~もういくつ寝ると夏休み。
そんな歌が今にも聞こえてきそうな夏のある日。日も傾く中、雷丸は一人、暗い部屋の中で修行に励んでいた。
腹筋、背筋、もも上げ、腕立て伏せ、…
一筋の汗が、雷丸の顎を伝って、この四畳半の部屋の床に流れ落ちた。部屋には、クローゼットとベッドがあるだけで、他には何もない。この自室で雷丸は,来る日も来る日も筋力増強(いわゆる筋トレ)に励んでいた。
雷丸は誰かの足音を部屋の外に聞いた。母さんだ、と雷丸は思った。この時間にこの部屋の前を通るのは母しかいない。それと同時に腕立てをする雷丸の横の扉が開き、母、郷子が顔をのぞかせた。
「雷ちゃん、お風呂空いたから入っちゃいなさい」いつものように、郷子は言った。
「分かった。やべ。急がないと」雷丸もまたいつものように答えて、風呂の支度を始めた。
「毎日、飽きもせずトレーニングしてるのね」郷子は言った。これは週一のセリフ。
「ああ」雷丸は生返事を返して、額の汗をタオルで拭った。
「どうしてそこまでするの?辛いんじゃないの?」郷子は心配そうに尋ねる。これは月一である。
ひんやりとした空気がゆっくりと部屋に流れ込んでいる。
「確かにきついけど、まあ、必要だと思うから」雷丸は答えた。NEW!
郷子は、雷丸の横顔が以前より凛々しくなったことに気づいた。それを確かに拝見して、郷子はにっこり笑って部屋を出ていった。スキップする音が廊下から聞こえた。
しばらくして、風呂を済ませた雷丸は廊下を歩いていた。食堂に行き、水を飲むつもりのようだ。ふと、違和感を覚えた雷丸は、今何時だろう、と時計に目を凝らした。廊下の時計は九時を回っている。
「~~‼」
わけのわからないことを言いながら、雷丸はもと来た道をどこかに消えていった。食堂で水を飲むことはすっかり忘れてしまった。風呂を済ませたら、談話室へ直行なのだ。
川嶋邸には、談話室たるものがある。使用するのは主にこの家の使用人たちで、雷丸の母、郷子もその一人である。ここ川嶋邸には使用人が三十人ほどいて、皆住み込みで働いている。談話室は、そんな使用人たちの憩いの場となっていた。
そこに毎日本を読みに来るのが、遥風、川嶋遥風だった。彼女は川嶋家の一人娘、『令嬢』とも呼ばれる存在だが、本人はそれを気に入っていないらしく、両親への当てつけなのか、よく談話室に出入りしている。使用人たちともよく話をしている、と雷丸は郷子から聞いた。そしてそれは雷丸も例外ではなかったようで、二年前、父、迅が失踪してこの家に来た時から、何かとよく話しかけてくれた。そうしていくうちに、雷丸は遥風にだんだんと惹かれるようになっていった。
今日も談話室にやってきた雷丸。
くもりガラスの付いた扉を開け、入ると中はにぎやかで、15人ほどの使用人たちが3つのテーブルに分かれ、楽しそうにあれやこれやと話していた。
雷丸はその横のテーブルに遥風を見つけた。遥風は愛おしそうに文庫本のページをめくっていた。窓ガラスに雷丸と遥風が映っている。毎晩ここにきて遥風と会うのが、最近の雷丸の楽しみになっていた。
郷子が扉の前の雷丸に気づき手を振り、雷丸も振り返したが、もう手遅れだった。雷丸の視線は、遥風の方に釘付けだった。
とにかく、雷丸は本を選ぶことにした。談話室にはたくさんの本が置いてあり、図書館の機能をも兼ね備えた一室となっていた。
早く彼女の近くに行きたい。雷丸は衝動に駆られた。本は適当に取ることにした。シェークスピアでも、SFでも、卑猥なやつでなければなんでもよかった。
えいっと目をつぶって取ったのは『白雪姫』の文庫本だった。城を追い出され、毒リンゴを盛られて永遠の眠りについた美しい姫が、王子様のキスで目を覚ますというラブストーリー。文字版があったのか、と雷丸は思ったが、まあいいや、とそれを読むことにした。
次の問題はどこに座るかだったが、雷丸の腹はもう決まっていた。遥風の真正面の席。雷丸はそこに狙いを定める。こういう所は少し大胆な雷丸だった。
雷丸がどの席に座ろうと、遥風が雷丸のことを何とも思っていなければ、その記憶はすぐに、家族や友人との思い出に埋もれて消えてしまう。しかしその間、雷丸は幸せになれる。遥風を好きな雷丸にとっては大事な大事な、今後も残り続ける記憶になっていくのだ。
雷丸は自分にそう言い聞かせ、本棚の間から遥風を見据えた。遥風は先ほどと変わらず本を読みふけっている。深呼吸をして、なるべく自然に雷丸は歩きだした。
どぎまぎしながら雷丸が席に着こうとすると、遥風は机の向こう側から本から目だけ上げて微笑んだ。雷丸の心臓の鼓動はいっそう速くなった。向かい合う遥風に聞こえてしまいそうだと雷丸は心配になったが、そんなはずもなく、遥風は気づかないようだった。
それぞれの本を通じて、二人の夜はふけていった。
これはまだ、序章に過ぎない……。
クックック……。(←これって中二病光線だよな)