空の碧は全てを呑みこみ、それでも運命の歯車は止まらない 作:白山羊クーエン
自分が政治の道を志したのがいつからなのか、それをアーネスト・ライズは覚えていない。ただ気づいたときにはその世界に入って理想を貫いてみせようと期待を溢れさせて勉強を続けていた。
ヘンリー・マクダエル市長は優れた為政者だと信じていたので駄目もとで彼を訪れ、そしていつからか彼の秘書として家族同然に付き合ってもらっていた。彼の娘夫婦やその娘エリィとも親しくさせてもらい、彼は勉強の日々に充足を感じていた。
最初の目的である政界進出が果たせなくとも、この家族と幸せに過ごせればいいのではないか。そう思った矢先、娘夫婦はクロスベルという闇の犠牲になってしまった。
甘かった、そのことでアーネストはクロスベルの政治がいかに難しいものだと実感でき、いつしか抱いていた妥協の考えに強い悔恨が芽生えた。
自分のあずかり知れない情報から出された資料よりも、家族同然の存在がそれにより崩壊したことで現実味を帯びて壁として立ちふさがったのだ。
自分が変えなければならない。
夫妻が残したエリィの勉強も見ていた彼には彼女を大切に導かなければならないという義務感と、それを機に顔のしわが増えたヘンリーを支えていかなければならないという使命感が生まれ、それが彼を虜にした。
そして、自身の愛する家族を壊したクロスベルを終わらせ、当たり前の幸せが永劫続く新しいクロスベルにしようと決心した。それは今も、全く衰えることのない彼の信念である。
そしてその信念の下に――――どうしてだろう、彼は守ろうとした存在と対峙していた。
アーネストが持つ剣はまるで溶解途中であるかのように爛れた形をしていた。歪で凸凹のそれはしかし刃先だけは確かな殺傷力を証明するべく鈍く輝いている。
その剣が軌跡を描いた。高速の踏み込みからの横薙ぎ、それを間一髪のところでロイドは受けた。片手では防ぎきれない威力、故に二本を間に挟み、かつ腕で固定して初めてそれをやり過ごせる。
しかしそれも一瞬、数秒の拮抗という結果は両者の足の力の差だ。同じ大地に立っていてなお踏ん張りが利くのは、足の指で大地を掴んでいるからに他ならない。
これは言ってみれば足の握力、体格・身体能力で勝るアーネストが勝つのは道理だった。
「く――」
しかしロイドもそんなことは百も承知、膂力はさておき初手の加速を見るにまだ走力は五分だ。それならロイドは小柄な自身を最大限に生かして勝機を掴む。
「アーネストさんっ!」
「アーネスト、もうやめろ!」
エリィと二人、対峙する相手に呼びかける。エリィは銃を持ってこそいるが引き金に指をかけていない。その代わりとしてエニグマを持ち、ロイドに補助をかけ続けている。事ここに至って彼女は自身の恩師に敵意を向けられない。
シルフィードによって加速したロイドはアーネストの左を走破し得物を振りぬく。それを剣ではなく腕で受け、更に弾き飛ばす。
魔人化した身体はそれだけで武器となる。生半可な攻撃では打ち崩せない。吹き飛ぶロイドに対し地を蹴ったアーネストは斜め上から魔剣を振り下ろす。咄嗟に横に転がって避けたロイドを礫が襲った。
砕ける地面、まるで導力車が衝突したかのような痕が刻まれる。その結果の余韻を味わうようにゆっくりと立ち上がるアーネストは両手を掲げて誇るかのように吼えた。
「馬鹿なことを! この圧倒的な力、これがグノーシスの力でありヨアヒム司祭の力だ! これで私はクロスベルの市長となり、既存の闇を取り払う! 私に劣る君にはできないことだ!」
「薬を使って得られた暴力に何の意味がある!? 他者を蹂躙することしかできない力にどうしてクロスベルが変えられるって言うんだ!」
エニグマを駆動、大地が隆起してアーネストを襲う。それを一回転して振るった剣戟で微塵にし、盛り上がった筋肉で強引に加速する。
刺突が尋常ではない速度で迫り、ロイドは避けきれない。間一髪差し込んだトンファーで軌跡を曲げ、しかし右脇腹を鋭利な痛みが襲った。
追撃、刺突を強引に止め、薙ぐ。差し込まれた左のトンファーを弾きながらロイドを吹き飛ばした。
「暴力も力だよ! 確かに平和的な力で解決することが望ましいのが一般論だ、だがそれでクロスベルは変わったのか!? 変わるのか!? いいや変わらない、変わらないからこその七十年の歴史だ!」
痛みに足を止めたロイドにアーネストが迫る。しかし間合いの一歩外で不意に跳躍、後退する。
直後、一瞬先の未来に彼がいたであろう場所に時の刃が殺到した。その出所、エリィ・マクダエルを見つめたアーネストは更に続ける。彼の瞳に映る彼女の顔は苦痛に満ちていた。
「君たちは何故わからないっ!? 今のクロスベルは腐敗し不正が蔓延る最悪の都市だ、それを正すためには私が市長となりハルトマン議長と提携するしかないじゃないかっ!」
「……っ、そのハルトマンが腐敗の象徴だろう! それに乗っかる形でしか力を得られずまた不正を正せないなら、そもそも感じる正義がおかしくなっているんじゃないかっ!」
「何を馬鹿なことを! 私が信じる正義、正しい世のあり方とはエリィ、君が抱くそれと同質のものだ! それらは全てヘンリー市長の導きによって得られたものなのだから!」
そう、全てはヘンリー・マクダエルから始まった。
アーネスト・ライズは彼の思想に希望を抱き、エリィ・マクダエルも尊敬すべき祖父を見続けてきた。しかし今は違う。声高に思想を告げる彼の人は、エリィが知る当人とは離れすぎている。
左の拳を握り締め、剣を振るう。それだけで鎌鼬が発生し、ロイドとエリィに裂傷を生む。倒れこむ二人、ロイドは蓄積したダメージに、エリィは外傷以上の心の痛みに歯を食いしばった。
「そうだ、私は正しい。この私によって導かれたクロスベルは大陸一の存在となり、やがては世界の命運すら掌握するだろう。そしてエリィ、その時に君は私の傍にいるべきだ! 君と私は同じなのだからな――!」
「……っ」
最後に聞こえた言葉。エリィは目を見開き、
「同じなものかッ!」
そしてロイドは渾身の一撃を放ちアーネストを固定する。今までで最大の威力、アーネストは剣で受けつつ沈み込む両足に驚愕した。
碧の光がロイドを包み、全ての感覚が加速する。その威力・速度はアーネストの想定外のもので、故に彼は受けに回るしかない。一撃ごとに響く甲高い音とともに、その意志が外化されていく。
「あんたがしたことは許されない邪道だっ、たとえエリィとあんたの目指す道が同じだったとしてもエリィならあんたみたいなやり方をしない! 現市長の暗殺! 病院の占拠! いやそもそも、あんたみたいにグノーシスに頼ったりなんかしないんだ!」
前方に回転しながらの両の振り下ろし、それに対し体幹を限界まで引き絞った斬り払いが迎撃する。両撃は互角、しかし安定していたのは地に足着けるアーネストである。
中空に飛ばされたロイドを跳躍して追撃、その足を掴み叩きつけた。ロイドの身体が跳ね、口から血が零れる。そのまま降下したアーネストの必殺の一撃を四肢の奮起で回避したロイドは一瞬で姿勢制御、回避の反動を利用して螺旋の突進を見舞う。アーネストはそれを両手持ちの剣で受けた。
「確かにグノーシスは君たち無能な警察から見れば許されないものだろう。しかし! しかしこの力があればクロスベルを変えられる! 市長の目指したこの都市のあるべき姿が実現するのだ! ならば手段など関係ない、未来が最良ならばその過程が批判されるべきものでも後の世では賞賛される! それは歴史が証明しているのだよ――!」
アーネストの身体が後方に沈んだ。瞬間、ロイドは腹部に蹴撃を受け悶絶する。丸まった体勢で跳ね飛ばされた彼の思考が停止する。
両足に力を込めたアーネストは再びの好機を逃すまいと一層の集中を実現し――
「なら――」
ふと聞こえた懐かしい声に顔を向け。
「ならおじいさまを殺そうとしたのも正しいと仰るんですかっ!」
その弾丸をその身に受け入れた。
導力で構成された銃弾、それはしかしアーネストを傷めるほどの威力はない。しかし何より、共に放たれた言の葉が、身体の芯に衝撃を与えていた。
ロイドはその一瞬の隙により自身の制御を取り戻す。しかし彼は攻撃を開始することはなく、ただ距離を離して転げるように着地した。
そこは共に戦う彼女の隣。アーネストのものではない、自分の居場所。
横に見える彼女の顔には悲しみが見て取れた。目に浮かぶ涙は如実に語るが、それよりもその言葉のほうが深かった。
もう彼女の銃口は彼に向いていない。アーネストも、彼女に剣を向けていなかった。
「おじいさまの信じる正義、それを背負っているというあなたが、どうしておじいさまを殺して市長になろうとしたのですかっ! 尊敬する人の殺害、その過程すら、正しいと言うんですか……っ」
「正しいさ! 市長は強行できる年齢ではない、かと言って後進に道を譲ることもできない! 帝国と共和国、そのどちらにも組していない議員などほんの一欠な現在では不可能だからだ! それではあの人も犠牲になってしまう! 君のご両親のようなクロスベルの闇の犠牲に! なら強引にでも政界から身を引かせる、それのどこが間違っているんだ!」
「なら貴方の凶刃に倒れたほうが良いと仰るんですかッ! 何より信頼していたあなたにならおじいさまはきっと先を任せられた! そのあなたに襲われた事実、それこそが何よりおじいさまを苦しめたというのにっ……それなのにあなたはまだ闇に囚われている。根本の理念は変わらないのに、どうして手段を選ばなくなってしまったんですか……」
俯いた彼女の見つめる先には雨が降っていた。一つ一つの雫が落ちる時の輝きを、強化された視界が明瞭に送り届ける。
その光景に、ずきりと心が痛んだ。
「おじいさまの正義が自分の正義だと言うのなら、どうして最後までおじいさまと共に歩んでくれないんですか――っ」
「アーネスト! あんたがすべきことは市長を殺して後を継ぐことじゃなく、市長と一丸となりハルトマンを失脚させることなんじゃないのかッ!? あんたの言い分だとハルトマンが市長と同じ正義を抱いていることになるんだぞ!」
「そんなことはないッ! ハルトマン議長が同じならここまでクロスベルは腐敗していない! 市長だって心労を重ねることもなく、君のご両親だって離れることはなかったはずだ!」
その絶叫は、俯いた彼女の顔を上げるには十分すぎた。呆然としたエリィがまるで視界に入っていないかのように、自身に言い聞かせるように、アーネストは言葉を続ける。
そう、自身に言い聞かせるように。
魔剣がどす黒い瘴気を纏い、アーネストを包み込む。経験したことのない怖気が二人を襲うが、まるで蟻地獄に嵌ったかのように金縛りに遭い動けない。
大気が渦巻く。その支点はアーネスト・ライズ、毒にも似た汚染された空気が螺旋を描いて二人を引き寄せていく。
その終着点は黒の魔剣、アーネストは全膂力で以ってそれを大地に突き刺した。それはアンカー、グノーシスの力を地面に伝える回路である。
刹那、二人の体内を猛毒のような衝撃が走りぬける。声を出すこともできない激痛と、決壊したダムのように流れていく体力。
黒い渦に沿うように二人の力は流れていき、まるで剣がそれを貪っているかのよう。
「が」
再び衝撃が襲う。心臓を圧迫するように暴走する瘴気。内臓を強打されたような感覚が全身を包み込み腰が砕けた。
地面に倒れこむ音すら彼方のようで、しかしそれを認めてはならないと必死に歯を食いしばった。
口元を真紅に染めたエリィはそれでも霞む視界の中にアーネストを捉えて放さなかった。今の激痛よりも、直前の言葉の衝撃のほうが凌駕していた。
「アーネスト、さん」
「そうだ! 議長と市長が同じ志を抱いているならこんなことにはならなかったッ……! だから私はその二代表が協力できる未来を作る! 私が市長となり、クロスベルを変えるのだ! 私は、あの温かかった家族を守るために――――」
あの家族を守るために、どうして市長を殺すんだ……?
その、ほんの小さな違和感が、爛れた身体に溶けていく。
「私が政治の道を選んだのはヘンリー市長のおかげだ、なのにどうして市長を殺す? 安らぎをくれたあの人たちのためにクロスベルを変える、なのにどうしてその家族である市長を殺す?」
まるで迷子になってしまったかのような瞳が足元を見続ける。救いを求めるように上げられた手のひらを見て、人外のそれが自身のものだと自覚する。それでも、アーネストは呟いた疑問の答えが出ない。
「アーネスト、あんた……」
「市長を助けたいと願っていたはずなのに、どうして私は、市長に剣を向けたんだ…………?」
その最大の疑問。エリィは声もなく、故にロイドは彼女の気持ちを代弁するように口を開いた。
おそらくアーネストもわかっている、知っている。しかし変わり果てたその身体では答えは出てこない。ならばそれは他者が言ってやらなければならないことなのだ。だからこそ回復もままならない状況でも踏ん張らなければならない。
これは彼を救うためでもあり、何より彼女を救うために必要なのだ。
「アーネスト、あんたは言ったな。『過程が批判されるようなものでも――』と。それはつまり、マクダエル市長を殺すことが間違っていることだって、本当はわかっているからじゃないのか?」
「あ…………」
がらんと。
空気を響かせて魔剣が堕ちた。瞳に生気が、人間なら当たり前に持つそれが蘇ってくる。
そんな呆然とした彼に、立ち上がり涙を拭ったエリィが微笑を送った。ふらついている、立ち上がることすら苦痛のはずだ。だがエリィの顔にはそれによる苦悶が現れていない。ロイドはその背中を優しく支えた。
「――アーネストさん、貴方の家族として、今の貴方に言いたいことがあります」
「エリィ。どうして、私に銃を向けるんだ……?」
アーネストは暗い銃口を不安げな様子で見つめる。そこには今の魔人化したものではない、原初の彼が見て取れた。
だからこそ、エリィの手は震えを訴えていた。今引き金を引く相手は正しく彼女の憧れた存在に他ならない、家族に他ならない。そんな存在をこれから手にかける、それは他人事であっても心を痛める出来事で、そしてこれは自分自身のことだった。
当たり前に身を委ねたい、そう思う教え子の自分。そして、それを見せてはならないという成長した自分。その鬩ぎ合いが感じられる。
それでも、不安をわかってくれる仲間が傍にいた。
背中に感じる温もりがそれを教えてくれた。
だから、今のエリィは銃を微塵も動かさない。動かしてはいけなかった。
「今のあなたは正気ではない、そんなことはわかっています。でもその原因を作ったのも貴方自身です。なら、責任を取らなくてはならない」
これほどの規模の事件の主犯格である彼が責任を逃れることはありえない。それでも、彼が持つ本来の気持ちを知ってしまったエリィには警察官としての非情な選択もまた選べなかった。
そんな未熟さが、今は少しだけありがたかった。
「私たち家族のためにここまで堕ちた貴方を、私はもう責められない…………でもだからこそ、けじめは私がつけなくてはいけないんだと思います」
「エリィ、私は……」
「もう休んでください、アーネストさん。悪い夢は、もう終わりなんです」
悪い夢。
そう聞いたアーネストは得心したように目を見開く。そこにはもう不安はなく、ただ子供のような安堵感があった。
「悪夢。そうか、悪夢か」
「次に起きたら全てが終わっています。だから、安心してください」
「そうか――――君がそう言うなら、そうなんだろうな……少し疲れたよ、エリィ……」
そうして、アーネスト・ライズは目を閉じた。暴力を体現したような姿で、しかし内面は既に無防備だ。
その異形の迷子に対しエリィは指に力を込めた。乾いた音が響き、今まで弾かれていた弾丸が嘘のように胸を貫く。
その哀しい軌跡を受けた魔人は果たして崩れ落ちる。スローモーションのようにその姿を見つめ続けた彼女の瞳から最後の雫が零れた。それが地に落ちると同時、アーネスト・ライズはかつての姿を取り戻して沈黙した。
「さようなら、アーネスト先生。もう今までの関係には戻れないけれど、でも、それでいいんだと思います。私はもう、貴方に教えられるだけの生徒ではいられないから」
エリィは天を仰ぐ。もう涙を零してはいけないと自制するように。
「エリィ、大丈夫か?」
それを傍で見守ったロイドが口を開いた。彼の目にはエリィが風で飛ばされそうな綿毛のように見える。
しかしそれは幻だ。その綿毛は既に、自身が生きる場所を見つけているのだから。
「ええ…………行きましょう、ロイド。もうじき夜が明けるわ」
銃を仕舞おうとして、しかし手がそれを放してはくれなかった。今更になって震えがきている。
その弱い手に、誰かの手が重ねられた。
「それでいい、それでいいんだ」
「ロイド……」
「それは、持っていていい弱さのはずだから」
「…………もう」
せっかく我慢したのに、と。
エリィは再び頬を伝った水を感じながら微笑した。
* * *
果たして、最後の障害は取り払われた。ガルシア・ロッシとアーネスト・ライズは沈黙し、魔人化したルバーチェ戦闘員も地に伏せる。
彼らが守っていた先への道を進むとそこは牢獄、そこには行方不明となっていた一般人とマルコーニの姿があった。
喚くマルコーニを一喝し黙らせる。マルコーニはさておき、一般人を魔獣が跋扈するこの空間に置いておけない。遊撃士の二人が護衛として付き避難を開始させる。
一人取り残されたマルコーニは呆然とし、そしてロイドは聞きたかった言葉を聴いた。
朝日が昇るまであと一時間、特務支援課は揺籃の見つめる儀式の間にて、特務支援課は最後の司祭と対面する。