まずい。ひじょーーにまずい。良樹は館中の廊下を駆け回りながら、雷丸を探している。廊下を行きかう使用人達に変な目で見られているが、今はそんなこと気にしている場合ではない。とにかくこの情報を早く雷丸君に伝えなくては。
洋子が騒ぎ出している。このままでは収拾がつかない事態になりかねない。
良樹の行く手に今が見えてきた。ここか、今雷丸君が探しているのは?良樹は居間の前で走る速度を緩める。
雷丸は居間をくまなく調べていた。掃除用具入れなどの人の入れそうなスペースから、窓の外のバルコニーの下の地面まで、遥風のいる気配は微塵もない。どこだ、どこに行っちゃったんだよ、と雷丸は心の中で問い続けている。
今朝、ちゃんと告白しておけばよかった。雷丸は今更ながら思った。次に会った時は、ちゃんと告白しよう。雷丸は決意を固める。
バルコニーは朝と変わらずまったりと照らされていて、閉めた窓からはジージーという精神攻撃めいたセミの声がかすかに聞こえるだけである。
遥風に会えなかったら元も子もない、と雷丸は走り出す。遥風は一体どこへ行ったんだ。雷丸は部屋を出て、
「あでぇっ!」
良樹とぶつかった。
「雷丸君。やっと見つけた」
「いてて……どうしました?遥風、見つかったんですか?」
「いや。伝えたいことがあってね。さっき思い出したんだが、昼頃に、迅さんと遥風が話してるのを見かけたんだ。迅さんなら、何か知っているかもしれない。探すのを、手伝ってくれないか」
「分かりました」
良樹がまだ言い終わらぬうちに、雷丸は駆け出した。
「……一途だね。遥風は幸せ者だな」
中央階段を駆け下りる雷丸の後ろ姿を見て、良樹は呟いた。
雷丸は道行く使用人たちに迅のことを聞いて回った。
「親父が今どこにいるか知りませんか?」
「迅さんのことかい?うーん、知らないなあ」使用人は落ち着いた様子で首を捻る。
「親父を知りませんか?」
「迅さんか……。ごめんね、分からないわ」使用人のやけに長い沈黙が、心臓に悪く感じた。
何でそんなに冷静なんだよ、と雷丸が眉をひそめた所に、楽さんが通りかかった。
「楽さん!親父がどこに行ったか知りませんか?」すがるように雷丸は問う。
「迅様ですか。つい先程、二階のモニター室に入られるのを見ましたが……」楽さんは答えた。
「それです!ありがとう!」雷丸は礼を言い、談話室横の階段を駆け上がった。
踊り場にある窓の枠の手前に、色とりどりのバラの花瓶が置かれている。燃えるような赤に、滑らかなオレンジ、遥風の着ていた浴衣の色にそっくりなピンク、生命力溢れる緑、透き通るような青、そして純白の6本。
遥風は今どこで、どんな顔で、何をしているだろうか。雷丸は普段使わない頭をフル回転させて考える。
使用人の多いこの館の中で、一人で長時間隠れ続けていられるわけがない。総出で探せば見つかるのは時間の問題のはずだ。でも見つかっていない。実は遥風は外にいた?それもなさそうだ。これだけ大きな館の警備が、社長令嬢を一人で外出させるほど不完全だとは思えない。共犯者がいたとしたらどうだ。これなら……いや、そもそも共犯者を作って外に出たって遥風には何の得もないじゃないか。万が一見つかれば責任を追及されてそいつはクビになるのがオチだ。それにそんなことをする遥風でもないだろう。
ということは遥風は中にいる。僕らの目と鼻の先のどこかに身をひそめている。それならなぜ出てこないんだ。良樹おじさんはもちろんのこと、洋子おばさんも必死に名前を読んで遥風を探していた。使用人も僕もひっくるめて心配するのは目に見えていたはずなのに。……もしかして、出てこれないのか?出てきたくないんじゃなく。つまりそれは……まさか。
遥風は、監禁されている?いやいや、そんなことが。……有り得る。あったって何も不思議じゃない。
雷丸はモニター室の前にたどり着いた。中から話し声が聞こえている。雷丸はドアノブに手をかけた。
と、その時。部屋の中の人物が大きく笑い声を発した。
雷丸の思考はそこで途切れた。全身の血が沸騰するような怒りがこみ上げる。その声は間違いなく、迅の声だったのだ。雷丸が歯噛みをしたのと、扉を開け放ったのは同時だった。薄暗い部屋の壁にいくつも取り付けられたモニターが光を放っていて、その下に二つ、足を組んで椅子に腰かける人影がある。
「笑ってんじゃねえ!」雷丸は大声を出した。
言った後で雷丸は二人の顔を睨みつけた。一瞬のち、雷丸は目を剝いた。迅ともう一人の人物はそろって顔を歪めた。
「なんで大悟さんがここにいるんだよ……!」
モニター室の管理人がいつの間にか河野大悟とすり替わっていたのだ。大悟が管理人のつなぎを着ているのがその証拠だ。こいつらか、と思い雷丸はわなわなと震えた。雷丸の頭から湯気が立ち上っているように見える。雷丸は獣のような息を吐く。迅と大悟は明らかにたじろいでいる。
「そうか……あんたらが犯人なのか……」雷丸は至って静かに言った。
雷丸は息を吸い込む。
「遥風を、どこへやった―――ッ!!」
そう力の限り叫ぶ雷丸の声は、溢れる涙を押し殺しているかのようだった。
*
痛い……おなかが痛い……。
遥風は暗くて狭い空間に立っている。一時間近く立ちっぱなしだった。加えて激しい腹痛に襲われ、意識が
雷丸、早く来て……くっ。もう……ダメ……。
膝の力が抜け、遥風はその場に崩れ落ちる。しかし極めて狭い空間に人が倒れる余地はない。膝と腰がどうしても引っ掛かり、遥風は壁に頭を打ち付けた。ごん、と独特の音が響いた。
*
ががんっ。ごん。
重く響く、陶器を固いもので殴ったような音がやけに大きくモニター室で鳴った。
「何だ今の音。壺に何かぶつかったか?」言ったのは迅だ。
「つぼ?」雷丸は怒りの表情で首をかしげる。
「いや、玄関には誰もいないが」大悟は答えた。
ごん……ごん。
「まただ。玄関にある集音マイクからの音だぞ」雷丸には目もくれずに迅は言った。「故障か?それとも……壺の中に誰か入っているのか?」
「遥風ちゃんが入ってるとか」
「まさか」
「初めに聞こえた、ががんっていう音、あれは壺の中で倒れた音だったのかも」大悟はそう言って眉をひそめた。
「壺……壺の中!」雷丸の頭の中が真っ白になっていく。
雷丸は即座に走り出した。迅と大悟が振り返って見た時には、雷丸の後ろ足が玄関側のドア枠の隅に消えていくところだった。「……速っ」
遥風が、倒れている?その半事実に突き動かされ、雷丸は走る。いてもたってもいられなかった。痛みを伴う程に心臓は拍動し、涙か汗かも分からないものが全身から噴き出している。
一刻も早く遥風を助ける。その言葉が心の奥底で繰り返されていた。
廊下を抜けると、瞬く間に視界が開けた。庭に通じる大扉の横に、西洋風の絵柄のついた壺が床に置かれている。
雷丸は転げ落ちるように階段を降りる。中央階段と壺の一直線上に、刀のショーケースが一つ、開いていた。雷丸はその中にあった青い柄の刀、『隼雷』を掴んだ。雷丸は刀の刃を寝かせて構え、走ってきた勢いそのままに壺の真正面に飛び上がった。空中で体を反れるだけ反る。壺との距離が縮まっていく。ジャンプの最高点を迎え、雷丸の体は下降し始めた。
遥風が壺の下の方に倒れているなら、壺の上部は壊しても安全。宙を舞いながら雷丸はとっさに考えた。
下降はさらに速度を増していく。ここだ。雷丸は全身を躍動させ体をくの字に折り、全体重をかけた刀を壺の上部に振り下ろした。
ぱぁん、と花火のような音がして壺の前側が砕け散り、破片とともに遥風が床に倒れこんだ。
「遥風!」
遥風を踏みつけないように雷丸は着地した。一瞬ためらいつつも遥風の肩をゆする。
「遥風、遥風」この緊急事態に僕は何をためらっているんだ。
「うっ」と遥風が呻いた。「大丈夫!?な、わけないか!」
「お腹が……痛い」苦しそうに遥風は言った。
「びょ、病院!早く病院に」
ブツッ。玄関のスピーカー(モニター室と繋がっている)のスイッチが入る。
『雷丸』迅は玄関の雷丸に呼び掛ける。
『救急車を待つよりお前が直接病院に連れて行った方が速い』感情を込めずに迅は言う。
「!……オッケー……」雷丸は答えた。
両手を突き合わせ、呼吸を整え、遥風の背中と膝の下に腕を滑りこませ、抱き上げる。日頃のトレーニングの成果か、それとも火事場のバカ力だろうか。遥風の体はいとも簡単に持ち上がった。
「……よし」雷丸は呟いた。
玄関扉を蹴り開け、花壇の水まきをしていた使用人に正門を開けさせた。館の前の道を北に二百メートル直進し、信号を越えると、そこに大学病院がある。堤防沿いのその道を、雷丸は駆けた。眺めないのにはもったいないほどの青空が二人の頭上に広がっていた。信号のある交差点までの道のりは、とてつもなく長く感じた。
信号待ちで通行人に「大丈夫ですか」と声をかけられ、雷丸は「大丈夫じゃありません!」と答えた。
「急性盲腸炎でした」
手術室の灯が消え、出てきた執刀医は、不安をむき出しに立ち上がった雷丸をなだめるように言った。「手術は無事、成功しましたよ」
雷丸はほっと胸をなでおろす。
「まだ麻酔が聞いて眠っていますが、三十分くらいで目を覚ますと思います。優しく、起こしてあげて下さい」執刀医は穏やかに言った。
雷丸とストレッチャー上の遥風は、家族が来るのなら、と広い個室へ案内された。
「それでは、麻酔が切れる頃にまた来ますね。どうぞごゆっくり」看護師はにっこり笑って頭を下げ、病室を出ていった。
病室には、雷丸と遥風の二人だけとなった。
ラッキィチャァァンス!…………なんちゃって。ふー、と息を吐き、雷丸は近くにあったパイプ椅子にどっかと腰かけた。窓の外は夕焼け色に染まり始めている。ゆっくりと流れる雲にぼんやりと目を預けながら、雷丸は別荘に行った日のことを思い出す。
砂浜についた二人分の足跡と、その向こうに見えた遥風の横顔。ほのかに赤らんだ頬と、自分を見つめる瞳。二人並んで歩いた日暮れ。そこでかすかに触れた手の感触。そして今日、直に握られた手に残る温もり。
遥風のことばっかりだな、と雷丸は思った。雷丸はベッドに肘をついて、すぐ近くにある遥風の横顔を眺めた。
光の目立ち始めた夜の街を見下ろすように、そして雷丸と遥風を見守るように、窓際に白いバラの花束が置かれている。
一体いつから遥風を思っていたのだろう。言い知れぬ思いがため息となって外に漏れる。幸せな時間だった。何度も顔を伏せては上げた。
「……あのぅ」さっきの看護師が開いた扉の前に立っていた。
「ぅあい!」とっさに雷丸は立ち上がった。
「そろそろ麻酔が切れる頃、なんですが……。まだぐっすり眠っているようですね。優しく、起こしてあげて下さい。では、またその時に」看護師は執刀医と同じことを言って去っていった。
「何だろ、"優しく起こしてあげて下さい"って」雷丸は言い、遥風の方を見た。
「ん?」
雷丸は遥風に近寄る。ぐっすり眠っているはずの遥風が露骨に動いたような気がしたのだ。遥風の顔を真上から見下ろす。
きれい……だ……。まず思ったのはそれだった。肩の近くまでかぶせられた布団、シーツは純白で、その真ん中にいる遥風はまるで……そう、白雪姫のようだった。
磁石のS極とN極が引き合うように、だんだんと顔と顔の距離が縮まっていく。
白雪姫の話で、毒リンゴを食べて死んでしまった姫を、蘇らせるのは……。
気が付けば、互いの唇と唇が触れあっていた。雷丸ははっと我に返り、またしても気付く。あの執刀医と看護師の言っていた本当の意味を。
『お前も男なら、好きな子ぐらいキスで起こせ』それだ。それしかない。
雷丸はずざざっ、と後ずさる。何しろやってしまったのだ。恋人同士しかやることの許されない禁忌を。何と言い訳すれば?……僕ら最近いい感じだったし?いや、そういうことじゃない。
散々うろたえ、一応の結論を出し、雷丸はパイプ椅子に後ろ向きに倒れ込んだ。強い後ろベクトルの衝撃を受けたパイプ椅子も雷丸と一緒に倒れ込んだ。
どんっ。ガッシャァァァン。「ぎゃあっ!」
「う……ん。……雷丸。どうしたの?」床で情けない姿になっている雷丸に、遥風は吹き出し気味に尋ねる。
「おはよう。遥風」雷丸は倒れた姿勢のまま返事をした。
何だか名前を呼ぶのが新鮮に感じた。
「ええと……遥風さん」倒れた椅子を立てて腰かけ、雷丸は言った。
「……はい」真剣な空気を察し、遥風も敬語を使う。
「僕と、付き合ってください」もう告白するしか、ないだろ。
「……はい。よろしくお願いします」
遥風は目を潤ませているが、雷丸は気付かない。極上の一時だった。
「っ、良かった。良かった……」雷丸は大きく大きく息を吐く。
「何かあったの?」遥風はベッドの上で父親そっくりのやんちゃな笑みを浮かべる。
「その……さっき、無断で……キ、キスしちゃって……すいません」雷丸は真面目に頭を下げた。
「……」遥風は目を伏せて、何も答えない。
「あの、本当、申し訳ない」
「あ、いいのいいのそれは。大丈夫、気にしてないよ」と遥風は取り繕った。「それより、ちゃんと言ってくれて、告白してくれて、ありがとう」
「こちらこそ、OKしてくれてありがとうございま」
「あそこにあるバラ、きれいだね」
君のほうがきれいだよ、という言葉が頭に浮かび、雷丸は歯を食いしばった。窓の外はもう暗く、窓ガラスが二人きりの室内を映し出している。
「なぜか最近よく見るんだ。バラの花」雷丸は思ったままを口にした。
「多分、それは楽さんの仕業じゃないかな」遥風は
「そうなのか。そういえば『バラの花が好き』って言ってたっけ」
胸の
「うん。楽さん、花言葉とかをすごく大事にしてるみたい」優しく遥風は笑う。
「じゃあこの花にも何か意味が」
「あるんだと思う」遥風は頷いて、「確か白いバラの花言葉は………"純愛"」
「は、なるほど」予期せず頬が熱くなってしまう雷丸だった。
見れば、遥風の方でも頬を赤らめ、雷丸に目を向けていた。困ったように二人は笑った。
「それで、遥風はどうして壺の中に?」雷丸はずっと気になっていたことを切り出した。
「それなんだけど」と遥風。「謝らないといけないことがあるの」
「謝らないと、いけないこと?」
「実は……ね」遥風はぽつりぽつりと、話し始めた。
ありがとうって言葉、いいですよね。