コーヒーのかぐわしい香りに包まれた空間は常に変わらず人々を受け入れる。疲れ果てた会社員もにぎやかな高校生も、そして名前も顔も偽るような自称大学生も受け入れてきた。
昼のピークを過ぎて客足が途絶えた空間で、僕は溜め込んだ食器を洗う。すべての食器を洗い終えるとそれを片付けて店内を見渡した。
黒の組織がなくなった以上、僕がここで働く理由はない。そして毛利探偵の助手でいる必要もない。
でも僕はズルズルとここでの仕事を続けていた。
カウンターに座る梓さんが休憩がてらテレビのニュースを眺める。ニュースでは血の繋がりがない父親が娘を虐待する事件が報道されていた。
日々幼い少女を虐待していた父親が階段で足を滑らせて転落事故を起こす。それをきっかけとして虐待が見つかり少女は無事に保護された。
「こういうの、天罰って言うんですよね」
梓さんの素直な感想に僕は笑顔でうなずいて返す。すると梓さんはさらに話を進めた。
「でももしこの父親が階段から落ちてなかったら、この子どうなってたんでしょうね? 近所の誰もこの子の虐待に気づかなかったのかな」
そんなに気づかないものかなぁと梓さんがつぶやく。その言葉を聞きながら僕はあの時あの場に現れた男のことを思い出した。
あの転落事故の現場に、なぜか赤井が現れた。しかしここ数年の記憶がないというあの男は僕や工藤君のことを知らない様子だった。
だとしたらなぜあの場に現れたのか。
記憶がないというが、あの少女とは面識があったのだろうか。
思案を巡らせる僕の耳にカランカランと軽い音が飛び込む。同時に梓さんが立ち上がって来客へ声をかけた。
「いらっしゃいませ……ってコナン君!」
「安室さん!!!」
驚く梓さんの声と懐かしい声が重なる。目を向けた僕の視界の中には息を切らせた小学生がいた。
「今すぐ一緒に来て!早く!」
焦った様子の少年に僕は何事かとエプロンを脱ぐ。すると梓さんも後は良いからと僕を送り出してくれた。
「コナン君、何か事件かい?」
「そうじゃないけどとにかく急いで! 成田まで!」
「成田?」
僕が恐れる男はこの世にふたりだけ存在する。
そのひとりである少年は簡単なことでは取り乱したりしない印象があった。そんな少年が焦るのだからよほどの事態なのだろう。
喫茶店近くの駐車場で愛車に乗り込んだ僕はコナン君を助手席に乗せて走り出した。
「そういえば君を助手席に乗せるのは久しぶりだね。ご両親と海外へ行ったと聞いていたけど、いつ日本へ?」
「えっと、昨日かな」
僕の問いかけにコナン君はえへへと笑う。それが確実に嘘だとわかるのに、僕はそれを問い詰めようとは思わなかった。
彼が意味のない嘘をつくとは思えない。むしろそこには相応の理由があるはずだ。
だとしたらどんな理由があるのか。
「それより安室さん、ケガの具合はどう? 後遺症とか大丈夫だった?」
首都高速を疾走する中、コナン君が真面目な声色で問いかける。僕はぬるいほど優しいその問いかけに笑って返した。
「後遺症はないけど、それは君の気にすることじゃないよ。僕は僕にできる最善を尽くしただけだからね」
「それが安室さんの仕事だから?」
「ああ、そうだよ」
「だったら赤井さんたちFBIはどうしてボクたちを助けてくれたんだろうね? FBIがそういう役目なのかな?」
幼い外見とは裏腹に、コナン君は可愛いげのない言葉を口にする。FBIの役目がどんなものなのかくらい、コナン君ならわかっているはずだ。
しかし彼があえて問いかけてくるのなら、それは意味のあることなのだろう。
「FBI……連邦捜査局はアメリカ国内で起きた事件を州をまたいで捜査する組織だ。だが国外での活動はしないよ」
「わざわざ日本に来て捜査するなんてありえない、ってことだよね?」
「そうだね」
首都高速を抜けて千葉県へ入るとそのまま成田市へと向かう。その道中もコナン君はなにやら思案顔で周囲の標識などを眺めていた。
「コナン君、行き先は成田空港で良かったんだよね」
「うん、間に合えば良いけど……」
行き先が成田空港で、時間までに着かなければならない事情がある。ということは誰かの見送りか、あるいは引き留めようとしているのか。
そこまで考えなくても、僕は空港へ向かう理由に気づいていた。
コナン君は赤井が帰国することを知って僕と引き合わせようもしているんだろう。
以前からコナン君は僕と赤井の関係を改善させたいと思っている節が見られた。それは子供らしい素直な優しさだと思えるし、僕もそんなコナン君の気持ちを無下にしたくはない。
ただ僕たち大人は子供と違って人間関係がシンプルにできていなかった。
現に僕は赤井に対して、自分がどんな感情を抱いているのかわからないでいる。
空港内を足早に進んでいるとコナン君が方向を変えてカウンターへ駆け寄った。
「赤井さん!」
歩みを緩めた僕は赤井との距離を保った状態で立ち止まる。しかしコナン君はそんな僕のもとへ赤井を連れてきてしまった。
「コナン君、君はこの男が記憶障害であることを把握してるのかい?」
「それが事実じゃないことなら知ってるよ。ねぇ赤井さん?」
十にも満たない少年が眼鏡越しに赤井を見上げる。その視線を受けた赤井は複雑そうな顔を見せていた。
苦味を含んだように眉間を寄せてコナン君を見下ろす。
「探偵という生き物は、真実を明るみにしなければ死ぬ生き物なのか。しかもわざわざその姿で現れるとは」
「理解したのなら事実を教えて、赤井さん」
否定的な視線を前にしてもコナン君は怖じ気づくことなく問いかける。
「赤井さんが失ったのは、本当は記憶じゃなくて……」
「ライフルを持つことができなくなった。だがそんなことは君たちには関係のないことだ。俺は国に帰り、君は今まで通りこの国のために戦い続ける」
赤井という男は常に淀みも迷いもない声色を僕へ向けてくる。その自信に満ちた態度が僕は大嫌いだった。
黒の組織を壊滅したあの時もそうだ。この男には迷いがない。生きることを諦めかけていた僕の前に颯爽と現れていた。
「おまえは人の意見を聞くふりこそするが、聞く気はないんだろう」
記憶喪失ではないらしい赤井に僕は憎しみを含んだ目を突き刺した。
「僕はあの時だって」
「死を選ぶことはしない男だろう? 君は」
「当たり前だ」
僕の答えを聞いた赤井は表情を変えるでもなくその目を背ける。
「おまえと心中するくらいなら、一緒に生きることを選ぶからな」
冷然としていた赤井が眉を潜めたまま僕を見る。
「君は何を言っているんだ?」
「アメリカに帰るのなら帰ればいい。僕はおまえを忘れることはしないし、何も問題はない」
「つまり…これからも俺の命を狙い続ける、と」
小さな落胆をその目に宿しながら赤井は嘆息を漏らす。そんな赤井を見上げる僕の視界の隅でコナン君が心配そうな顔を見せていた。
「おまえなんかに借りを作ったままではいられないからな。借りは必ず返す」
僕の発言に赤井が驚いたように目を丸めた。赤井のそういう顔は初めて見た気がする。
だがすぐに赤井は微笑をこぼすと肩をすくめた。
「君に対しては、別の意味で心配になりそうだな」
「なんだと?」
黒の組織はもう無いというのに何を心配する事があるのか。それともこの男はまた僕を侮辱してるつもりか?
しかし失礼な言葉を最後に赤井は出国カウンターへ向かってしまう。
おかげで僕は最後の言葉の真意を問い詰めることができなかった。
「……安室さんって、賢いのに抜けてるんだよね」
ややあってコナン君が落ち着いた声でつぶやく。だがそれが聞き捨てられなかった僕はコナン君へ目を向けた。
「それはどういう意味だい?」
「さっきの会話って、要約すれば赤井さんに好きだって言ってるってことでしょ? 赤井さんと一緒に生きていたいって」
「それは死ぬか生きるかの選択の中での話だよ」
「死ぬか生きるかなら、一緒にっていう単語は必要ないよね?」
やれやれとため息を吐き出したコナン君はポケットに手を入れて歩き出す。僕もその後に着いていくため出国カウンターに背を向けた。