拝するのは構わないのだけれど、いかにも急だった。
「ひめちゃんこそ、そろそろ言うてくれへん?」
真っ直ぐに相手を見て、明るい顔で返す勇魚に、姫水の体が強張る。
その指先には、『力』と書かれた小石がひとつ。
「夏休みのころから、ときどき元気のうなってんねんな」
一緒にプールへ行った時も。
社会科見学でラーメン記念館に行った時も。
戸惑う姫水母もろとも引っ張ってきて、佐々木家でクリスマスパーティを開いた時も。
姫水はいつも楽しそうだったけど、その中に時折よぎる影を、誰よりも近い勇魚は見逃さなかった。
広大な神域を誇る、外界から切り離されたこの場所なら、話してくれると思ったのだ。
返事を待つ間も、指は小石を探し続ける。
『五』『大』『力』それぞれの文字が記された石を集めれば、願ったことが叶うという、そんな言い伝え。
とはいえ季節は真冬、探す指もかじかんでくる。
姫水は大丈夫だろうか、と隣に顔を向けた時。
そこには、泣き出しそうな彼女の姿があった。
「ご、ごめんひめちゃん! 言うのイヤやったら――」
「いさなちゃん」
懸命に涙をこらえながら、俯く姫水の口から、か細い声が北風に乗って届く。
小石は二つしか見つからなかった。
「――わたし、東京にひっこすかもしれへん」