「え? 僕が整体師になった理由だって?」
対面のソファに座っている瞳子のお父さんは俺の質問に目を丸くした。
下校してから真っすぐ瞳子の家へと来た。今日は葵はピアノの稽古なので、瞳子と家デートである。
その瞳子はといえば、帰宅早々「部屋を片付けるからちょっとだけ待ってて」と言い残して二階へと上がってしまった。葵から昨日俺がキスの回数制限を破ったことを聞いたのだろう。なんとか顔に出すまいと必要以上に仏頂面してたからな。まあ耳が赤いのは隠せていなかったんだけども。
そんなわけでリビングで待たせてもらっていたわけなんだけども。ちょうど本日は休みなのか、仕事を早く切り上げたのか、瞳子のお父さんがいたので質問をぶつけてみたのだ。それが冒頭の反応である。
おじさんは売れっ子整体師ってやつである。個人でというよりも、いくつか店を持っている。経営は大変らしいのだが、しっかり稼いでいるようなので上手くいっているようだ。
きっかけは中学時代にやっていた柔道のケガなのだが、綺麗に治してもらってからその技術を会得できないかと教えてもらっていた。
そんな俺を見てか、瞳子と葵も教わっていた。とくに愛娘である瞳子に教えられておじさんはご満悦だった。
それはともかくとして、この技術を将来に生かせやしないかと考えた俺だった。漠然とした考えから教えを請うていたけれど、もっと本質的なところを見なければと思ったのだ。
なぜその職種を選んだのか? 面接があれば聞かれることだろう。それほどに大事なことに違いなかった。
「そんなのは、僕に整体師としてやっていけるだけの腕があるからに決まっているじゃないか」
……ん? なんか思っていた答えとは違うような。
「腕、ですか?」
「ああ。稼げる腕さ」
おじさんは力こぶを出すポーズで、ぽんっとその二の腕を叩いて見せる。今の俺の腕の方が太く見えるのは気のせいじゃないだろう。
「そうじゃなくてですね。こう、志したきっかけと言いますか……。そもそもやろうって思わないと自分にその才能があるかってわからないじゃないですか」
「ふむ」
いや、「ふむ」じゃなくてですね。
面接的に言えば志望動機。俺が知りたいのはそういうことだ。何かしらのきっかけ、やりがいなど、本当の意味でやりたいことを仕事に選んだのだとすれば、理由ってやつがあるはずだ。
おじさんの答えからヒントを得たい。と、思っていたのだが。
「僕は手に職ってやつが欲しくてね。そう思った時に、自分ができそうだって思ったのが整体だった。身近にその筋の人がいるってのも大きかったかな」
手に職か……。確かにそれは必要だろう。定年後でも働ける武器になるし、もしもの時があったとしてもなんとかやっていける気がする。
前世の俺には特別なスキルなんてものはなかった。ただただやるべきことをするだけ。勤勉さだけが頼りの働きアリそのものだった。
それに不満はあっても、疑問はなかった。自分はやるべきことはやっている。そんな安心感だけが、俺の唯一とも呼べる支えだったのかもしれない。
でも、今回は違う。考える時間はたくさんある。今まで目にしようともしなかったスキルを得る時間だってある。
これだけのアドバンテージがありながら、それでも納得できない将来に向かってしまうだなんてあってはならない。なぜかなんてわからないけど、せっかく逆行できたのだ。それに意味があるのだとすれば、そのチャンスを逃すわけにはいかない。
「……なぜそんな顔をするんだ?」
「え?」
気づけば瞳子のお父さんが怪訝な顔をしていた。背を預けていたソファから身を起こすと、言い聞かせるような口調で続けた。
「俊成くんは力が入り過ぎているように見える。君達の年頃なら、将来だなんてまだまだ力いっぱい考えるようなことでもないだろ」
「でも、将来しっかりした大人になるためには今のうちからがんばるべきでしょ。そのために何をしたいか、どんな仕事に就くか。できるだけ早く決めた方がいいに決まっている」
おじさんは「ふむ」と頷く。娘が関わると周りが見えないくらいの熱を出すが、その目は冷静なものだった。
「確かにね。俊成くんの言うことは正しい」
おじさんは肯定しながらも「でも」と言った。
「君が言っているのは夢とかやりたいことではなく、誰にでも自慢できるような仕事だろう。どうすれば誰にでも胸を張れる仕事を見つけられるのか。僕にはそれをききたがっているように聞こえるよ」
そう指摘されて息が詰まった。
何も言い返せないでいる俺を、おじさんは責めることなく優しく続けた。
「僕だって最初から整体師になろうとしていたわけじゃない。君くらいの歳の頃の僕が聞けば驚くだろうさ。実際に前は別の仕事をしていたわけだしね」
おじさんはソファから立ち上がり、俺の肩に手を置いた。今では柔道で鍛えたこともあって俺の方ががっちりした体格のはずなのに、その手は大きく感じた。
「将来に目を向けるのはいいが、焦るなよ。若いんだから失敗なんていくらでもできるんだからね。貴重な失敗を、無駄にするなよ」
でも俺は……。一度詰まってしまった言葉はなかなか出ようとはしてくれなかった。
「と、俊成……。片付け終わったから部屋に行きましょう」
背後からおずおずとした瞳子の声。気づかない間に二階から下りてきていたようだった。
「瞳子! 僕はこれからまた仕事に行かなきゃなんだけど少しおしゃべりしないかい?」
「パパ。あたしは俊成といっしょにいるから。仕事がんばってね」
おじさんのさっきまで感じていた威厳はどこへやら。娘から親子の交流を断られて撃沈していた。その落ち込みようには思わず同情を覚えてしまう。
「俊成くん……。瞳子がかわいいからって変なことをしたら許さんぞ」
怖ぇよ。まるで地の底から響くような声が俺だけに向けられる。絶妙な声量だったようで、娘さんには父親の嫉妬の声は聞こえていないようだった。
※ ※ ※
瞳子の部屋に入らせてもらうと、整理整頓された空間が広がった。
片づけをしたばかりというのもあるのだろう。いや、もともと散らかっているところなんて一度も見たことがないか。そう思うと何を片付けたのかと気になった。
「そういえば、着替えなかったんだな」
「え?」
瞳子の格好は帰宅したばかりの制服のままだった。てっきり片付けついでに着替えるのかと思っていただけにちょっと疑問に感じてしまった。
瞳子は自分の衣服を見るために視線を下へと向ける。それから俺へと視線を戻した。
「へ、変だったかしら?」
「別に変だからって意味じゃないよ。俺が勝手に着替えてくるんだろうなって思っただけだからさ」
うん、深い意味はない。
「じゃ、じゃあ今から着替えるわっ」
だから瞳子さん? そんなぶっ飛んだ行動をしなくてもいいんだよ?
しかし瞳子は顔を真っ赤にして制服のボタンに手をかける。ダメだ。このままでは俺の前でストリップを始めてしまう。
……それはそれでいいのでは?
と、邪な思考を振り払い、俺は瞳子の手を取って行き過ぎた行動を止める。
「と、俊成っ!?」
急に手を取られたからか瞳子は驚いた表情を見せる。ちょっとどころではなく、パニくっているようだ。
いつもの瞳子じゃないな。そのまま瞳子を観察していると、彼女は視線を右へ左へと忙しなく動かす。
ようやく落ち着いてきたかと思えば、俺を見上げ、すっと静かに目を閉じた。
「……」
あれ? いつの間にか瞳子はキス待ちの態勢に入っていた。
そんな彼女の顔を見つめている俺。手を取り……、つまり距離は近い。
見つめていると瞳子の長いまつ毛がふるふると震えているのに気づく。
これまで何度もキスをしてきた関係。キス、までしか進んでいなかった。
俺がキスの回数制限を破ったことは、彼女は葵から聞いている。ずっと進もうとしてこなかった俺がやっと動いたのだと、彼女は知っている。
今日はずっと緊張を隠そうと仏頂面だったもんな。瞳子は俺が彼女に対してすることを緊張しながらも待ち続けていたのだ。そりゃパニックにもなる。
たぶん、帰宅して早々に部屋の片づけと言って俺から離れたのは、心を落ち着けたかったからなのかもしれない。それでも緊張をほぐすには至らなかったようだけども。
「……」
待ち続ける瞳子。俺は黙って彼女との距離を詰めた。
「ちゅ……んっ」
触れ合う唇の感触は、いつもとは違うように感じた。
顔を離すと青い瞳が俺を見つめていた。素直に綺麗だと思う。
「……もっと」
熱い吐息とともに、瞳子から声が漏れる。それは彼女の願望だった。
「……うん」
顔が熱い。頭に血が集まっているような、クラクラした感覚でありながら、その頷きはしっかりしていたと思う。
瞳子の肩を抱き、再び唇を合わせる。多少荒々しくなってしまったかもしれない。心配になって顔を離す。
「もっと……もっと、して」
まるで今にも泣いてしまうんじゃないかってくらい、瞳子の目は潤んでいた。
ああ。やっぱり俺の予想は当たっていた。
こんなにも満たされることを知ってしまえば止まれなくなってしまう。もっともっと欲しくなってしまう。誰にも、渡したくないと思ってしまう。
言葉を並べる余裕すらなくなり、ただの本能が俺を突き動かす。
最初は軽い触れ合いだったのに、深く、もっと深くを求めて何度もキスをした。
「もっと、して」
唇が離れる度に瞳子が切なそうに呟く。本能が刺激され、俺は彼女の言葉に従った。
飽きない。何回繰り返しても飽きない行為だった。
おそらく、次は葵に今しているくらいの欲望をぶつけるのだろう。それに対し彼女達は喜んでくれる。傲慢ながらも、そうなのだとわかってしまう。
わかっている。背中を押されているのもわかっている。俺から前に出なきゃいけないのもわかっている。
それでも、だとしても、俺はそんな彼女達に愛しさとともに、申し訳なさを覚えてしまうのだ。
※ ※ ※
結局、気づけば一時間以上もの時間をキスだけで過ごしていた。俺と瞳子は互いに正気に戻ってびっくりしてしまった。
「えへへ」
素に戻ってから盛大に恥ずかしがっていた瞳子だったが、しばらくすると嬉しさが勝ったのか、にまにま笑顔が止まらなくなっていた。控えめに言って超かわいかったです。
日が暮れたので帰ることにした。玄関まで瞳子が見送りに来てくれる。
玄関を開けると、外の空気が肌を撫でる。日が暮れたというのもあるけど、やけに涼しく感じた。
「と、俊成……」
俺と瞳子は二人で外に出た。瞳子は俺の腕をぎゅっと抱いた。
「い、いつでもキス……してもいいのよね?」
恥ずかしそうに、それでいて期待のこもった眼を向けてくる。
俺のわがままでどれだけ我慢させていたのかというのを嫌でも理解させられる。彼女は、いや彼女達は、俺が考えるよりもずっと恋人らしくありたかったのだろう。
彼女達に想われていることが嬉しい。その分だけ、自分に求めるものは大きくならなければならないと思った。
「瞳子」
「あ」
俺は腕を振りほどいて瞳子と向き合った。一瞬寂しそうにする彼女だったが、すぐに俺の行動に驚くこととなる。
壁に手をついて、瞳子の目が瞬く前に強引なキスをした。
「ふっ……んんっ」
誰もいないとはいえ、外でこんなキスをするのは否応なく興奮させた。
突然の俺の行動に翻弄されていた瞳子も、目をつむり応えてくれた。それが嬉しくて、調子に乗ってしまいそうになる自分を抑えるのが大変だった。
いつまでもこうしているわけにもいかない。俺は瞳子から唇を離した。
「……」
「……」
「……」
瞳子と見つめ合っていると、それだけで誘惑されているようだった。
いやいや、回数制限をなしにしたとはいえこれ以上はダメだろう。帰れなくなっちゃうって。
「……」
「……」
「……」
……なぜだろうか? さっきから気配が一つ多いような気がするんだけど。
「……じー」
俺と瞳子以外の気配が声を発した。びっくりした俺達はそろって飛び上がってしまう。
「あれ? そのまま続けてもらってもかまいまセンヨ?」
俺達のすぐ傍にいたのは銀髪の外国人だった。というか瞳子のお母さんだった。
「まままままま、ママ!? いいいいいつからそこにいたのよ!?」
「瞳子とトシナリが熱烈な愛を確かめ合っているところからデスヨ」
テンパりながらも怒り顔を見せる娘にも動じることなく、おばさんはあっけらかんとしたものだった。
「え、えーとですね……」
俺もなんて言えばいいのかわからず、言葉を濁してしまう。おばさんは娘に似た顔を向けて、ばっちーんとウインクした。
「モチロン、見なかったことにするので安心デスネ」
いえいえ、お母様に見られた時点で安心なんてものは彼方に飛んで行ってしまいましたよ。
「パパには言いマセン。それだけは約束シマス」
それだけが安心材料だった。あのおじさんなら血相変えて俺に詰め寄りそうだもんな。
「な、な、な、な、ななな……なぁーーっ!?」
けれど、瞳子には耐えられなかったようだ。彼女の絶叫が、夜空まで響いたのであった。