一晩泊まって、颯太一家は「また来るね」と告げて早朝に帰っていった。
雷丸はそれからずっと、玄関から入ってすぐのところにあるショーケースに飾られた黄色い柄の刀が気になっていた。それは良樹が颯太一家の帰り際に、新しく仕入れたという壺と一緒に長々と語っていた代物で、名を隼雷という。雷丸は何度もショーケースの前を行き来しながら、これがあの刀なのだろうかと考えていた。玄関扉の横に、人一人はゆうに入りそうな大きな壺が置かれている。雷丸は立ち止まり、上半身を折ってショーケースを覗き込んだ。
「気づいた?」
不意に雷丸の背後から声がした。雷丸が驚いて振り返ると、良樹がポロシャツにチノパンという格好で新聞を脇に抱えて立っていた。きっと良樹おじさんのことだから、ここにいる僕を見つけて、抜き足差し足で近づいてきたんだろう、と雷丸は思った。
「これは、君のお父さんが、迅さんが鍛えた刀。『隼雷』だ。ずっと私の部屋に置いてあるのもなんだから、昨日の夜に出してきたんだ」
そう言って良樹は、感慨深く刀を眺めた。
「すごい輝きだろう。とても人間業とは思えない……」
雷丸の横でショーケースに手をかけながら、良樹は呟いた。剣の表面が電灯の光をギラギラ反射している。良樹はため息をつき、雷丸を見た。
「迅さんはどこへ行ってしまったんだろうね……」
やっぱりこれがその刀だったか、と雷丸は思った。雷丸の父、迅は刀鍛冶だった。2年前、良樹は迅に大金を出し、迅から一本の刀、『隼雷』を買い取った。
良樹はそれをいまだに後悔していた。はじめ迅に売る気は全くなかったが、良樹が足繁く迅のもとに通ううちに迅も根負けし、売ることを承諾した。その結果、良樹は刀を手に入れ、一千万を超える大金を得た迅は失踪した。取り残された雷丸と郷子は、良樹のとりなしで川嶋邸に住むことになった。それから2年が経ち、迅は何の便りもよこしていなかった。
雷丸はあまり寂しいとは感じなかった。迅が帰ってこなかった日の数日後には、雷丸は川嶋邸で新しい家族として紹介された。ついでに雷丸はその日に遥風に一目ぼれしていた。何が何だかよくわからないまま、雷丸は川嶋邸に落ち着くことになった。
「そうだ!明日から別荘に行くんだけど雷丸くんも来る?」
良樹は話題を変え、気まずい空気を振り払った。
「あ、行きます!」雷丸は脊髄反射で答えた。
雷丸の頭に日の光に白く輝く家屋が浮かんだ。良樹はうんうんと頷き、新聞片手にうきうき顔で左側の道を奥へ歩いて行った。気持ちの切り替えの早い人だなあ、と雷丸は思った。
雷丸は辺りを見回した。吹き抜けになった2階の壁に、数枚の風景画が飾られている。中央にある階段には赤い絨毯が敷かれ、玄関扉まで続いている。
雷丸はドレス姿でその階段を下りてくる遥風を想像した。遥風が"令嬢"であることを、雷丸は再認識した。雷丸は助走をつけて2歩で赤じゅうたんを飛び越え、右の道の奥にある自分の部屋へ帰っていった。
山に囲まれた海沿いのこの町の東の端に、川島家の別荘は佇んでいる。雷丸は1度だけ行ったことがあった。プライベートビーチのある、静かで涼しげな別荘である。川嶋一家が行く前日に使用人たちが先に行って、掃除や手入れをすることになっていた。雷丸はそれについていくことにした。
大きめの肩掛けバッグに服やら宿題やらを詰め込み、楽さんの「準備はできましたか?」に「もちろんさぁ」と答え、雷丸は使用人たちと大勢で小型バスほどの楽さんの車に乗り込んだ。
家々の隙間からキラキラ光る海をぼけっと眺めながら、雷丸は遥風は今頃何をしているだろうと考えていた。はるかかなたの海上に、白い鳥が海の色にも空の色にも染まらずに漂っている。サイドウィンドウを開け、頬杖をついて海風を浴びながら、雷丸はほーっと息を吐いた。車で十分の道のりを、楽さんはぐんぐんとばしていた。
「あらあら」「楽さんったら」「昔の血が……」雷丸の横や後ろから家政婦のおばさん達のひそひそ声が漏れていた。運転席から、楽さんの白髪の混じったグレーの後頭部が見え隠れしている。
楽さんは川嶋邸の執事になる前、車両関係者の間では有名な走り屋だった。走り屋界隈で知らない者はいないとまで言われていた。しかし二十年ほど前、無事故のまま一度も負けることなく、楽さんはすっぱり引退を宣言した。理由は誰にも明かさなかったと言われている。
楽さんはアクセルを踏み込み、車はさらにスピードを上げた。うなりを上げる車とは対照的に車内は静かになり、外から聞こえるエンジン音だけがこだましている。
「楽さん!こんなにスピード上げて大丈夫なんですか!?」使用人の一人が耐え切れずに叫んだ。
「ええ」
「ご安心下さい。安全運転ですから」
楽さんは自信に満ちた様子で言い切った。
別荘についてすぐさま、大掃除(雷丸の経験する限り最大規模、年末のを凌ぐ)が始まった。何しろ別荘全体を隅から隅まで掃除するのである。
「3時間もあれば終わりますね」楽さんは『楽勝』といった感じだ。
「私達は個々の何倍も広い邸宅を毎日掃除しているわけですから」
雷丸がそれはないだろという顔をしているので、楽さんは付け加えた。
「楽勝です」しまいには言った。
自信満々な楽さんに、雷丸はただ「ははあ」と相槌を打った。
ものすごい速さで掃除は進んだ。雷丸はモップを任されたので、二階建ての別荘の廊下を余すところなく走り回った。隅々までモップがけが終わり、雷丸が『終わった』とへたりこんでいると、楽さんが階下から颯爽と現れた。
「終わりましたか!さすがです、坊ちゃん!」
雷丸が楽さんの手を取って立ち上がると、廊下は見違えるほどきれいになっていた。向かい側の棚に花瓶が置かれ、それぞれ色の違うバラの花が七本、しなやかなカーブを描いている。
「おや、あれですか?私花が好きなもので。……予定より、花瓶を一つ多く用意してしまったようでしてね。二階は我々使用人しか使用いたしませんので、あれは完全に私個人の趣味となっております」
楽さんはすっとぼけて、愛おしそうに廊下の向こうの花を眺めた。雷丸は色違いのバラのひとつひとつに、これまで見てきた様々な表情の遥風を思い描いた。楽しそうに笑う遥風、悲しげにうつむく遥風、無理に笑顔を作る遥風……その他、諸々。
少しして、雷丸がはっと我に返ると、横で楽さんが慈愛に満ちた生温かい視線を雷丸に注いでいた。『青春じゃのう』とでも言わんばかりの微笑みをたたえていた!雷丸は今にも両手で顔を押さえて逃げ出したい気分になった。悲鳴も上げたくなった。が、なんとかこらえた。
「え、えっと……今日は、どの部屋、使えば、いい、です、か?」しどろもどろに雷丸は尋ねる。
「そうですね。ではそこの角部屋をお使いください」
楽さんは答え、窓際の部屋扉を手で指した。
「わかったっ」
雷丸はそそくさとその部屋に駆け込んだ。楽さんは一瞬何か言いたそうに口を開ける。
「……いや、このことを伝えるのは、坊ちゃんが邸宅にお戻りになってからの方が、いいかもしれませんね……」楽さんは呟いた。
廊下の両端にある大窓から日光が差し込み、ほこりが宙を舞っている。別荘の2階は、本宅とは違い使用人全員の個室が用意されているため、中側の廊下は電灯がともっているものの、常に薄暗い。
楽さんは雷丸の入った部屋の横の大窓まで歩いて行き、窓を開け放った。心地よい潮風が楽さんの整えられたグレーの髪を揺らした。窓枠いっぱいに広がる大海原は、無数の光の粒子を乱反射している。さざ波の音に混じって、かもめの鳴く声が聞こえる。また、夏がやってきたのだなあ、と楽さんは思った。雷丸は扉の裏でひそかに安堵の息を吐いていた。
次の日、雷丸はいつもと違うベッドの上で目覚めた。昨日は掃除をしたので、今日は遥風たちの来る日である。雷丸の顔がぱあっと明るくなった。遥風に会えると思うと、雷丸は自然と笑みをこぼした。鼻歌を歌いながら着替え、雷丸は部屋を飛び出した。
廊下の少し開いた窓から風が吹き込み、かたかたと音を立てている。雷丸は体の節々に痛みを感じた。筋肉痛だった。やっぱり掃除の後からさらにトレーニングをするべきではなかった、と雷丸は思った。
別荘の方にも使用人用食堂が完備されている。雷丸は体をきしませながら階段を降り、食堂でサンドイッチなどの簡単な朝食を済ませた。
成り行きで雷丸が皿洗いを手伝っていると、楽さんが腕時計を見ながら食堂に入ってきた。
「えー、つい先ほど、旦那様、奥様、お嬢様がこちらに向けて出発されました。お出迎えのため、皆さん門の方へ移動をお願いします」
「「はーい」」
使用人たちは談笑を中断し、いそいそと外に出て門の前後に並んだ。日は陰っていて、風が少し強い。使用人たちはそれぞれ身だしなみを整えていた。楽さんのネクタイを直す仕草が目まぐるしくて雷丸はくすくす笑っていた。
百メートルほど離れた曲がり角から、一台の黒塗りの車が現れた。使用人全員が背筋を伸ばしきった。雷丸もつられて背筋を伸ばした。門前の使用人が二人進み出て、門を開けた。
車は門をくぐり、1番端に並んでいた雷丸を通過して右に曲がり、海の方を向いてダイナミックに、半ばテキトーに止まった。ギラギラと輝く車体の前には金色のエンブレムが付いていて、一目で高級とわかる。
「ここに来るのは一年ぶりか。懐かしいなあ」
そう言いながら運転席から出てきた良樹は、すでにアロハシャツにステテコ姿だった。更にはポケットからサングラス(フレームが星形とハート形)を取り出した。雷丸はいつものごとく感心していた。多趣味で明るくて、どこか子供っぽい、そんな良樹に雷丸は憧れを隠せなかった。
いつの間にか空は晴れ渡り、日光が降り注いでいた。ちなみに良樹は晴れ男(自称)である。
「雷丸くんこれよろしく~」
良樹は言い、そばにいた雷丸に荷物を渡した。
「楽さん車お願~い」「かしこまりました」
良樹は言い、サングラスを頭に上げた。調子に乗ってるなあ、と雷丸は思った。
楽さんは頭を下げ、慣れた動作で車に乗り込み、発進させた。黒光りする車体の向こうに遥風の後ろ姿が現れた。
遥風は麦藁帽子をかぶり、見覚えのある白いワンピースを風になびかせていた。肩から背中にかけて帽子の丸い影が落ち、結んだ髪が風に揺られて涼しげな首元がのぞいている。
使用人たちは感嘆の声を上げた。雷丸の目はハート形になったと言って差し支えない。
遥風は麦藁帽子のつばを押さえて振り返った。雷丸の心臓は跳ねる。
「あのー、これ……似合ってますか?」遥風ははにかんで尋ねた。
「ええ、もちろん」「素晴らしいです」「よくお似合いですよ」「ブラボー」
使用人たちは口々に遥風をほめた。雷丸もついつい激しく頷いてしまった。
のどかな夏の昼下がりである。
「うん、よく似合っているよ。……それじゃ、行こうか」
良樹は伸びをして、歩き出した。雷丸はそのあとに続いた。
「うん」「ええ」遥風と洋子は答えた。
四人は玄関を上がり、講堂のような広さの居間を抜け、各自の部屋に向かった。
「雷丸くん、気づいたかい?」歩きながら、良樹は興奮気味に尋ねた。
「何にですか?」雷丸は聞き返す。
「遥風のことさ」
良樹はさらりと言う。雷丸は固まった。
「すまん冗談だ。忘れてくれ」
「私のあの車の停め方、良かったと思わないかい?」気を取り直して、良樹は尋ねる。
「停め方ですか?……そういえば、ずいぶん荒っぽかったような」
「そう。それがポイントなんだ」良樹は得意げに指を鳴らした。
「はあ」
「高級車を斜めに止めて運転席からさわやかに降り立つ!これがやってみたくてねえ!」
良樹は威勢よく言い、胸の前でこぶしを握った。窓から差し込んだ光が、2人の半身を照らしている。
雷丸は、時間が止まったような気がした。良樹の目が一瞬、焦点を失う。良樹が倒れると思い、雷丸は身構えた。
「ごめん……」良樹は言い、前髪をかき上げた。
「大丈夫ですか?」雷丸は尋ねた。
「ああ。大丈夫だ。僕はこの通りぴんぴんしてる」良樹は答えた。
「……雷丸くん」良樹は真剣な口調で言った。「夢はあるかい?」
なぜここでそれを?雷丸はなんだか取り残された気分だった。「いえ、今は特にないです」
「そうか。じゃあ彼女はいるかい?」良樹はしれっと言った。
「質問の落差が激しいですね。………………いません」雷丸は答えた。
「じゃあ、好きな人はいるかな?」
「……います」
雷丸は遥風を思い浮かべた。麦藁帽子をかぶって、海のどこか遠くを見つめる遥風を。
「そのことは付き合いたいの?」
「はい」雷丸は答えた。
雷丸の中の遥風はくるりと振り返り、幸せそうに笑った。
「いいね。その顔。素敵だ」
良樹はそう言って、優しく笑った。おじさんと遥風の笑顔はどこか似ている、と雷丸は思った。
「……雷丸くん。人が1週間、何でもできて、何をしてもいい環境に置かれたとしたら、その人はまずどうすると思う?」良樹は言った。
「のんびり過ごしてすっきり、するんじゃないんですか?」
「そう思うだろ。でも実は……悩むんだ」
良樹は目を細めた。
「悩む?」
「そう。本当の自分とは何なんだろう、これから自分はどうんなっていくんだろう、って悶々と考えるのさ」
「さっき一瞬硬直してたのは、冗談を飛ばすような私は本当の私なのか?と疑問に思ったからってわけだ」
良樹は鼻を鳴らし、腕組みをして考え込んだ。雷丸は何も言えなかった。会話はそれきり途切れた。
雷丸は良樹の部屋に通され、良樹の荷物を部屋の隅に置いた。良樹は窓に近づき、一気にカーテンを引いた。
日光が一年間閉ざされていた部屋をまんべんなく照らす。雷丸はまぶしさで目を細めた。まぶたの裏に窓の輪郭と、伸びをしている良樹の影が映っている。光を手で遮りながら雷丸はゆっくりと目を開けた。
良樹が雷丸の視界から消えていた。雷丸は部屋を見回した。右にくるりと振り向いたが、誰もいない。左にも、誰もいな―――
突然、雷丸は背中に銃を突き付けられ、
「バーーン!!!!!!♪」良樹が叫んだ。
良樹の声は部屋の外まで響いた。
やられた、と雷丸は思った。良樹はけたけた笑っている。胸から血が噴き出すようで、雷丸は重い息を吐いた。どこからかチーンと音がしたような気がした。
「いや、ちょっと、見失った、ようだったから、つい」まだ笑いながら良樹は言った。
「よ、よくとっさにそんな芸当がッ」
驚きと非難の入り混じった表情で雷丸が良樹を見ると、
「できちゃうんだよね、これが」
良樹は少し得意げに言い、手にしていたモデルガンをいつの間にかガラス戸の空いていた棚に戻した。
「ここまでうまくいったのは久しぶりだ」
良樹は清々しい顔を窓側に向けて荷物を出し始めた。良樹の後ろ姿は見るからに楽しそうで、またやられてもいいな、と雷丸は思った。
良樹はバッと雷丸を振り返った。雷丸は目を丸くし、良樹は子供のように笑った。良樹は言った。
「好きなんだよね、人を驚かせるのが」
「そうだ。雷丸くん、使用人さん達に伝えておいてくれるかな。僕ら三人は今年は海に入らないから、君たちでビーチを好きに使って構わないよ、と」良樹は言った。
「はい。じゃ、海行ってきます」
雷丸は答え、右手を伸ばして敬礼のポーズをした。
「はは。楽しんでおいで」
良樹は笑い、また思考の渦に入り込んだようだった。「うーん」
雷丸は部屋を出て、食堂に向かった。別荘には談話室がないため、食堂が使用人たちの主なたまり場となっている。
ビーチが使えることを雷丸が伝えると、使用人たちは喜び、色めき立った。雷丸は少しだけ豊かな気持ちになった。
何をしようかと話す使用人たちを横目に、雷丸は廊下に出て窓の外を見た。近くのケヤキの大木にセミが止まり、彼方の海岸線には波が打ち寄せている。窓ガラスは防犯対策で分厚くしてあり、雷丸のいる中から外の音はほとんど聞こえない。
雷丸はスリッパを脱ぎ捨て、駆け出した。食堂から一直線上にある玄関は本館と違い、民家風の作りになっていた。雷丸は玄関の少し手前で勢いをつけ、靴下で廊下を滑った。雷丸はそのまま玄関ホールに突入し、スケボーに乗っている体で大ジャンプを決めて玄関マットを飛び越し、ひやりとする土間にだんっと豪快に着地した。決まった、と雷丸は思った。
壁の柱時計が規則正しく揺れている。雷丸はゆっくりと扉を開けた。
もともと明るかったはずの玄関にさらにまばゆい光が差し込む。たちまち海風が雷丸を包み込んだ。さざ波の音が高揚感をかき立て、潮の香りが鼻をくすぐった。
雷丸は外に出た。目の前には見渡す限りの青い海が広がり、白い砂浜には誰の足跡もない。
左を向けば、ごつごつした岩肌がむき出しの断崖絶壁。そのところどころにカモメが巣を作り、その周りを飛び回っている。右を向けば、開放感のあるテラスに3本のパラソルが立てられ、それぞれにビーチチェアが添えられている。
その向こうには砂浜が延々と続き、終着点にある小高い丘はその背後にある海水浴場と雰囲気に一線を画している。雷丸は海岸線をしばらく散歩した。
自由。雷丸の行動はその一言で表すことができた。
流行りの歌を、普段は出すことのない大声で熱唱した。浜辺を歩くカモメの群れに勢いよく突っ込んだ(カモメの群れは一斉に飛び立ち、海岸には雷丸だけが残された)。カニにわざわざ手を挟まれて、痛みのあまり絶叫した。砂の上に大の字に横になり「好きだーっ!」と叫んで転げまわった(目に砂が入って酷い目にあった)。そのまま少し昼寝をし、気づけばすでに日が沈み始めていた。
「……はっ」
丘の影で眠っていた雷丸は目覚めた。いつの間にか砂浜はオレンジ色に染まり、海は金色に輝いている。雷丸は立ち上がり、歩き出した。
「もうそんな時間か。腹減ったな……ん?」
雷丸は立ち止まり、砂についた足跡に目を凝らした。雷丸のものの他に、もう一人分の足跡が雷丸の寝ていた部分まで続き、引き返している。使用人さんか良樹おじさんが様子を見に来たんだろう、と雷丸は思った。念のため雷丸は自分の顔に良樹による落書きがされていないか確認した。水面に移った雷丸の顔に落書きは見当たらない。
雷丸は再び歩き出した。丘の向こうからかすかに海水浴客のざわめきが聞こえる。道の途中にはたくさんの足跡があった。使用人さんたちがビーチバレーでもしてたに違いない、と雷丸は思った。
雷丸は少し物足りなさを感じていた。さざ波の音がやけにうるさく聞こえる。それがなぜなのか、雷丸には分かっていた。
遥風がいないからだ。立ち止まった雷丸の視線の先にいる、遥風が。
遥風が、パラソルの下のビーチチェアに腰かけて本を読んでいた。背もたれに深くもたれた遥風は微笑を浮かべ、本のページをめくっている。とてもリラックスしているようだった。
雷丸はただただ遥風を見ていた。遥風の横顔、髪をかき分ける仕草、目つき、髪形、すべてが美しかった。これまで感じていた物足りなさや空腹感は、何もかもがどうでもいいもののように感じられた。
そこには、遥風がいた。雷丸は小さく、安堵のような、満足のような息を吐いた。
「……雷丸。いたんだ」
遥風は言った。気のせいか、声が少し弱々しい。遥風は本を閉じて横に置き、座ったまま雷丸に向き直った。遥風はガラス玉のような感情のない目で雷丸を見つめた。
「……何かあった?」雷丸は尋ねた。
「ううん。特に……雷丸は今まで何してたの?」
「向こうの丘で昼寝を少し」
「ふふ。そうなんだ。私は……いろいろ、考えてた。学校のこととか、家のこととか。……毎年のこと、なんだけどね」
遥風は何でもないことのように笑った。やっぱり、良樹おじさんと同じように悩んでたんだ。遥風の強がりに、雷丸はかける言葉を失った。「そっか」
「そういえば、おじさんが『今年は誰も海に入らない』って言ってたけど」
「うん。ここ数年は、一度も、泳いでないかな」一言一言、遥風は答えた。
「……泳がなくていいの?せっかくの海なのに」何の下心もなく雷丸は尋ねた。
「うーん……でも、一人じゃ、ね…………」
水晶玉のような瞳で遥風は雷丸を見つめ続けている。その意味に、雷丸が気付くことはなかった。遥風は緩く息を吐き、サンダルに足を伸ばした。
「それじゃ、戻ろっか」遥風は雷丸を促した。
玄関扉までの十数メートルを、二人は並んで歩いた。日が暮れかけ、空は赤から黒へ変わり始めている。何度か二人の手が触れあったが、遥風は気づかないふりをした。雷丸の歩き方はどこかぎこちなかった。遥風は微笑んで雷丸をちらりと見た。
もう少しだけこのまま歩いていたい、と雷丸は思った。
一区切りつくまで書こうと思っていたら、前回よりはるかに長くなってしまった……!
待たせてしまいました。
ネタに困っていたわけではないのです。
書くのが難航していただけなのです。
ちなみに物語の大筋ができたのは6か月前なのです。
しかし書き始めたのは2か月前なのです!
物語はもう折り返しポイントに入っています。