夏である。
頭上に燦々と輝く太陽。彼方に佇む入道雲。
熱せられたアスファルトからは陽炎が昇り、じわじわと蝉の声が辺りに響く。
現在の気温は三十九度。
二十二世紀の現代においても地球温暖化の影響は留まる事を知らず、まだ八月にも入っていないというのに連日この猛暑が続いていた。
まさに灼熱地獄。こんな日でも立派にお勤めを果たすサラリーマン諸君には、全く以て頭が下がる思いである。
空調が利いた快適この上ない室内。お気に入りのソファに腰かけ、テレビ画面に映った汗だくのアナウンサーを眺めながらそう思う。
ボクならば外に出た途端、瞬く間に昇華して消滅する自信がある。
君子危うきに近寄らずとも言うし、ボクはこの、太陽が加減を間違えたとしか考えられない気温が下がるまで、徹底して引きこもらせて頂くとしよう。
かつて、文明は人間を堕落させると言った哲学者がいたが、まさしくその通りだ。
文明万歳。
この快適な空間で生きていけるなら、ボクは喜んで堕落者になろう。
そうしてボクがソファに横になってだらけていると、テーブルの上に置いていた携帯電話が軽快な受信音を鳴らした。
重い身体を引きずるようにして手を伸ばし、ブレスレット型のそれを掴み取る。表面を数度指先で叩けば、そこから浮き上がる様にして表示された画面の中には、もう随分と見慣れた友人の名前が浮かんでいた。
なんだろう、俄かに嫌な予感がする。
僅かな葛藤の後、ボクはふらつく指先で通話ボタンをタップした。
「はい、もしもし?」
『あ、もしもしタマモ? ごめんね急に電話しちゃって。今、大丈夫?』
ブレスレットからモミジの声が響く。
ショッピングモールでの一件以降、こうしてゲームの外でモミジたちとコミュニケーションをとることも随分と多くなった。まあ、顔を合わせるのは例のショッピングモールぐらいなのだが。
ちなみに移動はタクシーを利用している。あの時のように、殺意すら感じる日差しの中を歩く愚行を二度も犯す程、ボクは馬鹿ではないのだ。
しかし、こちらの電話番号を伝えてあるとはいえ、どこかへ遊びに行こうだとか、そういったお誘いは殆どゲームの中でしていたのだが、今回はいったいどうした用件なのだろう。
『あのね、今週の土曜日に河川敷で花火大会があるんだけど、タマモも一緒にどうかなって思って』
花火大会。そういえば、もうそんな時期か。
毎年うちの近所の河川敷では大規模な花火大会が開かれており、道路は全て封鎖、所狭しとひしめき合う人混みを眺め、決してあのような荒波には近づくまいと顔を青くさせた記憶がある。
まさかとは思うが、モミジはボクに、自分と共にあの荒れ狂う海に漕ぎだそう、などとのたまっているのであろうか。
人の思考能力をこうまで低下させるとは、げに恐ろしきは夏の猛暑か。
戦慄し、冷や汗すら流しながら、ボクは意を決して口を開く。
「断固拒否する」
『ですよねー……』
当然である。
花火や夜店、縁日の雰囲気は大好きだが、人混みは大嫌いだ。
うだるような暑さ、充満する汗や酒の匂い、騒ぐ若者たち。そのどれもが癪に障る。
神社の境内で開かれるような、こじんまりとしたお祭りならともかく、数百人規模で人が集まるような花火大会なんぞ、誰が好き好んで参加するものか。
「だいたい、花火が見たいのならログインすればいいじゃないか」
現在ゲーム内は夏祭りイベントの真っ只中。
王都やジパングでは夜になると大きな花火が上がり、大通りには様々な夜店が並んでいる。
お祭りを味わうのであれば、そちらの方が快適だと思うのだが。
『私は、
どったんばったんと、画面の向こうから何やら慌ただしい物音が響く。
『何で俺なんだよ、お前が言い出したんだろうが!』
『コタローだってタマモの浴衣姿見たいって言ってたじゃん!』
『言ってねえ、ンな事一言も言ってねえよ!』
『じゃあハヤトでいいから! ほら、早く!』
『しょうがないなあ、もう』
相も変わらず、騒がしい三人組である。
ぎゃあぎゃあといまだ口論を続ける二人の声を背に、電話を代わったハヤトが困ったように溜息を漏らす。とりあえず、早急に確認しておきたい事が一つ出来た。
「すまない、もしやとは思うが、コタロウは実はロリコンなのかい?」
ボクの浴衣姿が見たいと言ったりだとか、そういえば、いつぞやかカヨウさんの屋敷に出向いた時も、彼女に迫られて顔を赤くしていたような気がするのだが。
それこそ、思春期の男子ならばもっとこう、肉感的というか、ぼん、きゅっ、ぼんな女子の方へ興味を向けるのが当然なのではないだろうか。
ふむう、まあ、なんというか、あれだ。
お巡りさんこの人です。
『いや、本人の名誉の為に言っておくけど、決してそんな事実はないからね?』
「それならよかった。危うくフレンドの一人をブラックリストに突っ込むところだったよ」
『誤解が解けたようで、本当によかったよ……』
画面の向こうでハヤトが盛大に溜息を吐いた。勿論、ブラックリストの下りは冗談である。半分ほどは。
いや、最近は女児に性的魅力を感じる変態も増えてきたという話なので、念の為にね。
実際、道端で歩いているだけで何やら鼻息荒く話しかけられた経験もあるし。
あの時は本当に驚いた。
合法ロリだの、踏んでくださいだの、バブみが高いだの、何やら物騒な事を並び立てていたので、その時は通りすがりのお巡りさんに声をかけて早々にご退場願ったのだが、いやはや物騒な世の中になったものである。
ちなみに少子高齢化が進んだ現代、一部の国では早婚政策と銘打って、十代前半の男女に結婚を促す政策が行われていたりする。
まさしく、生めよ、ふえよ、地にみちよ、を地で行く政策に各国は賛否両論入り乱れているのだが、ペドフィリアの諸君には是非、その政策が行われている某国への亡命をお勧めしたい。
大丈夫、ちょっと改宗する必要があるだけで、苦痛を伴う訳ではないので安心してくれたまへ。
「で、花火大会の話だったかな?」
『何だか、とても下世話な方向に話が逸れていた気がするよ……』
きっと気のせいである。気にしてはいけない。
『そうした方が良さそうだね……。と、とにかく、モミジも楽しみにしている事だし、花火だけでも見に来ないかい? 夜だから日焼けも気にしなくていいし、花火を眺めるだけなら会場から離れた、人が少ない場所でも大丈夫だと思うから』
冷凍庫から取り出した棒アイスと共に、ボクはハヤトの言葉を咀嚼しながら考える。
あの、この世のあらゆる混沌を煮詰めたような人混みはたしかに嫌いだ。想像しただけで陰鬱とした気分にさせられる。
しかし反面、花火のような風情溢れるものは非常に好ましい。
ボクも毎年、我が家のリビングでゆったりと寛ぎつつ、遠くで上がる夏の風物詩を楽しんでいるぐらいである。
実際はバルコニーに出た方が綺麗に見る事が出来るのだが、外は暑いし虫も出るので、滅多に使う事は無い。
と、そこまで考えたところで、ボクの脳裏に閃きが走った。
「ハヤト、花火を楽しみたいのであれば、いい方法が一つある」
たしか今週の土曜日は
あの人が来ると、皆でゆっくりと花火を楽しむ暇も無くなってしまうだろうし、何より鬱陶しい。
ちなみにあの人というのはボクの母親の妹。いわゆる叔母にあたる女性の事だ。
いや、決して悪い人ではないし、ボクも随分とお世話にはなっているのだが、なんというか、人格に問題があるというか、人目を憚らない部分があるというか、とにかく困った人なのだ。
本当に、悪い人間ではないのだけれど。
頭を振り、ごほんと咳ばらいを一つ、仕切り直す。
「これから言う住所をすぐにメモってくれ。せっかくの花火なんだ、特等席で眺めないと損というものだろう?」
締め切ったカーテンの隙間から、当日は人でごった返すであろう河川敷の方へと目をやりながら、ボクはそう言って棒アイスを齧る。
容赦なく差し込んできた日光に目を焼かれ、某大佐の如く悶えながらフローリングの上を転がり回る、僅か数秒前の出来事であった。
本当に、太陽なんて大っ嫌いだ。