ASEの蜘蛛男   作:二不二

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<登場人物>

小雀雲居(こがら くもい):
スパイダーマンの力を持った高校生(今話においては中学生)。

木村次郎(きむら じろう):
爆弾魔。「木村ボンバーズ」の次男。



4. Black History ~黒歴史~_中

 **

 

 

 木村次郎はご機嫌ななめだった。

 ひさびさの楽しみを、理不尽に取り上げられたのだ。

 

「腹立つぜぇ~。『駅弁フェア』だっていうから、わざわざデパートの四階まで上がって来てやったってのに、売り切れだとぉ? 客をナメてんのかよぉ!」

「だっ、だから申し訳ありませんでしたと申し上げているじゃあないですかっ」

 

 店員が情けない声を上げて抗議する。

 それは、明らかな悪手であった。

 

「あぁ?」

 

 と不機嫌そうな声を出して、店員をねめつける。ただでさえ良くない機嫌をさらに損ねてしまったのは、誰の目にも明らかであった。

 しかし、誰が店員を責めることができよう。この男は、どれだけ店員が謝ろうとも聞く耳持たず、しつこく同じ言葉でなじってくるのだ。現に、店員の後ろで身をすくめている老若男女の客の面々も、恐怖に身をこわばらせながら、店員に同情の視線を送っていた。

 

「謝って済めば、警察なんて要らねぇんだよ。これって広告詐欺だろーが。俺はな、他人に騙されるのが一番腹が立つんだよ!」

「ひぃぃっ!」

 

 男がショーケースを殴りつけた。

 どういうわけか、店員と客は悲鳴をあげて、怯え縮こまってしまった。

 それは奇妙な光景であった。男は、店員とは十分な距離を置いている。いくら拳を振り上げたところで届きようがないのは、誰の目にも明らかなのだ。

 

「あんまり俺を怒らすなよ。怒りのあまり、ついつい拳を握り込んだりしちまうかもしれないからなぁ」

 

 もしも目敏い者がよくよく観察したなら、男の手に握られたスイッチに気づく事ができただろう。

 

「ひぃっ。どうか、どうかそれだけは!」

「どうしようかなぁ。怒りってのは、俺の言うことを聞いてくれねぇからなぁ。勝手に指が動いても、仕方ないことだろ。ほら、こんなふうに」

 

 男がニタリといやらしく微笑み、スイッチに指をかけた、まさにその瞬間である。

 

「きゃあっ」

 

 と悲鳴が上がった。

 窓から奇妙な物体が、超高速で飛び込んできたのだ。

 超高速で回転する、赤青模様のまるいナニカ。

 それは、着地と同時に手足を生やし、またたく間に人型をかたちどった。

 どうやら、それは、人間らしい。

 あまりにすばやい人間離れした動きだったので、そのように理解するまで、一拍の間が必要だった。

 その貴重な一拍の間をつかって、人型は奇妙なポーズを決める。

 

「爆弾魔は貴様だな。動くな!」

 

 赤と青の、奇妙な全身タイツ。胸には蜘蛛の巣をかたどった装飾を施し。頭部をおおう覆面は、銀行強盗のそれである。

 それが、腰を屈めて、腕を曲げて上下に動かし、カマキリのような奇妙なポーズを取った。

 思わず、男は叫んだ。

 

「なんだ、この不審者は。火事場泥棒でもしにきたのか」

「火事場泥棒でも、強盗でもない! 私は、弱きを助け悪を挫くスーパーヒーロー、スパイダーマッ」

「スーパーヒーローだと。日曜朝の特撮ヒーローにでもなったつもりか? ふざけた野郎だぜ!」

 

 言うなり、男は手に持っていた物を投げつける。

 

「死ねぇっ!」

 

 ある種の蜘蛛の感覚能力は、人間のそれを凌駕する。たとえば徘徊性の蜘蛛は、虫の羽ばたきを聞き取り、その動きを捉え、一瞬の隙をついてこれを捕食する。

 スパイダーマンもまた、これに準ずる動体視力を有する。

 

 回転しながら宙を進む物体。

 その姿を、コマ落としの動画のように、鮮明に捉えることができた。

 独楽のようにくるくる回転する、茶色のビン。その中では、怪しげな液体が身を踊らせている。

 それを、スパイダーマンは危なげなくキャッチする。両手でやさしく包みこみ、衝撃を殺す。卵をそっと手のひらに乗せるかのように、やさしく。

 

「これは毒薬か爆薬だな。なんてものを投げてくるんだ!」

「おいおい、毒なんかと勘違いするなよ。俺は、爆弾芸術家の木村ボンバーズ。爆弾一筋の、真摯な芸術家なんだぜ?」

 

 男は、ジャケットに両手をつっこむ。再び手を出したときには、四つのビンが握られていた。

 それを、振りかぶって投げつける。

 

「大盤振る舞いだ、たっぷり喰らえ!」

 

 スパイダーマンめがけて飛来する、四つのビン。それは、着弾の衝撃で弾け、あたりに破片をまき散らす、凶悪な爆弾である。

 スパイダーマンとて、人間である。ビンの破片が当たれば皮膚は裂け、肉に刺さる。目に当たれば失明だってするだろう。

 ――そんなことに動じるスパイダーマンではない。

 覆面の大きな目は、四つのビンをすべて捉えていたのである。

 

「とぁっ!」

 

 というかけ声と同時に、スパイダーマンは器用な捕球を披露した。

 右手で一つ、左手で一つ。

 宙返りしながら、それらを地面に置き、自由になった両手でさらに二つ。

 

「なにぃ、全てキャッチしただと!?」

 

 男は目を見張った。

 スーパーヒーローを自称する、全身タイツの不審者が、本物(スーパーヒーロー)さながらの身体能力を備えていると理解したのである。

 スーパーヒーローは、余裕綽々で男を挑発する。

 

「はっはっはっ、愚か者め。ボンバーズのズは、複数形のマークだ。であるなら、お前は木村ボンバーズではない。木村ボンバーだ! さては、学力に問題あるのではないかな。こんなことをしている暇があるなら、英語でも勉強したらどうだね」

「ちげぇよ、俺たち木村ボンバーズは三人兄弟なんだっての!」

「気にすることはない、これからはそう名乗ることになる。なにせ、これから独房で独りになるのだからな」

 

 ひしと男を指さして、逮捕宣言をする。

 かと思えば腰を落とし、やおらファイティングポーズを取って、今にも男に襲いかからんとする。

 それを男は、掌中のリモコンを見せて制した。

 

「ちょっと待った! それ以上何かしたら、このスイッチを押すことになるぜ」

「スイッチだと?」

「見ろ」

 

 男は、店員と客を指さした。

 彼らは、突然はじまった戦闘を固唾をのんで見守っていたが、話の矛先が自分たちに向いたことに気付いくや、身を固くした。

 

「こいつらの手首にとりつけた、ステキな腕輪のスイッチさ。中に爆弾を仕込んだ、俺の芸術作品だぜ」

「なにっ。本当か!?」

 

 スパイダーマンの問いかけに、店員は悲壮な顔で頷きを返す。

 そのやりとりが面白いのか、男は、さも愉快そうに言葉を継いだ。

 

「俺がスイッチを押せば、ドカン。こいつらの腕ごと吹っ飛ぶって寸法さ!」

 

 喜色満面で両手を広げ、子供のようにはしゃぐ。それを、スパイダーマンは口惜しそうに睨みつけることしかできない。

 もちろん、諦めてしまったわけではない。男の隙をうかがって、好機とみれば即座に飛びかかる心づもりだった。

 そうはいかぬとばかりに、男は提案をした。

 

「鬼ごっこをしようぜ」

「鬼ごっこだと?」

 

 いぶかしむスパイダーマンから視線を切って、男は、ひとかたまりになって身を震わせる店員と客に視線を転じる。

 そして、嗤った。

 

「おい、お前ら。走って逃げな。俺から逃げることができたら、そのまま見逃してやる。だが、もし俺に捕まったら、その腕輪はドカンだ。――そら、はじめるぞ。ほら、行けっ」

 

 わっと悲鳴をあげて、老若男女は駆けだした。

 もちろん、すべての人が男の言を素直に信じたわけではない。なかには、到底信じられぬ、どうせウソを言って弄んでいるに違いないと、悲観的に考えている者もいないでもなかった。

 だからと言って、何かできよう筈もなかった。

 この自分勝手な爆弾魔は、何かの拍子で簡単に人を殺めかねない。そんな凶人から離れることのできる好機があるのなら、考えなしに飛びついてしまうのが人の性質であった。

 そのようなわけで、人々は蜘蛛の子を散らすように逃げ出したのだった。

 その様を、男は嘲笑する。

 

「おっと、ひとつ言い忘れてたな。実は、あれは時限爆弾付きで、もう五分もしないうちに、あいつらの腕は吹き飛ぶのさ。ああ、楽しみだぜ。助かったと思ったその瞬間、腕が吹っ飛んで、絶望に泣き喚くあいつらの悲鳴がよぉ」

「くっ、この人非人が!」

 

 ゲラゲラと愉快そうに笑う男に、スパイダーマンは罵声を浴びせる。

 それを、男は心地良さそうに受け止め、悪辣に微笑んだ。

 

「おっと、俺に構ってる暇があるのかよ。――ほら」

 

 男は、スパイダーマンに何かを投げて寄越す。

 むろん、受け取るよりも早くに、スパイダーマンはその正体を見極めていた。鍵である。だが、その用途が分からぬ。

 

「それは、腕輪を外すための唯一のカギだぜ。あいつ等の、爆弾付きの腕輪のな」

「なっ」

 

 いやな予感が兆した。

 それというのは、男が酷薄な笑みを浮かべてみせたからである。

 

「ヒーローさんよォ、ゲームをしようじゃねぇか。お前がいくつ、あいつらの腕を救えるかってゲームをな。五分の制限時間内に、一人でも多くの腕輪を取ってやるんだ。いいな!」

 

 言うが早いか、男は駆けだした。スパイダーマンが腕輪の開錠にやっきになっている間に、逃げ出す寸法なのだ。

 その背中に、スパイダーマンは蜘蛛糸を放つ。

 

「あっ」

 

 と男が声をあげる。

 男の手から、爆弾のリモコンが糸に釣り上げられたのだ。

 

「マヌケめ。こいつはいただくぞ」

 

 スパイダーマンは内心、ほっと安堵した。これで、理不尽に腕輪を爆破される心配はなくなった。

 しかし、その安堵が一瞬の隙を生んでしまったとみえる。

 

「しょーがねぇなァ、そいつはくれてやる。オマケに、こいつも喰らいなっ」

 

 と男が投げつけたもの。

 それは、煙幕である。茶色のビンがシュウシュウ音を立てて、もくもくと白煙を噴き上げる。

 スパイダーマンが驚いているうちに、男はすっかりその姿を消してしまった。

 

「くっ、取り逃がしたか」

 

 忸怩たる思いである。けれども、犯人ばかりに構ってもいられない。正義の味方(スパイダーマン)には、護るべき者がいるのである。

 

「あいつはひとまず捨て置こう。それより、腕輪を外さないと。もうこの階には誰もいないな。ということは、下の階と上の階だろうけど……」

 

 どこに逃げたのか、把握することができない。

 五分などあっという間である。このまま闇雲に走り回っても、すべての人を助けることはかなわぬ。

 スパイダーマンの判断は迅速だった。彼は地面に伏して、床に耳を押し当てた。

 

「どこだ、どこにいる……」

 

 スパイダーセンスとも呼ぶべき超感覚は、すべての音を捉える。

 もつれるように転がる足音、恐怖に乱れた人の息づかい、絶望の金切り声――それらを一つ残らず拾い上げた。

 

「いた!」

 

 と跳ね起きる勢いもそのままに。

 スパイダーマンは宙に跳ぶ。

 くるくると回転しながら、風穴を開けた窓の外へと飛び出した。すなわち、地面へと向かう重力を、体重に上乗せする。

 蜘蛛糸を壁面に放ち、これを支点にして、円運動を行う。飛び出した勢いを、そのまま利用したのである。

 目指すは、三階の窓。分厚い窓ガラスめがけて、蜘蛛糸に導かれるままに、蹴りを放った。

 そして、

 

「とぅ!」

 

 重力、体重、脚力のすべてを集めた一撃は、見事に窓を打ち抜いた。

 

「うわあっ!?」

 

 窓のすぐ隣を走っていた男が、驚いて身を竦ませる。

 スパイダーマンは機敏に駆け寄って、まごつく男の腕輪をすぐさま開錠せしめた。

 

「これで大丈夫だ。安心して逃げると良い。では、さらば!」

 

 男の返事も聞かずに、スパイダーマンは走り出す。

 あとには、ぽかんと立ち尽くす男の姿だけが残された。

 

「えっ。これ、助かったの?」

 

 そんな男のことなど忘れたと言わんばかりに、スパイダーマンはデパートの中央、エスカレーターめがけて駆ける。

 無論、悠長にエスカレーターに乗る為ではない。エスカレーターを横目に、吹き抜けからまっさかさまに飛び降りたのだ。

 

「よっと」

 

 三階から、はるか眼下の一階へと飛び降りた。

 その衝撃を、彼の両足はいとも容易く吸収する。大きく足を屈めて、地面に音もなく降り立った。

 かと思えば、すぐさま蜘蛛糸を放つ。

 蜘蛛糸は、外へ通じる扉を、またたくうちに覆い尽くしてしまった。

 

「ちょっと、何するのよ。これじゃあ逃げれないじゃない!」

 

 早くも一階まで逃げてきていた女性客が、スパイダーマンに詰め寄る。

 スパイダーマンの対応は冷静だった。そっと腕を取ると、抜群の器用さで以て、ただちに腕輪を取り去ってみせたのだ。

 

「外に出られたら、これを外すことができなくなるのでね」

 

 西部劇のガンマンもかくやという早業である。

 

「えっ……?」

 

 呆気にとられた女性に、スパイダーマンは「んっ、んっ!」と喉を鳴らしてから、努めて低い声で、

 

「安心してほしい。逃げなくても済むよう、私が犯人を捕まえてみせる」

 

 と格好つけて言い放った。

 

「あなたは一体――」

 

 何者なのか。

 その問いに、彼は全身で答えてみせた。

 

「私は、爆弾魔を退治しに来た男。スパイダーマッ!」

 

 腰を屈めて、右手を天に突き出す。

 そのまま、手から糸を上階に放ち、これを引っ張り跳躍して、その場を後にした。

 

「ふっ。決まったな」

 

 とスパイダーマンがドヤ顔を決めているとき、女性は、

 

「すごいけど、ダサいわね……」

 

 と白けた顔をしていたのだった。 

 

 **

 

 そのようにして、スパイダーマンは次々に人々の腕輪を開錠して回った。一階からどんどん上階へ登って、とうとう最上階の一つ前まで。

 その動きを察知しておらぬ爆弾魔ではない。

 

「くそっ。一階から外に逃げようと思ったのによぉ、変な糸でドアを塞ぎやがって。残りの爆弾もこれだけか。ちょっと遊びすぎたかもなァ……」

 

 爆弾魔の男は、ポケットの中を改めて、顔をしかめた。

 ポケットの中には、人を傷つける程度の、小型の爆弾数個を残すのみ。もう、強固な窓を破るだけの高性能爆弾も、面白い芸術的な爆弾もありはしない。

 

「何があるか分からねぇし、普段からもっとたくさん爆弾を持ち歩かなきゃいけねぁなぁ」

 

 男は、自らの浅慮を反省した。くだらぬ理由で突発的に犯行に及んだことを省みたのではない。爆弾芸術家を自負する者としての、心構えが足りなかったことを、彼は悔いたのだ。

 

「この反省は次に生かすとしてだ。さて、どうやってここから逃げ出すかだが……」

 

 男はしばし考えた。下からは、冗談じみた身体能力を誇る、全身タイツの怪人がやってくる。上へ逃げても、逃げ場はない。

 八方塞がりかと思われたそのとき、眼前に救いの女神が現れた。

 

「へへっ。こいつぁ都合が良いぜ」

 

 ニヤリと笑って、男は駆け出すのだった。

 

 

 **

 

 

 そして、スパイダーマンはとうとう屋上へとやってきた。

 空が近い。

 周りのどの建物よりも、このビルは高いのだ。

 唯一の例外は、隣のビルの屋上。そこに設置された、ビル建築用のクレーンだけである。

 そんなビル群を見下ろすように、爆弾魔は背を向けて、立っていた。

 

「全ての腕輪は解除したぞ。残るはお前だけだ、犯人」

 これより階下の人の腕輪は、すべて解錠してある。

 彼らは、忌まわしい腕輪から解放された実感も湧かぬ間に、置き去りにされてしまっていたが、ようやく身の安全を確信して喜びの声をあげていた。そのかすかな声が、スパイダーマンの耳にはしかと届いた。

 スパイダーマンは得意になって、男をひしと指さした。

 それを、男は嘲笑う。

 

「そうだな。手持ちが足りなくて、全員に腕輪を付けれてやれたわけじゃねぇからな。そう、例えばコイツみたいにな」

「ひぃぃっ、助けてぇっ」

 

 男が振り向いた。その腕には、なんと、小柄な人影が囚われていた。

 少女である。年の頃は中学生。同級生であろうか。

 幼いながらに整った顔を、くしゃくしゃの涙まみれ鼻水まみれにして、彼女は助けを求めた。

 

「待っていろ。いま助けるッ」

「おっと、動くなよ。爆弾は腕輪だけじゃないんだぜ。こいつには腕輪をプレゼントできなかったらなぁ。代わりに、この爆弾をくれてやってもいいんだぜ?」

 

 男は、掌中の爆弾を見せつけた。少女の顔に突きつけて、何かあれば爆破するぞと脅しをかける。

 こうなれば、どうしようもない。スパイダーマンが駆け寄って何かするより、男が爆弾を爆発させるほうが早い。

 スパイダーマンは苦し紛れに声を荒げた。

 

「この卑怯者め。なにが爆弾芸術家だ。さっきから見ていれば、お前のしていることときたら、人質をとって逃げ回るばかりじゃあないか。芸術家を気取るなら、クリエイティヴなことをしろ」

「だから創ってるじゃあねぇか、大小いろいろの爆発をよ。観客も、わぁきゃあ黄色い声で応えてくれてるぜ?」

 

 男は、口の端をつりあげて笑った。

 本気でそう思っているのか、それとも皮肉っているのか。どちらにしろ、彼の性根は腐りきってしまっていて、いくら打とうが響かぬことは明白であった。

 打つ手無し。いよいよ事態は息詰まったかに思われた、まさにその時である。

 

「な、なんだ?」

 

 スパイダーマンは驚きに目を剥いた。

 向かいのビルの屋上のクレーンが、動き出したのだ。それも、尋常ではない速さで以て。

 ぐるりと腕を振り回し、その先のフックが、男の服を掠めた。

 バランスを崩して、男はたたらを踏む。

 

「うおぉっ!?」

 

 それは驚くべき妙技である。

 もし、これより少しでも腕が長かったり、速度が出ていたなら、腕先のフックは男の身体を直撃していたに違いない。少女ごと、屋上から下へと吹き飛ばしてきたに違いない。

 クレーンの長さ、フックまでの長さ、そして回転する勢い。それら全てを、クレーンの運転手は我が身のように把握していたのである。

 

「今だ。こっちへ!」

 

 男が体勢を崩したその隙に、少女は男の腕から抜け出す。

 だが、爆弾魔は往生際が悪かった。

 

「逃すかよっ」

 

 腕を伸ばして、無理矢理に少女を掴む。

 

「いやっ、離して!」

 

 それを、少女は咄嗟に振り払った。

 ――それがいけなかった。男の手を払った反作用で、少女の身体がおおきく傾ぐ。

 運の悪いことには、屋上の柵は背が低かったので、そのままふらりと少女の身体は宙を舞った。

 

「いっ、いやぁああっ!?」

 

 それだけではない。

 

「ば、ばかっ。何しやが――うおわっ!? うわぁぁああ!」

 

 手を振り払われた男もまた、宙を舞った。ただでさえ無理な体勢をしていたので、少女の一撃でいとも容易くバランスを崩し、転倒してしまったのだ。

 それぞれ反対方向に落ちていく、ふたりの人間。それを見捨てることのできる正義の味方(スーパーヒーロー)ではない。

 

「二人とも、助けてやるからなッ」

 

 スパイダーマンは、果敢に屋上から飛び降りた。

 まずは一人目。少女を、左手に抱える。

 間髪入れず、空いた右手から蜘蛛糸を放つ。

 

「その糸に掴まれッ」

 

 スパイダーマンは叫ぶ。

 しかし、彼は失念していた。男が、根腐れた心根の持ち主だということを。

 

「誰が、お前の世話になんかなるかよっ!」

 

 自分めがけて飛来する蜘蛛糸。その救いの糸めがけて、なんと男は、爆弾を投げつけたのである。

 爆発。

 爆風が、救いの糸をはねのける。蜘蛛糸は、あさっての方向へと飛んでいく――

 

「なんてバカなことを……」

「お前に助けられるくらいなら、死んでやらぁ!」

 

 ――そこにクレーンが先回りしていた。

 クレーンに蜘蛛糸が貼りつく。糸は、スパイダーマンを男の方向へと導いた。

 

「助かったぜ、クレーンの人!」

 

 蜘蛛糸にぶらさがり、宙を泳ぐ。

 左手に少女を抱えたまま、右手の糸を離し、空いた手で男を掴まえる。

 そして、垂直落下。

 

「きゃあああっ!」

「うわぁぁああ!」

 

 両手の二人が喚く。

 その悲鳴すら置き去りにして、三人はどんどん落下する。みるみる地面が近づいてくる。

 けれども、スパイダーマンは冷静だった。

 

「安心したまえ。私のウェブは、大人三人でも楽に支えることができる。こんなふうにねっ」

 

 両手から蜘蛛糸を飛ばす。

 その糸を掴んで、減速。

 そして、三人はすとんと地面に降り立った。

 

「ぐえっ」

「ひぅっ」

 

 男は尻餅をつき、少女はぺたりと座り込んだ。ふたりとも腰を抜かしてしまったのだ。

 無理からぬ話である。数十メートルの距離を自由落下したのだ。

 風切り音。浮遊間。胃が喉元にもち上がるかのような、異様な感覚。それら全てが、死の予感というより確信をもたらした。

 いまや心臓は早鐘のように脈打ち、走ってもいないのに息は乱れ、視界はぐるぐる回っている。立ちあがることすらおぼつかない。

 そんななか、ただ一人、スパイダーマンだけが二本の足で立っていた。

 

「こんな様子だから大丈夫だとは思うが、念には念を入れて、ウェーブシュートだ」

 

 男を糸でぐるぐる巻きにして捕縛する。

 

「ぐももっ、ももがぐももっ!」

 

 口まで糸でふさがれた男は、怨嗟の声をあげて地面を転がった。

 それを見て、ようやく全て終わったのだという実感が湧いたのか、

 

「ふぇぇっ。やっと、やっと助かったぁっ……!」

 

 少女が、スパイダーマンの腕にすがりついて泣きじゃくった。

 わっと歓声が上がる。

 観客だ。騒ぎを聞きつけた人々が、ぐるりとビルを取り囲んでいたのである。携帯電話を掲げて写真を撮る者もいれば、早くも駆けつけたのであろうカメラを回している記者やらカメラマンやらもいた。

 

「あの、インタビューお願いできますか」

 

 全身タイツの怪人に、恐る恐るといった呈で、キャスターが近づいてくる。

 もちろん、スパイダーマンは快く応じてみせた。誰何されるより早くに名乗りをあげたのである。

 

「私は、地獄からの使者スパイダーマッ!」

 

 足を折り曲げ、上体を屈める。そうした窮屈な姿勢のまま、腕を忙しなく動かした。横に振っては前方につきだし、最後にはピンと伸ばしてポーズを決める。

 それこそは、雲居が格好良いと信じているポーズであった。

 

「はぁ……」

 

 キャスターがポーズについて言及しなかったのは、雲居にとって幸いであった。もしも素直な感想を述べていたなら、雲居はもんどりうって地面を転げ回る痴態を、テレビカメラの前で晒してしまったに違いない。彼の審美眼は、中高生特有の心の病によって曇ってしまっていたけれども、すぐさまそれを晴らすだけの分別は持ち合わせている。ちょっとしたきっかけさえあれば、彼は正気を取り戻すに違いない。

 

「スパイダーマさんですか」

「スパイダーマではない。スパイダーマンだ」

「えっと、お仕事は何を?」

「見ての通り、正義の味方(スーパーヒーロー)だとも」

「あの、それでは、どうして事件現場に?」

「悪の臭いがしたのさ。鼻の曲がるような、強烈な悪の臭いがね。この街に悪のある限り、私はどこからでも駆けつける。それこそが、悪を許さぬ男、スパイダーマッ」

「……えっとですね。今回、見事に犯人を捕まえて、被害者を救助したわけですが、何かコメントはありますか」

「それは……」

 

 スパイダーマンは声を落とした。

 覆面の下の素顔に、たちまち苦渋が満ちる。

 すぐ隣で腰を抜かして放心している少女に向き直ると、彼は頭を下げた。

 

「……ごめん。怖い思いをさせてしまった」

「え……」

 

 少女が困惑の声をあげる。

 そんなことはない。私はあなたに助けてもらったのだ――そのように雄弁な瞳が訴えるも、スパイダーマンには届かない。

 スパイダーマン――雲居の胸中は苦く、重い。重石でも呑み込んだかのようだった。

 

(あのクレーンには助けられたなぁ。アレがなかったら、どうしようもなかった。犯人には逃げられて、しかも、悪くすればこの娘もケガをしていたかもしれない。……警察に任せておけば、こうはならなかったんじゃあないか? 結局、俺は、この娘を危険に晒しただけなのかもしれない)

 

 一度その考えが芽生えてしまうと、もうダメだった。純粋な雲居は、たちまち申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

 インタビューを早々に切り上げて、雲居は帰路に就く。すなわち、ビルに糸をかけて、野次馬たちの頭上高くを滑空する。

 ぐんぐん遠ざかっていくスーパーヒーローの後ろ姿をひとびとは指さして、口々に賞賛の声、驚きの声を投げかけた。

 しかし、そんな声など耳に入っていない様子で、雲居は一目散に空を泳ぐのであった。

 

 

**

 

 

 あくる日から、世間はスーパーヒーローブームに沸き立った。

 

「この目で見たんだよ、手から糸を出してぴょんぴょん飛び回るスパイダーマンを!」

「本物のスーパーヒーローの誕生だ!」

「警察でも捕まえてくれない犯罪者をやっつけてくれるなんて、とても頼もしいわ」

「ってか、警察ってもう要らなくない?」

 

 いかに日本が犯罪検挙率が高く、群を抜いて治安の良い国であるとはいえ、犯罪の被害に遭う人がいないわけではない。身近にある犯罪の気配にたいして、恐怖や憤りを感じる人はけっして少なくない。

 そんな善良な人々の声なき声が、とうとうスパイダーマンという形を得て、いっきに噴出したとでも言うかのように、人々はやんやの喝采を叫んだのである。

 それは、警察の面目をおおいに損なうものだった。

 

「くそっ。何がスーパーヒーローだっ。これでは我々はまるで、ウルトラマンの科学特捜隊ではないかっ。我々はスパイダーマンの前座などではないんだぞ!」

 

 壮年の男が怒声を張りあげる。

 側に控えていた、忠実で実直な部下が、静かに諫めた。

 

「署長。お言葉ですが、科学特捜隊は顕著な活躍もしており、決して前座と言い切ってよい存在ではありません。実際、砂地獄怪獣サイゴが襲来した際には、特捜隊が独力で――」

「うるさいっ、いちいち喩え話に食いつくんじゃあないッ!」

 

 壮年の男――警察署長は失念していた。この優秀だが融通の利かない部下が、特撮オタクだということを。

 叱られた部下は、今度こそ適切に答えた。

 

「しかし、警察が表立って捜査するわけにはいきませんよ。猫も杓子もスパイダーマン。世間じゃアイドル顔負けの人気者ですから。令状を取った段階で一大ニュースになって、批判が殺到します。それに、もし万一逃がしたりしたら……」

「ううむ……確かに、あんなにひょいひょい飛び跳ねて、あまつさえ糸で移動なんかされたりしたら、手に負えん」

 

 署長は唸った。超人(スーパーヒーロー)を自称するだけあって、彼の運動能力は人間の枠をはるかに越えていたのである。

 

「けれども、捨て置くこともできないのも事実です。警察の面子もあるかもしれませんが、勝手に犯罪者に向かって行くのがいけない。今のところ上手くいってるようですが、ドジを踏んで市民の安全を害するようなことがあってはならない。そうなる捕まえなくては」

「そうだ。その通りだ。市民の安全を守るのは、我々なんだからな。邪魔する者もまた、許してはおけん。だが、どうしたものか……」

 

 署長は頭を捻り、そして、とうとうそのアイディアを絞り出した。

 

「そういえば、いたじゃあないか。報酬次第であらゆる難事を解決する、世界屈指のエキスパート集団が!」

「それは、つまり……」

「そうだ。ASEに依頼を出すのだ」

 

 ――目には目を、歯には歯を、化物には化物を。

 

 そう呟いて、署長はニヤリとほくそ笑むのだった。

 




1,039文字


<次回予告>

「届け、俺の想い。そして『よしこ』第二期を……!」

 連続する不審火。
 警察の捜査の目を巧妙にかいくぐる悪党(ヴィラン)に、スパイダーマが迫る。

「そこまでだ、悪党。悪の炎を消火する男、スパイダーマ見参ッ」
「俺の名はバーニング原田! 俺の想いの炎を受けてみろッ」

 一方で警察は、勝手に犯罪者を捕らえてまわる怪人(スパイダーマン)を逮捕すべく、秘密裏にASEに依頼を出していた。

「百舌鳥さんも無茶苦茶言うよなぁ。犯罪者をボコボコに打ちのめすスーパーヒーローを、武器も無しに捕まえろだなんて。いったいどうしろって言うんだ……。――ま、こいつがあれば、どうにかなるか。頼んだぜ、相棒。今、お前に魂を吹き込んでやる!」

 決戦の場に集う、三人の男たち。

「くらえ、バーニングッ!」
「ウェブ・シュート!」
「不審者と不審者が戦っているぞ。うーん、ちょと間に入っていきたくない絵面だなぁ」

 そして、スパイダーマは『最強の男』と戦うことになる。

「ガキの遊びにしちゃ、やりすぎだ。その鼻っ柱、ここでへし折ってやるぜ」
「ぬわぁぁああああ!?」

 次回、『ブラックヒストリー・下 ~怪人VS怪人~』。
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