ASEの蜘蛛男   作:二不二

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<登場人物>

斑鳩悟(いかるが さとる):
どんな乗り物でも乗りこなすASEドライバー。

小雀雲居(こがら くもい):
スパイダーマンの力を持った高校生。

百舌鳥創(もず はじめ):
前任のASEドライバー。斑鳩悟の師でもある。
現在は、ASE日本支部をまとめる支部長の任に就いている。

亜鳥アキラ(あとり アキラ):
ASEのエージェント。怪力オバケ。
自然保護団体IBAMAの一員として活動する傍ら、密猟者撲滅組織の一員として世界中を飛び回っている。日系三世ブラジル人。

清水初音(しみず はつね):
ASE所属の天才メカニック。高校生。



2. A Hero In ASE ~ASEのヒーロー~_下

 **

 

 

 東京二十三区は広い。

 とはいっても、緑のある場所は限られる。

 街の緑はまばらである。河川沿いの木立ちや、街路沿いの並木、あるいは建物のアウトテリアとしてわずかばかりの木々がそっと添えられているだけであるから、深い緑は望むべくもない。

 

 ――自然公園を除いては。

 

 東京都内には、実に約八万ヘクタールの自然公園が存在するのだ。

 たとえば、都立多摩丘陵自然公園。

 この豊かな自然の一画、陰深い森林のなかで、二組の男たちが対峙していた。すなわち、密猟動物の売人と、その買い手である。

 

「これが約束の品だ」

 

 売人は背後の、布を被った檻の群を、顎で示す。

 獣のうなり声に、もぞもぞと生物の動き回る音。雑多な動物の気配が、そこから伝わってくる。

 

「しかし、俺たちには理解できんな。こんな気味の悪い動物どもを愛でようだなんて」

「私は、別段、この子たちを飼おうというつもりはない。ただ、彼らに自由とチャンスを与えたいと思っているんだ」

 

 嘲う売人に、しかし、買い手の男は冷静に答える。

 

「チャンスだって?」

「そう。繁栄するチャンスだ。この子たちは、本来の生息地を人間に奪われ、今まさに滅びつつある。それは忌むべきことだが、しかし、止めることは大変難しい。だからこそ、新天地を提供しようというのだよ」

 

 男は両手を広げ、まるで自身が神の使いでもあるかのように、尊大に語ってみせる。

 

「知っているかな? 本来、大自然の断崖絶壁に住まう猛禽が、都会のビル群に住み着いている事実を。故郷よりも外の世界に、生命はひょっとしたら新たな棲家を見つけることができるかもしれないんだ。人もまた、故郷アフリカよりもっと広く、世界中を我が家とした。同様のチャンスは、動物にだって与えられるべきろう? だから、私はこの子たちにチャンスを与えることにしたのさ」

 

 それは、いささか乱暴な理論であった。

 動物は、それぞれの気候や環境に適した形態を備えるべく進化してきた。適正のない環境では、生存は難しい。

 猛禽がビル群に住み着いたのも、硬質の摩天楼が、ごつごつとした岩肌むき出しの断崖絶壁という自然環境に類似していたからである。

 それを、男は無視する。

 

「何事もやってみなければ分からない。いったい誰が、猛禽がニューヨークや東京に住み着くことを予測できた? 大切なのは実践だよ」

 

 この暴論は、しかし、売人には関係のないことだった。

 

「ハッ。アンタの主張も、コイツ等の生き死にも、俺たちにはどうでもいいことだ。金さえもらえればな」

「拝金主義者め。嘆かわしいことだな。だが、まぁ、それでいい。おまえたちの仕事はこの子たちをここまで連れてくることで、この子たちを解放するのは私の使命だ」

「おいおい、コイツ等をどこに放とうがアンタの勝手だが、今すぐは勘弁してくれよ。猛獣だっているんだ。巻き添えは御免だぜ」

「ならばさっさと去るんだな。私は、急いでこの子達を放たなければならないんでね」

 

 金の詰まったバッグを投げ渡し、そして、動物たちを解き放とうと檻に手を伸ばした、まさにそのときである。

 

「ヘイ、悪党。そこまでにしときな。アンタのしてることはワシントン条約違反だぜ。ああ、動物の糞もそこいらに転がるから、迷惑防止条例違反も加わるかな」

 

 どこからか降ってきた軽口が、その手を止めさせた。

 正体不明の声の主を求めて、男たちはあたりを見回す。

 

「どこだっ」

「いたぞ、木の上だッ」

 

 背の高い杉の木。

 その天辺に、赤と青の奇抜な全身スーツ姿の怪人が立っていた。

 

「誰だ、お前はっ」

「ASEのス、スーパーヒーローっ。おまえ等を捕まえる者だっ」

 

 どういうわけか――もちろん恥ずかしさで――震える声で名乗りを上げる男。小雀雲居である。

 高層ビルの間を飛び回り、電車の天井に”無賃乗車”して、ここまで駆けつけるまでおよそ三十分。

 自動車を飛ばすよりなお早く、ヘリコプターとは比べるべくもないほど静かに、雲居はその現場に駆けつけることができたのだ。

 

「知ってるぞ、こいつはスパイダーマンだっ。ASEのスーパーヒーローの!」

「ちょっとっ、その呼び方止めてくれないかなッ。『ASEのヤツ』でいいんだよ、『ASEのヤツ』で」

「なんでだよ。テレビで見たぜ。お前、ノリノリでスパイダーマンでございって名乗ってたじゃないか」

「ほぁっ!?」

 

 黒歴史をほじくり返されて、雲居は悶えた。

 目眩でもしたのか、頭を抱えて身体をひねり――

 バランスを崩して、木の天辺から落下した。

 

「あっ、おいっ」

 

 敵であるのも忘れて、男達は悲鳴をあげた。

 木は、見上げると首が痛くなるくらい、高い。その天辺から落ちれば、ただですは済むまい。

 誰もがグロテスクな光景を覚悟したその瞬間、

 

「よっと」

 

 怪人は四肢を着き、まるで蜘蛛のような姿勢で、音もなく地面に降り立った。

 しなやかなその動き、人間離れした所作に、誰もが目を剥く。ただ一人、蜘蛛の怪人だけが平常運転である。

 彼は、ヤケクソになって叫んだ。

 

「本当はこんなのしたくないんだけど……でも、呼ばれたからには仕方ない。そう、俺こそは正義の使者スパイダーマン!」

 

 四つん這いのままポーズを決め、次の瞬間には、何かに追い立てられるかのように軽口をたたいていた。

 

「ありがとね、心配してくれてっ。でも、せっかく心配してくれたところ悪いんだけど、キミたち皆捕まえちゃうから。動物とキミらの確保が、俺の仕事でねっ」

 

 言うなり、怪人は跳んだ。

 四肢をいっせいに駆動させ、地面から跳ね上がる。初速がすなわち最高速の、蜘蛛じみた異形の動き。それは、人間の反応速度をたやすく凌駕する。

 

「うげっ」

「ふごぉ」

 

 腹を蹴られ、顎を殴られ、瞬くうちに数名の男が地面に倒れ伏す。

 

「この野郎ッ」

「うわっ、ちょっと、あんたら動物販売業者(ペットショッパー)だろっ。どうして銃なんか持ってるのさっ」

 

 密輸業者の男達は、いっせいに拳銃を撃ちはじめる。

 それを、蜘蛛の怪人は飛び跳ね、トンボをきって後退し、左右に跳び回って回避する。

 

「ちくしょう、バケモノめ!」

 

 男達は泣きそうになった。

 人間離れした、スーパーヒーローかそうでなければバケモノとでも言うべき挙動だったのだ。

 そんな誹謗中傷などどこ吹く風で、雲居は叫ぶ。

 

「きたない、さすが密輸業者、きたない。それならこっちも飛び道具だッ。ウェブ・シュート!」

「あひぃっ」

「うげぇ、なんだこりゃっ」

 

 手首から飛び出した蜘蛛糸が、拳銃ごと男の手首にからみつく。のみならず、男の身体を吹き飛ばし、後ろの男ごと檻に縫いつけた。

 その拍子に、檻から布がはらりと滑り落ちる。

 そこから現れたのは、牙もつ獣。

 思わず雲居は、

 

「うーん、猛獣だなぁ」

 

 と唸った。

 おおきな犬歯に、するどい爪。身体を支える四肢は太く、力強い。強靱な顎は、それが獰猛な肉食獣であることを物語っていた。

 その獣は、檻に縫いつけられた男たちに興味を示したのか、濡れそぼった鼻先をすんすんと突きつけた。

 

「ひぃぃっ、獣の鼻息が当たるぅ」

「たっ、助けてくれぇえ」

「大丈夫、大丈夫。蜘蛛糸は二時間で勝手に溶けるから、それまで生きてれば大丈夫だって」

 

 泣きわめく男達に、怪人は無責任な台詞を投げかける。

 

「くそっ、ふざけやがって。あんなヤツに捕まってたまるかっ。おい、お前等、獣を放てッ」

 

 檻はひとつだけではない。大小さまざまな檻が、その場には用意されていた。

 販売業者の男たちは、手当たり次第に檻を開け放つ。

 もちろん止めようとする雲居であるが、男達は一人ではない。一人を止める間に、他は檻の陰に回りこんで攻撃や蜘蛛糸を避けるよう立ち回り、檻を開け放ってしまった。

 一目散に逃げ出す動物の数々。豹のような動物に、犬とハイエナを混ぜたような動物、奇妙な猿。爬虫類もいれば、色鮮やかな蛙や蛇さえいた。

 

「ちょっとタンマ、ストップ! 止めてくれよ、これ捕まえるの俺なんだぞっ」

「だから開けてるんだっての。――よし、蜘蛛野郎が動物に夢中になってる間に逃げるぞ」

「誰が逃すかッ。あっ、でも動物も逃げるし……ちょっと待てってば!」

 

 

 **

 

 

「で、言い訳はあるか」

「ありません……」

 

 それから一時間後。

 件の自然公園には、サングラスの粗野で精悍な男、百舌鳥創と、うなだれる蜘蛛の怪人の姿があった。

 怪人は、覆面を脱いでその素顔を晒け出している。頬は丸みを帯びて幼く、顔をしゅんと頷かせる様は、彼がまだ年若い中高生にすぎないのだということを、見る者に否応なしに思い出させた。

 そんな彼に同情を寄せたのか、動物や犯人の捕縛にあたっていたASE職員の代表者が、気遣わしげに報告をした。

 

「幸い、密輸入業者一味のうち主要な人物は捕らえています。彼らから得た情報によれば、やっかいな動物――ちいさく毒性の強い動物はすべて、彼の蜘蛛糸に捕らえられているようですね。つまり、目立つ中型の動物を捕縛すれば、任務は達成です。主義者の男も逃走していますが、こちらは放っておいても問題ないでしょう。住所も割れていますし」

 

 厄介な、ちいさく危険な動物を優先して捕らえたこと。この的確な判断は手柄であると、ASE職員は言外に誉めた。

 

「そうか、良かったぁ……」

「良い筈があるかっ。逃げた動物には、人間を襲うものもいる。住民に被害が出れば、その時点で依頼は失敗だ」

 

 ほっと息をつく雲居に、百舌鳥は容赦なくゲンコツを落とした。

 もちろん雲居には堪えていないので、百舌鳥は、脅し文句を追加した。

 

「依頼人が依頼人だ。その場合、おまえの命もあやしいことになるぞ」

「ぶっそうな依頼人ですね。なんですか、マフィアか何かですか」

 

 雲居は頑丈な身体をしていたが、中身はそんじゅそこらの高校生である。思わず腰が引けたところに、

 

「まったく、ASEともあろうものが、なんという体たらくだ」

 

 不機嫌な声が掛けられた。

 その声に向かって、雲居は勢いよく頭を下げる。ぶっそうな前情報に肝を冷やしたというのもある。だが、それ以上に、そこには誠意が宿っていた。

 彼は、軽々しい言動を友としてはいたけれども、己の果たすべき責任について向き合う程度には良識を備えていたのだ。

 

「あなたが依頼人ですか? すいません、俺のミスで動物を逃してしまいました。でも少しだけ、カップ麺を作る寸間だけ待ってください! 麺が延びきるまでには、絶対に捕獲しますか……ら……」

 

 声は、途中でとぎれてしまった。

 顔を上げた雲居は、見とれてしまったのだ。その美女に。

 

 それは、健康的な女性だった。

 上背も高く、スポーツか格闘技でもしているのか、むきだしの手足は健康的な筋肉をそなえている。髪は女性らしい長髪で、生来の癖毛がなだらかなウェーブを描いていた。

 ギリシャ彫刻のような、たくましい躍動的な姿。

 それは、しかし、彼女の女性らしさを何一つ損ねてはいない。腰はほっそりとしているし、髪はしっとり艶やかで、眦は長い睫をたくわえて色気がある。手足の筋肉も、女性らしい柔らかさ、しなやかさを併せ持っていた。

 なにより、顔立ちが強烈に美しかった。

 おおきな瞳は男の視線を吸いこむ黒曜石で。

 それを飾り付ける睫は艶やかだ。

 頬は柔らかく、形の良い唇は薔薇の花弁のようである。

 化粧気など欠片もないにも関わらず、思わず言葉を失ってしまうほどの、それは匂い立つような美女だったのだ。

 

「そうか、お前がASEのエージェントか」

 

 女性にしては低く、頼もしい声。

 それさえ「ああ、この女性にはぴったりだ」と思ってしまうほど、雲居はこの女性に参ってしまった。

 一目惚れである。

 

 この女性をどう形容したものか――

 きっと、大輪の薔薇が似つかわしい。それも、鉄でできた、鉄壁の薔薇。手折ろうとすれば、逆にこちらの指が折れかねない。

 などという雲居の恋心は、すぐさま粉砕されることとなる。

 

「――ふんっ!」

 

 腹の底からひねり出したかのような、たくましい声。

 それを耳にしたときには、雲居の身は宙を舞っていた。

 

「うげぇっ!?」

 

 身体を貫く衝撃。

 胃からこみあげてくる、熱いなにか。

 

(ウソだろ、こんな高くまで殴り飛ばされるなんて。あの腕の一体どこにこんな怪力が……)

 

 遠退きかけた意識を強引にたぐり寄せ、なんとか地面に足から着地する。

 美女が微かに目を丸くする。しかし、それはすぐに鋭く細められた。

 

「頑丈なヤツだな。平然と着地するとは生意気な。まだ殴られ足りないか」

「ちょっと待った、そんなに殴られたら死んじゃうよっ。ってか殺す気で殴ったでしょ! 俺以外なら死んでたよッ」

 

 腕を引き絞る女性に、雲居は諸手をあげて降参の意を示す。

 

「その辺にしておけ、アキラ」

(はじめ)か……」

 

 百舌鳥が間に入って取りなす。どうやら、二人は旧知の仲であるらしい。

 ようやく腕を下ろした女性を、百舌鳥は紹介する。

 

「亜取アキラ。日系ブラジル人三世。IBAMAに所属し、アマゾンの動植物の保護を行っている。と同時に、密猟者撲滅組織の一員であり、ASEのメンバーでもある。そして、今回の依頼主だ」

「亜取アキラだ。ヤツラが絶滅危惧種の動物を拐かし、ここ日本に放とうとしているのを突き止めたは良いものの、既に現地を発った後だった。そこで密猟者撲滅組織の一員として、ASEに依頼したのだ」

 

 アキラは腕組みをし、蜘蛛糸に囚われた男達を鋭い眦で示す。

 かと思えば、その眦は、そのまま雲居に向けられた。

 

「ASEなら間違いないと思ったのだが、このザマとはな」

「うっ……」

「こら、依頼人の前で頼りない姿を見せるな。それでもASEの一員か」

 

 威圧を受けて腰の引けた雲居を、百舌鳥のゲンコツが叱咤した。

 そのままグリグリと頭を小突きながら、アキラに向き直る。

 

「こっちは小雀雲居。『スーパーヒーロー』のエージェントだ。見ての通りひよっこだが、こいつには最後まで仕事をさせる。――アキラ、ASEとしてのお前に仕事だ。雲居のサポートをして、この東京に放たれた動物を回収しろ」

「正気か、創。私がこいつのサポートなど」

 

 じろりとねめつけるアキラ。

 けれども、百舌鳥は口の端をつり上げて、涼しく受け流す。これは決定事項だと、無言で訴える。

 そんな百舌鳥を、アキラは訝しげに見やるのだった。

 

「こいつは使えるのか?」

「なぁに、使えないと思ったら殴って躾てやってくれ。そうすりゃ物覚えの悪いコイツでも、死ぬまでには覚えるだろう。なんなら、動物のエサにでもしてくれれば良い。頑丈だから、そのつもりでこき使ってやれ」

「……チッ。貸しひとつだぞ」

 

 

 **

 

 

 それから間もなく、二人は動物の追跡を開始した。

 居たたまれないのは雲居である。

 彼は、短気でとびきり手の早い、不機嫌な女ジャイアンと二人にされたのである。

 

「えっと、亜取さんは動物達の行き先が分かるんですか」

「まあな。動物と植物が私の専門だ」

 

 マスク越しに届けられる脳天気そうな声に、アキラはぶっきらぼうに答える。

 その声音をどうにか変えてやろうと、雲居は言葉を重ねた。

 

「そうですか。俺はてっきり、格闘術や撲殺術とかが専門かと」

「ほう、どうやら殴られ足りないみたいだな」

「滅相もない!」

 

 口より早く殴りかかってくるのを、雲居はひらりとかわす。

 

「おっかない人だなぁ。軽い冗談なのに、愛想笑いも苦笑いもしやしない」

 

 機嫌を損なうとすぐに手が出る。戦闘力も桁外れに高い、暴れ牛のような女。

 それが百舌鳥創による人物評であった。実際、彼女はアマゾネスクイーンやドゥルガ(「近づき難い者」を意味する、インドのおっかない女神)などと渾名され、密猟者の間ではひどく恐れられている。対話による迂遠な解決より、実力行使による率直な解決を好む性質であるらしい。

 だが、それは、彼女が浅学浅慮であるということを意味しない。

 

「見ろ」

 

 と指さす先には、大地に刻まれた動物の痕跡がある。

 

「特徴的な足跡としっぽの跡。コヨーテだ」

 

 常人が見れば、そこらの犬のそれと見分けが付かない。それをアキラはするすると読み解いていく。

 

「こっちの糞と木の幹のひっかき傷は、ジャガーのものだ。やつらは二十平方メートルもの広大な縄張りを、こうして主張する」

「さっそく縄張り宣言か。野生動物ってのはくらい逞しいもんだなぁ」

 

 雲居は感心のため息をこぼす。

 

「彼らも生きるのに一生懸命なんだ。こんな植生も気候もなにもかも違う場所であっても、生きようとしている。一刻も早く故郷へ帰してやらねばな」

「亜取さん……」

 

 雲居はアキラの横顔にすっかり見惚れていた。

 それというのは、黒曜石の瞳が、あたたかな慈しみの色を浮かべていたからである。

 なにもかも異なる異国の土地に放り込まれて、それでも懸命に生きようとする動物たちへの深い慈しみ、母性のようなものが、そこにはありありと浮かんでいた。

 優しげな瞳は、しかし、次の瞬間にはきりりと鋭くすがめられていた。

 

「どうやら近いらしいな。さて、ここからは観察力と経験が全てだ。目を皿のようにして、あたりを探れ。動物を探し出すんだ」

 

 そう言って唇をひき結ぶアキラに、雲井は力強く頷きをかえす。

 

「それなら任せてくださいよ。俺の得意分野だ。さっそく返上して、挽回してみせましょう。汚名と名誉を」

「軽く言っていくれるがな、これはそんなに簡単な話じゃないぞ」

「ま、見ててくださいよ」

 

 雲居は五感を研ぎ澄ませた。

 景色は陰影を濃くし、風は形を備え、音はその発信源を指さす。

 スパイダーセンスと名付けたその異能――人間種をはるかに超越した鋭敏な五感でもって、雲居は気配を探る。

 木々をめぐる風の流れ。葉々のこすれる音。そして、動物の息づかい。

 

「そこかっ」

 

 雲居は跳びあがって、手首から蜘蛛糸を飛ばす。それは過たず、下生えに身を潜めていた犬のような動物――コヨーテを捉えた。

 

「どうどうどう、落ち着けー。それは単なる蜘蛛糸だからねー。なんなら食べれるよー。――ちょっと、俺を噛むんじゃない! 噛むのは蜘蛛糸のほうにしてよっ」

 

 暴れれば暴れるほど蜘蛛糸にからまり、ますます身動きが封じられる。そんな獣を、雲居は宥めようとしているのか、それともからかっているのか、どうどうと声を掛ける。

 鼻息荒くもがく獣に噛みつかれそうになっている雲居に、アキラは呆れの目を向ける。

 

「おい、びっくり人間。どうして其処に潜んでいるのが分かった」

「なんでも俺は、突然変異っていうのらしくてですね。生まれつき身体は頑丈だし、五感は鋭くて、手首から蜘蛛糸のようなものも出せるんですよ。くわしい仕組みは、ASEの研究部門でも分からないようなんだけどね」

「…………」

「ま、天命ってやつですかねっ。スーパーヒーローになるべく天から遣わされた正義の使者、スパイダーマンッ」

 

 アキラが表情を固くするので、雲居はおどけてみせた。トンボを切ってそれらしいポーズを取ってみせる。

 その頭に、ゲンコツが降ってくる。

 

「馬鹿者。茶化す暇があったら、次へ行くぞ。さっさとASEに檻をもって動物を保護するよう連絡しろ」

「痛いッ。せっかく恥ずかしいポーズまで決めたのに、あんまりじゃないですかっ」

 

 雲居がこのようなひょうげた態度を取るのには、理由がある。

 人は、あまりに異質な者を拒むらしい。たとえば主義、思想、宗教。たとえば肌の色、髪の色などの見た目。違いの数だけ争いが生じ得る。そのことを雲居は心得ていた。

 生まれ持った肉体的特徴は、もうどうしようもない。醜いアヒルの子は、一生その姿で過ごすより他にない。

 けれども、行動は変えることができる。おちゃらけて単純で分かりやすい、愛すべき隣人になれるかもしれない。

 そのようなわけで、雲居は、努めて明るくひょうげているのだ。

 

「そんなに恥ずかしいのなら、どうしてそんな格好をしている」

「それが、恥ずかしながら若気の至りで、こんな格好してヒーローごっこしてるところをASEにスカウトされてですね。その頃には、もうこんなこと辞めるつもりだったんですけど、百舌鳥さんが」

 

 ――せっかくだから、その目立つ格好で敵意(ヘイト)を引きつけろ。恨みを買いやすいASE職員の盾になれ。なに、お前は頑丈さだけが取り柄だし、素顔も隠れているから丁度都合が良いだろう。

 そのような無茶を仰せつかったのだった。

 

「本当に、あの人は鬼畜ですよ。実力はあるから余計に性質が悪い」

「そうだな。あいつは無茶苦茶なやつだ。腕だけは確かなのだが」

 

 二人は苦々しく息を吐き、そして、ふと視線が交差する。

 共感が芽生えた瞬間だった。

 雲居はニヤリと微笑み、アキラは鼻を鳴らして前を向いた。そこにはもう、先ほどまでの刺々しい沈黙はわだかまっていなかった。

 

「どうやら、お前も少しは使えるようだな。行くぞ、雲居。これまでのミスを挽回させてやる」

 

 アキラは、はじめて雲居の名前を呼ぶ。

 

「ちょっと、任務中は本名は隠してくださいよ。『ASEのヤツ』とか、あるいは『スパイダーマン』と呼んでください。後者は大変不本意ですが」

 

 

 **

 

 

 それから二人は、逃げた動物を追ってかけずり回った。

 まずは疾走する犬ともキツネともつかぬ足長の動物である。

 

「ちょっと待ってよ、可愛いワンちゃん!」

「犬ではない。タテガミオオカミだ。時速九十キロで疾走する、犬科最速の動物だ」

 

 人並み外れたどころか、人外の身体能力を有する雲居である。オリンピックのアスリートよりも速く走ることができるが、それでも、走ることに特化した四つ足の動物には適うべくもない。

 懸命に走って走って、なんとか距離を開けられまいとしたところ、

 

「もっとも、少し走るとすぐに立ち止まってしまうがな。そんな臆病な性格が災いして、乱獲されたんだ」

「うわっと、行きすぎたっ」

 

 急に立ち止まってきょろきょろするタテガミオオカミを、勢い余って追い抜いてしまう。

 

「でも大丈夫。振り向いてからのウェブ・シュート!」

「よし。よく捕らえたぞ、雲居」

 

 その次は、長耳の猫科の獣である。

 じっと獲物を待っているのか、下生えに身を伏せて隠れる獣を、二人は木の上からこっそり窺っていた。

 

「変わった猫ちゃんですね。耳が長くて黒い。ひょっとしてコイツ、エジプトで神様とかしてません?」

「カラカルだ。アフリカの絶滅危惧種だな。エジプトは関係ない。ちなみに、猫科でもっとも優れた跳躍力を持つ。三メートルも飛び上がって、空飛ぶ鳥を捕らえることができるんだ」

「うわぁっ、俺は鳥じゃないってば!?」

 

 蜘蛛糸にぶらさがって接近を試みていた雲居は、悲鳴をあげた。カラカルが飛びついてきたのだ。

 牙を剥き、するどい爪をふるって、雲居を捕らえようとする。それを、雲居は身をひねってかわし、地面に降り立った。

 

「ふむ。空からぶら下がっているから、鳥に見えたのかもしれないな」

「亜取さんッ、冷静に考察してる暇があったら助けてよっ」

 

 後を追って着地したカラカルを取り押さえながら、悲鳴をあげる雲居であった。

 

 

 **

 

 

 こうして二人は動物を捕らえてまわった。

 かすかな動物の痕跡を捉え、確実に追跡するアキラ。

 いよいよ接近すれば、そこからは雲居の出番である。超感覚と呼ぶべき鋭い五感で以て、動物の居場所をたちまちあばき、蜘蛛糸を飛ばして取り押さえる。

 雲居がぎゃあぎゃあ騒ぎながら正面きって動物と対峙すれば、アキラはそっと後ろに回って逃走を阻止し、隙あらば自らも捕獲を試みる。

 二人は、なかなか優れたコンビであると言えた。

 

「これで残りは僅かだ」

「あとはたしか……」

 

 目を皿のようにして地面を調べるアキラの隣で、雲居はメモを取り出した。

 そこには動物の名前が書かれている。たいていは聞いたことのないような名前だが、なかには有名なものもある。

 

「コヨーテ」

「それは最初に捕獲した」

「ホエザル」

「それはさっき捕まえた」

「それじゃあ……おっ、これは俺もよく知ってますよ。超有名人じゃん、”ジャガー”って!」

 

 よく知る名前を見て、単純な雲居は喜びの声をあげた。それは、しかし、すぐさま悲鳴に変じることとなる。

 

「ぎゃあっ! ジャガーって、凶暴な肉食獣じゃないですか。それも人を補食する」

「そうだな。目の前のヤツがそうだ。ついでに言えば、我々を狙っているらしい」

 

 黄色い毛皮は、ところどころ斑の装飾をあしらって美しい。こちらを見据える瞳は、琥珀の宝玉である。

 豹によく似た外見の、美しい獣。

 けれども、手足はより太く頑丈で、顎もひとまわり大きかったから、より凶暴で攻撃な性格が推して知れた。

 天性の狩人は、しなやかに身体を前傾させ、獲物に跳びかかるべく力を蓄えている。

 

「来ますっ。亜取さんは下がってッ」

 

 すかさず前に出た雲居を、獲物と定めたと見える。獣は、前足から後足まで余すことなく全身のバネを駆動させ、黄色い閃光となって、雲居に跳びかかった。

 

「ほいっと」

 

 それを横っ飛びでかわし、すれ違い様に蹴りを見舞う。

 

「ぎゃうっ」

 

 と悲鳴をあげて、獣は地面に倒れ込んだ。

 ふたたび起きあがった時には、琥珀の瞳は怒りを宿し、まっすぐに雲居をにらみつけていた。

 

「そうだ。お前の相手は俺だ。さぁ、かかってきな。すぐに捕まえてやるぜ。こんなふうにな」

 

 雲居は手首から蜘蛛糸を飛ばす。

 攻撃の気配を読んでいたのだろうか。獣は、拳を向けられた瞬間には横に跳んで、恐るべき粘着の糸を避けていた。

 そのまま、お返しとばかりに跳びかかる。

 

「素早いなァ。でも、お前の攻撃は俺には通用しないぞ」

 

 雲居はトンボを切って回避する。

 そうなることは、獣も十分承知していた。一合交えたとき、目の前の怪人が容易ならざる強敵であると悟っていたのだ。

 彼の狙いは別にあった。飛びかかった先にある、太くおおきな木の幹。それを新たな足場として、三角跳びに雲居に襲いかかった。

 

「うっそぉ、ジャガーってこんな動きするのぉ!?」

 

 雲居の身は、身動きの取れぬ空中にある。

 この千載一遇のチャンスを、ジャガーは見逃さない。ぬるりと鈍色に光る牙を、その首筋に突き立てようと身を伸ばす。

 けれども、

 

「よっと」

 

 蜘蛛糸を地面に放ち、手繰って身体を無理矢理に動かす。

 猛獣の牙は、むなしく虚空に噛みつくこととなった。

 

 ――これでは埒が明かぬ。

 

 とでも思ったのか、ジャガーは標的を変えた。

 すなわち、一歩下がって成り行きを見守っていたアキラへと、跳びかかったのだ。

 

「しまった、油断したっ。亜取さんッ」

 

 雲井は、我が身をアキラの盾とするべく身体を踊らせる。

 それこそが獣の狙いだった。

 雲居がアキラを庇って前に出たことを、彼は忘れていなかった。このオスは、必ずメスを守るに違いない。そう思って一計を案じたのであった。

 強靱な鉤爪が身体をとらえ、鋭い牙が首筋に噛みつかんとしたその瞬間。

 

「どけ」

 

 トン、とアキラは雲居を軽く押した。

 それだけで、雲居の身体は宙を飛んでいく。

 

「え?」

 

 と驚きに目を丸くしたのは、雲居だけではない。

 ジャガーもまた、突然獲物の姿がかき消え、代わりに眼前に現れた、拳を構えた恐るべき”敵”の姿を目の当たりにして、驚きに目を見開いた。

 しかしそこは過酷な野生を生き抜いてきた、経験豊富な狩人である。

 

 ――計算が狂ってしまったが、問題ない。新たに現れた”敵”に攻撃のタイミングを合わせるだけだ。

 

 その判断は一瞬のうちに成された。再び顎を開き、アキラへ向けて致死の一撃を見舞う。

 それは、しかし、”アマゾネスクイーン”にとっては遅すぎた。

 

「――ふんっ」

 

 と力強い吐息とともに、頭上から振り下ろす一撃。

 ジャガーは「ぎゃん」と悲鳴をあげ、地面に叩きつけられて気を失った。目を回し、だらりと口元から涎まみれの舌を伸ばして、だらしなく四肢を伸ばしていた。

 

「あのっ、これ殺してないよね!?」

 

 ぶくぶくと泡を飛ばす哀れな動物に、雲居はあわてて駆け寄る。

 

「大丈夫だ。最近は手加減も上手くなってな、うっかり殺めることはすっかりなくなったんだ。密猟者どものおかげでな」

「……うっかり殺されたのは、動物じゃなくって密猟者の方ですよね。あっ、いや、いいです答えなくてっ。答えなくても分かるんで」

 

 口から牙をのぞかせる猛獣さながらの笑みに、雲居はすべてを悟るのだった。

 

「そもそも、お前に守られるほど、私はか弱くはないぞ。お前も突然変異らしいが、私も生まれながらの特異体質でな。そこいらの獣に負けるような、やわな身体はしていない。だから、そう気負うな」

 

 アキラは涼しげに微笑んでみせる。

 低く頼もしい声も相まって、頼り甲斐があり男らしい。

 けれども、やはりそれは、彼女の女性らしさを損なってはいない。

 微笑みをうかべた頬は、ふっくや柔らかで女性らしく。瞳をふちどる睫は長く、艶やかであったし。なにより、瞳はあたたかな母性を宿して、優しく雲居を見つめているのだった。

 

「――っ」

 

 思わず雲居は胸を抑える。

 

「どうした。私の顔に何かついているか」

「いや、その、暴れ牛みたいな亜取さんが、とても優しげで綺麗だったので――」

 

 息の詰まるような、胸を鷲掴みにされるような、その衝動。

 その正体を考えるより先に、それは、言葉となって口から飛び出していた。

 

「――つい惚れてしまいました」

 

 アキラは目を丸くした。

 どういうわけか、感情豊かな声音もこのときばかりは平坦で、少年の本意をうかがうことはできない。表情もまた、覆面に隠されてしまっていたから、彼の感情を読みとることは不可能だった。

 もっとも、もし覆面をはぎ取ったところで、いっそう困惑は深まったに違いない。雲居は、ぽかんと呆けた表情をしていたのだ。

 

 それは、ひょっとしたら、小雀雲居という少年の、飾らぬ本当の姿なのかもしれない。いつもおどけてばかりで言動の軽々しい少年の、珍しく純朴な姿。彼のことをよく知る者なら、そこから彼の”本気”を察したかもしれない。

 けれども、顔を会わせて間もないアキラには、それが分からない。

 だから、冗談の類だと判断して拳をふり上げたのも、無理からぬ話である。

 

「馬鹿者、大人をからかうなっ。何より、私のどこか暴れ牛だっ」

「痛いっ。そういうトコですよっ、人間はそんなすぐに他人を殴ったりしませんって!」

 

 などと喚く雲居は、内心ほっと安堵の息を吐いていた。

 

(うっわぁ……。初対面の人にいきなり告白するだなんて、どうかしてるわ、俺。冗談だと流してくれて助かったな。これが大人の余裕ってやつか)

 

 なにはともあれ、いち段落。これで全ては丸く収まった。

 そう思った矢先である。アキラの携帯電話に、ASEから緊急の連絡が入ったのは。

 

『大変です、動物を奪われました!』

 

 通話を受けたアキラの耳に、男のあわてた声が響く。

 

『主義者の男が、捕獲した獣を乗せたトレーラーを奪って逃走中! 東京の街に動物をばらまくつもりです!』

「なんということだ、ASEともあろうものが!」

 

 怒髪天を衝くとはこのことか。思わず握り込んだ拳のなかで、携帯電話がぐしゃりと潰れて火花を散らした。

 電話をかけたASE職員にとっては幸運だったに違いない。面と向かって報告していれば、そうなっていたのは自分だったのだから。

 

「どうする雲居、何か策はあるか」

 

 とアキラが振り向いたとき、ヒーローの姿はすでに空にあった。木の天辺に蜘蛛糸をかけ、それを手繰って宙を跳んでいたのだ。

 

「お先に行ってます。後は任せてくださいよ、このスーパーヒーローに」

 

 軽々しい台詞に反して、声音はどっしりと頼もしい。

 

「……調子に乗りおって。馬鹿者め」

 

 そんなヒーローの頼もしい後ろ姿に、アキラは微笑みを投げかけるのだった。

 

 

 **

 

 

「と啖呵を切ったは良いものの、どうしたものかなぁ。亜取さんたら携帯電話壊しちゃうもんだから、やっこさんの向かった先も分からないし」

 

 などとぼやきつつも、蜘蛛糸を手繰る手は決して止めない。

 その向かう先は、公園の出入り口である。

 優秀なASEのことである。連絡が途切れたとなれば、こちらの向かいそうな場所に先回りしてくれるに違いない――

 そんな雲居の期待を裏切るASEではなかった。

 

「おーい、こっちだー」

 

 と大きな声で呼ばわる人物。

 二輪自動車(バイク)の傍に立ち、緊張感のないマヌケな笑顔で、その人物は手を振っていた。

 

「悟!」

 

 公園の出入り口の、路面端。

 その単車のすぐ隣に、雲居は音もなく降り立った。

 

「悟じゃないか。ひょっとして、俺の手助けに来てくれたのか?」

「そういうことになるな。いやー、百舌鳥さんから連絡を受けて駆けつけたんだけど、間に合って良かった! それもこれもコイツのおかげだよ。ありがとうな、CBR1100XX(スーパーブラックバード)。そして、また頼むぞ」

 

 悟は、頼もしい相棒を愛しそうにひと撫でして、するりと跨がった。

 

 ――その途端、悟は変貌する。

 ふにゃりとした間抜けな面構えは、陽炎のように消え去り。

 代わりに現れたのは、ひとりの戦士である。

 眦は、熱を宿して鋭く。キリリと口元を引き結び。それは、なかなか精悍な顔つきだった。

 

「雲居――じゃなくてスパイダーマン。今回は俺がお前のサポートをする。早速だが現状確認だ。犯人は現在、東京市街へ向けてトレーラーで逃走中だそうだ。それを、これからCBR1100XX(コイツ)で追いかける」

「把握した。それなら、トレーラーの隣に寄せてほしい。そしたら、あとは俺が始末をつけちゃうから。……出来るかな、ASEドライバー?」

 

 雲居はニヤリと笑みを浮かべて、尋ねる。

 ASE職員からもたらされた情報によれば、トレーラーは遙か彼方に走り去っている。常識に則れば、その差を縮めることは不可能に思われた。

 けれども、ASEのスーパーマルチドライバーの実力は、それこそ常識の外にある。そのことを、雲居はよく心得ていたのである。

 悟は、何でもないかのように、この困難な仕事を請け負った。

 

「了解。ちょっと飛ばすから、しっかり掴まってろよ」

「ああ、頼んだぜ」

 

 雲居が後ろに飛び乗るや否や、単車は轟音を響かせる。後輪が超高速で回転し、単車は、弾かれたように飛び出した。

 けれども、間の悪いこともあるもので。

 

「赤信号か。ガーンだな、出鼻をくじかれた……」

 

 幾らも行かないうちに、赤信号に捕まってしまう。

 夕暮れの交差点である。

 道路は、家を目指す車の群れが止めどなく流れていて、まるで嵐の日の濁流のようである。

 そんな交差点めがけて、単車は暴れ馬のように一目散につっこんでいく。

 一分一秒が惜しい――

 そんな声が形を備えたかのような、無謀な運転。

 思わず雲居は悲鳴を上げる。

 

「悟っ。何してんのさ、赤信号だって! いやさ、お前の腕は知ってるけど、いくらなんでもこれは通り抜けれないって!」

「大丈夫。しっかり掴まっててくれ」

 

 何も心配することはないと、悟は軽く聞き流す。聞く耳持たぬとはこのことである。

 果たして、単車は走る。車道と歩道を分ける石垣、すなわち縁石へと。

 縁石の端は、スロープのように傾斜している。そこをジャンプ台に見立てて、悟は全速力で単車をつっこませた。

 

「合わせてくれ、スパイディ」

「合わせろって、お前まさか……うぎゃあ!」

 

 前輪を器用に持ち上げて、加速。後輪が縁石を踏んだその瞬間、全身のバネを用いて車体ごと跳躍する。雲居もまた、咄嗟にこの動きを手伝った。

 

 大跳躍。

 橙に染まった空に、ぽつねんと二人の影はあった。

 遙か眼下に車の流れを見下ろして、それから、単車はふたたび地面に車輪を着ける。

 みごと交差点を飛び越した単車は、何事も無かったかのように再び走り出した。

 

「うひー、事故るかと思った……。お前ね、せめて事前に何するか教えてくれよな」

 

 とわめく雲居そっちのけで、悟は暢気に独白する。

 

「今が夕方の帰宅ラッシュで良かった。この調子なら、例のトレーラーも渋滞やら信号やらに捕まってるだろ。そして、筐体のちいさなこっちは有利だ。車の間をすりぬけて、全速力で走り続けることができる」

「丁度、今みたいな無茶な運転をしながらってことだろ。……俺、ちびりそうになったよ。運転手さん、もうちょっとだけ安全運転できない?」

「げっ、勘弁してくれよ。お前が漏らしたら、俺まで被害を被るんだぞ! ほんと、我慢してくれよ。どのみち飛ばさなきゃ、トレーラーには追いつけないんだから」

「でっすよねぇ……。分かった、OKだ。悟、やってくれよ。おっきい方は出さないよう、しっかり括約筋を活躍させるからさ」

「本当に頼んだぞ……」

 

 果たして、雲居の括約筋は酷使されることとなった。

 ときにサイドミラーを擦らせながら車の間をすり抜け、ときに縁石の上を走り、ときに川に架かった水道管の上を綱渡りしてと、曲芸のような走行に付き合わされたのだ。

 その度ごとに悲鳴をあげ、下半身にぎゅっと力を入れて何かと戦う雲居の苦労の甲斐あって、

 

「見えたっ。あれが目標だ」

 

 ようやく件のトレーラーに追いつくことができたのである。

 

「ここでいいか? それとも下に降りようか」

 

 眼下を(・・・)のろのろ走るトレーラーを見ながら、悟が尋ねる。

 二人を乗せた単車は、一般車道のさらに上、高架の壁面の上を器用に走っていた。

 そこから遙か下の車道を見下ろして、雲居はふるふる首を振った。

 

「いやいや、結構だよ! バイクで飛び降りようなんて、正気の沙汰じゃない。運転手さん、ここで結構だ。料金はASEにツケといてね」

「うーん。俺としちゃあ、生身で飛び降りる方がどうかしてると思うが」

 

 などという悟のボヤキを背に受けて雲居は――スパイダーマンは飛び降りた。

 風を切って、ぐんぐんトレーラーめがけて落下していく。

 

「これで終わりだ、ウェブ・シュート!」

 

 手を前方に突き出し、指を半端に折り曲げ、奇妙なポーズを形作る。

 その瞬間、手首から白い粘液が飛び出した。

 空中で長く延び、一端は車両をとらえ、もう一端は地面に貼りつく。瞬くうちに、それは、獲物を捕らえた蜘蛛糸へと姿を変じるのだった。

 

「何処へ行こうというのかね。お前はもう、鎖に繋がれた子犬も同然だぜ」

 

 車は、蜘蛛糸から逃れようと唸りをあげるが、虚しくタイヤは空転するばかり。

 

「下手くそな運転だな。悟なら見事にかわして、それどころか反撃してくるところだぜ」

 

 誰に聞かせるわけでもあるまいに、無駄に軽口を叩きながら、雲居は車の側に降り立つ。

 それを認めた男が、運転席からまろび出てきた。

 

「ASEが追いかけてきたのかっ。くそぉっ! こうなったら、今この場で解き放ってやるッ」

「残念。そうはいかないんだなァ」

 

 荷台(トレーラー)の檻へと伸ばした手を、雲居が無慈悲に掴む。そのまま顔をのぞき込み、低い声で言い放った。

 

「なぁアンタ。よくもまぁ、これだけかき回してくれたな」

 

 覆面の三白眼が、無表情に男をねめつける。

 

「ひぃっ」

 

 男が悲鳴をあげる。表情など分からぬはずなのに、そこにはたしかに、怒りの色がわだかまっているのが見て取れたのだ。

 蜘蛛の怪人が、拳をおおきく振り上げる。

 

「これは恥ずかしい格好をさせられた俺の分。これは無理矢理連れてこられた動物達の分。それから動物を憂う亜取さんの分。そんな亜取さんに殴られた俺の分。それからこれも、これも、これも、これも俺の分。全部まとめて正義の鉄拳だぁぁ!」

 雲居は、滅茶苦茶に左右の拳を放つ。常人を超越した怪力が、男の身体を打ちのめす。

 

「あばぁぁぁあっ!?」

 

 と悲鳴をあげて、男は宙を舞った。

 どしゃりと地面に転がる男を指さして、蜘蛛のスーパーヒーローはニヤリと笑った。

 

「これからは、動物のことを心配する必要がなくなるぜ。なにせ、自分のリハビリで忙しくなるんだからな」

 

 

 **

 

 

 そして一夜明けて、学校の食堂である。

 

「美味い。美味いっ、美味いぞぉー!」

 

 と幸せそうに学食に舌鼓を打つのは、斑鳩悟。

 安価な食事を天上の馳走のようにがっつく姿を見て、いったい誰が想像できよう。彼こそが、あの超一流の人材だけを取り扱うASEの、それも切り札とも言うべきスーパーマルチドライバーその人であると。

 

「昨日は二件も仕事が入ったからなぁ。おかげで、しばらく豪勢な食事ができそうだ」

「それで小雀の真似ってわけか」

「どうだ、すごいだろ」

 

 悟は、純粋無垢な童のような、幸せそうな笑みを浮かべた。

 

「学食程度でこの喜びよう。どんだけ支払いの渋いバイトなんだ……」

 

 テーブルに群れる料理の数々。驚くべきことに、それは、あの極貧高校生、斑鳩悟が注文したものである。

 まとまった収入を得て気持ちがおおきくなった悟は、雲居に倣って「学食バイキング」に挑戦したのであった。

 その冒涜的な食べ方を編み出した小雀雲居もまた、悟に負けじと肉料理の数々をがっついていた。

 

「小雀も小雀で、ずっと寝てたと思ったら、昼飯だけは元気に食うのな」

「むぐ……昨日のバイトも大変だったんだ。走り回って動物捕まえて……もぐもぐ……しまいにゃジャガーの相手とかさせられたんだぜ。んぐ……身がいくつあっても足りないよ」

「なんだそりゃ、動物園か何かで働いてるのか」

「よく分からんが、お前等のバイト先って、ほんとブラックなんだな。よくそんなの続けようと思うよな」

 

 同情の視線を寄せる同級生たちに、雲居はドヤァと厭らしい笑みを返す。

 

「ふっふー。それが、悪いことばかりじゃないのさ」

 

 と掲げてみせた携帯電話には、なんと、亜取アキラとツーショットを決める雲居の姿があった。

 事件を解決した雲居は、依頼達成記念としてアキラと写真を撮ったのだ。

 

「動物達を無事保護した記念かつ、初めて依頼を一緒にこなした記念に、一枚パシャりましょうよ」

「馬鹿馬鹿しい。写真など撮って何になる」

「だから記念になるんですって! いいじゃないですか、ASEの仲間なんだから。俺、一緒に依頼こなした同僚とは、毎回記念チェキするんですよね」

「……どこまでも締まらないのだな、お前というやつは」

 

 というやり取りを経て、雲居は同級生に自慢する材料を手に入れたのだ。

 阿呆な男ども――食事に夢中な悟を除く――は、たちまち色めき立つ。

 

「うおっ、誰だこの滅茶苦茶美人なお姉さんはッ」

「斑鳩を連行した謎の女の子といい、おまえ達のバイト先はどうなってんだ?」

「なぁ。俺もここでバイトしたいんだけど、口利いてくれないかな」

「あっ、ズルいぞ!」

 

 雲居は、悪辣な笑みを胸に隠して、神妙な顔で答えてみせた。

 

「そうだなぁ。無茶ぶりの結果バイト中に死んだり怪我しても決して訴えませんっていう理不尽な宣誓書を書かされて、殴られたり罵倒されながら、パワハラされたり薄給でこき使われる。しかも人並み以上の働きを要求されて、ミスすれば即減給。そんな職場でよければ、話だけはしてみるけど」

「うーん、やっぱり無いわ」

「世の中、おいしい話ばかりじゃないんだなぁ」

 

 社会の闇を垣間見たふたりは、結構ですとふるふる首を振った。

 そのように楽しく愉快に食事を採っていた最中である。

 

「こんなところに居たのね、悟」

 

 どういうわけか、他校に通っているはずの女子高生、清水初音が現れた。

 

「アンタ、またケータイ充電し忘れたの? しっかりしてよね。連絡が取れないから直接迎えにくるハメになったじゃない」

「えっ。ちょっと待ってくれよ。俺、まだ注文したメシの半分も――」

 

 哀れ悟は虜囚となった。茶碗と箸を持ったまま、ずるずると腕を引かれて連行されていく。

 その最中、

 

「悪いわね、雲居。悟のバカは借りてくわよ」

 

 などとちゃんと声を掛けられたので、雲居はすっかり満足して、気持ち良く悟を送り出すことができた。

 

「行ってらっしゃいなー。安心しろって。この料理はきっちり俺が平らげておくから。――ん?」

 

 ひらひらハンカチを振る雲居であったが、突然、訝しげに懐を探る。

 胸ポケットのなかで、何かが振動しているのだ。

 

「まさか……」

 

 そのまさかであった。

 携帯電話の液晶画面には、

 

『仕事だ。今からASEビルにさっさと来い!』

 

 という無慈悲なメッセージが踊っていたのである。

 

「俺たちが高校生って分かってるのかね、百舌鳥さんは……」

 

 とぼやきながら、雲居は料理を平らげた。

 悟が見れば、その不公平さに涙を流したに違いない。手づから連行された悟と違って、雲居には食事を堪能するだけの時間的猶予が与えられていたのである。

 

「それじゃあ、俺もお仕事に行きますかねっ」

「おっ、今日も午後の授業はサボリか?」

「あんまりサボってると、悟みたいな赤点スレスレの成績になるぞ」

「ダイジョーブ、ダイジョーブ。きっとなんとかなるって!」

 

 そんな話をしながら、雲居はバッグを背負って走り出す。

 いったい誰が知っていよう。その中に、蜘蛛をかたどった奇妙な全身スーツが入っているということを。

 彼はスパイダーマン。ASEに所属する、世界でただ一人のスーパーヒーローである。




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