妖鯨が如き漆黒は、小島かと見紛う威風で月下に揺蕩う。
その巨大な艤装の上に、寝そべり、月を眺める白蝋の姫が一隻。
個体名 ―― 太平洋深海棲姫
「何モカモ思イ通リ、カ」
月光に見える冥府の白が、かつての朋友との会話を思い起こさせる。
巨大な単眼と、数多の複眼を備えた艤装を統べる深海の主、中枢棲姫。
足りないと、彼女は言っていた。
―― 貪食、淫蕩、強欲、怠惰、虚栄、傲慢
かつての深海の底、夜よりも冥い暗黒淵の中で。
ひとつ、ひとつと指折り数えていた中枢棲姫が手を広げ言葉を纏める。
「此ノ世ニ在ルベキ種族トシテ、我ラニハ欲望ガ足リナイ」
未来を手に入れる力が無いと。
「玩具ヲ造ル理由カ、ソレハ」
深海棲姫の視線の先、祭壇の如き場所に、何かが蠢いていた。
小柄な人型に、どこか生物染みた艤装の破片が纏わりつき、
その全身に染物の如く冥府の瘴気を汚染させていく。
開いた口から、響かぬ悲鳴が漏れた。
艦種のキメラ化のための試作体、の成れの果て。
先日に艦娘たちに因り討ち果たされた後、砕かれた怨念を拾い集め、
たまたまに手に入れた憑代に注ぎ込み、再生を果たす中途。
「アノ提督トカ言ウ人形ノタメニ、強クナリタカッタンデスッテ」
優しかったからと、ケラケラと深海の主が嗤いながら語った。
「優シサトハ、強サノ事ヨ」
何処か虚ろを彷徨わせる視線のまま、言葉が繋がれる。
「弱者ノソレナド、他ノ生キ方ガ許サレナイガタメノ、タダノ処世」
化けの皮とでも言うべきかと、嘯いた。
「現ニアノ人間ハ、深海ニ堕チタトタンニ増上慢ノ極ミニ至ッタ」
何と的外れな献身と、ひとしきりに哂う。
そしてそれきりと、暗黒淵の底に静寂が訪れた。
やがて時が満ち。
深海棲姫は差し出された手を取り、道を付ける。
無酸素層を抜け、彼女の在るべき戦場へと。
遥か海面へと向かい浮上する僅か、
深海に残されたソレに、軽く振り向いた。
目が覚めれば知るだろう。
友も同朋も、守ろうとした主すらも既に失われ、残ったのは化生と化した自分。
「強クナッタアノ娘ハ、ドンナ本性ヲ見セルノカシラネ」
場違いなほどに楽しそうな声色が、耳元で言葉として囁かれた。
太平洋深海棲姫の記憶する中枢棲姫の最後の言葉はそれであり、
残された遺産たちの引き起こす騒動は、今日も世界を掻き混ぜている。
「無責任ナ女」
漣の響く夜に、言葉だけが海を渡った。
『うぉるしんぐまちるだ 08』
深夜の海岸、と言うには少しばかり陸の高い気配な海と山の境。
数mに切り立つ岸壁は、その端に車道を乗せ眼下に海を臨む。
そして夜に、黒く染まった海面を移動する姿。
何某かの倉庫に保管されていた様々な資材、水や食料などを多く含むそれを、
頭上に掲げた微妙に間抜けな姿勢で、深海の艦隊が海岸から抜錨していた。
「深海私掠艦隊、トデモ言ウノカネ」
沖へと向かう艦隊を見送りながら、岸壁の傍らに立つレ級が嘯いた。
「意外ト、追撃ガ遅カッタナ」
それとも単に
「不思議だよね」
宵闇の中から、視認できる距離に航跡が引かれた。
水兵服と同じ深い色合いの制帽の下に、白銀の髪を置く駆逐艦。
特3型、暁型駆逐艦2番艦、響。
「追撃の艦隊の前が、何故か民間船で大混雑」
そう語る艦娘の、何をやったのかとの疑いの眼差しに、
意外そうに目を丸くする深海の化生。
「何か、エギングフォーエバーとか叫んでいたんだけど」
継いだ言葉で、レ級が胸元に拳を握った。
「……エギングネバーダイ」
「いやだからエギングて何さ」
餌木ング、つまるところ烏賊のルアー釣りである。
「ナラ後続ガ来ル前ニ、逃ゲルトシマスカネ」
そんな微妙な話題を振り払う様に、身を翻した漆黒が口を開き。
「逃がすと思うかい、雷」
その背中へと、砲口が向けられた。
「レ級ダヨ」
深く、鉛の如き重さに沈み行く空気の中で、響が訂正の言葉を鼻で笑う。
「暁が、たかが深海に堕ちた程度で妹を見間違えるわけが無いだろう」
あまり姉を舐めないでほしいとの言葉に、苦笑と共に顔を覆う深海。
くつくつと笑いながら、堪り兼ねた様に口を開いた。
「久シブリヨネ、トデモ言ウベキダッタノカシラ」
普段とは違う少女染みた口調に、響の口元が僅かに綻ぶ。
しかし砲口はブレず、その身に向けられたまま。
顔を覆う手が外された頃、その下には普段通りのざっくばらんな表情が在り、
場に満ちて行く瘴気が、世界に刻一刻と重さを増して行く。
宵闇の中、硝煙の薫る導火線の如き時間の上で、
ついに互いの歪んだ口元から、決定的な一言が零れ落ちた。
「アタシハ、戦艦ダゼ」
「此処の水深ならば、それでもッ」
火砲が閃き、身を屈めた深海が漆黒の艤装で砲弾を受け流す。
轟音が空を撃ち、海面が衝撃に破裂した。
霊的な存在には、充分の場と言う物が必要とされる。
戦艦としての存在が戦艦としての霊力を十全に発揮するためには、
その海域に戦艦が活動可能な条件が揃ってなくてはいけない。
艦娘が、深海戦艦がその能力を完全に発揮するためには、
艦種の条件に縛られた海域の選択が必須とされる由縁である。
岸壁の付近、あまりに浅いその海面は戦艦レ級の能力を著しく削っている。
だがそれでも。
「ヌルイナア、響」
足りない。
何故ならそれは、間違い無く中枢棲姫が此の世に残した呪い。
戦争の機関たる離島棲姫が如き異常、
数多の深海棲艦とは一線を画す異質。
雨の如く吹き散る海水の飛沫の中、ふらりと散弾を避けながら、
幽鬼かと見紛う不明瞭さで荒れた海面を踏み込んだ化生は、
容易く駆逐艦の懐に入り、その腕を無遠慮に突き入れた。
「ヴェールヌイナラ、コノ首ニ届イテイルゼ」
戦闘の機関たる結晶、名を、戦艦レ級。
その、不完全ながらも戦艦の出力で叩き込まれた拳は、
第二の改装を拒否し続けている駆逐艦を、荷物の如くに弾き飛ばす。
腹部に突き入れられた衝撃に息を止めさせられた響が、
艤装を破損させながら、水切りの石の如く海面を削り転げ、倒れ伏した。
そんな刹那の騒々しい交差が終わり、宵闇を凪が染めて行く。
「何デアタシラハ、コウナッチマッタノカネエ」
やがて打ち手が伸びた腕を振り、身を翻した。
沖へと向かう航跡の先、漆黒の背中へと血を吐く叫びが届けられる。
「雷ッ」
吐瀉物にまみれ、血涙を垂らしながら、這い蹲る駆逐艦が叫び続ける。
「この ―― 六駆の恥がッ」
背中に受けた遠吠えが嗚咽に代わる頃、戦艦レ級は静かに海域を離脱した。
(TIPS)
イ級に乗った青年が居る。
南の海からやって来たと言うよりは、南の海を目指している模様。
旭光を受ける海は白く輝き、航跡の色を溶け込ませる。
幾隻かの深海棲艦が、微妙にほんわかとした瘴気をまき散らしながら
詰所提督を囲む様に艦隊を組み、一路南へと進路を取っていた。
そんな、何とも言えない様な雰囲気の艦隊の中、
遮蔽物の無い海上を行く詰所提督に、憔悴が見える。
羅針盤に従い致命的な瘴気の海を避け、安全に航行を続けているとは言え、
それは陽光や潮風などの直接的な害を防ぐものではない。
ふらりと揺れた肉体を、そっと並走していた艦が支えた。
白蝋の肌を惜しげも無く晒し、その首から上に巨大な口を備えた艤装を被る
彼女は、徐に腕を背後の艤装に突き入れて、中身を引きずり出す。
その手には、水の入ったペットボトルが握られていた。
「……ワ級さん」
言葉は無い。
だが、確かに通じ合う何かが二人の間に存在していた。
「ソコ、何デイキナリ物語ガハジマッテルノサッ」
先頭で艦隊を率いていた駆逐古姫が、艦隊中央の提督イ級の空気を察し、
突然の僚艦の高速フラグ立てに対して全力でツッコミを入れる。
どこか和気藹々と雰囲気で詰所提督に当ててんのよしている補給艦に、
天然煽りを受けて激高している俎板姫を囲む海は、天気晴朗にして波低し。
そんな遮蔽物の無い海上故に、よく見えている。
水平線の向こうから近寄ってくる艦隊の姿が。
電探にも感在りて、敵か、味方かと目を凝らす先方の姫の視界の中、
そこに映る漆黒とは懸け離れた色彩の衣服が、艦隊に静寂を齎す。
甲板を持つ戦艦が2隻。
息を呑む。
水着姿の4隻の駆逐艦。
ツッコミの手刀が虚空を打つ。
率いるは鉢金を巻いた軽巡洋艦。
優し気な笑顔は何故か殺意しか感じない。
後ろの方でのんべんだらりとしている軽空母。
どこかアルコールの気配が滲み出ている。
そんな敵性艦隊、総勢12隻を水平線の手前に迎え、
駆逐古姫は無言のまま、艦隊の温度が下がっていくのを感じた。
正確には、声も出せなかった。
固まった喉は如何なる音も響かせず、酸欠に陥った金魚の如く
口を開き、閉じと繰り返すも片言の言葉さえ紡ぐ事が為せない。
目を、背けたくなる。
見える物を、否定したくなる。
震える身体に、詰所提督の言葉が在るが耳に滑り落ちる。
それらを率いるが如くに中央に在る。
「――――ッ ――ッ」
緑の航空巡洋艦に並び立つ、一隻の小柄な姿。
「―― ァ……アァァ…………」
赤い水干の軽空母。
どこまでも、深海の艦隊の温度が下がっていく。
声成らぬ悲鳴は海域を震わせず。
かくて龍かと如く靡かせるは、石炭の煙と言うわけでもなく。
「うん、ウチらが当たりだったみたいやな」
ぷかりと煙を吐き出しながら龍驤が言葉を出せば。
「まったく、お主の此処ぞと言う時の引きは何事なんじゃろうなあ」
頭痛を堪える様な仕草で利根が受ける。
「社畜魂がブラック環境を呼んでるのよ、きっと」
「おかげでご覧の有様ですよ、さす龍さす龍」
疲れた気配の曙の言葉を、ケラケラと笑いながら漣が適当に受ける。
苦笑を零す朧の向こうで、目を輝かせながら龍驤を臨む潮。
率いるは神通、並ぶは伊勢、そして日向。
後ろに隼鷹と飛鷹、龍鳳を置く空母機動部隊。
僅かに前の時間、仮に名を付けるならとこう嘯いていた。
即ち、新編ブルネイ第四航空戦隊と。