空の碧は全てを呑みこみ、それでも運命の歯車は止まらない   作:白山羊クーエン

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残滓

 

 

 

「ロイド、ちょっといいかい」

 ブライト姉弟とレンが支援課ビルから帰る時、ヨシュアをそう言ってロイドに話しかけた。

「なんだ?」

「場の流れで口を挟まなかったけど、黒の競売会潜入に対して協力を申し出たい」

 ヨシュアの言い分はこうである。

 おそらく遊撃士協会の上層部も黒の競売会の存在は知っていて、しかし手を出すことはできないという結論を出している。協会としても強制捜査に踏み切るカードがない上に日々忙殺されているからだ。

 しかし今回レンがよこした招待状によりロイドら警察は潜入の機を得た。警察組織としての潜入ではないので、それぞれの所属する組織からの申し出ではなく、あくまで職業遊撃士の知人が協力したいと言っている、ということにしたいそうだ。

 

「つまり、遊撃士だからじゃなくて友人・仲間として関わりたい、と?」

「……ふふ、そうだね。友人として、仲間として協力させてくれないかな?」

 離れた場所でエステルとレンが騒がしくしている。ヨシュアは歩き出した。

「詳細は明日、きっと仕事で会うと思う。その時に少しサボってほしい」

「――ああ、わかったよ」

 こうして真面目な二人は勤務時間中に少しだけ一緒にサボった。男同士の密やかな悪ふざけである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして現在、そのサボりの結果としてルバーチェ包囲網を破り捨てたヨシュア・ブライトは双剣を構えている。その瞳に宿るのは冷静と激怒、相反する感情を湛えて彼はガルシアを見る。

 その背後には、倒れ伏した仲間の姿がある。琥珀色の瞳がガルシアを捉えた。

「ガルシア・ロッシ、質問に答えてください」

「ゆ、遊撃士、だと……っ」

「此度のクロスベル警察特務支援課との戦闘行為、その理由は何なのですか?」

 ヨシュアはまだ事態の把握には至っていない。だが異常を察知してここに来がてら黒服たちを刈り取っていた。現状倒れている警察官とその背後にいる少女の二点を考えれば、彼の頭脳は容易にそこに辿り着く。

 

「彼らはそちらの少女を守ろうとしていたように見えましたが、貴方はこの少女の何を知っているのですか?」

「………………知らん。俺は銀の野郎が爆弾があると言っていたからその調査に当たっていただけだ。そんな中でこいつらがこのガキを連れて逃げようとした。このガキはここで初めて見た」

 ガルシアは歯を食いしばり、必死に自分を押さえつけて答える。遊撃士の追及、一歩踏み間違えるだけで奈落の底である。ガルシアは警察と違い遊撃士協会を軽視しない。それはクロスベルにおける常識、国家権力への介入という枷こそあるがそれが彼らに適応されることはないので当然である。

「……なるほど、その少女に関しては何も知らないということでいいんですか?」

 ふ、と。

 ヨシュアの体が朧と化した。次の瞬間にはその腕には少女の姿がある。

 抱きしめられたキーアもあまりの速さにキョロキョロと辺りを見回していた。

「ああそうだ。それは間違いない」

 その速度に驚嘆し、しかし顔には出さずにガルシアは言い切った。そうですか、とヨシュアは視線を外しランディを見る。

 

「その少女と共にいた経緯を教えてください」

「俺は直接立ち会ったわけじゃないが、ロイドとお嬢、それとワジのヤツが競売会会場で銀を発見、追跡したところ競売品の中に爆弾があると言われたらしい。事態は一刻を争うとして捜査したところ、競売品の中のトランクにこの子が入っていたっつーわけだ」

「だ、そうですが。ガルシア・ロッシ殿、あくまで貴方は知らないと?」

「確かに競売品を管理していたのは俺だ。だがそのトランクの中にはローゼンベルク製の人形が入っていたはずだ、手に入れた時に確認もしている。ハルトマン議長邸に運び込まれた時には人形だったんだ、だからそれまでの間に摩り替えられたんだろうよ」

 一気に捲くし立て、自分たちは被害者だと言ってくる。事実がどうであれガルシアにはそう言うしかない。だからヨシュアは彼の一挙手一投足から情報を盗み取ろうとしていた。

 

「では、摩り替えられたとして誰にだと思いますか?」

「……銀だ。ヤツが侵入するまでは部下が控えていて誰も入っていない。だがヤツは別だ、俺の部下を一蹴し、そしてこいつらに爆弾がどうのと言い出した。怪しいってなら不法侵入したヤツの方だ」

「では何故彼らと戦闘行為を?」

「いや、それは誤解だ。人身売買の汚名から救ってくれたんだ、お礼の一つもしないといかんだろう。ただ誤解されたのか攻撃を受けたんで抵抗したまでだ。所謂正当防衛だ」

「…………わかりました」

 ヨシュアは今までに出てきた言葉を反芻し整理する。

 ガルシア、いやルバーチェはこの少女について一向に知らず、何者かに人形と摩り替えられたのだと主張している。つまりは被害者だと言い張っているのだ。

 ガルシアの口から聞いた言葉にも疑問は残るが矛盾はなく、同時に証拠もない。あえて突くなら正当防衛の件だが第三者の証言がないなら立件は難しい。

 ヨシュアはキーアを下ろし、屈んで声をかけた。

「君の名前は?」

「キーアだよ、ヨシュア」

「……僕の名前を」

「うん、知ってるよ。でもキーア、どうしてあんな所にいたのかはわかんない。前にいた場所もわかんない」

 嘘だ。

 ヨシュアはすぐに気づいたが、しかし言及はしない。何故トランクの中にいたのか、その言葉に関しては本当だったからだ。

 ヨシュアは微笑み静かな口調で続け、本心を問うていく。

「そっか。ねぇキーア、じゃあこれから遊撃士協会に行こう。君のお父さんとお母さんを探すから」

「…………うん。でもロイドたちが心配だし約束もしたから最初はロイドたちのところに行く」

 ヨシュアは頷き、立ち上がった。双剣を収める。

 

「話はわかりました。この少女の身柄は遊撃士協会が預かります。後日事情聴取に伺うことになりますがよろしいですね?」

「…………ああ、理解している。こちらの疑惑が晴れる協力なら何でもしよう」

 感謝します、と頭を下げるヨシュアを青筋を浮かべながら見つめるガルシア。話はこれで終わりだ、後は撤収するだけである。

「――ああ、そうだ。忘れていました」

 ヨシュアが思い出したように声を上げた。ガルシアは沈黙し、二の句を待っている。

「ここに来る途中黒い狼型魔獣がそちらの方々と連れ立っているのを見かけまして、市民に危険がないように無力化しておきました。どうやらホテル内にも侵入していたみたいでしたが、この件についても改めて」

「…………っ」

 ガルシアが苦悶の表情でその闘気を静め、ランディも迸る気を抑えた。

 キーアがランディの傍に寄ってくる。その頭を撫で、そして仲間を見つめた。

 ワジはとっくに立ち上がっていたが話に加わる意志はなく、こうして終わったので歩み寄ってきた。エリィとティオも回復薬が効いたのか目を開き、痛みに耐えながら立ち上がる。しかしロイドは一向に立とうとしなかった。

「ロイド、無事か?」

 ランディの問いかけにも答えないロイドにヨシュアが傍に寄り屈んだ。その状態を確かめる。

「他は大丈夫だけど、右腕が折れているね。添え木をするよ?」

「…………」

 てきぱきと処置をする中ロイドは夜空を眺めて動かない。

 

「ロイド、平気?」

 キーアが寄ってきた。心配そうな少女の顔、それを見て彼はようやく口を開いた。

「平気だよ、平気だ…………本当に、なんで俺は――」

 キーアは黙ってロイドの頭を撫でていた。

 

 

 

 

 

 

 遊撃士協会を相手取ることが現実的でない以上ルバーチェにこれ以上の行動の自由はなく、やがてモーターボートでやってきたセルゲイとツァイトによって彼らはミシュラムを離れた。セルゲイは彼らに何か言いたそうだったが満身創痍の部下には何も言えず、ただヨシュアと今後の方針について話し合っていた。

 キーアの希望により一度支援課分室ビルに移動することにする。ワジとは東通りで分かれたが、ヨシュアは彼にも事情を聞く必要があるとしてエニグマの番号を交換していた。

 やっとのことで辿り着いた安心の場に糸が切れたように座り込む面々。怪我をしたロイドをソファーに横たわらせ、そこで改めてヨシュアと話をした。

 今年の黒の競売会は散々な結果であっただろうし、それに機嫌を損ねたハルトマンがルバーチェの後ろ盾を続ける可能性は低い。その意味では大した戦果を得たと言っていい。

 しかし一方でルバーチェのたった一人に捻られた事実は確実にしこりとなっていた。

 

「……今後、あいつとやりあう時は俺に任せてくれ」

 ランディが言う。それは彼にとってもう変えられない現実だった。

「……そうね、基本はそれでいいと思う。でもね――」

「わたしたちだって何もしないわけじゃないです。今度は絶対……っ」

 ガルシアにやられた傷が痛むのか顔を顰める二人だが、その言葉には悔しさが滲み出ている。彼女らも何も思わないわけはないのだ。

「……ランディさん。あなたのウォークライ、どこまで保つんですか?」

 ヨシュアが問いかけた。あの時彼が介入しなければ激突したであろう二つの猛威、その一つの限界を知りたかった。

「そうだな、今じゃ10分ってところか」

「……厳しいですね」

「今は、な。使うたびに慣れてくるさ……昔取った杵柄どころか皮肉にしかならねぇけどな」

 ヨシュアは押し黙る。セルゲイやロイドはその話に何か思っているようだったが他の三人には見当がつかなかった。

 

「――それでお前ら、この子はギルド預かりでいいのか?」

 セルゲイが話の焦点を戻した。ルバーチェの動向も気になるが、何より保護した少女の行く末を考えるべきなのだ。いつの間にか難しい話をしていたからか、その少女は傍で丸まっていたツァイトを撫でている。

「キーア、もう一度聞くけど遊撃士協会に行っていいのかな?」

 ヨシュアが尋ねるとキーアは哀しそうに目を伏せて小さく頷いた。

「わかった。それじゃ――」

「わっ……」

 ヨシュアが行動に移そうと腰を上げたと同時、ツァイトが立ち上がった。キーアも少し驚いている。

 そして唸り声を聴いていたキーアはきょとんとした様子で声を漏らした。

「キーアちゃん?」

 エリィが声をかける。キーアは身体を強張らせて振り向いた。その表情には困惑が伺える。

「どうしましたか?」

「……ツァイトが、ついてこいって言ってるから…………キーア、言ってくるね」

 キーアはツァイトの言葉がわかるらしい。全員がティオを見ると頷いている、本当のようだ。

 

 ツァイトはキーアを引き連れてゆっくりと階段を上っていく。その姿が見えなくなると、全員は小さくため息を吐いた。

「ヨシュア、ルバーチェに遊撃士協会は介入できないのか?」

 ランディが尋ねる。今回独断とはいえ遊撃士が人身売買の可能性を見たのだ、これが真実だった場合遊撃士協会はルバーチェを一掃することができる。

 ヨシュアは首を振った。

「これはあくまでガルシア・ロッシの反応からの予測ですが、彼は本当に何も知らなかったようです」

 

 ガルシアに詰問している間、彼が注視していたのは眼球の動きである。営業本部長としてそれなりの交渉の場に出ているだろうが元は猟兵、百戦錬磨とは言いがたい。あの動揺した状態で心理に反する細かな動きができるとは思わなかった。

「彼が嘘を吐いたのは戦闘理由だけです。キーアのことについては青天の霹靂だったのでしょう。そしてルバーチェという組織のことを踏まえれば、あそこで彼らが人身売買をするメリットはほぼありません。確かに有力者とのパイプを確固たるものにせんと危険な橋を渡ったということも考えられますが、それならガルシア本人がトランクを守るくらいの意識がないといけません。デメリットのほうが圧倒的に多い勝負事、現況そこまで苦しくないルバーチェがそれを為したと考えるよりは嵌められたと考えるほうが妥当です」

 その場合、一体誰がというのが一番の問題であるわけだがヨシュアはその答えを見出せなかった。

 ルバーチェを嵌める行為を一番やりそうなのは黒月だが、クロスベルを任されているツァオ・リーの性格を考えると可能性は低い。ルバーチェが嵌められたという結果に行き着けば真っ先に疑われるのは彼らである。

 黒月は、ツァオはそんな危険な一手を打たない。彼はリスクを犯さずにリターンを得る方法を熟知しているのだから。

 

「人身売買の明確な証拠がキーア本人であり、その彼女にもその記憶がない以上、しらばっくれられたら立件は不可能です。捜査の名目として競売品の回収はできるかもしれませんがそれは警察の仕事、そしてそれはルバーチェからの打診によって阻まれるでしょう」

 沈黙が降りた。ヨシュアの言い分は理解できるが、圧力に屈するという確信した言葉は胸に来るものがある。

 それでも彼らにはそれを阻む力はない。地道に、諦めずに抗うしかないのだ。

 

「ただ、市民の生活圏内に魔獣を放ったという事実は遊撃士協会が動くに足るものです。その場で現行犯逮捕ということもできましたが魔獣とルバーチェの関連性を証明する手立てがあの時にはありませんでした」

 ルバーチェが以前起こした魔獣事件は警察への圧力によりほぼ無罪となっており、また今回の騒動で放たれた魔獣がその時の魔獣と同一である証拠はなかった。仮に、何処からか現れた魔獣を掃討すべくルバーチェが動いた、と警察に証言されれば終わりなのである。

 ヨシュアがいくら支える篭手に誓って証言しても、その証言が個人的見解を超えない以上決定打にはならない。今回の件では後日事情聴取に向かう程度にしかまとまらなかったのだ。そしてその聴取も圧力をかけられた警察による介入があるはずである。

 

「――ま、上層部の奴らに文句をつけても仕方がないのは確かだ。お前らが今できることはあの子を無事に家に帰すことだろう」

 セルゲイは強引に話を纏めた。そう、今回最後の仕事はキーアを送り届けることだ。そんな幸せに直結する仕事にエリィが微笑む。

「そうですね。キーアちゃんを無事に帰す、それが今の私たちの仕事ですね」

「でもあの子は覚えていないんでしたっけ」

 エリィは頷く。キーアは自分のことについて何も覚えていないと言っていた。わかるのは自分の名前と、そして――

「俺たちの名前、か……」

 その不思議な事実は何とも言いがたい。まるで自分自身と名前を覚えていた彼らが同価値であるもののようにも取れる。

 それ自体は喜ばしいことだが両親や家の場所などを覚えていないのだから複雑である。

 

 何より、彼らはキーアのことを知らなかった。いつかどこかで会ったのか、それぞれの過去で会ったとも考えられるが、ここにいる全ての人間と結成前に会うとはどんな運命なのだろうか。

 それとも、彼らが覚えていないだけで結成後に会ったのだろうか。

「考えても仕方ねぇ、とりあえず俺たちは情報を集めなきゃいけねぇんだ」

「ですね」

「…………」

 皆が纏まる中、ヨシュアは思考する。

 彼はキーアが本当のことを言っていないことを知っていた。それでも少女はそれを語らない、語らない理由があるとすれば、まずはそれを知らなければならない。

 目下の悩みはこの事実を支援課に教えるかどうかだが、それは来訪者に遮られた。

 

「ほうら、レンの言ったとおりでしょう?」

「う、なんか納得いかないんですけど……でも約束だし仕方ないわね」

 そう言って扉を開けたのはレンとエステルである。レンは恭しくお辞儀をするとヨシュアを迎えに来た旨を告げた。

「少し待って。今――」

 ヨシュアが言いかけるとちょうど階段からキーアとツァイトが戻ってきた。少女の表情は向かった時とは一変しており笑顔に満ちている。その変化に気づいたヨシュアは再度尋ねた。

「キーア、ギルドに来るかい?」

「んーんっ、キーア、ロイドたちと一緒にいる!」

「――そっか」

 ヨシュアは目を閉じて了承し、歩き出した。

「そういうことだからキーアは任せてもいいかな?」

「え、ええ。大丈夫だけど……」

 うん、ともう一度噛み締めるように頷きヨシュアはエステルとレンとともに去っていった。扉の向こうから小さく会話が聞こえる。きっと事情説明に奮闘していることだろう。

 

「ねぇ」

 キーアが口を開いた。ロイドも起き上がり、全員が彼女を見る。

「キーア、ここにいていいのかな?」

 尋ねるような言葉に相反する笑顔で少女は言い、顔を見合わせることなく一致した四人はそれぞれの言葉で以って受け入れた。

 セルゲイは居心地悪そうに煙草に手を伸ばし、ツァイトは大きく欠伸をした。

 

 クロスベル創立記念祭最終日、特務支援課に一人の少女が加わった。それは彼らがクロスベルに呑みこまれた瞬間でもあったが、それを知る者は極僅かしかいなかった。

 

 

 

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 

 

 ベッドに寝転がると右腕が痛んだ。それは否応なく現実を彼に知らしめる。

 天井の染みを数えるように亡羊と眺めるのは、目を閉じると過去が押し寄せて来て耐えられなくなるからだと気づいていた。

 俺は……

 腕以外で痛む箇所はない。それが救いなのかどうか、身体にとっては救いであり、心にとってはそうではなかった。

 何も考えられないほどに痛みが走ってくれるならこんな気持ちにはならないし、自身の行動を反芻したりなんかしない。その意味で彼は、この時ばかりはどうしてこんなに無事なんだと現実を呪った。

 

 今日はとんでもない一日だった。黒の競売会に潜入し、クロスベルの闇の象徴ともいえるマルコーニとハルトマンを見た。競売会のシステムを知り歯噛みしながらも、行為が無駄ではないと言われて嬉しかった。

 そして、トランクから一人の少女を見つけた。キーア、それが少女の名前。対面した時少女は驚きに満ちていた。自分の名を言い、そして何を悟ったのか哀しげに顔を伏せた。

 それを何とかしようと思ったのは嘘ではない。幼い少女が現実に押しつぶされたような表情は彼にとって耐えられるものではなかった。

 少女の安全を守るためにハルトマン邸を脱出し、ガルシア・ロッシと戦った。少女を守るための戦い、例え敵わない相手でも絶対に守りきると全力を出した。

 

 本当に、そうか…………?

 

 脳裏に現れる問いかけ。そんな疑問を振り払いたくても焼き付いて離れず、それ故にその答えを導き出してしまう。

 ガルシアは強敵だった、ランディが全力を出し、ヨシュアの援護によって事態が収束されるまで圧倒され続けた。

 手も足も出なかった。経歴こそ知っていたし肌で感じる力強さは本物だった。

 そんな高い壁に対し、果たして――

 

 

 本当に、全力を出したのか――――?

 

 

 確信のような問いに彼は答えを出せない。自信を持ってそうだ、と言うことができない。それは今までの経験による葛藤だ。

 これまで対峙した危機を彼は乗り越えてきた。絶命すると思ったブレードファングでさえもその全力で乗り越えたのだ。

 それを自分の潜在能力だとは言わないが、それでも本当に大事な、重要な時には何かがあったのだ。

 なのに今回それがなかったのは、心の奥底で自分が躊躇したからではないのか。

 

 躊躇、そう躊躇だ。彼は躊躇したのだ。

 

 彼は、本当に少女を(・・・・・・)助けるべきなのか(・・・・・・・・)と心のどこかで思ってしまったのだ。

 

 本当に微細な、取るに足らない唾棄すべき思考。普段の彼ならばそんな思考絶対に起こらないはずの、そんな悪魔のような考え。

 そしてそんなことを思った自身が、本当に最善を取ったのかが信用できない。

「俺は……」

 右腕が痛い、それは今回の不信が現実であることを告げていた。

 

 その夜、腕の痛みが消えることはなかった。疲れからいつの間にか眠ってしまったのに、その間もズキズキと苛み続けた。

 まるでそれを忘れるなと身体が言っているようだった。

 

 

 

 

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