思惑/『パンドラ』
“彼”にとって、ソレは何度も嗅いだことのある匂いだった。
人がその体に流す液体、いわゆる血の匂い。もちろん脂じみたモノや老廃物のモノも一緒くたにされている、人の生々しい死を感じさせるような匂いだが。
そして匂いとは違って肌に感じるのは、底冷えのするような冷気――それも簡単に気温を下げて再現できるものでは無い精神的な冷気。しかしその冷気は、誰でも一回限定で気軽に体感できる。なぜならその冷気は、誰もが自らの人生の終わりに迎える死そのものであったからだ。
“彼”はこの一見整合性が取れていそうで実のところ矛盾している感覚についてしばらく思考していた。“彼”自身が致命傷を負って今にも天に召されそうな状況ならまだ分かる。しかし、自分は今のところ誰かに殺されかけている訳でもなければ他の理由(もう手遅れな自殺直前、重度の病を抱えている等)で死を迎えそうな訳でもない。
その条件で第三者の死と自らの死を同時に感じるというのは不自然極まりない事だ。
「……」
“彼”は道の先に聳え立つ奇妙な建物を見上げた。その建物は円柱状で背が高い、風変わりな見た目をしている。それでいてよくある地域のランドタワーとか大企業のビルや立体駐車場ではなく、実のところ単なるマンションだった。
――いや、単なるマンションと言うには些か奇妙な雰囲気を纏っている。通常の居住用建造物であれば内包しているような生活の気配が一切感じられないからだ。それでいて先程“彼”が感じ取った、内包された死と外在する死が混ざり合って建物の隅々まで濃縮されている。
そのマンションは、一言で例えれば精密に死を閉じ込めた氷の棺桶であった。
「……」
“彼”には分からない。自分が何者であるか。何故自分はここに居るのか分からない。しかし、その不気味なマンションを見た瞬間から、“彼”の当分の目標は決まっていた。
すなわち、静止した死を開放すること。
“彼”の寄りかかっていた塀の際に、ポール部分が錆びついたカーブミラーがある。よそ見して走る自転車一台がぶつかれば根元からポッキリ折れてしまいそうな程に古びていて、「止まれ」の小さな標識も固定する金具が外れて宙ぶらりんになっている。しかし最も肝心なミラーの部分は、多少汚れてはいるものの無事だった。
“彼”はそのカーブミラーに目を付けると、塀の上に素早くよじ登りミラーの首根っこを片手で捉え細かく揺らした。ポールが折れないよう慎重にミラーを自分に向けると、今度は服の裾で丁寧にミラー全体を拭っていった。そして、ミラーに映る“彼”自身の姿ではなくミラーそのものがテレビか何かであるように覗き込んだ。
鋭い目つきで“彼”がミラーと睨めっこすること数分。“彼”はぼそぼそと独り言を発し始めた。
「盾……淡い紫のショートカット……青い目の男……白い制服……腕時計?……」
そして一通り呟き終えると、塀から直接道路に飛び降り勢いそのままに走っていった。
夜の街並みに静寂が戻る。
後には首を傾げたのカーブミラーだけが、微風に揺られて僅かに動くばかりであった。
~・~・~・~
「現状を説明しよう」
突然呼び出された立香は眠気を抱えたまま途中で合流したマシュ、フォウと一緒にダヴィンチの話を聞いていた。
「今回君たちには最終決戦である終局特異点に挑むために、準備期間を設けていたと思う。終局特異点の場所はこれまでに回収した聖杯から座標を割りだしてある。そして第七特異点を攻略した時点で、次の特異点発生まで一週間という観測結果を得ていた訳だが――」
ダヴィンチは手元の端末でカルデアの地球儀に赤い点を表示させた。
「どうやら最終決戦前にまったく別の特異点が発生したらしい。規模からすればこれまでの特異点に比べて小さめだが、放置した場合の危険が未知数だ。そして今回の特異点が発生した段階で本物の終局特異点とみられる反応を観測した。これも今から約一週間後。やはり時間がない」
「これはつまり、先に発生した特異点を急いで潰し引き続き決戦に備える必要があるという事ですか?」
立香は自分で質問しながらその内容に心底呆れた。答えは自ずと決まっているのだ。何を問う必要があるのだろう。
「君の言いたいことは分かっているし、こちらも無茶を承知で言う。一週間以内に出来るだけ早く先に発生した特異点を解決するんだ」
マシュはその言葉に驚いて反論した。
「恐れながら聞きますが、それは実現可能なプランなんですか?今までの特異点修正に費やしてきた時間の平均はおおよそ二週間です。少なく見積もっても、先輩の特異点修正に十日はかかります」
「私としては、出来るか出来ないか考える時間があればすぐにでも行動に移してほしい」
ダヴィンチは珍しくも真顔でマシュの主張に応えた。
「時間がない――本当に時間が足りないんだ。これからレイシフトするにあたって必要な準備、そしてこれまでのマスターがこなしてきた修復でのポテンシャルを考慮すると、活動に充てられる時間は想像以上に少なくなってきている」
それでも、とダヴィンチは続けた。
「何もかも足りない現状でも、やはり君の意思は尊重したい……。卑怯な質問かも知れないが、カルデアのマスターとして二つの特異点修正をオーダーしたい」
ダヴィンチは言い切った後、立香の目を真正面から見据えた。
「卑怯って言い方は、無いと思いますよ」
ダヴィンチの目を静かに見つめ返す立香の目に、一点の曇りもなかった。
「それでも僕はカルデアの職員として、マスターとして、そして魔術王に抗う最後の人類の一人として、責任を果たします」
傍らに立つマシュは、そっと立香の手を取った。立香の決意に満ちた表情とは裏腹に、テーブルに隠れた両足が細かく震えているのを見ていたからだ。マシュの心は純粋に先輩への思いやりに溢れていた。
《ぼくは今回の特異点修正で起用してもらえるのかい?》
不意を突くようにマシュの手が添えられた立香の右手首から声がした。慌ててマシュは手を放し、己の無意識に近い行動を思い出して赤面する。恥ずかしがるマシュには目をくれず、立香は右手を持ち上げて腕時計型礼装に話しかけた。
「ブギーポップって、そういえば作戦参加は初めてだっけ」
《その通りだ。散々君の体に慣れるために特訓したものだが、それを除けば初めての実戦と言えるだろう》
立香が召喚実験でブギーポップを引いたのは今から五日前の事だ。召喚したその日にはブギーポップの戦闘データを取り、取れた後は人格が切り替わる際のラグとも言える立香の気絶時間をゼロにする為、何度も戦闘訓練を行ってきた。
「ブギーポップの通常戦闘力はカルデア内部でもトップクラスだからね。その点君を信じているよ」
《――今はそれでいい。必ず君を守ると約束しよう》
ブギーポップは戦闘データを取る際に「宝具を開放してほしい」と頼まれたのだが、彼自身自分が宝具を保有しているかどうか分からなかった。彼のマントはビックリするほどの収納力を持っているが、宝具と呼べる程の神秘は持っていない。そして彼には他に宝具と言われても思い当たる節は一切ない。どれの何が宝具かも分からないので、マシュが以前行っていた仮装展開すらままならないのだ。この理由をダヴィンチは「特殊な召喚による一時的なバグのようなもの」と推測していた。
(どのようなカタチであれ)宝具を所有していないサーヴァントは今のところいないので、イレギュラーの塊であるブギーポップでも恐らく所持していると思われる。
それでも彼のパラメータと卓越した鋼糸捌きにものを言わせた通常攻撃が強力なので、万が一の防波堤としては充分なのだが。
「今回発生した特異点を『
ダヴィンチの再びの宣言を受けて、慌ただしいブリーフィングは終了した。
しかし立香は、マシュは、ダヴィンチは、そしてブギーポップですら知らない。
この突如発生した特異点は、本来であれば放置していても問題なかった『
その場所で何が始まろうとしているのか、誰にも分からない――
~・~・~・~
“彼”はつい今しがた見たものについて考えていた。現在のところ、異様な場所と化している件のマンション周辺を除き、この一帯には邪悪な気配どころかネズミ一匹の姿も見当たらない。何故そのような世界が成立しているかは別として、あの風変わりな服装の二人組がどこからやってくるのか疑問だった。
“彼”の見た光景は、背景の様子から推察するにあと半時も過ぎないうちに実現するはずだ。もっと長時間なら“彼”が感知できない程遠くからの来訪者という事も考えられたが、近隣の交通機関も動く様子がないとあれば、一体どこから来るというのか。
……いくら考えても埒が明かない。思考を切り替えた“彼”は己の奥底に染み付いた経験に従い、奇妙なマンションの入り口に身を這わせ、息をひそめて内部の様子を伺った。
(アアアアアア……)
(辞メロ、タノムカラ逃ゲテクレ……)
(殺ス!殺ス!殺シテヤル!!)
怨嗟。怨讐。後悔。絶叫。懇願。断末魔。
あらゆる負の感情を掻き集めて煮詰めたような声が、マンションの至る所から“彼”の耳に届いてくる。その声たちは負を抱えながら機械的かつ無機質に停滞を繰り返している。こんな悪趣味な建造物が自然に建つ訳がなく、必ず何者かの手が加わっていることに間違いない。
しかし、このコレクションを集めることにどんな意味があると言うのだろうか。目的があったとして、それはこの塔を建てる際に必要とした犠牲に見合うだけの価値があったのだろうか。
これを聞いたものが真っ当な人であるならば、嫌悪感を抱かずにはいられない。これを目の当たりにすれば、自らの死がどうなるか想像せずにはいられない。これから一度逃げてしまえば、毎晩苦しみを味わい続ける彼らの夢を見ることになる。それ程のインパクトを持っていた。
“彼”も当然嫌悪感を抱いていたが、それと同時に何か引き寄せられるものも感じていた。“彼”の中にある強烈な後悔の念が、あろうことか不気味な塔に閉じ込められた死に反応していた。その誘引は甘い毒のように“彼”を捕らえて離さない。
その誘引に耐えながら、“彼”は入り口を押し開けて建物内部へと入り込んだ。“彼”の人格は塔の在り方に悲鳴を上げて止まなかったのだ。許してはならない。許してしまえばきっと自壊してしまうだろう。そういう確信めいた予感があった。
“彼”は前へ進む。嫌がる本能を、歓喜する黒い感情を抑えながら進む。
――その背後に、先程から“彼”が気付けずにいる一人の姿があった。
「……アイツ、見た事ない面だ。一般人でも無さそうだが」
愛用のナイフを片手で弄びながら独りごちるのは、全ての死を視る魔眼を持つ少女、
式は知っている。今の小川マンションに一人で乗り込むのは危険だと。そして今しがた入っていった“彼”を呼び止めなかった自分がどれ程卑怯者であるかを。
「どうして彼を止めなかったのですか?」
その声に面倒くさそうな顔を作りながら式は背後を振り返った。そこにはシスターの格好をした、式と同じくらいの年齢の少女が立っている。
「どうもこうもないさ。もしあのマンションに復活したヤツが居るとすれば、オレが入った時点で拙いことになっていたさ」
「でも彼、私たちが殺す羽目になるかも知れません」
彼女は自らの持つ「歪曲の魔眼」を細めながら困ったように微笑んだ。彼女の名前は
「私としては目の前のアレを、こう、キュッっと捻ってしまいたいのですが」
「それは遠慮して欲しいが……ん?」
ふと式は何かを思いついたような顔で藤乃に話しかけた。
「じゃあ試しに、ここからエントランスの扉だけ捻ってみてくれ」
言われた藤乃は「え?いいんですか?」と言いながらも、少々独特なポーズを取りつつその特殊な両目を見開いた。そのままじっと扉を見つめているが、扉の方は何分経っても変化が見られない。
「おかしいですね……回転軸は左右共にクッキリ視えているのに、いくら念じても回転しません。まるで『静止』しちゃってますね」
「ふーん、やっぱりか。これは――ちょっとばかり面倒なことになったな」
両儀式の中で、ある一つの推測が形になった瞬間だった。
ブギーポップシリーズを読み進めていけばいく程、キャラの乖離とか辻褄の整合性とか気になってきてしまいますね。ちなみに今は『イマジネーター part2』を途中まで読んだところです。早く『夜明け』にたどり着きたい。
ところで話は変わりますが、ブギーポップの宝具が全然思いつきません。どうしましょう。『宝具なし』も考えましたが流石に酷いと思ったので、何か採用される自信がある人は作者までメッセージを送ってもらえると助かります。