【4分33秒】
最後の書類を書き上げて、私はふうと息を吐きました。
時計を見れば、もう日付も変わっていたようでした。
都合4時間も、私は書類と格闘していたらしいのです。
それを自覚した途端、私は心地よい疲労感に襲われ、くわ、と欠伸をしかかって。
その開きかかった口を、何者かの手に塞がれたのです。
いえ、何者かなど、考えるまでもありません。
私に気付かれずにここまで近付き。
あまつさえ、心を読まれぬままに私の口を塞ぐなんてことができるのは。
私の愛しき妹、こいし以外にはありえないのです。
こいしは私の口から手を離すと。
今度は私の唇に、指を一本当ててきました。
静かにして、と言いたいのでしょう。
分かりました、と私は静かに頷きました。
辺りはしんと静まり返っていました。
ペットたちの鳴き声ひとつ聞こえないのです。
もしやこいしはペットたちをどこかに連れて行ったのかしら。
私の頭にそんな考えがよぎりましたが。
すぐにそれは間違いだと分かりました。
私の耳が静寂に慣れるにつれて。
ペットたちの息遣いが、あちらこちらから聞こえてきたのです。
ただ、その心の内までは、聞こえてくることはありませんでした。
こいしの仕業でした。
私のサードアイが、何者の心も映さぬように。
こいしはその眼を、その手で覆っていたのでした。
不思議な感覚でした。
誰の心も聞こえぬ静寂を、私は久々に経験したのでした。
そしてそれはその昔、まだここにただの一匹のペットすらいなかったあの頃の静寂とは。
まるで、異なるものだったのでした。
針が時を刻みました。
ペットの身じろぎが聞こえました。
廊下に足音が響きました。
遙か旧都の辺りから、微かに騒ぎ声が届きました。
静寂がこれほど雄弁だとは、私は今まで知りませんでした。
否。
もはやここにあるのは、静寂とは異なるものでした。
この空間を表現する言葉を、私は持ち得ませんでした。
ああ、こいしはこれを聴かせたかったのですね。
私はようやく、それに思い至ったのでした。
・ ・ ・
かちり、と後ろから音がしました。
私には、それが何の音なのか、とんと判別がつきませんでした。
ただ、この不思議な時間が終わりを迎えたということだけは、おぼろげながら察することができました。
私のサードアイから、こいしの手が離れて、そのまま肩に軽い衝撃が走りました。
「……こいし」
こいしが、私の肩に寄りかかってきたのでした。
「ねえお姉ちゃん、どうだった? 生命の鼓動の演奏会」
こいしの言葉に、ようやく私は、あの不思議な時間を表す言葉を知りました。
「ええ、素敵な時間でした」
「とっても?」
「もちろん」
「そっか」
良かった、とこいしは小さく呟きました。
私の世界にはあっという間に、いつもの喧騒が戻ってきました。
ペットたちの鳴き声があちこちから上がり、かれらの様々な心情が私のサードアイに映し出され、ついでに私は思い出したように、くわと欠伸が漏れました。
「私はそろそろ寝ることにします。お休みなさい、こいし」
「うん、おやすみ」
私はそれに、言葉にし難い安堵の念を感じていました。
しかしその一方で、近いうちに私がまた、あの不思議な演奏会を恋しく思うであろうことも、何となくですが察していたのでした。
・ ・ ・
お姉ちゃんと、2人で奏でた、4分33秒。
それを録音したカセットテープは、こいしちゃんの宝物です。
実験芸術とこいしちゃんは、とても親和性が高いと、そう俺は思います。