おつかいをした次の日の月曜日。調理実習当日である。
エプロンや三角巾やふきんを忘れずに用意した。もちろん食材を忘れてはいない。朝学校に到着してすぐに先生に預けた。
「調理実習楽しみだねっ」
葵ちゃんは笑顔でそう言った。料理に関して自信があるように見える。
「えっと……、乱切りがこうで……、その前に猫の手だった……えっと……だから左手がこうで、右手が……」
瞳子ちゃんは朝からぶつぶつと呟いている。聞こえる言葉から彼女の不安を感じられる。なんか自信のない瞳子ちゃんって珍しいな。
葵ちゃんと瞳子ちゃんは毎年俺に手作りのバレンタインチョコをくれるものだから、勝手に二人とも料理ができるものだと思ってた。お菓子作りとはまた違うからな。あまりプレッシャーをかけない方がいいかもしれない。
などと考えているうちに調理実習の時間がやってきた。
エプロンと三角巾を装備して家庭科室へ。エプロンなんかはみんなそれぞれで違っていた。けっこうキャラ物なんかも多いな。ほとんど黒一色のエプロンの俺が浮いているように感じてしまう。
「見て見てトシくん。このエプロンかわいいでしょ?」
「うん、とってもかわいいよ」
葵ちゃんはピンク色を基調としたフリフリのエプロンだった。ファンシーにデフォルメされたクマさんがかわいさアピールのポーズをしている。
葵ちゃんは髪が長いのもあって後ろで一つに束ねていた。家庭的な雰囲気が出ていてポイントが高いね。
「俊成。あたしはどう?」
「もちろん瞳子ちゃんも似合っててかわいいよ」
瞳子ちゃんのエプロンは青色を基調とした柄物だった。葵ちゃんと違ってシンプルなデザインだが、大人びている彼女にはよく似合っていた。
「うぅ……なんか緊張するなぁ。失敗しても怒らんといてな」
「大丈夫だよ佐藤。ちゃんと俺がフォローしてやるからさ」
「ほんま頼むでー」
佐藤の反応を見ていると前世の俺を思い出すな。詳しく憶えているわけじゃないけど、俺もこうやって緊張していたのだろう。
「今日はうまいもん食べられたらいいな」
「そうだな。そのためにもしっかりがんばらないとな」
本郷は明るい調子だ。まったく不安を感じさせない。こいつ料理とかできるんだっけ? わざわざ他人の料理スキルまでは憶えてないからわかんないな。
「ねえ高木。後ろ結んで」
「ああ、エプロン? いいよ」
赤城さんが俺に背中を向けてくる。エプロンの紐が結べなかったようなので結んであげることにした。
ちなみに彼女のエプロンの絵柄は某夢の国のネズミさんである。でかでかと主張しているデザインに赤城さんとのギャップを感じてしまう。
「あっ! 赤城さん俊成に何してもらってるのよっ」
「もうっ。それくらいなら私がしてあげたのに!」
赤城さんのエプロンの紐を結んでいると瞳子ちゃんと葵ちゃんが反応した。赤城さんはまったく意に介した様子もなく二人に顔を向ける。
「高木の後ろの席の特権だから」
いやいやそんな特権は存在しませんよ? 赤城さん節に苦笑いしか出なかった。
調理実習が始まるまでに二人をなだめた。なんか料理する前から疲れてしまったぞ。
調理実習は包丁や火の扱いがあるためか二人の先生が見てくれることとなった。五つのグループがあるから大変だろうけど、ケガをさせないためにも必要な監督役である。
最初に注意事項の確認と、わからないことがあれば素直に先生に聞くことを言い聞かせられる。まあどのグループにも何人かは料理経験者はいるようなのでそうそう問題は起こらないだろう。
みんな手を洗ってから調理開始である。
「味噌汁と肉じゃがはそれぞれ分担するとして。卵焼きは後でいいか。と、まずは米を炊かなきゃだな」
「と、俊成……」
「ん?」
頭の中で手順を思い描いていると瞳子ちゃんに話しかけられた。見れば両手の人差し指を突っつき合わせていた。そんな仕草をしながら彼女は不安そうに尋ねてくる。
「あ、あたしはどうすればいいの?」
「あー……。瞳子ちゃんって料理経験なかったっけ?」
確認を込めて聞いてみた。すると瞳子ちゃんはうっと息を詰まらせる。
「お菓子作りならママといっしょに……。でも、今日はいないし……俊成に聞けば大丈夫かなーって……」
なるほどな。でも瞳子ちゃんなら一度一通りやってしまえばちゃんと憶えてくれると思うし、できるだけ教えてあげよう。そうすれば次に繋がるはずだ。
「わかった。まずはお米の炊き方を教えるよ。佐藤、米を研ぐんだけどいっしょにやるか?」
「僕もやる。どうすればええんや?」
そんなわけで俺は瞳子ちゃんと佐藤の二人を受け持つことにした。あとの三人は大丈夫だろうか?
「まずは野菜を洗おっか」
「そうね……。宮坂がそっちやるならこっちはあたしに任せて」
「なあなあ肉は?」
「それは後でね」
「ふうん」
葵ちゃんと赤城さんは心配なさそうだった。本郷は……なんか怪しい感じがする。
まあいいや。葵ちゃんと赤城さんに任せていれば大丈夫だろう。俺は米の研ぎ方を瞳子ちゃんと佐藤に実践しながら教える。
「お米を計って入れたら水を注ぐ。それからすぐに水を捨てるんだ。これを三回くらい繰り返すよ」
「こ、こうかしら? で、水を捨てればいいのね」
「待った!」
「きゃっ!?」
思わず大声を出してしまったせいで瞳子ちゃんが身を縮こまらせてしまう。ごめんと謝りたくなるけど許してほしい。
瞳子ちゃんは水を一気に流そうとお釜を傾けていたのだ。これでは米まで流れてしまう。慣れないからだろうか、彼女らしくないミスである。
「瞳子ちゃん、お米を零さないように水を捨てるんだよ。こうゆっくりと、手で支えてね」
「う、うん……」
感覚を覚えさせるために瞳子ちゃんの手を取って教える。素直に聞いてくれるから教えるのが楽だった。
水を捨ててから米を研ぐ作業に入る。
「水を切ったらお米を研ぐよ。こんな感じで同じ方向にかき混ぜるんだ。力を入れ過ぎたり、早く回さないように気をつけてね」
実践してみせてから瞳子ちゃんにやらせてみる。ぎこちない動きだったけれど充分だろう。
「よし、今度は佐藤もやってみようか」
「うん、任せてえな」
瞳子ちゃんがやっているのを見ていたからか、佐藤は失敗することなく米を研いでくれた。そのまま水を入れて白い研ぎ汁を軽く混ぜてから捨てる。水を溜めて捨てるを繰り返すと、濁っていたような研ぎ汁がうっすら米が透けて見えるくらいの透明度になった。これで終了だ。
一度憶えてしまえば子供でも難しくはないからな。これで親にお手伝いできることが一つ増えただろう。
米を研ぎ終わって炊飯器にセットする。炊飯器は米が躍るタイプではないスタンダードなものだ。スイッチを入れればあとは炊き上がるのを待つだけだ。
「トシくん、野菜は洗い終わったよ。でも玉ねぎがなかったの。どこ行ったんだろ?」
「ああ、玉ねぎだけはまだ冷蔵庫に入れてもらってるんだ。冷やしてた方が切る時に目が沁みないんだってさ。玉ねぎ切るのは俺がやるよ」
「そっかー。私は味噌汁を作るけど、瞳子ちゃんと佐藤くんは任せても大丈夫そう?」
「大丈夫だよ。俺は肉じゃがを作るよ。赤城さんも戦力になりそうだし、そっちは任せた」
「うん! 任されたよー」
柔らかい笑顔に安心させられる。とりあえず葵ちゃんは心配いらないだろう。なんだか経験者の貫録を感じる。
瞳子ちゃんと佐藤を見れば恐々とした様子で包丁を握っていた。なんかその構え方は怖いんですけど。
「えっと……、瞳子ちゃん。包丁を人に向けないようにしようか」
「あっ! そ、そうね……」
料理初心者って包丁握らせたら怖いってイメージはあながち間違ってないのかも。なんでこう構えようとするのかね。
「ちょっと切ってみようか。切り方は授業で教わったからわかるよね? わからなかったら遠慮なく聞いてね」
俺の言葉で瞳子ちゃんと佐藤は真剣な面持ちで野菜と向き合った。なんだか緊張感が増してきた気がする。
「あの、どうぞ?」
そのまま二人して固まっているので促してみる。瞳子ちゃんは恐々とした様子で手を伸ばした。
とはいえ、彼女は不慣れなだけで何事もそつなくこなしてしまうタイプである。最初は大きさがバラバラだったものの、段々と均等に切れるようになっていった。
「うぅ……、難しいなぁ……」
それに比べると佐藤はもたもたしてしまっていた。切るスピードもだいぶ遅い。でもこのもたついている感じが前世の俺と重なる。うんうん、最初は包丁で切るってだけの動作がなんか怖かったよなぁ。
玉ねぎは俺が切った。ザクザク切っていると瞳子ちゃんと佐藤から「おぉーっ!」という声が重なった。なんだかすごく料理ができる人になった気分だ。
時間もあるので手伝ってもらえそうなところは二人にやってもらいながらも、俺主導で肉じゃがを作った。味見をしてもらいながら調味料を入れていく。煮る時間の間に卵焼きを作ってしまうことにした。
「卵は割れる?」
「ふふんっ。バカにしないでよね」
瞳子ちゃんが急に強気になった。彼女は簡単にそして綺麗に卵を割ってみせた。
「どう?」
「あはは。さすがは瞳子ちゃん」
褒めると瞳子ちゃんはとっても嬉しそうにしていた。おそらくお菓子作りで卵を割るのは慣れていたのだろう。さっきまでとは手際が全然違っていた。
佐藤も苦戦はしていたがなんとか卵を割ることに成功した。殻も入ってないし上出来だろう。
卵焼きは大丈夫そうなので肉じゃがの鍋を確認する。うん、なかなかいい感じだ。
「トシくん、味見してくれる?」
「うん、いいよ」
葵ちゃんに差し出されるままに味噌汁の味見をする。おおっ、すごくおいしい! 小学生が作ったとわかっているだけにびっくりするほどおいしい。
俺は手でOKサインを作った。葵ちゃんは「よかったー」と息を吐く。
「せっかくだからこっちも味見してよ」
肉じゃがもいい具合なので葵ちゃんに味見してもらった。一口口にして「おいしいっ」と笑顔で言ってくれた。そんな満点の笑顔を見せられると自信を持ってしまうな。
「卵焼き、できたわよ」
瞳子ちゃんが報告してくれる。俺は卵焼きを切り分けることにした。
「じゃあお皿出してもらってもいいかな」
切り分けている間に瞳子ちゃんと佐藤がお皿を取りに行ってくれた。もうほとんど出来上がりだな。
そこでふと気づいたことがある。本郷はどこ行った?
いつの間にか近くには見当たらなくなっていた。赤城さんと目が合ったので聞いてみる。
「赤城さん。本郷はどこかに行ったの?」
「あっち」
彼女が指差した先を見てみれば、別の女子グループの中で味見をさせてもらっている奴の姿があった。
あ、あんにゃろ~! まさか手伝いもせずに他のグループに遊びに行ってたんじゃなかろうなっ!
「本郷は戦力にならなかった」
しかし、赤城さんが真実を教えてくれる。そういえば学生時代に調理実習で戦力にならない奴って他のグループとかに行ったりしてちゃちゃを入れるだけの存在だったよな。本郷もそういうタイプの奴だったか。
などと集中を逸らしていたのが悪かったのだろう。ザクッ、と手元から嫌な感触がした。
視線を下げれば赤いものが点々と。俺は自分の指を切ってしまっていた。
咄嗟に傷口を切っていた卵焼きから離す。幸いにも俺の血が卵焼きについてしまったということはなかった。
それでもまな板には俺の血がついてしまっている。早くなんとかしないと。
「トシくん!? 指切ったの!」
俺の様子に気づいた葵ちゃんが慌てて近寄ってくる。失敗してしまっただけに何だか恥ずかしい。
「あはは、ま、まあね……」
「見せて」
「あ、うん」
葵ちゃんの迫力に負ける形で切ってしまった指を見せる。傷口は深いわけではなさそうだ。これなら絆創膏でも貼ればすぐに治るだろう。むしろ唾でもつけとけば治るだろうってレベルのケガだ。
俺がそう言う前に葵ちゃんが動いた。顔を俺の指に寄せて、ピンク色の唇が傷口へと近づく。
「あむ……」
「え、あ、葵ちゃん!?」
葵ちゃんは俺の指を傷口ごと口の中に入れてしまったのである。それだけではなく傷口に舌を這わせていた。
表現しにくいような生温かさにフリーズしてしまう。その間にも葵ちゃんの舌は俺の指を何度も舐めていた。
確かに唾でもつけとけばって考えたけれど。これは医療行為でもなんでもないぞ!? いや、葵ちゃんは真剣なのだろう。上目遣いで俺の反応を見ている目が心配の心で埋め尽くされているようだった。
「ちゅぱっ……、トシくんの、血の味がする……」
「……」
なんて返せばいいのかわからない。俺はただ黙って葵ちゃんに舐められ続けていた。
「高木くんが指を切ったんですって!? 見せてみなさい!」
「高木。救急箱持ってきた」
騒ぎに気づいた先生と、俺のケガにすぐ気づいていた赤城さんが救急箱から消毒液や絆創膏を取り出してくれた。
葵ちゃんが俺の指を口に入れたままなので目線でもう大丈夫だと伝える。彼女は最後に傷口を吸ってから口を離した。吸われた時に痛みと同時に甘いしびれを感じてしまった。彼女は変なつもりはないだろうに、そんな風に感じてしまってちょっとだけ葵ちゃんに申し訳ない気分になった。
傷はやっぱり浅かったようで、絆創膏を貼ってしまえば血が垂れる心配もなかった。
せっかく料理のできる男の子をアピールしていたというのに。最後の最後でかっこ悪いところを見せてしまった。ほら、瞳子ちゃんの視線がなんだかじとーっとしたものになってるし。
「よし、食べようぜ」
料理が完成すると、何事もなかったかのように本郷が戻ってきた。くっそー! こっちはお前のせいでケガしたってのによ~。まあ勝手にケガしたのは俺だけどもさ。
「これ! あたしが切ったのよ。卵焼きなんかもほとんどあたしが作ったんだから!」
食事を始めると自分が作った物に目が行くようだ。瞳子ちゃんは自分が手を加えた物を見つけては嬉しそうに教えてくれる。
成功して、それが嬉しくて興味を持つ。そうなっていれば今回の調理実習は大成功だろう。
「お米もこんなにもおいしかったんやな~」
佐藤も満足そうな表情で食べていた。料理の苦労がわかればまたおいしさを感じるものだよな。
赤城さんは無表情のままパクパクと食べていた。いつも通りに見えるが、ちょっとだけ箸の進みが早い気がした。おいしいと思ってくれているならいいな。
「肉じゃがすごくおいしいねっ」
「味噌汁もおいしいよ。おかわりしたいくらい」
「えへへ」
葵ちゃんと赤城さんで味噌汁を作っていたのだ。自分が担当したというのもあってか嬉しそうに笑っていた。
「おおっ、すごくうまいね。みんな料理できるんだ」
本郷は目を輝かせながら食べていた。そんな顔で言われるとなんかあまり手伝わなかったことを許してしまうな。これが本郷のカリスマの力か……。いやいや違うか。
多少慌ててしまう場面があったものの、調理実習は成功と言っていいだろう。俺自身も刺激されたようで、何か作れるものを増やせたらな、と久しぶりに思った。