小学生の夏休みの宿題は年々増えていく。四年生にもなればそれなりの量となっていた。
だからといって一つ一つは楽なものである。簡単なものはさっさと済ませてしまい、長期休暇を堪能するに限る。
夏休みに入ってからイベントは目白押しだった。俺だけじゃなく、葵ちゃんはピアノのコンクールがあったり、瞳子ちゃんが水泳の大会に出たりと大事なイベントが続く。もちろん二人とも優秀な成績を収めていた。
二人みたいに俺は大会とかそういうのには出ないからな。なんだかちょっと寂しい気分。朝走ったり、水泳や英語教室に通ったりなどを続けているくらいだ。せっかくの夏休みなのに変わり映えしない。
なんか新しいことを始められないかと図書館に行ってみたりもした。当たり前だが小学校の図書室とは比べ物にならないくらいの蔵書数だ。あまり字の小さい本は読んでこなかったのだが、時間もあるのでいろいろと読んでみた。
様々な本を読んでいるとたくさんの人生があるのだなと気づかされる。専門書なんかでもこれを書くためにそのことについて深く調べたのだろうと伝わってくる。そういったものをいろいろと読んでみると、それぞれ人によって方向性の違いがあるのを知った。
矢印を全方向に向けるのは無理だ。一人でやるには限界というものがある。凡才の俺になんでもかんでもやろうってのは現実的じゃない。
将来をどんな方向に進みたいのか。まだまだはっきりしていない。俺ってはっきりしてないことばっかだな。
ただ、今回の人生で決めていることの一つとして大学に進もうと思っている。それもできるだけいいところだ。
今のところ勉強に関してはずっと復習しているようなものだ。だけど段々とそういうわけにもいかなくなる。高校でもいいところに行こうと思えば難しい問題を解けるようにならないといけないし、大学ともなれば俺にとって未知の領域である。
とにかく勉強さえしていればいざ自分のやりたいことを見つけた時に力になってくれるはずだ。少なくともマイナスにはならない。
そんなわけで夏休みの長期休暇を活かして自分を高めることにした。もちろん葵ちゃんと瞳子ちゃんと遊んだりしているので勉強漬けってわけでもないんだけどな。
※ ※ ※
「トシくん……本当に、行っちゃうの?」
「あたし達を置いて行ったのに、病気とかケガしたら……許さないんだからっ」
葵ちゃんと瞳子ちゃんの涙に濡れた目が頭の中にこびりついている。
彼女達は去って行こうとする俺の服をずっと握っていた。ぎゅっと力強く、行かないでと言葉にされていないのにこれでもかと伝わってきた。
それでも俺は葵ちゃんと瞳子ちゃんに背を向けた。二人の想いを振り払ったようなものだ。
泣いてしまうだろうか。俺には振り返って二人の顔を見る勇気がなかったのだ。
ただ「またね」と言った。「さよなら」だなんて嘘でも口にしたくなかったから……。
……ん? そうまでしてどこへ行くのかって? そりゃじいちゃんばあちゃんの家だけど。
お盆がきたので父が実家に帰省することとなったのだ。遠いところだったり両親の都合の問題もあって毎年は行けていなかった。たまにはじいちゃんとばあちゃんに顔を見せた方がいいだろう。
それに、確かじいちゃんは俺が中学生の時に亡くなってしまうのだ。ばあちゃんの方はけっこう長生きだったのだが。行ける時にはちゃんと顔を合わせておきたい。
泊まりがけになることもあって、その間は葵ちゃんと瞳子ちゃんに会えないのだ。夏休みになっても毎日のように顔を見ていただけにこれは寂しい。
「おー、俊成か。でっかくなったな。ほれ、上がれ上がれ」
「久しぶりね俊成ちゃん。何もないところだけどゆっくりしていってね」
じいちゃんとばあちゃんは元気そうだった。まだそこまで歳というわけでもない。ただじいちゃんはかなりの酒飲みだからなぁ。それが体を悪くした原因になってる気がしてならない。後でそれとなく注意しておこう。
じいちゃんとばあちゃんの家はそれなりの田舎だった。畑と田んぼがあって家と家の間も離れていたりする。落ち着いた空気が心地よい。
「あーっ!! 兄ちゃんだーーっ!!」
そんな空気をぶち壊しにする大声が響いた。声の主は俺を指差して元気いっぱいに笑っていた。
俺とそう変わらない歳の女の子だった。というか彼女が俺の一つ下だというのは知っている。
「うちすぐに兄ちゃんだってわかったよ! すごいでしょ! ねえねえねえーーっ」
「はいはいすごいすごい」
おざなりな感じで頭を撫でてやるとその女の子はこれでもかってくらい破顔した。
彼女の名前は
麗華は日に焼けてちょっぴり赤くなった髪の毛と小麦色の肌をしていた。葵ちゃんと瞳子ちゃんのとっても白い肌を見慣れているためかなんだか新鮮に感じてしまう。
その容姿の通り、麗華は外で遊ぶことが大好きなようだ。髪型もショートなので少年と見間違っても仕方がないだろう。
「ねーねー兄ちゃん遊びに行こうぜー。大人ばっかでつまんなかったんだ」
「わかったよ。荷物置いたら外に行こうか」
「おうよ!」
……なんかしゃべり口調も男の子っぽくなってるな。名前が「麗華」とお嬢様っぽいだけに叔母さんから教育されていた気がするのだが。もしかして諦めちゃったのだろうか?
じいちゃんとばあちゃんの家には麗華の両親以外にも親戚の人達がいた。なかなか会わない人達ばかりなのでちゃんとあいさつをする。
「ねー! 兄ちゃんまだー?」
麗華は待てができないのか。一つ下だから小学三年生のはずだ。葵ちゃんと瞳子ちゃんなら大人しくできるぞ。……いや、あの二人はいい子だからか。普通は麗華みたいに落ち着きがないものなのかもしれない。
大人はがやがやと忙しそうにしている。明日はみんなで墓参りもあるからやることがあるのだろう。子供の俺は放置である。
「にーいーちゃーんー!! まだかよー?」
「……はいよ。今行くよ」
いい加減麗華がうるさくなってきた。いや、最初からうるさかったけどさ。
俺は両親に「麗華と外に遊びに行ってくる」と告げた。玄関に行くと麗華が足をバタバタさせていた。
「もー! 遅いってば!」
「悪かったって。じゃあ行こうか」
「おうよ!」
麗華は元気に飛び跳ねた。本当に元気な娘だ。
わかっていたけど外は暑かった。日差しが強くて瞳子ちゃんだったら日焼け止めクリームを塗ってあげなきゃいけないところだ。
そういや葵ちゃんって日焼け対策とかしてるのかな? あの色白の肌を見れば何かやっているんだろうけど、瞳子ちゃんみたいに日焼け止めクリームを塗ったことがないんだよな。いやまあわざわざ塗りたいわけじゃないんだけども……。
「兄ちゃん! あっちの川の方に行ってみようぜ!」
「わかったって。だから走るなってば」
「なんだよー。兄ちゃんって足遅いのかよ」
かっちーん! 毎朝走り込みをしている俺の脚力を見せてやろうか? あァン?
俺は衝動のまま走り出し、前を行く麗華を抜き去った。それで火がついたのか、麗華も足を速める。
小学三年生の女子相手に本気でかけっこをしている元おっさんがいた。というか俺だった。
「ぜーぜー……。兄ちゃん速過ぎー……」
あれだけ元気だった麗華が息も絶え絶えである。彼女も同年代の女子相手の中なら速い方なのだろうが俺の敵じゃなかったな。
麗華は息を整えると俺に向かってにっと笑った。
「うちの負けだぜ。さすがは兄ちゃん!」
「お、おうよ……」
なんだろう、全然勝った気がしない。そもそも年下の女の子相手に本気出して俺は何をやってんだか……。なんだか急に空しくなってきた。
「おー! 川すげーっ! 超透明だー!」
俺が冷静になって落ち込んでいる間に、麗華は川に近づいて行った。
「おーい麗華ー。流されるなよー」
「あははっ、兄ちゃんは何言ってんだか。流れなんて全然大したことないじゃんか」
麗華の言う通り、川の流れは穏やかなものだった。底も浅いから川遊びにはもってこいだ。
「うひゃー! 冷たーい。兄ちゃんも早くこいよー!」
麗華は躊躇いなく靴を脱いで川へと入った。自然に対して抵抗がまったくないようだ。
もしかしたら同じ自然好きの瞳子ちゃんと相性がいいのかもしれない。葵ちゃん相手だとちょっと微妙かな。彼女はけっこうインドア派だし、声の大きい子は苦手にしているからな。
「うらあっ! 喰らえ兄ちゃん!!」
「ぶはっ!?」
なんて考えていたら麗華に水を顔面に浴びせられた。不意打ちだったから水が鼻に入って咳き込んでしまう。それを見た麗華は指を差して思いっきり笑っていた。
「こんにゃろ~。俺を怒らせたなー!!」
「うひゃー! 兄ちゃんが怒ったぞー! 逃っげろーーっ!」
俺も靴を脱いで川へと入る。足元がひんやりして気持ち良い。
童心に返って麗華と遊んだ。たまにはこういうのも悪くない。
※ ※ ※
「おーい。どこまで行く気だー?」
「いいからいいから。もうちょっと探検しようぜ」
川遊びを終えて、次に向かったのは山の中だった。
この山はじいちゃんのもので、前に訪れた時に山菜採りを手伝ったのだ。だから知っている範囲なのでいいが、あまり奥深くに行くようなら麗華を止めなければならない。
木々に囲まれていて影になっているために、日差しを浴びる心配はあまりなかった。日向にいるよりも涼しくて気持ちがいい。
「財宝を見つけたら山分けだからな。わかってると思うけど独り占めにしようなんて考えるなよ。兄ちゃんわかった?」
「わかったわかった」
この子は何を期待しているんだか。ある意味夢と希望に満ち溢れてるけどさ。
ずんずんと前を歩く麗華の後を追う。たぶん彼女の頭に地理はないだろうに、どうしてこうも迷いなく足を踏み出せるのか。子供の好奇心と言ってしまえばそれまでだけどね。
「しっ。兄ちゃん隠れてっ」
麗華が急に振り返って俺の口を手で塞いだ。何事かと目を白黒させてしまう。
見れば麗華は何かに警戒しているようだった。イノシシでも出たのだろうか? 俺も警戒しながら前方を確認する。ここからでは視認できなかった。
麗華がジェスチャーをする。どうやら目の前の木の向こう側に何かがいるようだ。
一応確認してみよう。危険な動物だったらすぐにでも山から出た方がいいだろう。
警戒心と好奇心を同居させたようなドキドキを胸に、木の陰からそれを覗いた。
「……っ」
木の向こう側を覗いて、俺は息を飲んだ。
僅かな日光で金色の髪が光を放っているように見えてしまう。彫の深い顔立ちからは異国の血を思わせた。
金髪の外国人の少女が、なぜか山の中で一人佇んでいた。